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第304回 生後2カ月の笑顔


 ちょうど1年前、上の娘とその息子2人(僕にとっては孫だが)が東京に帰ってきた。2年半の間、夫の転勤にともない北海道に行っていたのだ。夫はまだしばらく北海道だが、上の子が小学校入学、下のが幼稚園入園というタイミングに合わせて一足早く戻ったのである。

 それまでも夏休み、正月、春休みには帰ってきていたし、東京のマンションは友人に貸していたから、わが家に寝泊まりした。上の孫は僕に懐(なつ)いていて、よく祖師谷公園に2人で出かけたものである。北海道に帰るとき羽田空港まで送っていくと、見えなくなるまで何度もふり返って手を振る姿が目に浮かぶ。

 こちらに戻ってくるとなれば、元いたマンションに暮らすことになるが、わが家からはスープが冷えてもまぁ飲める程度には近い。そうなれば、今まで以上に孫と遊ぶ時間も増えるだろう、と僕は思っていた。ところがである。小学校に上がった孫には仲のいい友達ができ、水泳教室など習い事も始めたものだから、ほとんどわが家には来なくなった。

 あてが外れた僕は寂しいなぁと内心思っていたのだが、一昨年から同居を始めた下の娘がこの1月に男の子を出産した。初めての孫ではないし、これまで娘2人を育ててはきたものの、これがまったく違うのである。

 どう違うのかといえば、上の娘の孫は、近くとはいえ一緒に暮らしてはいなかった。だから、日々の成長を目の当たりにしてはいないのだ。娘の場合は目の当たりにしてきたわけだが、向き合い方が違う。

 女房が言った。「夢中だったから、こんなふうに見られなかったわよね」。若いときは、きっと今みたいに余裕がなかったのだろう。たとえば、ちょっと顔色が悪かったりしたら、病院に行ったほうがいいかなぁと考える。最初の子を4日で亡くした新米の親だから、過剰に反応していたところもあったかもしれない。それが、2人の子を育て上げたという経験も手伝ってか、今は余裕をもって見られるのである。

 同じ屋根の下に暮らしているから、娘夫婦とは日々言葉を交わしてきたけれど、孫が生まれるとその会話量が比較にならないほど増えた。話題はむろん孫についてである。「きょうはどうしてた?」とか、「今の子は成長が早いなぁ」とか。「お父さんにお馬さん(ごっこ)してもらったよね」と幼い頃の記憶もよみがえる。

 外孫は、自分の娘が産んだ子なので気兼ねがないとよくいわれる。内孫だと、自分の息子の子ではあるが、お嫁さんに遠慮があるという意味である。たしかに母と子の結びつきのほうが父と子よりも強い。とりわけ赤ん坊の場合は。ただし、外孫にはそうそう会えないという一面もある。

 ところが、今回は気兼ねがないうえに毎日会えるのだ。僕ら夫婦にとってはこのうえなくラッキーな状況である。「通い婚」の話で書いたが、産んだ娘にとっても自分の実家だから同様に気兼ねはないだろう。それに困ったり迷ったりしたときには、母親という子育ての先輩が24時間ついている。

 僕が帰宅するのはだいたい9時すぎである。そのとき孫が起きていれば娘が2階から抱いて降りてきてくれる。顔を見て語りかけると、孫が笑う。生後2カ月のなんの屈託もない笑顔。一日の疲れやストレスが、その笑顔だけでスーッと溶けていくのを感じる。

 「マンションの頭金が貯まるまで」と言って住みはじめた娘夫婦。だから、初めから期限つきの同居なのだが、孫の笑顔を見ていると、このまま住みつづけてくれたらなぁ……とついつい思ってしまう自分がいる。










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3月26日(木)、全52タイトルに増えました!


第303回 フクロウ


 世の中には収集家とかコレクターと呼ばれる人たちがいる。僕は自分でもそういうタイプじゃないと思うのだが、ただ、フクロウだけは別である。ちなみに、フクロウとミミズクは羽角(うかく)と呼ばれる耳のような羽毛があるか(ミミズク)ないか(フクロウ)で分けられているが、ここではまとめてフクロウと記すことにする。

 フクロウを収集してるといっても、生きているフクロウを何十羽も飼っているわけではない。フクロウの置物である。数からすれば、ゆうに100は超える。正確には「集めていた」だが、これはあとで書こう。

 フクロウを集めていると言うと少なからず意外な顔をされるし、「なんでフクロウなの?」と訊かれる。訊かれても……魅かれるとしか言いようがない。でも今回ブログに書くにあたって、なぜ魅かれるのかについても自分なりに考えてみた。

 女房と同棲を始めた頃から、僕はずいぶん鳥を飼ってきた。オウム、九官鳥、インコ、文鳥……あるときはマンションのベランダでアヒルを5羽飼っていたこともある。これまで犬も猫も飼ったけれど、ふり返れば鳥がいちばん多い。

 どうして鳥が好きなのだろう。1年近く前「散りぎわの美学」という話に剣道の達人のことを書いた。祖父母の家に預けられていた僕にとって、彼は実父以上に父のような存在だった。彼はメジロをよく捕りに行っていたし、育ててもいた。小学校から中学に上がっても、僕はメジロ捕りに連れていってもらった。

 戦後の殺伐とした時代、僕自身も荒(すさ)んでいた。ケンカ三昧の毎日である。そんな札つきの不良少年とメジロは一見つながらない。だが、野生のメジロでも、大事に育てれば懐(なつ)くのを僕はずっと見てきた。与えた分だけ返ってくる。そこには裏切りも嘘もなかった。メジロと向き合っているとき、僕はそのままの自分でいられたような気がする。

 それが原風景としてあるからか、鳥を見ていると僕は今でも癒される。家の近くの仙川に行くことはこれまでも書いてきたけれど(「きょうも川にいます」「いのちの清流」)、そこで見ているのはやはりいろいろな鳥たちだ。

 鳥のなかでもフクロウはじつに神秘的である。頭もよさそうだし、じっとこちらを見ていても何を考えているのか読めそうにない。多くの鳥はうるさいが、フクロウはハトに似た鳴き声で物静かだ。かと思えば首が180度回って真後ろを見ることもできる。

 かつて千葉の金束(こづか)で農家を借りていたとき、近くの大きなケヤキの古木にあいた穴にフクロウが棲んでいた。あるとき、すごい速さで一直線に地面まで降りてきて、地面すれすれで初めて羽ばたき、一瞬でスピードを殺すと、また違う方向へと飛んでいくのを目の当たりにした。その間、羽音はまったく聞こえない。見ていなければ降りてきたのにも気づかなかったことだろう。

 僕が持っているのは置物だが、なかには目にガラス玉を入れて、けっこうリアルなものもある。フクロウは独特の目をしている。そのせいか同じ置物でも、日によってその目がうれしそうに見えたり、寂しそうに見えたりする。自分の心のありようで、表情が違って見えるのだ。

 かつて鳥を飼っていた頃、フクロウを飼いたいと思ったことはあった。しかし当時、僕が行っていたペットショップにフクロウはいなかったし、そもそも自分で飼える気がしなかった。そんなとき、女房とドライブに出かけた先で、フクロウの置物を見つけた。胴体の部分が透かし彫りになっていて中が見える。その中にも小さなフクロウが彫られていた。後から入れたような跡はどこにもない。どうやって彫ったんだろう。僕はその木彫りのフクロウを買った。いま思えばここから収集が始まったのである。

 その挙句、100個以上ともなると、僕の部屋だけには納まらなくて、玄関、リビング、廊下、階段……と家のあちこちにフクロウは置いてある(下の画像はその一部)。女房は毎日家を掃除するが、そのたびに1つ1つフクロウをどけて掃いたり拭いたりしなければならない。少ないうちはよかったものの、家じゅうフクロウだらけになったとき、ついに収集禁止令が出た。僕も彼女の言うとおりだと思った。

 余談になるけれど、アテナ映像という社名の「アテナ」はギリシャ神話に登場する女神の名である。その女神の聖鳥がフクロウであると知ったのは、収集を始めて何年も経ったときだった。なにか縁があるんだよなぁと僕は思った。後づけには違いないが、あるものに興味を持つと想像さえしなかったつながりに気づかされたりもするものである。




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第302回 結局、セックスとは何か?


 前回のブログで「セックスする人が減れば、人口は減少し、わざわざ火星に移住しなくても済む」なんて書いたものだから、ついに代々木も若者たちの恋愛離れ・セックス離れに匙(さじ)を投げたか……と思った人もいるかもしれない。

 もちろんそんなことはなく、目合(まぐわい)は地球を救うと今でも思っている。おかげさまでこのブログも300回を超えたし、いい機会なのでセックスについてここで簡単にまとめておきたい。

 僕が若い頃は、先輩からたとえば「女はクリトリスをさわれば感じるから」とアドバイスされて、ドキドキするなかその教えを金科玉条のごとく実践したものである。だが、それで相手の女の子がイキまくったなんて話は聞いたことがない。

 その後、「女はこうすれば感じる」というノウハウは、口伝えの域を越え、男性誌で頻繁に特集されたり、マニュアル本としてたくさん出版された。さらには女性誌でもセックス特集が組まれ、女性向けのテクニック本も刊行されている。ということは、それだけ読者がいるということであり、多くの人が「セックスで相手を感じさせたい」と思っているわけである。

 そして、その教えを実践しながらも、思うような結果が得られなければ、また別の教えを求めることになるだろう。今や情報は雑誌や書籍のみならず、ネットに溢れているから事欠かない。「キスのテクニック」「耳の攻め方」「クリトリスの攻め方」「Gスポットの攻め方」「潮吹きのテクニック」「アナルの攻め方」……と“技術論”は発達しているのだ。

 セックスを〈肉体の快楽〉という一面でとらえれば、たしかに技術論で充分なはずである。しかし、人には〈感情〉がある。「相手が愛おしい」とか「好き」といった〈感情〉を置き去りにしたまま、テクニックだけをいくら磨いたところで相手は感じないし、感じさせようとしているのは伝わってしまう。まぁ、それを気の毒に思えば、感じているフリくらいはしてくれるかもしれないが……。いずれにせよ、やっている当人も空しさが残るはずである。

 一方、女の子が好感を持っていれば、男のテクニックが稚拙であったとしても、うれし恥ずかしで感じてくる。男の場合もしかり。たとえばいちばん気持ちのいいフェラは、女の子が男を「愛おしい」と思い、本当にしゃぶりたくてしゃぶってくれるときなのだから。

 ただし、お互い好感を持っているにもかかわらず、相手がイマイチ感じないというケースもあり得るだろう。セックスにのめり込んでいないというか、自分を開いてこないというか……。これはセックスの最中、〈思考〉が働いている場合によく起こる。相手の行為を分析しているときもそうだが、多くは性的な行為に対する罪悪感に起因する。

 たとえば思春期、性に目覚めた自分を人は親に知られたくないと思う。エロ本やAVを隠し、動画の履歴を消し、自慰行為がバレないように注意を払う。性とはイヤらしいことであり、はしたないものであり、人に知られてはならない秘密なのだ。それがいつしか「気持ちよくなること」への罪悪感を生んでしまう。そして、本人が自覚するしないにかかわらず“よい子”を演じてしまうのだ。

 ある時期から僕は現場で無意識に「気持ちよくなるより幸せになれ」と女の子たちに言っていた。いま思えば、気持ちよくなろうとすれば罪悪感が首をもたげるけれど、幸せになろうとすれば罪の意識は感じないということだったのかもしれない。そしてお互いに目を見つめ合えば、思考は働かない。性交とはひと言でいえば心を交わらせることなのだから、上手だったかヘタだったかよりも、そのセックスが幸せだったか空しかったかのほうが、ずっと大切なはずである。








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第301回 恋愛しない若者たち


 恋愛しない若者たちが増えている。彼ら彼女らの多くは、恋愛しない理由をこんなふうに語る。「気まずくなるのがイヤ」。

 何に気まずくなるのか? 「フッても気まずいし、フラれても気まずい」。たしかに告白してNGなら、断わったほうも断わられたほうも、気まずさはあるだろう。でも、それが恋愛しない理由なのか……。

 生きていれば、気まずいことなんていっぱいあるわけで、いっぱいあるからこそ、いつまでも頓着してはいられない。僕は職場結婚だった。当時女房は売れっ子女優、僕は名もない助監督。告白してフラれたら、そりゃあ、その後の仕事もやりづらいだろうなぁ……などとは考えなかった。「なぜ?」と訊かれても「好きだったから」としか答えられない。先のことまで考えてないというか、やりづらくなったらそのとき考えりゃいいくらいにしか思っていなかったのだ。

 それに「気まずい」のはあくまでもNGの場合であって、お互いOKならばそんな心配は無用……と思いきや、「つきあっても仲間に気まずい」と彼ら彼女らは言う。

 え? どーいうこと? 惚れた相手よりも仲間のほうが大事なの? これがどうもそうらしいのである。たとえば、1日10時間以上、LINEやTwitterに時間を費やす子がいる。その子曰く「仲間はかけがえのない存在で、ちょっとしたことで関係が壊れるんだったら、恋人はいないほうがいい」のだそうだ。

 そんなことくらいで壊れるのに “仲間”なの? と思っちゃうけれど、僕のほうがおかしいんだろうか。

 「男の子と遊ぶより女同士で遊んでるほうがぜんぜん楽しい」と言う子がいる。これは男のほうも同様で、「男同士のほうが気ぃ遣わなくていいから楽しい」と。僕も男ばかりで千葉に遊びに行ったりするから、その気持ちはよくわかる。でも、なぜ両方楽しもうとしないのか不思議である。

 そこには、やはり「気まずさ」を極力排除したうえでの仲間至上主義、友人至上主義みたいなものが見え隠れする。しかも、一緒にいる仲間や友人が自分と同じように非恋愛状態なら、恋人がいないことに特別焦ったりもしないのだろう。

 だとしたら、彼ら彼女らのセックスは遥か地平線の彼方にしか見えてこない。かねてより少子化が叫ばれ、高齢化社会の問題点が浮き彫りにされている。しかし視点を変えれば、つまりセックスする人が減れば、やがては老いも若きも人口が減るのである。そうなれば、わざわざ火星にまで移住しなくてもいいわけだし、それも自然の摂理かと思えなくもない。







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