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第254回 イベントを前に

 ロフトのイベントは今年で4回目になる。映画「YOYOCHU」の前夜祭的イベントの際、ロフトの担当者から「次は代々木さん主催で」と声をかけてもらった。

 だが、僕は人前で話すのが苦手である。質問を受ければ、それに対して自分の考えは言えるけれど、もともと受動的な生き方だし、率先して自分から何かを言うのは、押しつけてるようで気が引ける。

 若い頃、「やるならやれ。やらないんなら能書き言うんじゃない」を是としてきたが、それはいまだに染みついている。このブログも5年やってきたものの、要らぬお世話だよなぁ……と心のどこかではずっと思っているのだ。

 なので、ロフトのイベントでは僕の話をするのではなく、面接軍団を前面に出そうと思った。ところが、イベントの1カ月前に東日本大震災が起きる。直後、世の中のイベントが軒並み自粛していった。ましてやこちらはAVのイベントである。むろん、なにがなんでも決行したいと思っていたわけではない。

 しかし、こういう時期だからこそ、チャリティーという形でわずかばかりでも被災地を応援したかったし、被災された人のみならず日本中が意気消沈するなか、来場された人たちが笑顔を取り戻し、ひとりひとりが元気を発信してもらえたら……と心から思ったのだ。

 とはいえ、毎年こうしてイベントが続くとは考えもしなかった。ここまで続けてこられたのは、当然ながら会場に足を運んでくれる人たちがいたからだ。ふつうAVのイベントといえば女優がメインで、来場者は男というのが相場だが、うちは男優たちがメインで、来場者も7割近くが女性である(ちなみに、みんな美人で元気がいい)。

 3年たった現在、東日本大震災を忘れた日本人はひとりもいないはずだが、日々の生活に追われていたり、大きな災害が発生すると、人々の記憶はいっそう過去へと遠のいてしまう。放射能の半減期は長いが、人間の記憶の半減期はかくも短い。1年に1回の小さなイベントではあるけれど、イベントごとに大震災の記憶を新たにしたいと思う。

 3月12日(水)午後7時、ロフトプラスワンにて、面接軍団とともに、みなさんのご来場をお待ちしております。




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第253回 思考→感情→本能

 「よいことなのか、悪いことなのか」、「法律にふれるか、ふれないか」、「自分にとって損か、得か」、「あとで揉めるか、揉めないか」などなど、判断のモノサシは数え上げたら切りがない。

 交差点に差しかかったクルマが右折か左折か直進するように、人はつねに自分のモノサシで取るべき行動を選びながら日々を生きている。

 もっとも、冒頭にあげた4つの例は、いずれも社会性に根ざした尺度だと、僕は思う。なぜならば、善悪や合法違法や損得計算やリスク回避は、思考が判断の主導権を握っているからである。

 ちなみに「自分の立場を有利にしたいから○○する」と「だれそれに迷惑をかけたくないから○○しない」は一見、逆方向のベクトルのようだが、これらもともに社会性の思考であることに変わりはない。

 もちろん「社会性の思考がいかん」と言っているんじゃなくて、それが必要なときは必ずあるんだけど、必要じゃないときまで、ずっと思考のモノサシのままという人が少なくないようにも思える。

 では、思考が介在しないモノサシとは何か? たとえば「心地いいのか、悪いのか」、「好きか、嫌いか」、「安心なのか、不安なのか」。思考のモノサシは客観性が色濃いのに対して、これら感情のモノサシはどこまでも主観的である。

 だが、主観とはもともと自分自身のことであるはず。その自分にずっと我慢を強いると、遅かれ早かれ限界が来る。うつになったり、人によっては鬱屈したエネルギーが倒錯した形で噴き出すこともあるだろう。狂気の沙汰と言われる事件の多くは、いっときの激情にかられてというより、溜まりに溜まったものが引き起こしているようにも見える。

 とはいえ、感情のおもむくままに行動していれば、当然ながらまわりとの衝突も増える。だって、善悪も正邪も損得もリスクも、いったん横に置いておいたのだから。思考が登場するのは、この段階でいい。なにか事が起きたり、行き詰まったりしたとき、思考に戻って客観的に見つめてみる。

 で、僕の経験から言うと、思考に戻って解決するものもあれば、解決しないものもある。当たり前だけど。たとえば誰かと激しく揉めた際、間に人が入ってくれて「まぁまぁ」とか、仲裁者がいなくても自分が「ちょっとここじゃ……」と、その場では怒りを飲み込んだとする。しかし家に帰ってからも「やっぱりスジから言っても許せねえ!」となったりする。

 この場合、カッとなったのは最初だけで、仲裁が入ったり、自分で飲み込んだ時点で、激情はある程度おさまっている。家に帰って、いろいろ思い出したり、目にもの見せてやると計画を練ったりするのは思考なのだ。そこには冷静さすらあり、淡々と事を進めたりする。だから、よけいに厄介だ。

 ちょっと整理をすると、思考ベースから感情ベースに移り、そこで問題が勃発。思考ベースに戻ったものの、いまだ解決せず……あるいは、さらに悪化というのが今の状況。さて、どうしたものか?

 こういうときには、思考からも感情からも一回離れて、本能に戻るのがいい。本能に快を与えてあげるのである。うまいものを食べたり、爆睡したりもいいけれど、山登りやサーフィンやスイミングなどなど、ともかく体を動かして汗をかくのがいい。もちろんセックスも。

 本能が快で満たされると、問題に対する自分のとらえ方が変わっている。つまり問題自体はそのままでも、自分のほうが変化しているのだ。思考に比べて本能は、ともすれば下に見られがちだけれど、思考じゃ真似できないドンデン返しの大ワザを打ったりもできるのである。




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第252回 面接で落とした高校教師

 現役の高校教師を監督面接した。現在20代半ばで、体験人数は約50人。そのうちつきあったのは2、3人。会話の中で「味見」という言葉を、彼女は頻繁に口にした。たとえば「男を味見して、よければ次もありだし、つまんなければ終わり」といった具合に。彼女にとってセックスは、デパ地下の試食みたいなものなのか……。

 実際、セックスをしていて「さわり方が雑だなぁ」とか「ツボに来ないなぁ」とか「あっ、このパターンか」などと思うそうだ。話を聞きながら、「そうすると恋人ができないよねぇ」と思わず僕はつぶやいた。彼女も「好きになる人がいないんです」と言う。セックスの真の歓びも知らないに違いない。

 「セックスってのは、心を開ければ、抱き合うだけでも幸せを感じるものだし、言葉だけでもイケるんだよね」と言ったら、「えええっ!!」というリアクション。ひと言でいうと軽い。そして、こちらの話をまったく信じていない。

 催淫CDは言葉だけでイクところまで誘導するものだが、過去の作品のそのシーンを見せることにした。百聞は一見にしかずだ。見終わって感想を求めると「あんな大きな声出して、なんかねぇ……本気なの?」と言う。「演技に見える?」と訊いたら「演技といえば演技でもできちゃうし……」。

 彼女がこれまで肌を合わせた50人のなかには、本来恋人になる人間が何人もいたかもしれない。だが、彼らを「味見」していたら、彼女はそれに気づくことなく「はい、次!」と取り逃がしていたのではないか。このままでは、恋人に出会うことは生涯ないかもしれない。

 「もう結婚なんて考えてないし、私の友達でも離婚して、子ども2人を自分で育ててる。結婚は墓場です」と言う。彼女はもう誰にも期待してないのだろうか。自分で「これはこう」と決めた基準だけを信じて……。この人が本当に人を教えているのか。あるいは教壇に立てば、今とはまったく別人と化すのだろうか。

 自分と向き合うのが怖いのかなと僕は思って、そのへんのことも訊いてみたのだが、「私はこういう人間だし、それがきのうきょうじゃなくて、もう10年以上こうだから、それを変えろったって無理ですよ」と言う。

 そこで、自分の奥にしまい込んだ感情が出てくる呼吸法を彼女に試みた。ところが、ハッ、ハッ、ハッという速い呼吸を2、3回やると咳き込む。「咳は出るんだったら、しっかり出して!」と言うが、また2、3回で咳き込むから呼吸法はそこで止まってしまう。そのくり返しだった。

 「僕はこれまで多くの人を見てきたけど、たったこれだけの呼吸で咳き込むというのは、あなた、やりたくないんだよね」。やりたくないという思いが咳になって現われる。彼女の咳は拒絶なのだ。「いや、この前まで風邪引いてたから」と彼女は認めなかったけれど。

 きっと彼女にしてみれば、たかがAVの事前面接でなんで根掘り葉掘り訊かれ、こんなことまでしなくちゃいけないのかと思っているだろう。撮影現場の話になったとき、彼女は「監督が言ってくれれば、そのとおりにしますから」と何度も言った。「いや、そうじゃなくて、あなたが自発的にいろんな行動を起こしてくれるというか、セックスのときにね、そこを撮りたいんで、その自発の根っこになるものがないから、今こうして話してるわけで……」。

 彼女は(そんな七面倒臭いことはいいから、言われたとおりにするんで、何すればいいのか言ってください)というノリなのだ。「監督に言われたとおりにやっても、心が入ってなければ撮ってもしょうがないんで」と言う僕に、彼女はこう言った。「でもAVって、そんなもんじゃないですか」。

 「悪いけど、僕は撮れない」と言って帰すしかなかった。面接を終えて、終始、彼女が片足しか突っ込んでいないというか、半身しか向き合ってこないような印象だけが残った。参加しているようで、じつは常に客観的に引いて見ている。だからセックスが味見になる。

 仮にビデオに出ても「監督が指示してくれれば、そのとおりに動きますよ」というのでは、最後まで本当の自分は出てこないだろう。もしそれで上手くいかなかったら「だって、あれは監督に言われたんだもん」という逃げ道も用意されていると言ったら、ちょっと意地悪だろうか。

 しかし、人は自分が与えたものしか与えられないのだ。甘えたり、思いを伝えたり……それが自分に返ってくる。生身の心は傷を負うこともあるけれど、それでしかつかめない、だからこそ尊い歓びがある。そこに逃げ道はない。




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第251回 きょうも川にいます

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