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第284回 新天地にて


 パンナムのファーストクラスをたった3人で独占し、アメリカに渡ったラジニーシ。オレゴン州に広大な土地を買い、コミューンの建設が始まる。といっても、陣頭指揮をとっているのはラジニーシ本人ではなく、秘書として全権を握り、インド脱出時から采配をふるったシーラという女性である。

 ヒュー・ミルン著『ラジニーシ・堕ちた神(グル)』(鴫沢立也訳、第三書館刊)によれば、インドのアシュラム(とその周辺)には6000人の信者がいたが、アメリカのコミューンでは20万人まで住める計画だったというから、その規模たるや壮大すぎてちょっとイメージできない(ちなみに日本で現在人口20万人前後の市というと沼津市や鈴鹿市である)。

 パンナムの同便(ただしエコノミークラス)で渡米した側近たちやインドから自力でたどり着いた信者たちに、シーラは所有財産のすべてを供出するよう迫り、コミューン建設の過酷な労働を強いた。不平不満が出れば、ラジニーシの教えである「明け渡し」を説き、自分と対立する者は容赦なく排除した。

 かつて拙著『プラトニック・アニマル』の中でこんなことを書いた。〈制度の価値観や固定観念を捨てるときには、徹底的に捨てなければならない。SEXをするときに、よろいかぶとは脱がなければダメだ。でもそれは、終わってからすぐまた着ればいいだけの話である〉。

 「明け渡し」はオーガズムを迎えるときにも、真理を得たり、悟ろうとするときにも、確かに必要だと思うけれど、「ずっと明け渡したままでいろ」というのでは奴隷と同じである。

 では、秘書が強権をふるい暴走するなか、いったいラジニーシは何をしていたのか? 『ラジニーシ・堕ちた神(グル)』によれば、笑気ガスを吸っていたという。笑気ガスとは歯の治療時など麻酔代わりに使われるもので、ラジニーシはこれをドラッグ代わりに常用しラリッていた。

 フィリピン大統領だったマルコスが亡命したあと、一般公開されたマラカニアン宮殿に足を踏み入れたことがある。当然ながらマルコスの部屋は広いのだが、ひとつも窓がなかった。独裁者はかくも恐怖心と隣り合わせで日常を送っていたのかと思ったものだ。ラジニーシにしても、笑気ガスでも吸わなければやってられないような状態だったのだろうか。

 マラカニアン宮殿といえば、マルコスの妻イメルダの3000足におよぶ靴も、当時メディアを賑わわせた。ふつうの神経ならば、いくらカネがあるからって、なんで3000足も必要だったんだろうと思うはずである。ラジニーシのロールスロイス90台も、イメルダの靴と同じなのだろうか。

 それでもコミューン建設が進むにつれて、信者たちは増えつづけた。増えれば、まわりの住民との衝突も目立ってくる。するとシーラは、その住民40人の小さな町に不動産を買って信者80人を住まわせ、住民投票の選挙に圧勝し、議会を自分たちのものにしてしまう。そして「アンテロープ」という町の名はやがて「ラジニーシ」に変わる。

 ただし、住民たちから支援を要請されていた連邦政府も、ずっと手をこまねいて見ていただけではない。メディアもラジニーシたちを「アカ」だと騒いでいたし、アメリカにとって彼らは何をしでかすかわからない危険なカルト集団には違いなかったわけである。

 で、結果はどうなったかというと、ラジニーシはアメリカ入国から4年後に逮捕され(偽証罪をはじめとする35の容疑)、罰金40万ドル・執行猶予10年の判決を言い渡されて国外追放になる。シーラはといえば、背任・横領・殺人未遂容疑をかけられ逃走をはかるも、結局逮捕。

 だが、僕にはよくわからないことがひとつある。ラジニーシとシーラ、本当はどちらが“あやつり人形”だったんだろうか?


(つづく)




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第283回 裏切りの脱出


 僕はラジニーシの哲学に傾倒しながらも、なぜ会いたいとは思わなかったのだろう。

 ひとつには、ラジニーシに弟子入りした仕事仲間、彼らから受けた印象がある。具体的に何をどう言ったかは忘れてしまったけれど、覚えているのは、ラジニーシについて語るとき、彼らがしばしば奥歯にものが挟まったような言い方をしたことだ。もっと直截に言えば、どうやら快く思っていない感じなのだ。

 にもかかわらず、ラジニーシの写真が入ったマラはいつも首からさげている。僕からすれば、それはちぐはぐに見えた。でも、そのワケを彼らは語らない。謎が解けたのは、ずいぶん後になってからである。

 ヒュー・ミルン著『ラジニーシ・堕ちた神(グル)』(鴫沢立也訳、第三書館刊)という本が1991年に出た。著者のミルンは、プーナにアシュラムをつくる前からの弟子で、プーナ時代に側近となった人物。彼はこの本の中で、ラジニーシにまつわる衝撃的な事実を綴っている。

 1970年代後半、ラジニーシのもとに世界じゅうから多くの人間が押し寄せる。アシュラム拡大の裏には、彼ら信者の献身的にして無償の労働がある。もちろん金銭的な貢献も。カネのある信者は多額の寄付をし、アシュラム内のいい場所に住む。ない者はアシュラムの外に掘っ立て小屋を建て、女なら体を売り、男なら麻薬の売買によってカネを稼いだ。こうして教団の資産は莫大にふくれ上がるが、税金は払っていなかったようだ。

 それに加えて、映画や雑誌でさえヌード御法度だったインドにおいてフリーセックスである。だが、子どもを産むことをラジニーシは許さない。最初は女性の不妊手術。残酷だということで反対が起きると、今度は男のパイプカット(著者のミルンもパイプカットを受けている)。こうして妊娠は避けられたものの、性病がアシュラム内に蔓延してしまう。

 売春、麻薬、莫大な資産、脱税、フリーセックス、性病。そして不法滞在および偽装結婚。もう無茶苦茶である。警察当局の手が伸び、また暗殺者から命を狙われることも度々で、とうとうインドにはいられなくなる。

 1981年、ついにラジニーシはインドを脱出し、アメリカへと向かう。その際、出国手続はいっさいなく、乗っていたロールスロイスをそのまま滑走路に入れ、ボーイング747の前輪近くに停めたという。巨額の賄賂が動いていたのだ。しかも、ファーストクラス40席すべてを押さえ、そこに乗るのはラジニーシと伴侶といわれる女性と女性秘書の計3人のみ。

 ラジニーシに帰依していた数千人の信者たちは、アシュラム内にいた者も、掘っ立て小屋にいた者も、みんな置き去りにされたのである。『ラジニーシ・堕ちた神(グル)』でこの脱出劇を読んだとき、かつて、僕の仕事仲間がラジニーシについて語るとき、なぜ奥歯にものが挟まったような言い方をしたのか、わかった気がした。

 けれども、彼らはマラを捨てなかった。どうしてだろう? ラジニーシは弟子たちに執着を捨てるように教え、明け渡しを求めた。おそらく置き去りにされた彼らは、こう思ったのではないだろうか。ラジニーシは今も自分たちを試しているのだと。

 渡米したラジニーシは、ロールスロイスを買いつづけ、その数は結果的に90台に達する。「執着を捨てよ」と言っていた彼がである――。


(つづく)





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第282回 セックス・グル

 ラジニーシは35歳まで大学で哲学の教鞭をとっていたというが、たしかに哲学や思想、宗教に関する知識量たるやハンパない。前回紹介した『TAO 永遠の大河 1』(スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる社刊)の中でも、主だった宗教の教祖たちに対する思いを独特の語り口で説いている。その一部を抜き出してみる。

 ジャイナ教の家に生まれたので、最初はジャイナの開祖マハヴィーラから。〈彼は偉大だ。悟っている。だが、広大な砂漠のようだ。彼の中では、ひとつのオアシスにも出くわせない。(中略)マハヴィーラについて話すとき、私はひとりのアウトサイダーとして話す。彼は私の内側にはいない。私も彼の内側にはいない〉。

 続けて〈同じことが、モーゼやマホメッドについても言える〉と。〈彼らはみな同じカテゴリーに属する。彼らはあまりにも計算ずく、極端論者だ。彼らは反対の極端をのがしている。(中略)もし道で、マハヴィーラやモーゼやマホメッドに会ったなら、私は敬意を表し、そして逃げ出すだろう〉

 イエスについては〈私は彼に深く共感する。私は彼とともに苦しみたい。そして私は、彼のかたわらで、その十字架をしばしの間かついであげたい。だが、われわれは平行線のままだ。けっして出会わない。(中略)彼はいい。だが、良すぎる。ほとんど非人間的なまでにいい〉。

 ゾロアスター教のツァラトゥストラについては〈私はあの人を、ひとりの友人を愛するように愛している。(中略)良き友――永遠に一緒にいられる。ただし、ただの友だちだ。友情はいい。が、充分じゃない〉。

 ブッダについては〈彼はあまりにも洗練されていて、とてもこの地上には根づけない。彼はどこかより高次の天国にふさわしい。そういう意味で、彼は一面的だ。天と地は彼の中では出会わない。彼は天上的だ。が、地上的な部分が抜けている〉。

 では、肝心の老子はどうか? 〈私が老子のことをしゃべるのはまったく違う。私は彼に関わってなんかいない。なぜならば、関わるためにすら、或る距離が必要だからだ。私は彼を愛してもいない。というのも、どうして自分自身を愛することなんかできる?(中略)老子のことをしゃべるとき、私はまったく彼と一緒だ。「完全に一緒だ」と言うそれすらも本当じゃない。私は彼だ。彼は私なのだ〉。

 冒頭のマハヴィーラ以下、否定的だったり、突き離していたり、褒めていても全面的には受け入れていなかったり……。けれども、最後の老子は手放しで絶賛している。1974年、ラジニーシはインドのプーナという地にアシュラム(修行場)をつくるが、アシュラム内の自宅を「ラオツ(老子)ハウス」と名づけているくらいだ。

 このアシュラムには、欧米をはじめ世界各国からラジニーシを師と仰ぐ若者たちが押し寄せることになる。もちろん日本からも……。アシュラムの規模が大きくなるにつれて、いろんな瞑想法のグループができ、たとえばタントラ・グループのセッションでは、参加者が裸になって、相手を替えながらみんなの前でセックスするようになる。

 これは意識的にセックスにのめり込み、耽溺し、そこを超越するという、自己解放の試みなのだが、ほとんどの宗教において、性的なものは修行の邪魔だと見なされる。まさに宗教の本場ともいえるインドにおいて、修行場内でのフリーセックスである。周囲の衝撃は想像を絶するものだったに違いない。いや、他の宗教から見たら、衝撃どころでは済まされない話だ。

 僕はラジニーシの講話録に精神的な拠りどころを求めていたけれど、彼が修行においても性を肯定していると知ったとき、女の股ぐらでメシを食っている身としては、やはりどこか救われた思いがしたものだ。こうして僕は、ラジニーシに一気にのめり込んでいく。

 当時、まわりの仕事仲間にも、インドへ行ってラジニーシに弟子入りした者たちがいた。彼らは一様に長髪で、マラを首からさげている。マラは108個の木製の玉からできており、先端のロケットにはラジニーシの写真が収められている。彼らに紹介を頼めば、ラジニーシと会うこともできたかもしれない。けれども、僕はラジニーシの哲学に傾倒しながら、会いたいとは一度も思わなかったのである。


(つづく)



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10月2日(木)、全44タイトルに増えました!


第281回 TAOとの出会い


 高校2年の夏、生まれた土地にいられなくなり、大阪に逃げた。再び故郷の地を踏んだときには、組の盃を交わした。営利誘拐で前科がつき、そののち足を洗ってからも、小指の欠損は僕の周囲に見えない壁を作った。足かけ9年におよぶ日活ロマンポルノ裁判では、僕に攻撃が集中した。学歴もなく元極道だから、検察側もいちばん攻めやすいと思ったのだろう。いや、検察のみならず、同じ被告の仲間たちからも「アイツさえいなかったら、もっと文化的な裁判になったのに」とささやかれたのだった。

 負けん気の強さだけで生きてきたものの、今になって思えば、こんな僕をも肯定してくれる、心の支えというか、精神的な拠りどころが欲しかったのかもしれない。老荘思想にふれたのはその頃だ。老荘について書かれた本を片っ端から読みあさった。そして、一冊の本に出会う。バグワン・シュリ・ラジネーシ著『TAO 永遠の大河 1』(スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる社、1979年初版第1刷刊)。

 この本は、老子の『道徳経』についてインドの宗教家ラジニーシが語った講話録の1巻目である(全4巻)。『道徳経』をはじめ老子の思想や教えを書いた本は、日本でもたくさん出版されているけれど、僕はラジニーシの本が最も腑に落ちた。『TAO 永遠の大河 1』は600ページと分厚い本だが、そこで語られる彼の思想は、『道徳経』第二章を説いた次の短い文章に凝縮・集約されている。

 〈天下の人が皆、美を美と知ったとき
  そこから醜さが起こる
  天下の人が皆、善を善と知ったとき
  そこから悪が起こる

  つまるところ
  有と無は互いに補い合って成長し
  難と易は互いに補い合って完成し
  長と短は互いに補い合ってコントラストをかもし
  音程と声とは互いに補い合ってハーモニーをつくり
  前と後は互いに補い合って結びつく

  かくして、賢者は
  行なわずして物事を処し
  言葉なくして教えを説く
  万物がそれぞれに生じ
  しかも、彼はそれらから立ち去らない
  彼はそれらに生命を与え
  しかも、それらを我が物にはしない
  彼は行ない
  しかも着服しない
  成して
  しかも、何ひとつ手柄を主張しない

  何も手柄を主張しないからこそ
  その手柄は彼から奪い去られ得ないのだ〉



 この文章を二元論で読むと、さっぱり意味がわからない。美と醜、善と悪、有と無、難と易、長と短……これらを対立概念と見なせば、補い合って成長したり、完成したり、結びついたりはしないからだ。「行なわずして物事を処し」も「言葉なくして教えを説く」も同様に、一見矛盾しているように思える。

 では、いったいどう理解したらいいのだろうか? ラジニーシは本書の中で、こんなふうに説く。

 〈反対は本当に反対なのではなく補足だということだ。それらを分けないこと。区分けは虚構だ。それらはひとつなのだ。(中略)実際のところ、それらは同じコインの裏表にほかならないのだ。選ばないこと。両方を楽しみなさい。両方がそこにあるのを許しなさい。そのふたつの間にハーモニーをつくるがいい〉

 〈〈道TAO〉とは全体性のことだ。全体性は完璧とは違う。それはつねに不完全だ。なぜならば、それがつねに生きているからだ。完成というのはつねに死んでいる。(中略)生というのは反対同士の緊張を、反対同士の出会いを通じて存在するものなのだ。もし反対のものを拒絶すれば、あなたは完璧にはなれる。が、トータルではあるまい。あなたは何かのがしている〉

 〈老子は「すべてをありのままに受け取れ、選ぶな」と言う〉


 社会から受け入れられていないと感じる疎外感、そして劣等感。その原因は自分の生きてきた道をふり返れば、あちこちに転がっている。だが、社会が軽蔑するそのマイナス要素が、対極にあるプラス要素とじつは同じひとつだと言う。そして、おまえはそのままでいいのだと。

(つづく)




Aito-sei-long


第280回 信頼する医師からの警鐘


 股関節の矯正に通って丸9年になる。以前にも書いたけれど、僕はうつの真っただ中で食欲もなく、エンシュア・リキッドという液体栄養だけで生かされていた。いよいよ自分の墓も買って、あと半年生きられるかなぁと思っていた矢先である。友人のすすめで行った先が、歯科医院だった。

 「なんで歯医者に!?」と最初は思ったが、言われるまま股関節の施術を受け、その帰りには、忘れて久しい空腹感を覚えた。驚きだった。ここから僕のうつは快方へと向かったのだ。つい先日、そのH先生から「ブログで多くの人に伝えてほしい」と頼まれたことがある。

 それは「インプラント」についてである。歯科の治療法の一種「インプラント」は、ほとんどの人が一度は耳にしているに違いない。それほどこの治療法は近年流行り、それに比例してトラブルも急増している。「歯医者には通ってないし、自分は関係ない」と思う人もいるだろうが、いつなんどき歯が痛くなるかもしれないし、そのとき自分が、あるいは家族が、友人が、歯医者からインプラントをすすめられないとも限らない。

 まず「インプラント」とはどんな治療法なのかだが、簡単にいうと、自分の歯の根っこの代わりに金属(チタンやチタン合金)の支柱を上顎や下顎の骨に直接埋め込む。そして埋め込んだ支柱を土台にして義歯を作成する。これだけ聞けば、歯の根っこ、つまり歯根まで失った人には朗報ともとれる。

 だが、H先生は言う。「インプラントは、私としては到底おすすめできない」と。実際ネットを開くと、インプラントのトラブルはこれでもかと言うほど出てくる。

 その第一が、医者の技量の問題だ。たとえば上顎の場合、骨が薄いのでインプラントが突き抜けてしまい、激しい痛みに襲われたり、下顎の場合は骨の中を通る神経を傷つけてしまったり……。手術中に顎の動脈が切れて、患者が死亡する事故も起きている。

 インプラントは口腔外科的な技術が要求されるにもかかわらず、なかには週末にインプラント(人工歯根)メーカーの講習を何回か受けただけで、人体実験さながら本番に臨む歯医者もいるというから恐ろしい。では、なぜそこまで今の歯科医はインプラントをやりたがるのか?

 歯科治療の発達と口腔ケアの進歩とがあいまって、人々の歯の状態が昔に比べてよくなり、患者数が減っているにもかかわらず、歯科医の数は年々増えているという現実がある。生き残りも大変で、もはや保険診療だけでは歯科医院の経営が厳しくなり、そこに来て、インプラントは保険がきかず、価格は歯医者が決められるという経営面での利点がある。

 なかには「インプラントにしたほうが長持ちするから」と、抜く必要のない歯まで抜かれたという例もあれば、全部で数千万円かかったという話もある。また、歯医者の激戦区ほど、自称「インプラント専門医」が増えるという笑えない話も……。

 「顎の骨をいじるのは体によくない」と言うH先生は、インプラントが上顎の骨を突き抜けたり、下顎の神経を傷つけずに、手術自体うまくいったとしても、やはりやらないほうがいい理由をこう語った。

 歯根と骨の間には「歯根膜」というのがあって、歯と骨をつなぐとともに、硬いものを強く噛んでも、そのショックがダイレクトに骨に伝わらないよう緩衝地帯の役目を果たしている。ところが、骨に人工歯根を立てるインプラントでは、この緩衝地帯がない。すると、硬いものを噛んだときの力は、上顎・下顎の骨に直接伝わる。それが骨の炎症を引き起こし、細菌に感染すれば、重篤な状態に至るケースもあるという。

 この噛むときのショックを和らげるために、とりわけ奥歯の当たりをソフトにしようと、噛み合わせる力を弱くする。けれども、これは骨格にはよけいに悪い。奥歯でうまく噛めないと、おのずと前のほうで噛むようになり、下顎が出てくる。この顎関節のズレが、肩の関節、股関節、膝関節、足首の関節……と全体に影響を与え、人の骨格を変えてしまう。歪んだ骨格は気血の流れを悪くし、各神経をも圧迫して、内臓の疾患を誘発する。すなわち顎関節の異常は全身に影響を及ぼすのである。

 股関節を矯正してもらう過程で、舌根が引っ張られたり、背骨を意識したり、肛門の筋肉が引っ張られたり、歩き方が変わったり、結局、体は全部つながっており、ひとつが変われば他にも影響を与えるということを、僕は身をもって体験してきた。

 そんな施術を多くの人にしてきて、主治医さえ匙を投げた人々の病気も治してきたH先生だからこそ、インプラントが単に口腔内だけの問題ではなく、万病のもととなり、寿命を縮めてしまうと訴えたかったに違いない。みなさんも、ぜひ気をつけていただきたい。







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第279回 娘婿

 13年前、同じ町内で引っ越しをし、家を新築した。上の娘が結婚しても一緒に住めるようにと、部屋数もそれなりに用意した。だが、娘が選んだ相手は一人息子で、ゆくゆくは向こうの親御さんと同居するからと、結婚と同時に家を出た。計画を立てても思惑どおりにはいかない一例である。

 それから何年か経ち、下の娘が選んだ相手も一人息子だったので、一緒に暮らすことはもう端から頭にはなかった。そうして下の娘が嫁ぎ、老夫婦2人には広すぎる家が残った。こんなことなら、もっと小さな家でよかったのだ。

 ところが、その家に半年前から下の娘夫婦が同居している。「マンションの頭金が貯まるまで住んでもいい?」と娘が言ってきたとき、「向こうのご両親に訊いてからにしなさい」と答えた。お母さんに訊いたら「ラッキーじゃない。若いときに貯めといたほうがいいよ!」と快諾してくれたという。こちらは、計画を立てなければ落ち着くべきところに落ち着くという一例である。

 先日、下の娘夫婦と僕ら夫婦の4人で初めて外食した。行った先は焼肉屋だが、娘のダンナは焼き上がった肉を手際よく僕に取ってくれる。かと思えば、「牛タン、硬いなぁ」と僕がつぶやいたら、2枚取ってくれていた1枚をそっと自分のほうに取って食べたり……。

 娘たちとは子どもの頃から何度も焼肉屋に来ているが、いまだかつて取ってもらったことなどない。「そりゃあ、嫁さんの親父と外食したら、気だって使うだろ」と思われる人もいるだろう。確かにそういう部分もゼロではないだろうが、でも、一緒に暮らしはじめてもう半年だ。それにひとつひとつの所作も自然で、ことさら気を使っているようには見えない。

 時代の趨勢というべきか、禁煙の波はわが家にも押し寄せ、今、うちでタバコを吸うのは僕と彼の2人だけである。道路からは駐車スペースを介して奥まったところに家があるので、玄関先にアイアンの椅子とテーブルセットを置き、そこが喫煙場所になっている。彼は夜中でも吸いたくなったら、そこに出てきて吸っている。たまに一緒になる。

 ある晩、「タバコ、やっぱやめたほうがいいですよ」と彼が言う。それには理由がある。突発性難聴をきっかけに始まった一連の検査の結果、僕の息切れは肺気腫だと診断された。女房にしか言わなかったが、女房から娘2人に伝わり、そして彼にも知れた。

 「年を取ったら、大なり小なりみんな肺気腫なんだよ。よく年寄りは息切れするだろ。たまたま病院に行ったから、病名がついただけの話で……」と僕は勝手な理屈を展開する。「いや、そんなことないです」と意外にも彼が踏ん張る。「やっぱり、やめたほうがいいです」と唯一そこは譲らない。

 僕は娘しか育てたことがない。女房と娘2人、女たちの中でこれまで暮らしてきた。家の中で男はずっと僕1人だったのだ。玄関先の外灯の下、彼の真顔を見ながら、ああ、倅(せがれ)ができたんだなぁと心の中で思う。






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第278回 愛染恭子

 今から30年以上前、僕はアクトレスというタレント事務所をやっていた。所属している女の子は、最盛期には50人を超えた。そのなかの1人に青山涼子がいる。のちの愛染恭子である。

 涼子は向こう気が強く、初めて会ったとき、僕と同じ匂いがした。手のかかる子で、京葉道路だったと思うが、ハコ乗りをやって捕まったときには、マネージャーが警察までもらい下げに行ったこともある。

 当時、日活ロマンポルノを撮っていて、なかでもスケバンシリーズは人気があった。主役はほとんど五十嵐のり子という子だった。上背があり足も長いから、蹴りも絵になる。でも、次の作品では初めて涼子をメインに起用しようかと考えていた。地方の仕事に行っていた涼子に、僕は電話を入れた。「今度、おまえ、スケバンに決めたから、根性入れて帰ってこいよ!」。

 すると、涼子は歯を抜いてやってきた。主役に抜擢すると言っているのに、なぜ抜歯する必要がある? 意味がわからない。理由を問うと、僕が「根性入れてこい」と言うから、どうしたらいいだろうと考え、よし、歯医者に行って歯を抜こうと思ったそうである。彼女にとっては「根性を入れる」=「歯を抜く」だったのだ。前のほうの歯を抜いているから、口を開くといかにも間抜けだ。「アホか、おまえは!」。こうして涼子の主役は流れた。

 武智鉄二監督から「白日夢」のヒロインを探しているという話がアクトレスに来たのは、それから何年か後のことである。監督面接の日には、スケジュールの空いている子を全員集めた。だが、監督は全員と会うまでもなく、涼子に決めてしまった。どこに魅かれたのだろう? きっとそれは僕が初対面のときに感じた匂いではなかっただろうか。

 「白日夢」の封切とともに、涼子は武智監督がつけた愛染恭子という名でブレイクする。しかし、世間が騒いでも正直ピンとこない。僕にとってはあくまでも涼子なのだ。だから、長年仕事をともにしてきたカメラマンの友人から「愛染で1本撮ってみたら」と言われるまで、僕は愛染の価値に気づきもしなかったのである。

 そうして出来上がったのが「淫欲のうずき」だ。それまでは日活の下請けとして1本撮るごとに決まった制作費が支払われるという形でやってきたけれど、ここからは自分たちで著作権を持ち、掛け率いくらで商品を出していくという形に変えた。つまり、売れれば売れるほど、お金が入ってくるわけである。

 ただし、それにつけては、アクトレスというタレント事務所のままだと、派遣業法からもいろいろ問題がありそうなので、制作会社として法人を分けることにした。これがアテナ映像を立ち上げるきっかけである。もしも愛染という存在がなければ、アテナ映像は少なくともこの時期には生まれていない。

 家庭用ビデオデッキの普及とあいまって、「淫欲のうずき」から始まった愛染のシリーズはよく売れた。けれども、本人は相変わらず手を焼かせてくれる。危ない男が好きなのか、たちの悪い相手とつきあっていたこともある。僕はその男を事務所に呼んだ。「手を引いてくれ。引けないようなら、こっちもまた別の話になってくるから……」。僕も元気がよかったし、彼は僕の指がないのもわかったから、こいつとやると厄介なことになると思ってくれたようだ。

 愛染は「女優としてやっていきたい」と言い続けていた。「白日夢」でブレイクしたとき、彼女には本番女優というレッテルが貼られた。だからこそ、今度は女優として認められたいという思いが人一倍強かったのかもしれない。それなのに、性感マッサージを受けさせたり、催眠にかけたり……。思えば、およそ女優とは程遠い仕事ばかりさせてきた。あるとき、愛染が僕に言った。「私、女優だから本番はイヤです」。「よし、わかった」と僕は答えた。

 そこから僕と愛染が進むべき道は別れた。べつに怒って言ったわけではない。僕は僕で、いつまでも女の子に頼って売っているんじゃ……という監督としてのプライドもあったのだ。けれども「もう愛染は撮らない」と販売代理店に言ったとたん、「なんで!」「もったいないよ!」「まだまだ稼げるのに!」と集中砲火を浴びた。「でも、オレはそれがイヤなんで」と考えは変えなかった。

 それから何年経っただろうか。僕がサイパンにスタジオを作り、さらに土地を買い足してミクロネシアの踊りを見せる村を作ろうとしていた頃だ。バブルが崩壊し、銀行の融資が止まり、サイパンの計画は頓挫する。自己資金を使い果たしたうえ、多額の負債を背負った僕は、資金繰りにも四苦八苦していた。

 ちょうどそんなとき、愛染が事務所にブラリとやってきた。「今遊んでるお金だから使って!」と3000万円を差し出してくる。無利子でありながら、借用書も受け取らなかった。そのお金によって、僕はどうにかやりくりできたのだ。

 愛染は負けず嫌いで、ケンカっぱやい。常識はずれで、何をしでかすかわからない。波瀾万丈。引くことを知らず、懲りない。自分の我(が)を出す。世間からはみ出し、とてもまるく収まらない。だからこそ愛染は、ある意味どこまでも純粋で、魅力的だったのだと思う。





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9月4日(木)、全42タイトルに増えました!


第277回 近親相姦

 前回からのつづきである。実の父親からの性的な虐待――しかし、本当にあったことなのか、そういう夢を見ただけなのか、はっきりしないと彼女が言う。いつごろのことかと訊くと、たぶん小学校の低学年からだったと。

 呼吸法と年齢退行で、彼女をその時間に戻すことはできる。もし性的な虐待を受けていたのなら、彼女はそれを追体験することになる。つらくないはずはない。ただし、そこを確認しないことには、そこからの解放もない。

 「ザ・面接」の監督面接と現場を通して、彼女は僕を信頼してくれていた。やってみると言う。「あなたは追体験しながら、それをしゃべることができます」という誘導で、いよいよ彼女は“起きていること”を語り出した。

 「洋服を脱がしてきた」。「パンツも脱がしてきた」。彼女の頬を涙が流れ落ちる。「上に跨ってきた。オチンチンが私のお股に……」。「お股でこすって、もうすぐ中に入っちゃう!」。「あったかい」。「イヤなんだけど」。「すごいお父さんの呼吸が荒い」。「オチンチンが中に入ってくる!」。

 トランスから覚めたあとも、彼女は泣いていた。もはや曖昧な夢などではなく、確信に変わったのだ。「最初、すごい怖くて、でもやっぱりなんか感じちゃってる。頭のどっかで、最初はいけないことしてるって、すごい思ったんだけど、だんだん気持ちよくなって……」。多少落ち着きを取り戻してから、彼女はこんなことも言った。「若いんですよぉ」。当時、父親は30代。今の彼女よりも年下なのだ。

 また、別の記憶もよみがえった。ずいぶんあとになってから、母親にこの件を打ち明けたという。「バカなこと言ってんじゃないわよ。そんなこと、あるわけないじゃない。人に言うんじゃないよ」ということで終わったらしい。それ以降、彼女は誰にも話さなくなり、自分の記憶にも鍵をかけた。

 彼女に限らず、性的虐待はなかなか本人が話したがらない。だから発覚しないケースが多いが、僕がこれまで出会った女の子たちのなかには、父親からされていたという子が少なからずいる。義父もいれば、実父も。彼女たちと信頼関係が築けたとき、ぽつりぽつりとそれを語ってくれる。そしてよくよく聞いてみると、どこかで「自分が悪い子だから」と思っていたりするのである。

 当然ながら、子どもに非などあろうはずがない。父親のほうが壊れているのだ。彼らの傾向としては、年齢的に子どもが自己主張しないうちに行為におよぶ。しかも、ほとんどの場合、子どもの反応を見ながら徐々にエスカレートしてゆく。最初は布団に入ってきてちょっとさわるとか、風呂場で洗うふりをしながら指を入れてきたりとか。いずれにせよ、面と向かって抵抗されたら、できないのだろう。

 だが、なぜ彼らは自分の子どもに手を出せるのだろうか。女の子たちから話を聞く機会はあっても、父親に関するデータが僕にはない。なので、推測するしかない。

 アメリカでは性犯罪が多発しているといわれるけれど、性犯罪者たちのなかには人並みはずれて性欲が強い人間がいるそうだ。近親相姦する父親も、性欲が異常に強いのだろうか。だから、娘をやるのか。しかし、それならば女房と励めばいいのだし、仮にそうじゃなくても、ほかに選択肢があるはずだ。

 やはり、彼らは大人になりきれてないのだろう。本能が育っていないのだ。それは本能が成熟すべき時期、つまり幼児期に原因があるように思える。彼らもまた自分の親から虐待(性的とは限らない)や育児放棄などを受けていたのではないだろうか。本能は、生じた「不快」を親の愛情による「快」で中和されることによって成熟していく。

 話を彼女に戻そう。監督面接で催淫CDを聴いてもらったときから、彼女は心に何かを閉じ込めているように見えた。年齢退行から戻ったとき、彼女自身が言っているように、父親から強要されたセックスを何割かは受け入れている。でも、そんなことは人には絶対言えないし、この「言えないこと」「いけないこと」というのが、セックスになると彼女のエネルギーパターンとして無意識の世界で働く。だから、肉体の快感はあっても、心の歓びが起きない。

 であれば、彼女のエネルギーパターンを変えてしまうのが、いちばん早い。セックスとは「言えないこと」「いけないこと」という既成概念を書き換える。そのためには、まず彼女の中に「したい!」という状態を作っておき、その欲情を維持したまま、もう一度“父との時間”へ年齢退行させてゆく。ここで間違えば、彼女の傷をさらに広げてしまう。父親になりきった男優が強引にセックスを迫るのだから、僕にとっても真剣勝負である。

 結果、彼女がどうなったのかは、「ようこそ催淫世界へ19 近親相姦」(9月下旬リリース予定)で確認していただけるとありがたい。



(「週刊代々木忠」は夏休みをいただきます。みなさんに次にお目にかかるのは9月5日(金)になります)





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8月7日(木)、全40タイトルに増えました!


第276回 閉じ込めていた記憶

 ちょっと前の話になるが、僕は「ザ・面接 VOL.139」の編集をしながら、「この子、やっぱりイキきれてないよなぁ。なんでオレはもっとレクチャーしっかりやらなかったかなぁ」と一人つぶやいていた。

 彼女は43歳。3年前に離婚している。理由はダンナさんの浮気。現在、セフレが1人いる。プロデューサーの資料を読むと「セックスでイケる(中でイケる)」と本人は言っていたようだ。けれども、監督面接で彼女から直接話を聞いてみると、いや、イッてないんじゃないかなぁと僕は思った。

 それを確かめるべく、呼吸法から入って、催淫CDを聴いてもらう。聴いているときの彼女は、けっこうせつなそうで、感じる姿も色っぽい。だが、言葉があまり出てこなかった。体は気持ちよくなっているのに、心は何かを閉じ込めているように見える。それがイケない原因だろうか……。

 「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」ならば、ここがとば口になって「何か嫌なことあった?」と切り込んでいくのだけれど、今回は「ザ・面接」だ。大人数だし、彼女のイケない原因を探ることがテーマではない。なので、これ以上は掘り下げなかったのだ。ちょっと不安は残るものの、一方では、現場に行けばなんとかなるだろうという思いもあった。

 現場では、まず銀次が彼女に行く。彼女のセックスはいやらしいのだけれど、イッていない。そのあと時間をおいて、片山が行く。映像の中ではわずかしか映っていないが、実際には上になったり下になったり、えんえんとやっている。彼女がイカないから終わらないのである。

 この作品では、年齢的にも彼女が見せ場になってくれたらいいなぁという期待があった。ところが、見てくれた人ならおわかりだろうが、関西出身の若手の2人に持っていかれてしまった感じだ。現場では予期せぬことが起こるわけだから、まぁ、これはこれでいいのだが……。しかし、銀次と片山があれだけ時間をかけてやりながらイケないというのは、なんでだろうなぁという疑問は依然としてある。そして僕としては、やはり悔しい。

 そこで「ようこそ催淫世界へ」でもう一度、彼女を撮ってみようと思った。千葉の別荘に行って、まず彼女が出ている「ザ・面接」の映像を見せた。「イッてないよね? 感じようとはしてるんだよね」と訊くと、「そうかもしれないです」と彼女。あれから他のメーカーでも何本か出たようなので、そこでのセックスも訊いてみた。「イキそうになったことはあるんですけど、実際にはイッてないです。プライベートでも……」。

 監督面接で初めて会ったとき、彼女が心に閉じ込めているように見えたものの正体とは何だろう? それがわかれば、打つ手はあるはずだ。過去にいったい何があったのだ? 彼女の心を傷つけるような。

 「幼児期に何かあったんじゃないの? よかったら話してよ」と僕は切り出した。一拍おいてから「父親ですね」と彼女が言う。彼女曰く、監督面接のとき、僕の話に感じるところがあったようで、すぐに僕の本を買って読み、このブログも一気に読んだそうだ。そして読み進めていくうちに、父親からされたことがおぼろげながらよみがえってきたという。ただし、それは曖昧で、現実にそういうことがあったのか、そういう夢を見たのか、まだ判然としないと。

 僕は呼吸法と年齢退行で、それを確かめることにした。


(つづく)





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第275回 がんばらなくていいんだよ

 孔孟の教えと老荘の教えは、よく対照的だといわれる。大雑把にくくれば、孔孟は「上昇志向の自己実現タイプ」である。あらかじめ目標を設定し、そのための計画を立て、努力するのがよく似合う。

 明治維新、近代日本の幕開けから、太平洋戦争の敗北を経て高度経済成長を遂げるまで、孔孟の教えは多くの日本人の根底にあったような気がする。だから、とりわけ世の中がイケイケの時代、「知や欲を働かせず、無為自然に生きることを良しとした」老荘の教えは、どこか敗者の論のように見られたりもしてきた。

 アダルトビデオが生まれた80年代初頭、高度経済成長は終わっていたものの、安定成長と呼ばれる右肩上がりの時代はまだ続いていた。そしてバブル景気と相まって、アダルトビデオ業界も産業と呼ばれるまでに成長を遂げていく。僕が好んで老荘思想の本を読みあさっていたのも、AV業界がイケイケの時代である。

 イケイケなのに、なぜ孔孟ではなく老荘だったのか……。ひと言でいえば、もともと努力があんまり好きじゃないからだ。それに加えて、子どもの頃から社会が敷いたレールからはみ出た所でずっと生きてきた。孔孟思想は「社会の中で何をすべきか」といった社会性が色濃い。僕にしてみれば、もともとそこは目指してないのだ。それにひきかえ老荘思想は、社会からあぶれた自分もなんだか肯定された気がして、心地よかったのである。

 現在は先の読めない時代だし、みんないろいろなストレスを溜め込んでいるから、老荘的な生き方にシフトする人も増えてきているだろう。とはいえ、孔孟的な生き方はけっこう深くまで浸透していたりするので、気がつけば目標を設定し、そこに向かって努力してしまうというケースも少なくないようだ。

 目標を設定すると、それを邪魔するものと戦うことになる。邪魔するものが、競争相手や対抗勢力のように自分の外側にある場合もあれば、誘惑との葛藤のように自分の内側にある場合もある。どちらも厄介だが、後者の場合は自分との戦いにエネルギーを費やしていることになる。これでは、何もしないうちに疲れてしまう。

 たとえば「セックスでイッたことがないから、イクためにビデオに出たい」と言う女の子たちがいる。これも僕から見たら孔孟的である。彼女たちに「イコうと思ったらイケないよ」と僕は言う。なぜなら、本来目的であるはずのセックスが、イクための手段になっているからだ。手段とはいわば義務であり、目の前の相手とは向き合ってないから、終わった後に徒労感や疲労感が残る。そうではなくて、セックスが本当に楽しめたときに、気づいたらイッていたということが起こり得る。

 僕は日活時代、ドラマともドキュメントとも呼べないような作品ばかりを撮っていた。当時、関係者からは「こんなもんは映画じゃねえよ!」と毎回クソミソにこき下ろされた。他の監督は大学の芸術学部とか映画学科を出ており、映画研究会にも所属してましたというタイプが多い。こっちは大学にも行ってないし、そもそも映画作りなんて教わったことがない。もしも僕が孔孟思想に共鳴していたら、そこで映画のイロハから勉強を始めたはずである。そして今頃はドラマでも撮っていたんじゃないかと思う。

 ところが、実際には「面白けりゃいいだろ」と、ドラマでもなければドキュメントでもない作品を撮り続けていたのだ。べつに勝算があったわけではない。そのとき、自分が面白いと思うものを撮りたかっただけである。ダメなら、他のことをして食えばいいくらいに思っていた。

 老荘的に生きようとすれば、将来のために今を犠牲にして努力するのではなく、この瞬間を楽しむ。あくまでも楽しむのであって、がんばったりはしない。そうすれば結果はおのずとついてくるし、たとえ失敗したとしても心は折れないのである。





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第274回 裏切りへのケジメ

 新しいことを始めるときには出会いがあった。一緒に何かをしようと思えば、その人を信用して物事は進んでいく。いや、正確にいえば、信用してるっていう意識もない。始める前から疑ってかかったり、裏を読んだりはしないということである。

 それでうまくいったこともあれば、手痛い裏切りに遭ったこともある。とりわけ日活の下請けをしていた頃には、口約束がことごとく覆されたりもした。それ以前に身を置いた不良の世界では、自分も相手も己の吐いた言葉に縛られていた。それがこちら側では、信じた言葉が相手の都合でいともたやすく嘘と化す。「カタギは汚ねえ」と何度心の中で毒づいたか知れない。

 しかし、裏切った連中に対してケジメを取ろうとはしなかった。不良時代、僕は周囲から「引くことを知らない男」と言われていた。にもかかわらず、なぜ「よしヤッたろか!」とならなかったのか。いったん行動を起こせば、もう後には引けず、行き着くところまで行ってしまう。それがわかっていた、というのもある。

 いや、当時、渦中ではそれだけが抑止力だったかもしれない。でも、しばらく時間を置き、ある程度の冷静さを取り戻したとき、全体を俯瞰することで見えてくるものがあった。確かにそのとき裏切ったのは相手のほうだが、僕も自分の本心をどこかで偽(いつわ)っていた――。

 どういうことかわかりにくいと思うので、実例をひとつ紹介しよう。

 その頃、僕は日活から年間何本(1本あたりいくら)という形で映画制作を請け負っていた。社外プロデューサーとして誰に何を撮らせるのか決める立場にあったのだ。そこへ知り合いの一人が、監督のAにぜひ撮らせてやってくれないかと言ってきた。聞けば、Aは経済的にかなり困っているらしい。話を持ってきた男とは旧知の仲でもあるし、彼との義理からAにある作品の監督を依頼した。それがたまたまヒットする。すると、Aは日活に「自分と直接契約してくれればもっと安い制作費でできる」と話をまとめてしまった。もちろん僕には内緒で。

 さて、この話の中で、僕が自分の本心を偽ったところはどこだろう?

 もともと撮らせたい監督は他にたくさんいたのだ。みんな仕事が欲しいのである。Aに依頼するくらいなら、それまでつきあいのある監督たちに頼むほうがよほど自分の意に副(そ)っている。にもかかわらず、僕は旧知の男との義理を優先させた。そのひずみというか、ねじれみたいなものが、Aの裏切りという形をとって現われたんじゃないだろうかと僕は思った。

 この話に限らず、裏切られた出来事では、自分が本当はしたくないことをしていたり、したいことを曲げてたり、本心と向き合わないまま流れに任せていたり……というのが見えてきた。それは裏切った相手よりも先に、じつは自分が自分の心を裏切っていたということだ。

 だから、相手をとことん追い詰めたところで、その瞬間はいくぶん溜飲が下がったように思えるけれど、失ったものが元どおりの形でよみがえることはなく、残るのは空しさである。

 であるなら、報復に費やすエネルギーと時間を、もっと別の、できれば創造的なことに注(つ)ぎ込んだほうがよほどいい。懲りずにまた裏切られることもあるけれど、自分一人でできることなどたかが知れているし、初めから相手を疑ってかかれば何事も成就しないのだから……。






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第273回 生活健康度チェックリスト

 住んでいる世田谷区の高齢福祉部(介護予防・地域支援課)というところからアンケート用紙が送られてきた。「生活健康度チェックリスト」という。僕は初めて受け取ったのだが、65歳以上で介護認定を受けていない人を対象に出しているようだ。

 チェックリストには35個の質問項目があり、「はい」「いいえ」で回答する。あなたにこういったアンケートが届くのは、ずっとずっと先だと思うが、後学のためにいくつかご紹介しよう。

 「バスや電車で1人で外出していますか?」「はい」
 「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか?」「はい」
 「お茶や汁物等でむせることがありますか?」「いいえ」
 「週に1回以上は外出していますか?」「はい」
 「自分で電話番号を調べて電話をかけることをしていますか?」「はい」
 「今日が何月何日かわからない時がありますか?」「いいえ」
 「自分が役に立つ人間だと思えない」「いいえ」

 自分の歳は知りつつも、どこかまだ若い気持ちでいる。でも、前に書いた運転免許の更新もそうだが、このアンケートに答えていると「もうあなたは若くないんですよ」と繰り返し言われているように思える。「チェックリストは、日常生活に必要な機能の低下や状態を確認するためのものです」と説明書きにあるけれど、人によってはアンケートを終えて、気分的に老け込んじゃったりしないんだろうか……。

 チェックリストの回答欄は、質問ごとに「はい」「いいえ」のどちらかのマスに淡いブルーの色がついている。先に紹介した7問への僕の回答は、すべて白いマス。つまり反対側のブルーのマスを答えた場合(たとえばバスや電車に1人で乗れないとか、お茶や汁物でむせるとか)、その項目は生活健康度がイエロー信号という意味合いなのだろう。

 では、僕は全部白いマスだったかというと、ブルーもあった。ちなみに次の質問がブルーである。

 「地域の活動や講座に月に2回以上参加したり、定期的に趣味の活動をされていますか?」「いいえ」

 「地域の活動や講座」とは「町会、自治会活動」「高齢者クラブ」「ふれあい・いきいきサロン」「はつらつ介護予防講座」「趣味のサークル活動」など、とある。

 僕が「地域の活動や講座」に「いいえ」だったのは、知らなかったのもあるけれど、正直あまり興味がなかった。知った今でも、行きたいという気にならない。なぜだろう? 老人扱いされるのが癪(しゃく)だというのもあるし、行かなくても事足りているのもある。

 だが、それは毎日仕事をしているからである。もしAV監督をやめたら、そうは言っていられないだろう。新たな出会いや日々の刺激、外に出る機会は激減し、ライフスタイルはまったく違ったものになる。そうなれば歳相応に一気に老け込むかもしれない。

 しかしである。そうなっても、僕は「地域の活動や講座」に行くのならば、近くの幼稚園か保育園にでも行って、園児たちと遊ぶほうがよほど楽しいだろうなぁと思う。世田谷はどうかわからないが、江戸川区には老人ホームと保育園が同居する施設もあると聞く。

 であれば、老人ホームに入らなくとも、お互いが交流できる公的なサービスというか仕組みは作れないものだろうか。幼い子どもと老人はもともと相性がいい。おじいちゃんやおばあちゃんは孫に甘いし、幼い子どもは老人に対して偏見がない。老人たちは子どもたちから元気をもらえるし、子どもたちは親より上の世代の知恵や文化を吸収できる。弱者を慈しむ心もきっと育まれることだろう。

 そういう仕組みが難しいというなら、僕はとりあえず子どもたちの行き帰り、横断歩道で旗振りからでも始めようか……。地域の講座に行けば、講師やインストラクターにいろいろお世話をしてもらうことになる。でも、自分がお世話をするほうが、人はイキイキするに決まっている。「誰かの役に立てている」「誰かから必要とされている」――それが日常生活を健康に営むためには絶対に必要なのだから。






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第272回 想定外のリクエスト

 先週の土曜、コラムニストの小野美由紀さんとのトークイベントがあった。〈「本当に気持ちいいセックスって何ですか?!」――ニッポンの性と身体をめぐる対話〉というのがそのテーマ。

 僕が会場で話したのは、呼吸について、「好き」というキーワード、目を見ることの重要性などなどで、このブログを読んでくれてる人ならば、だいたいどんな内容か察しがつくだろう。

 で、イベントの序盤、客席からこんな質問が出た。セックスは思考ではなく、感情と本能でするものと言っても、こうして話していること自体が思考ではないのか? 監督の中でそこに矛盾はないのか?

 なかなか手厳しい指摘である。いったん話は飛ぶけれど、拙著『つながる』の終わりのほうで、僕は次のように書いた。

 〈この本で読んだことを、いったん忘れていただきたいのである。
 「二百数十ページもの文章をさんざん読ませたあげく、最後の最後で忘れろとは何事か!」と思われるだろうか。
 忘れるといっても、記憶から完全に消し去ることは難しい。本の中で多少なりとも「それはそうだな」と腑に落ちた箇所は、必ずあなたの中に残っている。これからあなたがいろいろな体験をする過程で、この腑に落ちた箇所が記憶の底から浮かび上がってくるときが来る。「それはそうだな」と思ったものが、そのとき「こういうことだったのか」に変わるだろう。
 単なる知識にすぎなかった「情報」が「体験」をともなったとき、真の「理解」が起き、初めてその人の「財産」になるのだと私は思う〉


 言葉とは、活字にしてもトークにしても、前述の質問者が言うように、それをひとつの知識あるいは情報ととらえれば思考の域を出ない。誰かに何かを伝えようとする際、いつもここが難しい。さて、どうしたものかと、そのときも僕は思っていた。情報は体験をともなって真の理解へと変わるけれど、そもそも腑に落ちていなければ、なにも始まらないではないか。

 来てくれた人たちに、なんとか自分の思いや考えを伝えようと、僕は言葉を重ねた。しかし、伝わったという手応えが曖昧なまま、時間は過ぎてゆく。終わり間際の質疑応答コーナーだった。最後に手を上げた若い女性がこんなことを言った。「相手の目を見て『好き』って言うことが大切だとおっしゃいましたが、私の目を見て『好き』って言ってもらえませんか」。

 まさかそんなリクエストが来ようとは想像すらしていなかった。僕自身が女性の目を見て「好き」と言ったのは、はたして何十年前のことだろう。しかも、みんなが見ているなかでそれをするのは、ちょっと勇気がいる。でも……。このリクエストを口にした女性は、ひょっとしたら僕以上に勇気がいったのではないのか。

 椅子に座っている彼女の前まで歩み寄り、僕はしゃがんで、膝の上に置かれた両手を握った。少し見上げるかっこうで目を合わせる。初めて会った人なのに愛しさが込み上げてくる。気がつくと「大好きだよ」と言っていた。瞬間、彼女の中の温かいものが僕の中に流れ込んできた。瞳がうるむ、目の前の彼女と同じように。会場では、いつしか大きな拍手が沸き起っていた。

 「本当に気持ちいいセックスって何ですか?!」について話してきたはずだった。それはとりもなおさず、目合(まぐわい)について語ってきたということだ。2時間えんえん説明しても伝わらなかったものが、彼女のたった一言によって、みんなに伝わってしまった。言葉なくして教えを説くとはこういうことかと、僕のほうが教えられたトークイベントだった。






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7月3日(木)、全38タイトルに増えました!

第271回 MRI検査結果

 突発性難聴の話を2本続けて書いてから、もう7週間になる。聴神経腫瘍の検査結果をご報告する。というと、ずいぶん勿体つけてる感じだが、MRIで腫瘍は見つからなかった。右耳の聞こえ具合はといえば、完全に治った気がする。主治医も「数値的に見ても、本来の形に戻ってますね」と言う。

 じゃあ、めでたしめでたしじゃんと思われるだろうが、ちょっとだけ問題もある。最近、少し動くと息切れがするし、右の肩から胸にかけて吹き出物ができた。「先生、これってステロイドの副作用じゃないですか?」と主治医に尋ねた。主治医はすぐに呼吸内科と皮膚科の診察手続きを取り、そちらに行ってくれと言う。システマティックといえばシステマティックだが、他の科に押しつけてる感じがしないでもない。

 耳鼻咽喉科を出て長い廊下を歩き、最初、皮膚科に向かった。皮膚科の医師にも「吹き出物はステロイドの副作用でしょうか?」と訊いてみた。「免疫力が落ちてるから」という返事。副作用なのか? 副作用じゃないのか? でも文脈からすれば「ステロイドのせいで免疫力が落ち、免疫力が落ちたから吹き出物が出た」と取れる。結局、塗り薬を処方してくれただけだった。

 次に訪ねたのは呼吸内科。「息切れする」と言ったら、そのまま胸部X線撮影へ。きっと肺機能を疑ったんだろう。歳も歳だし……。肺の写真を見ながら呼吸内科の医師が説明する。ただし写真は2枚。1枚は今撮ったばかりのもの。もう1枚は7年前にこの病院で撮ったもの。それが残っているのは、さすが大病院だと思った。

 ところが、「今回、肺の下のほうに曇りが見られますが、これだけでははっきりしたことはわかりません」。で、日を改めて肺機能検査と胸部CTをやることになった。これじゃ、切りないよなぁ……と思う。耳が聞こえなくて耳鼻咽喉科を訪ね、それが治ったかと思えば、今度は皮膚科と呼吸内科だ。増えている。そして検査、検査。まるで病気を捜されてるような気分になる。

 家に帰って皮膚科で処方された塗り薬をよくよく見たら、配合成分に副腎皮質ホルモンとある。あん? この軟膏もステロイドか……。仮にステロイドの副作用で吹き出物が出たんだとして、それをステロイドで治すってのは医学的にはどうなんだろうか? でも痒いし、少量だったらいいかと思って塗ってみた。何度か塗るうちに痒みが治まり、皮膚はスーッと滑らかになってくる。確かによく効くのだ。

 息切れもそうだ。雨の日以外は朝のウォーキングを日課としているが、ステロイドを飲みはじめる前はふつうに歩いていた。ところが、飲んでいた15日間のうち何日かは気がつくと走っていた。点滴で入れるかどうかと言っていたくらいだから、かなり強力なものだったのかもしれない。それが服用をやめてから、ふつうに歩いているにもかかわらず、ときどき息切れがする……。

 うちの犬も糖尿病を患い、弱り切っているとき、動物病院でステロイド投与をすすめられた。つれていった娘は悩んだあげく、「もし先生がお飼いになってる犬だったら、先生はどうされますか?」と訊いた。「私は使います」という迷いのない声を聞いて、娘は「お願いします」と言ったそうである。愛犬はその後、目の手術を受けたけれど、体調そのものはステロイド投与でずいぶんよくなった。見違えるほど若返っている。

 愛犬の顔を見ながら「リバウンドがあったのは、オレだけかな?」と問いかけてみる。今は見えるようになった瞳で、犬が僕を見返す。返事はない。






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第270回 欲情の原風景

 前回は、男に義務のセックスをさせてしまう女性の話を書いた。今回はまずプロデューサー資料から、その女性の猥褻感の原点のようなものを箇条書きで引用してみる。

 〈小学校2年のとき、近くの神社で見つけたエロ本を見ていた。小学校4年のとき、家でお母さんのレディースコミックを大量に見つけ、こっそり見ていた。変な気分で自分のアソコを鏡に映して見ていた。その後、小学校6年まで、フィルムの入っていないカメラでアソコを撮ったりしていた〉

 彼女の“頭”から来る猥褻感は、なるほどこういうことから芽生え、育まれていったのかと思う。

 話は飛ぶが、最近「愛と性の相談室」の相談コーナーで会ったある女性が、応募の際に送ってくれた文章から一部分を抜粋してみる。

 〈私は幼稚園の時に、お昼寝の時間にちょっとエッチな男の子にディープキスをされました。そのときはディープキスなんて知らなかったですが、これがエッチなことなんだなってことはなんとなくわかりました。恥ずかしいけど、すごく気持ち良い。とろけそう。そんな感じがありました。あと、小学校2年生のときに幼馴染の男の子とお医者さんごっこをして、スカートの中をのぞかれたり、ちょっといじってもらったりしました。それも恥ずかしいけど楽しかったです〉

 ちなみにこの女性の悩みは、こういう幼少期のエッチな体験から、本当のセックスはさぞかし気持ちのいいものだろうと思っていたが、実際にしてみたらそうでもなかった。満たされたなと思うセックスはしたことがないし、イッたこともないというもの。

 だが、僕は彼女に会って話を聞き、「あなたは大丈夫だよ!」と太鼓判を押した。それについては後で書くが、この2人の女性の原点の違いについて、どう思われるだろうか?

 ビデオに出た女性は、幼い頃、エロ本やレディースコミックを見て欲情している。そして鏡にアソコを映したり、写真を撮る(まね)をしながら自分の中の猥褻感をかき立てている。

 一方、相談に来た女性は、実際に男の子からディープキスをされたり、スカートの中をのぞかれたり、いじられて欲情している。こちらは、生身の人間が相手だ。頭の中で作り出した妄想ではなく、行為自体が原点になっている。しかも、会って話を聞いていても、それらはイタズラされた忌まわしい過去ではなく、彼女にとってはいい思い出なのだ。

 オナニーとセックスの違いは、単に1人でするか2人でするかということではない。セックスの相手は電マやバイブの代わりではない。妄想で猥褻感をあおり、刺激で快感を得るのではオナニーと変わりない。生身の人間同士が性器のみならず、気持ちをも交わし合うのがセックスだ。

 相談に来た女性は、中学校に上がると男の子としゃべれなくなり、その裏には自分に対するコンプレックスもあったという。そういったネガティブな感情は今も多少引きずっているように見える。僕は彼女に自分を愛するための方法論を伝えた。

 自分がポジティブになることにより意識階梯が上がれば、同じ意識階梯の人との共鳴が起こる。つまり、自然とそういう相手にめぐり会うのだ。そうすれば、彼女の思い描いてきたセックスを体験することになる。

 だが、それができるのも、頭の中だけで欲情し妄想の虜(とりこ)になっていないからである。言い方を換えれば、人とつながる回路が閉ざされていないからこそ可能なのだ。
 現代はエロ本どころか、ネットを見れば妄想のタネはそこかしこに転がっている。小さな子どもがそれを見てしまうことも増えるだろう。欲情の原風景は“人”であってほしいと切に思う。






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第269回 夜のオツトメ

 「ザ・面接」に出た、ある女性の話である。四十路の熟女なら、いやらしい映像が撮れるだろうと、ついついこちらも期待する。彼女は2度離婚していた。

 最初の結婚では、夫がセックスしなくなったことが離婚理由だという。なので、同じ失敗をくり返すまいと彼女も次は気をつけた。再婚では、1週間に何度もしてくれる性欲旺盛な男を選んだのだそうだ。ところが、2度目の夫も日を追うごとに彼女を抱かなくなってゆく。

 これだけ聞くと「男が弱くなっている」という話かと取られるかもしれない。前々回書いた「男たちよ、欲情せよ!」って話と変わらないと。だが、男性諸氏は「だったら、いいや」と思わずに、もう少しおつきあい願いたい。

 彼女と事前面接で話したとき、オチンチンへの興味や体位への関心が伝わってきた。ああ、セックスが好きなんだなぁというのがよくわかる。つまり、いやらしいのだ。いやらしいのだけれど、ついぞ色っぽいなぁとは感じなかった。「セックスで目を見たことがない」と言う彼女に「目を見ないと男はしなくなるよ」と僕はレクチャーした。いつも以上に丁寧に。やることはやったから、あとは現場次第だ。

 撮影当日、控室で出番を待つ彼女の様子を見に行った。「どんな気分?」。彼女は僕を見ながら真剣な眼差しで「水を一杯ください」と言う。緊張してるのかもしれない。「のど渇いたの?」と訊く僕に、彼女はこう言った。「いえ、いっぱい飲んで潮を吹きたいんです」。僕の中で暗雲が垂れ込める。まぁ、なるようにしかならんか……。僕は助監督に水を持ってくるよう伝えた。

 現場が始まった。レクチャーはどこへやらで、彼女は相手の目を見ない。「男優さんの名前を呼んで、今だけでも好きになれ!」と言ってはみたが、性器の結合部をしきりに見ている。まぁいいやと思った僕は、それなら存分に見せてやろうと男優にマングリ返しを注文した。「見える! 見える!」と彼女は歓んでいる。

 それは正常位でしているときも同様で、下の入っているところを見ようとする。そのうえ、ファックしながらお尻のほうから手をまわし、結合部分をさわっているのだ。絵柄的にはいやらしいものの、見ていて伝わってくるものがない。僕は「これじゃ、男はしなくなるわ」と気づいたら口にしていた。

 彼女を見ていると“頭”が欲情したくて仕方がないという感じだ。辛辣な言い方をすれば、自分が猥褻感を感じるとこだけで遊んでいる。そして、それがセックスだと考えている。目の前の相手の思いを汲んだり、気持ちよさを共有してはいない。こうなると、男にとっては、もう義務である。しかも、別れた夫に彼女が求めたように、その要求は週何回やったところで満ち足りることはない。

 義務はトキメかないし、高揚しないし、相手を愛おしいとも思えない。射精はしても、疲れと空しさが残る。これでは男はしなくなるのだ。

 前々回紹介した「私はしたいけど、相手がしてくれない」という女たちの声。それに対して「男たちは何やってんだ!」と僕は書いたけれど、全部が全部、男のせいばかりじゃないなとあらためて思う。申し訳ない!

 そして同時に、今回の彼女は決してレアケースではないとも思うのだ。そこには、現代社会が抱える問題も見え隠れする。次回はそれについて書いてみたい。





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第268回 蘇える変態

 先月、一冊の本が送られてきた。『蘇える変態』。ずいぶん変わったタイトルだ。中を開くと、謹呈著者という紙片が挟んである。この本を書いた星野源さんから贈られたものだった。

 そこからさかのぼること数カ月、WOWOWのある番組での対談依頼が舞い込んだ。対談相手はアダルトビデオの名づけ親でもある水津宏さん。2人でAVの創成期からの話を自由にしてくれという。テーマが限定されてないと逆にやりづらいが、長いつきあいの水津さんとだったらいいか……と受けることにした。

 この時期に何故そういう対談が企画されたかというと、この番組自体は星野源さんの特別番組。星野さんは大手術をして、このほどカムバックされたそうなのだが、もともとAVが好きで、僕にも興味を持ってくれているという。なので、快気祝いがてら、星野さんには内緒で収録した対談を番組中に見せるという企画なのだ。

 このときまで僕は星野源さんを知らなかった。どういう人だろうと調べてみると、ミュージシャンで、俳優で、作家。なんと多才な。しかも33歳と若い。ファンもたくさんいるようだ。そんな人が僕に興味を持ってくれてるとは驚きであり、ありがたい話である。

 対談はサプライズだったから、結局、星野さんには会っていない。そこに届いた『蘇える変態』(マガジンハウス刊)。エッセイ集である。せっかくなので、じっくり読ませてもらった。

 僕が若い頃、有名な俳優や歌手の私生活はベールに包まれていた。今はアダルトビデオについて語る人もなかにはいる。いるけれど、『蘇える変態』を読んで、自分のオナニーや性癖について、ここまでフランクに書ける人がいるのかと驚いた。

 印象に残ったエピソードをひとつ紹介しよう。先ほど「大手術をして」と書いたが、動脈瘤再発で開頭手術を受けた星野さん。麻酔から覚めると、そこは集中治療室。声を出さずにはいられない、暴れたくなるほどの頭の痛み。

 やってきた可愛いナースに「痛み止め、打ってもらっていいですか」と頼むと、彼女は「座薬にしますね」と言い出す。僕も手術後、痛み止めの座薬を入れてもらったことがあるが、ビデオを撮っている僕でさえ、ナースに入れてもらうとなれば、やはり恥ずかしい。もちろん星野さんもそうだろう。

 ところが、彼が凄いのはここからだ。「こんな可愛い子にお尻を責められている」と妄想することで、激痛から逃れようとする。ここに来て、これは凄い。その発想は僕にはなかった。

 『蘇える変態』のあとがきに、先日、日本変態協会の会員になったとある。日本変態協会とは初めて聞いたが、会長がタモリさん、副会長が鶴瓶師匠なのだそうだ。だれしも変態の部分があると思う。よく「私はそんな女じゃない!」と言う子がいるけれど、そこを自分が認めてしまえば結果的に「そんな女」でなくなるという逆説が起こる。

 タモリさんにしても鶴瓶師匠しても、これだけ長い間、芸能界の第一線で活躍しながら、色恋沙汰のゴシップは一度として聞いたことがない。

 日本変態協会の会員になったと自ら公言する星野さん。オナニーの話も性癖の話も、有名になればふつうはいちばん気取りたいところである。星野さんのようにさらけ出せたら、もう怖いものはない。みんな、こうなれればラクなのになぁ……と思う。もしも会う機会があれば、彼とならすぐに打ち解けられそうな気がして、思わず僕はファンになってしまった。






Aito-sei-long

第267回 なぜAVに出たいのか?

 女性がアダルトビデオに出たいと思う動機はさまざまだ。この半年間のプロデューサーの面接資料では、こんな具合である(242名対象、複数回答あり)。

 まずは少数派の動機から。「浮気をした夫への仕返し(1名)」「花嫁修業としてセックスが上手くなりたい(1名)」「裁判費用のため(1名)」。残念ながら、どんな裁判なのかはわからない。

 これらより少し増える動機としては「スカウトされて何となく(5名)」「若いときからAVに出たかった(9名)」「有名になりたい(9名)」「ふだんの生活に刺激がないので(12名)」「自分を変えたい(13名)」。

 さらに増えると「(ネイルサロンやエステサロンなど)自分の店を持ちたいから(24名)」「海外旅行の資金として(27名)」「学費として(30名)」「借金の返済(33名)」「貯金したい(35名)」「一人暮らしや引っ越しの費用として(38名)」。ここはどれもお金にまつわる動機が占める。

 そしてダントツが「セックスに興味がある(173名)」。アダルトビデオに出たいのだから、当たり前といえば当たり前なんだけど、彼女たちの現状を読んでいくと“不自由している”のが見えてくる。

 彼がしないとか、ダンナがしないとか……。要はセックスレスなのだが、お互いにする気が失せたんじゃなくて、「私はしたいけど、相手がしてくれない」というケースが非常に多い。男たちは何やってんだ!?っていう話なのである。

 前々回のブログで「快」の話を書いた。今は快を得る手段が多岐にわたって存在している。だから、本来ならばセックスで満たされるべき快も、違う方法で中和される環境ができあがっているのだ。

 だが、これは男たちに限った話ではない。実際、男も女もセックスをしなくなる傾向にはあるものの、監督面接や撮影現場、愛と性の相談室などで直接話を聞いてみると、男の側に顕著に現われているように見える。なぜだろう?

 ひと言でいえば、それは女が強くなったからだと僕は思う。強い女に男は欲情しない。以前、「ザ・面接」の現場でこんなことがあった。白昼のオフィスで面接に来た女性を男優たちが犯していた頃の作品である。

 面接中に片山が主婦(37歳)からいきなりビンタを張られた。こうすれば男が歓ぶと勘違いしているようだ。夫とは別居中。「とんでもないのが来たなぁ」と市原。片山は引いてしまっているので、卓に「犯せや!」と催促するが、卓も行こうとはしない。こうして亭主も逃げたんだろうか……。

 主婦にお引き取りねがったあとで、僕は片山に「なんでヤラなかった?」と訊いた。力ずくで彼女を組み伏せていたら、ひょっとしたら何かが起きたかもしれない。片山が答える。「自分が犯そうとするときに、ふつうは恐怖心とか抱かないじゃないですか。気持ちがビビッてるっていうか、そうなったらもう犯せないです」。

 この主婦は極端なケースだが、オスはメスより優位に立ったときに欲情するのだと思う。言い方を換えれば、強いメスの前で、オスはオスが出せない。女性たちが急に弱くなるとも思えない。日本男児よ、これからどうする?

 脳幹を鍛えて強いオスを取り戻すか? M男くんに徹してメスの前でヨガるか?






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第266回 テゲテゲ

 友人のひとりに働き者の元ヤクザがいる。アスベストを落としに行ったり、福島第一の仕事に出かけたりしている。彼いわく「今ベテランはほとんどいないのよ。だいたい3カ月くらいで(放射線の)許容量を超えてしまうから、そうなると仕事を1年あけなくちゃいけない。それに(別の原発の)再稼働がらみの仕事のほうが、いろんな意味でオイシイらしい。最近の福島は素人ばっかでヤバいよ」。

 50代だが、根がまじめで義理人情に厚い、昔のヤクザの匂いがする男だ。そんな彼が飲み屋を開業した。そろそろ老後のことを考えたのかもしれない。最初に聞いたときは半分冗談かと思ったけれど、もともとラーメン屋だったところを居抜きで借りて、自分で改装したという。

 店の名は「テゲテゲ」。彼は沖縄離島の出身だが、九州の方言で「いい加減な」という意味らしい。「もともとオレはいい加減だから」と言う。「気が向いたときしか(店を)やらんから」と。そんなんで潰れないのかと、ちょっと心配になる。せっかくお客さんが来てくれても閉まってたり、いつ開いてるかわかんないんじゃ、それこそ二度と来てくれないというのが世の常じゃないのか……。

 共通の友人3人と顔を出してみた。カウンター中心の店だが、そのカウンターや壁は、板を自分で焼いてこすって木目を出している。こだわりは内装にとどまらず、調理はガスでなく炭を使っている。料理は薩摩地鶏の網焼きやたたき、故郷沖縄の豆腐ようやポーク玉子、馬刺しや牛スジ豆腐などなど。素材にこだわり、なおかつ何でも自分でやってきた男の料理はなるほど旨い。

 とはいえ、お客さんのほとんどは地元の人、それも年配の人たちだろうと思いきや、意外にも若者たちが多いのだという。音大に通う女の子やレーシングチームのメカニック、映画の脚本家たちが彼と話しにやってくる。いろいろ苦労をしているだけに、今の若い人たちが聞くと、いい話なのかもしれない。しかも、乱暴な話をするかと思えば、しんみりした話も受け止めてくれる。きっと若者たちがこれまで出会ったことがないタイプの大人なのだ。

 しかも、シンプルな性格の彼には裏表がなく、そのうえいい加減でわがままときているから、お客さんも地が出せて、くつろげるのだろう。「この前、計算もしてなかったんで『もう1000円ずつでいいよ』って言ったら、『それじゃあ悪いから』と3000円ずつ置いてったんだよね」とか、「こっちも飲んでたら眠くなっちゃって、お客さんほったらかして奥で寝ちゃったのよ。起きたら、もう誰もいないんだけど、ちゃんと片づけてお代も置いて帰ってくれて……」とか、テゲテゲぶりは枚挙にいとまがない。

 店に来る若い女の子からは「孫がいるんでしょ?」と言われているようだ。確かにいてもおかしくない雰囲気を漂わせている。「オレは結婚したことは一度もねえ」って言うと「えー!?」って驚かれるのだと。彼には男の色気がある。言い換えれば、オスの匂いがするのだ。きっとそれは沖縄の離島という自然や習俗の中で育まれたものだろう。

 むろん女が嫌いなわけではない。これまで惚れた女もいたはずだ。では、なぜこの歳まで独身を通したのか? 直接訊いたことはないけれど、ヤクザもんというだけで結婚はなかなか難しい面もある。それに彼の中にも「いつ死ぬかわかんねえし……」という思いがあったのかもしれない。

 自分の好きなように生きてきた彼の人生は充実しているように見える。彼自身おそらく後悔はあるまい。自分の本当にやりたいことよりも将来のリスクを気にし、世間に合わせて、そこから現在を選択するような生き方をしている若者を見ると「もっとテゲテゲでもいいじゃないの」とつい僕は思ってしまう。





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第265回 人を生かしているもの

 「あなたは何のために生きていますか?」と問われれば、ある人は仕事のやりがいを答えるかもしれないし、またある人は熱中している趣味について語るかもしれない。乳飲み児を抱えた母親ならば「この子のため」と言うだろうか。なかには、直截に「食べるため」とか「女とヤルため」と言ってのける人もいるだろう。

 このように生きる目的や意義は、その人の経験や境遇、能力や価値観、指向性や感受性等々によって、さまざまである。だが、たとえそれらが千差万別だったとしても、すべからく人間は「快」によって生かされているのだと僕は思っている。

 いい仕事ができたという達成感は快だし、それによってお客さんが歓んでくれたのも快だ。功名心がくすぐられるのも快なら、収入が増えるのも快。自分の好きな趣味に時間を忘れるのは快だし、趣味の仲間たちと語り合うのも快だ。幼いわが子の可愛い笑顔や安らかな寝顔は快以外の何ものでもない。食欲を満たすのもしかり、性欲もしかり。

 快は本能に属している。だから、先にあげたような例ばかりとは限らない。社会性のモノサシであるところの善悪や正邪はなく、快は快なのだ。たとえば麻薬や窃盗や暴力行為なども、やっている本人はそのとき快を得ているはずである。もちろん、だからいいという話ではない。麻薬や窃盗や暴力ならば、なぜいけないのかを説明する必要すらないが、次にあげる3つのケースはどうだろう。

 【ケース1】好きな仕事で、それこそ寝食も忘れて、ずっと同じ姿勢のままデスクワークに打ち込んでいる。疲労は溜まりに溜まっているものの、集中しているときにはまったく気にならない。納期へのプレッシャーはある。でも、最終的には自分がやりたいからやっているんだと思う。こんな生活続けていたら長生きできないなと思うこともあるけれど、充実感はハンパない。

 【ケース2】スマホのオンラインゲームにハマッている。今や5000億市場だというから、私のような人間はたくさんいると思う。会社への行き帰り、電車の中ではもちろんのこと、家や会社でも……。仕事でもプライベートでもストレスが多い。それをゲームで発散して明日に備える。オンラインゲームは現代人の常備薬だと思う。

 【ケース3】アダルトビデオを見てオナニーにふける。セックスよりも、快感という面だけで量れば、刺激を自在にコントロールできるオナニーのほうがずっと気持ちいい。ときには風俗に行くこともある。風俗では自分が横になって、女の子からいろいろしてもらうのが好きだ。べつに誰にも迷惑はかけていない。

 さて、どうだろう。3つとも快だ。法律にも抵触していない。であれば、どう生きようが、その人の自由である。僕が「ゲームは時間を決めてやりましょう」とか「オナニーはほどほどにしましょう」と言うのはヘンだ。

 しかし、気になることが1つだけある。それはどのケースも、体を動かし汗を流してはいないということ。「なんだ、そんなことか」と思う人もいるかもしれない。日頃、体を動かす習慣のない人ほど、きっとそう思うだろう。これは自ら体験してみないと効果がなかなか伝わらないものだが、人間の体はもともと動かすようにできている。そして体こそが何をやるにしても土台になるのだ。どうせ得るなら、体にいい快を!




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第264回 続・突発性難聴

 右耳の治る確率が五分五分に毛の生えた程度なら、ステロイド治療はやっぱりいやだ。「先生、ほかに方法はないんですかね?」とダメ元で訊いてはみたものの、やっぱりないのだろう。

 と思ったら、「どうしてもということでしたら、内服薬を飲みながら、通院という方法もあります」という答え。そっちのほうがいい。「確率的にはずいぶん落ちます。治る保証はできませんよ」と言われたが、入院してもどっちみち60%なんだからと、僕は通院を選んだ。

 処方された内服薬は全部で4種類。結局、そのうちの1つはステロイドなのだ。でも、これくらいの量ならばナーバスになる必要もないだろう。ほかはビタミンB12を補うもの、代謝を促進するもの、そして胃薬。ステロイドの錠剤は朝2錠、昼2錠をまず4日間服用(晩に飲まないのは眠れなくなるからだ)。そして次の4日間は朝昼1錠ずつ、次は朝1錠のみと半分ずつ減ってゆく。

 ステロイドを飲むと気分が明るくなるというか、パワフルになる。場合によっては自分で自分をコントロールできないくらいに。「何かあったら、すぐに来てください」と医者が言う。執拗に入院を勧めるのも、ステロイドの大量投与は管理下でやりたいからだろうな……そんな印象を僕は持った。

 ところが、薬を飲んで通院しても、目に見えて(いや、耳に聞こえてと言うべきか)効果がない。「確率的にはずいぶん落ちます。治る保証はできませんよ」という言葉どおりなのである。

 話は変わるが、理想的な骨格になれば病気もしないと聞き、かれこれ9年間、週に1回、骨格矯正のための力学療法を受けている。力学療法の権威であるH先生は歯科医を開業しており、施術は歯科治療室を通り抜けたところにある部屋で行なっている。じつは突発性難聴で総合病院に通院を始めた週も、H先生のところには来ているのだが、あわただしそうだし、直接関係ないかと思って、耳の件は言わなかった。

 翌週、何気なく「先生、オレ、右の耳がいきなり聞こえなくなっちゃったんですよ」と言ったら、「ああ、頸椎のズレだよ!」と簡単に言われた。西洋医学的に言うと、突発性難聴の原因は特定されていない。でも、まぁ力学療法の見地からすればそうなるのだろうと僕は思った。

 H先生がいつもより念入りに股関節を施術してくれる。「今どこに来る? 首に来なかったかい?」。「いや、このへんに来ました」と僕は胸の裏側を指さす。「ああ、わかった」といろいろ股関節を調整してくれるなかで、今度は胸の裏側に加えて、首にもピッと反応があった。僕はとっさに聞こえる左耳を手の平でふさいだ。隣の治療室で歯を削る音が聞こえる。左耳と比べれば、音は小さいし、実際よりも高い音だ。でも、突発性難聴になってから初めて右耳で聞く音だった。「先生! 来た! 来た!」思わず僕は大きな声をあげていた。

 通院している総合病院では毎週、聴力検査を受けている。1回目と2回目は数値に変化はなかったが、H先生の施術で聞こえるようになってから、数値も上がってきている。「だいぶ回復してきましたね。このまま行くといいですね」と主治医が言う。

 この病院に来た理由は、聴神経腫瘍があるかどうかをMRIで調べてもらうためだった。肝心のMRIはずっと予約で埋まっており、僕が検査してもらえるのは5月31日。大きな病院ではよくある話だ。だが、腫瘍の可能性はもうないだろうと僕自身は思っている。

 現在、右耳は7割がた回復した。ちょっと音が割れたり、風が吹いているような音はしているけれど、距離感や方向はもうだいたいわかる。なので、かりにこれ以上よくならなかったとしても、さほど不自由はしない。ひと昔前なら、年をとれば耳は遠くなるもので、ほとんどの人がそれを当たり前に受け入れていた。「悪口だけは聞こえるんだから……」という笑い話もあちこちで聞かれたものだ。

 年を重ねれば、人間あちこちにガタが来る。僕はまだ好きな仕事を続けていられる。欲を言えばきりがないのである。






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第263回 突発性難聴

 かれこれ1カ月になるが「ザ・面接VOL.139」の撮影前夜、右耳がとつぜん聞こえなくなった。明日は現場だというのに、こりゃ、まいったなぁと思った。

 そういえば1年半前にも夜自宅でテレビをつけたら、言葉が言葉として認識できないくらい音が割れて聞こえたことがある。そのときはかなり焦った。でもこの時間じゃもう病院はやってないし、救急車でもないだろうし……。明日病院に行こうと思って寝たら、翌朝には治っていた。

 あのときは両耳の音割れ。今回は片耳だけが聞こえない。どっちがいいという話じゃないけれど、前回同様、一晩寝れば治るかもしれない。そんな淡い期待、いや、切実な期待を抱きつつ、眠りに就いた。

 朝、目が覚める。どうだ、耳は? 右耳はやっぱり聞こえない。で、「ザ・面接」の現場はといえば、前後左右の音が混ぜこぜになって左耳だけから聞こえる。当たり前だけど。そうすると、実際にはどっちの方向で誰がしゃべっているのかがわからない。

 「ザ・面接」は2台のカメラで撮っている。とはいえ、助監督のサブカメラは、基本的にエキストラの表情だけを追いかけている。なので、同時多発的に起きるセックスは、僕のカメラ1台でカバーしないといけない。もちろん目でも確認しながら撮ってるのだが、耳って凄いなぁ……と今回まざまざと思い知らされた。

 そして片耳だと話し声も聞きづらい。あるシーンで大阪の女の子が言った言葉を、僕は「今なに言うたん?」と聞き直している。カメラの内蔵マイクはしっかり拾っていたものの、僕には聞こえなかったのだ。

 編集作業も左耳だけで進めた。どうしても聞き取れない箇所は、隣のデスクの助監督に「ちょっと悪い。これ、なんて言ってる?」と代わりに聞いてもらいながら。現場が手さぐり状態だったから、ちゃんと撮れてるか不安だったが、編集してみて、これなら大丈夫だなと思った。

 でも、右耳は聞こえないままだ。そのうち治るだろうと思いながら、1日、2日、3日……と過ぎてゆく。助監督から「ネットで調べたんですけど、原因として怖いケースもあるみたいだから、病院行ったほうがいいですよ!」と言われた。「じゃあ、行くわ」と、翌日の金曜、同じ町内にある耳鼻咽喉科の門をたたいた。聞こえなくなってから、ちょうど1週間が過ぎていた。

 聴力検査(ピーピーという音が聴こえたらボタンを押し、消えたらボタンを離す)を受けた。右耳は聞こえていない。突発性難聴と診断された。ただし、聴神経腫瘍の場合もあるので、一度MRIで調べたほうがいいと言う。むろん町内の耳鼻科にMRIはない。で、大きな病院への紹介状を書いてもらった。

 土日を挟んで翌週の月曜、総合病院の耳鼻咽喉科へ行く。そこでも同じ診断だった。突発性難聴だが、腫瘍の可能性もあると。僕はすぐに血液検査にまわされ、その結果が出る1時間後に耳鼻科に戻った。そこで担当医から言われたのは「一度帰宅されて、きょうの夕方までに入院手続きを取ってください。入院期間は1週間です」だった。

 「入院って、先生、手術するんですか? 耳が聞こえないくらいで?」。医者の説明によれば、突発性難聴の治療法としてステロイド投与があるが、胃の負担を避けるために錠剤等を飲むのではなく、点滴で血管に入れるか、鼓膜に穴をあけて注入するか、2つの方法がありますと。

 僕はずっと前からステロイドには抵抗がある。はっきり言って、やりたくない。でも、このままでは今後の仕事に支障が出るかもしれない。さて、どうしたものか……。僕は医者に訊いた。

 「入院してステロイド治療をやれば治るんですか?」。医者が僕の顔を見ながら言う。「治る確率は60%です」。僕は一瞬絶句した。「60%って言ったら、五分五分に毛が生えた程度じゃないですか……」。


(つづく)







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第262回 異次元への入口

 2年ほど前、脳を研究している著名な大学教授に手紙を出した。そのわけは“目に見えない世界”が脳の研究によってどこまで明らかになったのか教えてもらいたかったからである。

 セックスのチャネリングでは、たとえば一人がオーガズムを迎えると、同じ部屋にいる別の女の子が、誰も何もしていないにもかかわらず、一緒にイッてしまうことがたびたび起きた。二十数年前は、なぜそうなるのかわからない。「ヤラセだ」「オカルトだ」と叩かれもした。

 以前も書いたが、今ならこのチャネリングは「ミラーニューロン」である程度の説明がつく。セックスで感じている子の脳と同じところが、見ている子もミラーニューロンによって発火する。ただし、その場にいる全員がそうなってしまわないのは、触覚や痛覚のセンサー(受容体)が自分の体に起こったことではないと教えているからである。ところが、トランス状態にいる者にとっては、自他の境界がない。だからチャネリング(同調)してしまう。

 とはいえ、なかにはミラーニューロンで説明のつかないケースも発生した。チャネリングは同室に限らず、たとえばヒルトンホテルの端と端の部屋でも起きたからである。一室の音声がもう一室に聞こえることはないし、もちろん見えるはずもない。では、なぜミラーニューロンは反応したのか? もしミラーニューロンでないとしたら、いったい脳のどこが何を受け止めていたのだろう?

 僕が手紙を出した教授の大学には、そのメカニズムが解明できそうなMRIやその他の機器があると聞いた。現時点では解明されていなくても、それらの装置を使って厳密にチャネリング(同調)の実験をすれば、あるいはミラーニューロン以上の発見もあるのではないか……と僕は考えていた。結果は、残念ながら門前払いだったけれど。

 前段が長くなったが、ここで前回紹介したNHKスペシャルの「超常現象 科学者たちの挑戦」である。1つめはワシントン大学で行なわれた、fMRIに入ったAさんと、別室にて点滅画像を見ていたBさんの同調実験。もう一組の友人同士も加えて、4人の視覚野の活動を示すグラフからは、同期がはっきり見て取れた。だが、同期が認められても、なぜそうなるのかまでは言及されていない。

 つづけて、砂漠における乱数発生器を使った実験。7万人の人々が最高潮に盛り上がったとき、量子によってのみコントロールされるはずの乱数発生器に異常が起きる。人間の意識は人間のみならず、量子にも影響を与え得るという推論。量子同士が空間を超えて瞬間的に影響し合う「量子もつれ」も引き合いに出され、今後は量子論によって謎が解明されるのではないかというところで番組は終わっている。

 僕はヒルトンでのチャネリングにおいて、視覚でも聴覚でも感じ取れない何かが飛んできているはずだと思った。そして、それを脳のどこで受け取っているのか、ずっと知りたかった。もしも、ここが発火してるよというのがわかれば、病気の見方も人が幸せになる方法論も、また新たな視点が出てくるはずだと思ったのだ。

 人の目には見えない、音として聞こえない、雰囲気としてさえ感じないけれど、そういうものの影響を体が確実に受けているとなれば、代替医療(スピリチュアル・ヒーリングやサイキック・ヒーリングなど)は単なるオカルトではなくなり、医療体制が抜本的に変わってゆくはずだ。医療に限らず、日常生活における人と人とのつきあい方全般も変わってゆくだろう。

 それはそうと、2つの実験を見ていて疑問に思ったこともあった。たとえば最初の実験で、点滅画像を見ていないのに視覚野周辺が変化したAさんに、もし僕なら「どうだった?」「なにか見えたの?」「そのときはどんな感じ?」といろいろ訊いたに違いない。しかし、番組でインタビューシーンはない。これはもともとしなかったのか、あるいは、したけれど「見えなかった」とか「何も感じなかった」と視覚野の変化を裏づけるようなコメントが取れなかったから落としたのか……それはわからない。

 実験を始めるとき、研究者は「実験中はお互い相手のことを意識するように」と言っている。これは僕がチャネリングを撮る際にも、じつは重要なポイントである。相手を意識させるために、場合によっては撮影前夜、当事者の女の子2人にレズまでしてもらうくらいだ。互いを肯定的に意識することによって、人間同士でも「量子もつれ」が起きるのだと僕は思っている。

 不遜な言い方だが、研究者が互いに意識させることの重要性をわかっているのなら、どうしてAさんをトランスに入れて、もう一度同じ実験をしなかったのだろうと思う。覚醒しているとき、自分に起きた変化は表の意識に上がってこないことが多い。ところがトランスに入っていれば、変化を本人が意識できる。もっといえば、わが身に起きたこととして体感できるだろう。

 トランスとは、思考の縛りから解放されることである。催眠や呼吸法によってトランスへと誘導できる。だが、それこそ我を忘れて何かに没頭したり熱中したとき、人はトランスに入ることがある。2つ目の砂漠の実験で、7万もの群衆が巨人像炎上に熱狂したとき、多くの人々がトランス状態だったはずだと思う。

 目に見えない何かを人は発しているのか? 人の意識は空間を超えてつながるのか? それらを解くカギはトランスにある。科学が“異次元への入口”を解き明かしてくれれば、世の中は今よりずっと面白くなる。




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第261回 人の意識は空間を超えてつながるのか!?

 他者を同調させるばかりか、精密機械や電子機器にまで影響を与える、目に見えない何かを人は発している――というのが、前回の話である。それに関連すると僕は思うのだが、先月(3月22日)に放送されたNHKスペシャル「超常現象 科学者たちの挑戦」の中でこんな話があった。

 1つは、アメリカのワシントン大学での実験。脳の活動を精密にとらえる装置にfMRIというものがある。まずAさんがfMRIの中に入り、外部からの刺激がない状態に置かれる。そして友人のBさんには別室で5分間画面を見続けてもらう。その画面には激しく点滅する映像が不規則な間隔で映し出される。これは脳へ断続的に強い刺激を与える仕掛けだが、fMRIの中にいるAさんには当然ながらその様子はわからない。実験中は「お互い相手のことを意識するように」と言われている。

 Bさんが点滅画像を見始めると、Aさんの脳に変化が現われる。そしてBさんが点滅画像を見終わると、Aさんの脳活動も元に戻る。もう一度やっても同じ結果だった。Aさんの脳で変化が起こっていたのは、脳の後ろにある視覚野といわれるところだ。視覚野は目で見た刺激を処理する。fMRIの中にいたAさんは、目からの刺激がない状態にもかかわらず、視覚野の周辺で変化が起きていたのである。

 この同調というか同期は「たまたま」の可能性もあるということで、次にはAさんとBさんが入れ替わり、さらにはもう一組別の友人同士でも、同じ実験を行なった。結果、合計4人の視覚野の活動を示すグラフからは、同期がはっきり見て取れたというのだ。

 同番組では、別の研究者による次のような実験も紹介された。場所はアメリカのネバダ州。昨年夏、灼熱の砂漠で行なわれたバーニングマンというイベントには7万人もの人々が集まった。毎年このイベントのクライマックスでは、会場の中央に立つ巨人像が燃やされるという。そこで、7万の参加者が最高潮に盛り上がるその瞬間を利用して、人間の意識に未知のパワーがあるのか否かを探ろうという実験である。

 ここで使われる装置は乱数発生器といわれるもの。乱数発生器は数字の「0」と「1」をアトランダムに発生させる電子装置で、「0」と「1」が発生する確率がちょうど半々になるように設計されている。さらに電子回路は電磁波などを遮断するカバーで覆われているので、外部からの影響は受けないのだそうだ。

 ところが、それほどまでに精密な装置が人間の意識に呼応するかのような異常を示したことがある。それは9.11、アメリカ同時多発テロのときだった。世界に報じられた悲劇と同調するかのように、世界40カ所に設置されていた乱数発生器の「0」と「1」の現われ方が大きく偏ったというのである。

 だがこれは、テロが起こり、それが報道されることで、携帯電話やテレビがいっせいに使用されたことによる電波などのせいではないかという指摘もあった。そこで、今回は電波の通じない砂漠の真ん中で実験してみようというわけだ。巨人像を燃やす夜、果たして乱数発生器に異常は起きるのか?

 会場には6台の乱数発生器が設置された。いよいよ巨人像の腕が上がりはじめる。これが燃やす合図である。このときから「0」と「1」の現われ方が大きく偏るという異常が起きている。

 そもそもこの乱数発生器は量子の働きを利用している。量子とはあらゆる物質をとことん分解した末に辿り突く最も小さな粒子のこと。だから人間の体も、つきつめれば量子でできていることになる。乱数発生器に話を戻すと、その回路に量子の動きを遮る壁があり、量子はこの壁をあるときは通り抜け、あるときは跳ね返される。そこで壁を調節し、すり抜ける確率がちょうど2分の1になるように設定する。壁に跳ね返されたときが「0」、すり抜けたときが「1」である。外部からの影響を受けず、量子によってのみコントロールされるはずの乱数発生器。それが影響を受けたということは、つまり人間の意識が量子に作用したと考えられるのである。

 番組では続けて「量子もつれ」と呼ばれる現象を紹介する。2つの量子をぶつけると、つねにお互いに影響を及ぼし合う特別な状態になる。この状態で一方の量子に何らかの刺激を与えると、瞬時にもう一方の量子にもその影響が及ぶ。しかも、この関係は2つの量子がどんなに離れても変わらない。いわば量子同士が空間を超えて瞬間的に影響し合うのだ。そんな同期現象が、量子の世界ではすでに自明となっている。

 さて、このNHKスペシャルを見て、僕はどう思ったか。それを記すつもりだったが、ずいぶん長くなってしまったので(これでも番組の一部だけれど)、僕の感想は次回ということで。





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第260回 何かが出ている!?

 今から二十数年前、「チャネリングFUCK」シリーズを撮っていた頃、テレビのとある深夜番組が興味本位にこれを取り上げた。

 スタジオには雛壇が設けられ、そこには一般の人たちが20人くらい座っていた。視聴者参加番組の一種である。この人たちが見ている前で、チャネリングセックスを実演してみせるという企画なのだ。

 この雛壇の中へ、僕はチャネリングに反応できる女の子を1人潜り込ませていた。実演が始まって、その子がチャネリングするのは当たり前なんだけど、まわりの何人かも反応しはじめた。そればかりか、自宅で番組を見ていた人たちのなかにも反応する人が出てきたのがのちにわかる。

 翌日の新聞には「公共の電波を使って、あんなことをやって」という批判記事が載った。記事によれば、ある百貨店に勤めている人の2階でドーンと音がするので見に行ったら、娘さんの様子が変で、つけっぱなしのテレビにはこの番組が流れていたということらしい。

 放送したテレビ局と対抗している局系列の新聞社だったので、ちょっと作為を感じないでもない。でも、番組放送中から放送後まで、スタンバッていた電話オペレーターたちが受け切れないくらい電話がかかってきたのだから、似たようなことは確かにそこかしこで起きていたのかもしれない。

 それはともかく、番組の裏側では、これとは別のあることが起きていた。当時、ビデオ雑誌を中心にレギュラーを何本も持っていた編集者兼ライターの東ノボルが取材に来ていた。彼のスチールカメラが番組の途中で壊れたのである。機械に故障はつきものだ。だから、それ自体はべつに驚くようなことではない。だが、後日修理に出すと「電磁波の強いところに長時間置いてたんじゃないですか」と言われたそうである。

 似たようなことは他にもあった。「BOMB TRIP PARADISE」という催眠誘導の入ったCDをリリースしたときのこと。このCDは「トランスに入って音楽を楽しもうよ」というのが主旨なので、プロモーションとしては、マスコミ関係者を呼び、自ら体験してもらうのがいいだろうという話になった。ところが、プロモーション当日、会場の人たちがトランス状態になると、なぜかCDが止まった。何度やっても同じような状況のところでCDは止まってしまう。CDやデッキに問題がないのは事前に確認していたにもかかわらず。

 そして「チャネリング」シリーズの現場では、いろんなノイズがたびたび発生した。濡れ場を前に僕が本当に興奮してしまったときには、英語圏のラジオ放送を受信してしまうことさえあった。それまで集音域の狭い外部マイクを使っていたのだが、あるとき内蔵マイクだとそれが起きないとわかり、それ以降は外部マイクをいっさい使わなくなった。外部マイクは内蔵マイクと違って、接続部分が剥き出しになっている。そこが影響を受けるんだろうかと、スタッフたちと話したものである。

 ひとつだけなら「たまたま」で済むし、不思議ではないけれど、いくつも重なってくると、これらの状況に共通しているものを知りたくなる。

 テレビスタジオでのチャネリングの実演、「BOMB TRIP PARADISE」のプロモーション、「チャネリング」シリーズの撮影現場。これらに共通しているのはトランス状態だ。人がトランス状態になったとき、科学では説明できない現象が起きる。それが1人や2人なら大したことはないけれど、大人数になると、与える影響は人にとどまらず精密機械や電子機器にまで及ぶ。

 また代々木のスピリチュアルな話かと思う人もいるかもしれない。だが、先日見たNHKスペシャルで興味深い科学者たちのアプローチを紹介していた。詳しくは次回書こうと思う。






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第259回 散りぎわの美学

 都内の桜はこの土日がきっと最後の見頃だろう。花見のシーズンがやってくると、思い出す出来事がある。といっても、桜にまつわる話ではないのだが。

 まだ小学校の低学年のころだ。僕は父方の祖父母の家に預けられていた。祖父が大工の棟梁だったこともあり、いくつも部屋のある家だった。

 その人は3畳間に下宿していた。僕の父と同じくらいの年恰好だが、何の仕事をしていたのかは覚えていない。覚えているのは、彼が剣道の達人であり、隣町の道場まで教えに行っていたことと、僕が見かけるときは決まって庭先で素振りをしていたことだ。父は僕に厳しくあたったけれど、彼はいつもやさしく、僕にとってはある意味、父以上の存在だった。

 その彼がある日、「花火を見につれてってやる」と言う。家の近くを流れる紫川が海に流れ込むあたりまで2人して出かけていった。大輪の花火が夜空に打ち上げられるのを、僕は息を飲んで見上げていた。ふいに彼が言った。「どう?」。「きれい!」と幼い僕は答えた。「きれいなだけかい?」。結局、僕は答えが出てこなかった。

 答えられなかったという事実が、ずっと僕の中に残った。成人した十数年後、実際に花火を見ていたときか否かは定かでないものの、「ああ、きれいだけど、儚(はかな)いんだよなぁ……」と思った。

 ふだん花にはとりわけ関心がなくとも、桜だけは別という人は多いはずだ。代表格であるソメイヨシノは種子では増えず、増やそうとすれば接ぎ木しかないと言われている。つまり、今あるソメイヨシノに親・子・孫はなく、そのほとんどがクローンだと言うのである。だから、同じ場所の木々は一斉に咲きはじめ、一斉に散りはじめる。

 満開からたった1週間で花吹雪。多くの人々に愛(め)でられ、惜しまれながら、白とピンクのあいだの淡い色が風に舞う。

 もうちょっと見ていられたらと、つい考えてしまうのは人間の悪いクセで、何かに執着している限り、次はやってこない。桜は人間のそんな思いをよそに、散ったあと、あっと言う間に新緑を纏(まと)い、日を追うごとに大きく深い緑色へと成長してゆく。夏はもうすぐそこまで来ているよと言わんばかりに。




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第258回 『つながる』がつながって

 拙著『つながる』(祥伝社)を出させてもらったのは2012年3月。ちょうど2年になる。『つながる』が自分のこれまでの本と違うのは、女性読者を強く意識したことだ。

 この本を読んだ女優の中原翔子が、自らプロデューサーとして映画化を企画してくれた。3作品のオムニバス形式で、3人の監督(渡辺あい、深井朝子、安川有果)は全員20代の女性。その話を聞いたとき、僕は女性につながることができたというか、本に返りがあったと実感した。

 なぜ伝わったのか……。おそらくそれは、あの本が頭の中だけで作り出したものじゃないからだろう。読んでくれた方ならおわかりだと思うが、撮影の舞台裏も含めて現場のエピソードをふんだんに入れた。いや、正直に言えば、僕にはその体験くらいしかない。現実に起こった出来事をもとに、なぜそうなるのか、どうすればいいのかを本にした。

 『つながる』映画化の制作陣には、ロフトのイベントにも登壇してもらった。とりわけ中原プロデューサーと深井監督は当日朝にクランクアップし、36時間寝てない状態のまま駆けつけてくれた。

 3作品中もっとも先行している渡辺監督が本の中でインスパイアされたのは、「ザ・面接 お嬢さん、犯ったろか!!」に出演したさゆりというお嬢様のエピソードだと言う。19年前に撮ったものだが、僕もさゆりのことはよく覚えている。

 大学生でありながら、門限9時半をずっと守っているお嬢様。彼女はビデオの中でこう語る。「自由になりたかった、すべてのことから。子どものころからいつも親の監視に苦しめられてきたんです。外をひとりで出歩いていても、誰かにつけられてるような感じがして、行動が抑圧されてるから、精神的にも抑圧されて、つねに追いつめられている。でも、ここまで来たら親も目が届かないだろうって……」。親の過干渉から逃れるためにアダルトビデオに出たさゆりは、そのあと自殺まで考えていた。

 渡辺監督は、さゆりの話を自分の話であり、自分の家族や友人、そして自分の知らない多くの女性たちの話であると感じたと言う。「感電(仮題)」という作品で、若き女性監督がどんな物語を紡ぎ出すのか、今から楽しみである。

 一方、「本の中にあった、本当の大人になるとは『本能が成熟することだ』という言葉に驚き、創作意欲を刺激された」と言うのは安川監督。「本能の成熟」について、僕はこれまで友人たちにも幾度となく話しているが、男の場合は「ああ、そう」とスルーされることが多い。

 「本能」も「成熟」もみんな知っている言葉であり概念ではあるものの、「本能の成熟」と言われると、わかったようでわからないというのもあるのだろう。本能は生まれ持ったものだし、果たしてそれが成熟するのかと。それに大人になる過程で成熟するのは、むしろ理性のほうであり、本能じゃないんじゃないかと。

 ところが、女性のなかにはビビッと来る人もいる。まるで今まで見つからなかったものが見つかったみたいに……。安川監督もそのひとりだろう。ロフトのイベントで彼女とその話をしていると、面接軍団の森林原人が「本能の成熟って、どういうことですか?」と訊いてきた。

 これまでも撮影の日の雑談等で面接軍団には同様の話をしてきたから、今さら何を……という思いもないわけではないが、それにも増して、この場であえてここを訊いてくるとはさすが森林だなと思った。僕は壇上で「本能の成熟」について簡単に説明した。でも、森林は腑に落ちなかったようだ。イベントの合間の休憩時間、楽屋で「もう少し詳しく聞きたいんですが」と言ってきた。

 「本能」というのは快を求める。もともとそこに善悪や正邪などはない。ときには手段さえ選ばないのだから。でもそれじゃあ世の中は成り立たないから、「思考」の中にある社会性が「本能」を抑え込んでいる。それを霊長類の長たる人間の証だと言う人もいるが、事はそう簡単ではない。「思考」で抑え込まれた「本能」は、いつまで経っても成熟しない。そればかりか、求めても得られずに鬱積した不快が、場合によっては狂気の行動を誘発したりする。

 「北風と太陽」の寓話ではないが、一筋縄ではいかない「本能」を力ずくで抑え込むのではなく、育てたほうがいいと僕は思っている。本来ならば赤ん坊のころ、お腹が空いたり、オムツが濡れたりと不快になれば泣き、それをお母さんがおっぱいをくれたり、オムツを取り替えてくれることで、不快は快へと変わる。この充足のくり返しこそが、「本能」を育ててゆく。

 「自分は必要とされている人間なんだ」という自己肯定感を大きくするし、さらに成熟すれば、わが身のことだけでなく、おのずと他者を思いやったり、慈しんだりできるようになる。僕はそれを「対人的感性」と呼んでいるが、「対人的感性」が機能すれば、人の痛み、苦しみ、そして歓びを共有できるようになるのだ。

 そして、求めることを相手にしてあげてこそ、じつは自分が得られるという事実に人は気づいてゆく。人間のいちばん大切な部分が忘れられて久しいけれど、口には出さずとも、みんなどこかでそういうものに飢えているんだなぁと思う。

 女性たちが奮闘のすえに作り上げた映画をきっかけにして、人と人とのつながりが広がってゆくことを祈っている。




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第257回 トマトは野菜ですね

 運転免許の更新において、70歳からは「高齢者講習」が始まるんだけど、75歳になると、さらにその前に「講習予備検査」というのを受けなければならない。早い話が年を取ると、やらなきゃいけない検査や講習が多くなるということなのだ。

 で、先日「講習予備検査」を初めて体験した。これは別名「認知機能検査」とも呼ばれる。まず教習所内の一室に受検者が集められる。この日、集まったのは、僕を含めて男性5名、女性1名の計6名。教官は30代とおぼしき青年。その青年教官が「腕時計をしている人はポケットかバッグにしまってください」と言う。

 何が始まるのだろうと思っていると、おもむろにイラストを見せられる。戦車や太鼓や人間の目やトマトなどなど、最終的には16枚の絵を見せられることになるのだが……。たとえば戦車の絵を見せながら、「これは戦争のときに使われますね」と幼い子どもに諭すように青年教官が言う。「太鼓は何ですか?(ちょっと間があって)はい、楽器ですね」といった調子で。

 「幼稚園児じゃねえんだからよ!」と内心思う。近くの席の男性も、不快を顔に出している。そりゃそうだ。ところが、である。人間の目のイラストをさして「これは何ですか?」と青年教官が訊いたとき、いちばん前の席にすわっていた紅一点の女性が「目!」と答えたのだ。ええーっ!? 「トマトは?」「野菜!」「はい、そうですね、果物じゃないですね、野菜ですね!」。

 切り替え、早いなぁと思う。それにひきかえ、僕は素直になれない部分があって、適当に聞き流していた。16枚全部の説明が終わると、教官はイラストをそそくさと棚に仕舞う。そして「お渡しした冊子の1ページ目を開いてください」と言う。

 そこには「今は何年ですか?」「今は何月ですか?」「今日は何日ですか?」と、バカでかい字(しかも総ルビ)で印刷されている。「いや、それはねえだろうよ」と内心毒づく。教官は「絶対に言葉を発しないでください。ヒントになりますから」。黙って僕も答えを書く。

 「次のページをめくってください」。指示どおりめくると、何も書かれていない。「そこへ時計の文字盤を描いてください。なるべく大きく描いてください」。大きな○を描いて、12、6、3、9と四方に数字を入れ、1、2、4、5……と間を埋めてゆく。「はい、それが終わりましたら、1時45分のところに針を描いてください」。仕方がないから真面目に描いた。免許を更新したいからね。

 「はい、次のページをめくってください」。マス目があって、1から16まで番号が打ってある。「先ほど見た絵を思い出して、それをひらがなでもカタカナでも漢字でも、何でもいいですから、覚えてるだけ書き込んでください」。まいったなぁ、そういうことか……。書けたのは11個だけで、残りの5個はどうしても思い出せなかった。

 ただし、次のページでは「楽器」「野菜」「昆虫」というようにヒントが示されている。ここでは16個全部を思い出して書けた。

 「認知機能検査」の結果が出た。100点満点中86点。76点以上は「記憶力・判断力に心配はありません」とある。日ごろから“物忘れ”には自信があるが、まだ認知症にはなっちゃいないということである。ちょっとうれしい。

 こうしてやっと「高齢者講習」にたどり着く。ここでは、目の検査。といっても若者は視力検査だけだが、僕らは「動体視力」「夜間視力」「視野」を検査測定する。そして、運転シミュレーター。どういうものかというと、モニターの中の直線を走っていて、赤・青・黄がアトランダムに出てくる。青はアクセルを踏みつづけ、黄はアクセルからいったん足を離して、また踏む。赤は即座に離してブレーキを踏む。次にはモニターの中のカーブを運転する。的確にハンドルを切れるかどうか。ただし、先ほどの赤・青・黄がまた予告なしに出てくる。同時に異なる2つの課題が正確にこなせるかどうかが試されるわけだ。

 それが終わると実際コースに出て、実車を運転する。S字や車庫入れなども課せられ、1人3~4周まわる。園児扱いされて不快を顔に出していた男性と「目!」「野菜!」と柔軟に対応していた女性、そして僕がたまたま同じクルマに乗った。

 2人は縁石に乗り上げるし、S字は脱輪するし、車庫入れでは下がっているポールにカキンカキン当てていた。もっとも、これは試験ではなく講習の一環なので、落ちることはない。この人たち、大丈夫かなぁ……。認知症チェックも重要だが、それ以前に技能面のほうがむしろ怖い気もする。

 すべての講習が終わると、先ほどの運転シミュレーターの結果が出た。「反応の速さとむら」「操作の選択と速さ」「正確なハンドル操作」「複数の課題への注意の配分」という4つの項目に対しておのおの5段階で評価される。

 総合評価だけ書くと、僕は「4」だった。「操作が組み合わさった時も、ハンドル操作は適切でした」と書いてある。「当ったり前じゃないの。何十年もの間、ほとんど毎日乗ってるんだから!」とドヤ顔したいところだが、「4」は同年代の中での評価。つまり高齢者の中で見たら……という数値だ。老若男女、すべての免許取得者の中で見ると、僕は「2」だった。

 講習を通して、僕は自分の立ち位置を認識した。「それも寂しいなぁ」という思いもあるにはあるけれど、「知れてよかった」という気持ちもある。「まぁ、受け入れていくべきだな」と僕は心の中でつぶやいた。





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第256回 大雪の降った日に〈後編〉

 僕のクルマが発進できないばかりに、五叉路の交通がすべて止まっている。雪はいっそう激しさを増す。とにかく一刻も早くクルマを動かさなければ。

 左折できなくなった大型トラックは、クラクションも鳴らさないし、パッシングひとつしてこない。いや、トラックばかりでなく、この状況に巻き込まれたクルマのドライバーが1人としてクレームを表わすことなく、無言で僕に注目している感じなのだ。

 ふと、4年前の冬、女房の父の葬儀で行った北海道の風景が脳裏に浮かぶ。なんでこんな切羽詰まったときに……。同じ雪景色だからだろうか。つづけて、そのとき乗ったタクシーの会話がよみがえる。たしか運転手は「北海道のタクシーはマニュアル車だ」と言っていたのではなかったか……。頭の中で何かがつながる。あ、オレのクルマ、マニュアルに切り替えられる!

 僕のはオートマ車だが、ハンドルの左裏側にあるボタンを押すとマニュアルに変わり、同じボタンでシフトダウン、反対側の右ボタンでシフトアップが手動でできるようになる。止まっている今、ギアはローだ。それを右ボタンでセカンドに入れて、アクセルをそっと踏んだ。ローよりトルクが小さいぶん、空転しにくくなるはずだ。

 ピッ、ピッと小さくスリップしながらも、タイヤは雪道をつかんでくれた。やっとのことで動きはじめる。そのときのうれしさと言ったらない。冷静になってふり返れば、信号数回分のことなので時間にして5分か6分くらいだと思うが、僕はゆうに1時間くらいに感じた。

 家の前まで来ると、下の娘夫婦が雪かきをしている。事務所から電話を入れたとき、クルマで帰るのを女房は猛反対した。だが「置いて帰る」とは最後まで言わなかったものだから、「あの人は一度言い出したら聞かない」と思ったのだろう。女房は近くに住む下の娘に電話していた。娘は、連勤明けで家にいたダンナと一緒にやってきて、クルマが入れるよう2人で雪かきしてくれていたのだ。

 2人に礼を言ってクルマを入れ、僕は風呂に入った。ずっとクルマの中にいたから、体が冷えていたわけではない。こたえたのだ。大雪といっても、雪国の人たちにしてみればこの程度は序の口に違いない。にもかかわらず、自分は手も足も出なかったではないか。ふだんなら事故回避に役立つスリップ防止というメカニズムが、逆に雪道を抜け出せない要因になっていたのも、僕にとっては象徴的だった。

 湯船の中で体を伸ばし、ほっと一息ついたとき、思わず「もったいないなぁ」と声に出してつぶやいていた。昔、おばあちゃんたちがよく口にした「もったいない、もったいない」というあれである。

 おばあちゃんの「もったいない」をよく耳にした子ども時代は、もう半世紀以上も昔である。日本もわが家も貧しかった。冬の暖房ひとつをとってみても、エアコンや床暖房などはなかった。水道さえ来ていなかった。こうして浸かっている風呂も、蛇口すらひねることなくボタンひとつでお湯が浴槽を満たす。しかも、全部飲める水なのだ。

 そんなことがいつの間にか当たり前になってしまって、なにも感じないまま過ごしている自分がいた。それが自然の猛威のほんの一部を見せつけられ、気づかされたような思いだったのである。




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第255回 大雪の降った日に〈前編〉

 東京に大雪の降った金曜日、電車にしようかとも思ったのだが、結局クルマで事務所に向かった。クルマ通勤に慣れてしまうと、満員電車に乗るのが億劫になる。天気予報は雪の可能性を告げている。ただし、降り出すのは夕方からで、降雪量も1週間前に比べたら少なそうだ。

 ところが、さにあらずだったのは、あの日都内にいた人なら身をもって体験されたはずである。昼すぎから雪が舞いはじめた。夕方からじゃなかったのか……。しかもどんどん激しさを増してゆく。こりゃ、1週間前より積もりそうじゃないか。帰るんだったら今だなぁ……と8階にある事務所の窓から雪に覆われてゆく街を見て思った。

 翌々日の日曜にクルマを使う用事が入っている。それを考えると、やはり乗って帰りたい。家に電話した。「そっちの様子はどう?」「もうダメよ、こっちは。都心とぜんぜん違うから!」と女房がまくしたてる。「そう。これから帰る」と言って電話を切った。

 電話を切って、時計を見ると午後4時半。すぐに事務所を出た。ノーマルタイヤだが、首都高さえ通れれば世田谷の自宅まではなんとか辿り着けるだろう。首都高の乗り口がすでに閉鎖されていたら、そのときは事務所に戻って、編集の続きをしよう。

 幸い首都高はまだ閉鎖されていなかった。慎重に走って、用賀で降りる。ところが、そのころにはいよいよ雪がヤバいなぁという感じになってきた。とっさにここから自宅に着くまでコインパーキングがどこにあったかを思い浮かべる。行けるところまで行って、最悪の場合はパーキングに入れよう。

 首都高もそうだったが、一般道でもみんな最徐行だ。そのうえ車間距離はいつもの3~4倍もあけている。ふだんなら我先にというドライバーが多いのに、長い車間距離をつめようとするクルマは、ここまで走ってきて1台もいない。僕はハンドルを握りながら妙な連帯感のようなものを感じていた。外圧が生じると内部の結束は固くなるというけれど、これもそうだろうか。

 世田谷通りから成城通りに入る交差点に差しかかる。ここは五叉路で、僕は世田谷通りから右折する。わずかな勾配ではあるものの上り坂。正面の信号は青だ。「なんとか青のまま行ってくれー!」と心の中で念じる。いま上り坂の途中で止まりたくはない。

 ところが、みんなゆっくり走っているので1台前で黄色に変わり、僕のところでは完全に赤になった。停止線で止まるつもりが雪で見えず、結果的には2メートルもオーバーしてしまう。信号待ちの列の先頭である。雪はすでに何センチか積もっている。上りの雪道でも、走っていれば慣性も手伝って進んでいくけれど、いったん止まって、果たして動き出せるだろうか?

 五叉路の信号が複雑に切り替わり、目の前の信号がふたたび青に変わる。頼むぞ! アクセルペダルに置いた足にそっと力を込める。後輪が雪に空転する。クルマは動かない。もう一度踏み込む――空転。何回やっても、空転した時点でエンジンはそれ以上吹けなくなる。スリップ防止機能が働いているのだ。

 そこへ成城通りから大型のトラックがやってきた。めったに大型車は通らない道なのに……。トラックは左折して、僕の右側を抜けようとする。けれども、停止線を大きくオーバーしている僕が邪魔になって曲がれない。トラックの後ろには後続車が列を成し、トラックは後退もできず、交差点内で立ち往生する。信号は順に変わっていくけれど、トラックがいるために他のクルマも通れない。

 原因となった僕は、一刻も早く道を譲りたいところだが、いっこうにクルマは動かない。そればかりか、アクセルを踏むたびに小さなスリップをくり返していたので、クルマが少しずつ横を向きはじめ、尻が左側の車線にはみ出し、今や直進するクルマまでも止めてしまっている。

 間違ったぁ。ひとつ手前のコインパーキングに入れときゃよかった。だが、あとの祭りである。申し訳ないやら、恥ずかしいやら。自業自得とはいえ、のっぴきならない状況に追い込まれる。どうしよう……。

(つづく)



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