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第293回 リセット

イヌもネコも今に生きている。

しかしニンゲンは過去を引きずる。

引きずるからONとOFFも

思うように切り替えられない。

ONのようなOFF。OFFのようなON。

そんなときにはまったく違う環境に

わが身を置いてみるのがいい。

僕にとってはヤップやサイパンが

疲れた心と体を修復してくれた。

けれども10年も通っていると

当初のワクワク感は薄れてくる。

そうしていつしか納得し卒業して

また別のものに夢中になる。


yoyogi001-RE2



(*「週刊代々木忠」は年末年始のお休みをいただきます。
次に読んでいただけるのは1月16日になります)



女性に見てほしいバナー

12月18日(木)、全48タイトルに増えました!


第292回 平成生まれの女の子


 毎回「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」は千葉の別荘で撮影している。スタッフや男優が来るのは2日目からで、最初の日は女の子と僕しかいない。なぜ2人きりになるのかというと、その子を開かせるためである。

 以前にも書いたが、僕の撮り方は「仕掛けて待つ」というものだ。男優とのセックスが始まってしまえば、目の前で起きていることをそのままカメラに記録するしかない。思ってもみないことが起きたりするが、それはそれでいいし、逆にそこが面白かったりもする。

 いずれにしてもいい画が撮れるかどうかは、「仕掛けて」のほうにかかっている。女の子を開かせるのも「仕掛けて」のうちなのだ。開かせるとは、心の窓をあけておいてもらうということである。

 では、どうやってそういうモードに持っていくのか? 基本的には対話になるが、そのとき重要なのは、女の子から「この人、ただのスケベなオッサンだわ」とか「監督というより変態ね」と思われることを恐れないということである。監督と女優ではなく、お互い肩書きのない男と女になる。

 最初は広く浅く彼女の話を聞いているが、「ここだな」と思ったポイントはそこを掘り下げて訊いていく。それはたとえば彼女にとってのタブーの部分である。タブーを解きほぐしておかないと、人間なかなか開けるものではない。

 まわりの友人とか元カレとかを非難して、自己の正当性を主張する子がいたとする。客観的に聞いていると「問題はまわりの人間じゃなくて、君のほうだろう」と思ったとしよう。でも、それをそのまま口にしたところで、彼女は開くどころか閉じてしまうに違いない。そこで僕は、なぜ彼女がそう考えるようになってしまったのか、その背景を対話を通して探ってゆく。

 当然、その過程においては僕自身もさらけ出すことになる。そうして女の子が開いたとき、彼女と僕の心はつながっている。そればかりか、話しているテーマは主に性のことなのでお互いに欲情もしてくる。「ヤバイなぁ、オレ、やっちゃうかもしれないなぁ」という瀬戸際まで行くのである。

 そしてその状態のまま、明くる日、男優が来るのを待つ。女の子を焦らし、僕自身を焦らしたまま……。「なんで抱いてくれないの?」とか、「監督、ドSだよね!」とか言われるけれど、ここでやってしまうとせっかく煽った彼女の欲情はいったん解消されてしまうし、僕のカメラもきっと迫り方が鈍化するだろう。

 ところがである。最後に撮った平成生まれの若い子は、これまで出演した熟女たちとはずいぶん事情が違った。撮影1日目の彼女との対話を抜粋してみる。

 代々木「恋人も作りたくないの?」
 女の子「作りたくないです」
 代々木「その理由を聞かしてよ」
 女の子「恋人を作っちゃうと他に遊べないというか」
 代々木「セックスって、もうプレイだ」
 女の子「軽いですね」
 代々木「そんな重要なもんじゃないと」
 女の子「はい、重いセックスがわかんないです」
 代々木「なにセックスぐらいでヤイヤイ言ってるの、みたいな感じか?」
 女の子「友達同士でセックスするので、ふつうに」
 代々木「そうするとあなたの場合は、本当に欲情してセックスをしてるってことはないと。『欲情自体が何なの?』ってことなの?」
 女の子「ちょっとわかんないですね」
 代々木「字面から来ることは想像できるよね?」
 女の子「はい、もちろん。頭では理解できるんですけど。それを自分が感じたことがあるかって訊かれると、いっぱいエッチはしてきたんですけど、どうだったろうと思って……欲情という言葉があてはまるのかなと」

 読んでもらってわかるように、彼女にはセックスにおけるタブーが見つからない。「タブーを解きほぐしておかないと」と前述したが、タブーがあるからこそ、僕は面白いと思っている。いけないことをしているという抵抗がある。だが、それが何かの拍子に外れたとき、いいセックスが撮れる。

 とはいえ、タブーがないのは彼女に限った話ではない。このところ「ザ・面接」のエキストラでも、平成生まれの若い子には同様の傾向が見て取れる。現場でセックスが始まれば、自分の席を立ち、どんどん前に行って間近でながめ、オナニーを始めたり、勝手に参加してしまう子までいる。積極的なのはいいけれど、そこには恥じらいや葛藤はない。

 セックスって股を開くわけだし、相手のものを受け入れるわけだし、生命を次代へつないでいく、ある意味「食べる」と同じくらい重要なことだと、昭和生まれの僕は思うのだが、彼女たちのセックスはあまりにも軽い。お仕事で来てる部分もあるだろうから、プライベートと同一ではないかもしれないけれど、それにしてもなぁと……。

 千葉で最後に撮った女の子に話を戻そう。セックスに抵抗がなく、そのうえ欲情しないというのでは、猥褻感がまったくない。でも、彼女を否定するわけにもいかない。そこで催淫CDを聴いてもらうことにした。僕は彼女を欲情させるつもりだった――。

 催淫CDを聴いて、彼女は喘ぎながらも涙を流した。聴き終えてから「何が起こったのか話して」と僕が訊く。彼女は泣きやまない。やっと「体がビリビリして、気持ちよかったです」と泣きながら答えた。「ずっと涙流してたじゃない? あれは何の涙なの?」彼女は答えない。「教えて」とうながしたが、依然泣きやまず、ずっとタオルを顔にあてている。まるで顔を見られるのも恥ずかしいとでも言うように……。

 彼女にとってセックスは、友達同士でもする、コミュニケーションのひとつじゃなかったのか?

 催眠によるトランス誘導が入っているCDには、聴いた者を欲情させる効果があるけれど、思考の縛りから自由になったとき、人は自らにも隠していた感情の深淵を覗いてしまうことがある。

 おそらく彼女は何かを覗いたのだろう。はっきりとは言わないものの、そのへんをうかがわせる撮影2日目の彼女の言葉をそのまま記すとこうなる。「なんか申し訳なくなってしまって、好きな人に。なんか今までちゃんとしたエッチしてなかったのかなって」。

 好きな人に申し訳ない? 恋人は作りたくないと言う彼女に、好きな人はいなかったはずだ。CDのトランス誘導の中で「あなたの好きな人が手を握っている」という暗示が出てくる。そのとき彼女は気づいたのではないだろうか、本当は自分が誰を好きだったのかを。

 彼女の相手として片山と森林を呼んでいた。ところが、彼女は好きな人への思いが強すぎるのか、心ここにあらずで、男優とセックスしたくないみたいなのだ。僕は半ば強引に男優をけしかけた。このままじゃ作品にならないという作り手側の都合もあるが、それだけではない。気づいた彼女が目合を体験できれば、さらなる気づきが起きるだろうと思っていた。

 結局、森林とすることになったが、後ろ髪を引かれたままの中途半端なカラミに終わる。片山は勃起したまま、自分の番を待っていた。しかし、彼女は「もう満足しちゃった」と言い、この現場はそこで終わったのである。

 これではさすがにボツかなと思った。やはりAVとしては成立しないだろう。にもかかわらず、彼女の“変化”に僕は救われた気がしていたのだった。






Aito-sei-long


第291回 オーガズムと臨死


 オーガズムは「小さな死(la petite mort)」と表現されたりもするけれど、オーガズム体験者と臨死体験者にはいくつかの共通点がある。

 現場でオーガズムを体験した女の子には「今どんな感じだったの?」と訊く。すると何人かからは「別の世界(違う世界)へ行っていた」という答えが返ってくる。「そこはどんな世界だったの?」と僕は質問を重ねる。

 ここで最も多いのが「真っ白い世界だった」というものだ。白い世界にもいろいろある。たとえば一面の雪景色だって白い世界には違いない。すると、彼女たちのほとんどがこう言う。「白い光に包まれていた」と。

 これは臨死体験のなかの「光体験」に似ている。死に臨んで光に包み込まれた人たちは、光から自分が受け入れられ、同時に守られていると感じるようだ。この光体験が深ければ深いほど、“気づき”の度合いも大きくなると言われている。

 オーガズムでも“気づき”が起きる。19歳で好きな男の子どもを身ごもり、あげくに捨てられ、中絶した彼女は、撮影前「誰も人を信じられない。信じられるのは自分とお金しかない」と言っていた。オーガズムの直後に言ったのは「男って私。男の人も女の人も私。私だから一体になって当然なんです」。

 彼女が落ち着いてからさらに詳しく訊くと、「この世の宇宙とか、この世じゃなくてもあの世でも、宇宙とか世界とかいろんなもの引っくるめて全部、私の子宮の中にあるものだって。だからそれを、自分なんだから自分を見守っていかなくちゃいけないなっていうのを、なんか伝えられたのか、自分で思ったのかわかんないんですけど、自分では何も考えてなかったのに、そういうのがポッと出てきて、出てきた途端に自分の心とか気持ちというのがブワーッてこう広がったような気がしたんですよ」。

 また、別の子はオーガズム後の雑談で、「監督は姿かたちのあるものしか表現できない悲しさがある」なんて言い出した。そんなことを言うキャラじゃないし、言われたときには「意味よくわかんねえなぁ」と思ったけれど、今なら「内面をもっと表現しろ」って言ってたんだよなと思う。

 そのほかにも「みんな生まれてきてる価値とか、存在してる意味とか、あるんだなぁって……。うれしいな、なんかうれしい」等々、あげればきりがない。そしてオーガズム以降、180度考え方が変わったり、別人のごとく魅力的に変貌を遂げた男優女優を目の当たりにしてきた。

 なぜそんなことが起こるのか? 自分が「世界そのもの」と同化してしまったからではないかと僕は思う。「世界」とは「すべて」という意味である。それまでは自分の立ち位置から見える限られた風景がすべてだったとすれば、その自分がいなくなり、場そのものと同化してしまうわけだから、もう見えないものはない。客観的に相手のことも自分のこともわかるのである。というか、相手すらも自分の一部なのだ。そういう視座の変化を彼女たちの言葉に僕は感じる。

 しかし、そこを科学的に解明したというニュースは聞いたことがない。セックスはまだまだ科学されていない。そういえば3カ月ほど前、NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」という番組があった(2014年9月14日放送)。立花隆著『臨死体験』(文藝春秋)が書かれるきっかけとなったNHKスペシャル「臨死体験~人は死ぬ時 何を見るのか~」から20年以上が経過し、科学はどこまで臨死体験に迫ったのか興味があった。

 今回の番組で最先端の脳科学として筆頭に紹介されたのは、アメリカのミシガン大学での実験である。世界で初の試みだというその実験がどういうものかというと、ネズミの脳に直接電極を入れ、薬物投与で心停止を起こす。そのとき脳の奥深い部分の脳波を詳細に調べたところ、微細な脳波が発見されたというのだ。これまで医学的には心停止を起こすと、数秒で脳への血流が止まり、脳活動は止まるとされてきたけれど、じつは微細な脳波が数十秒続いていたと。

 これを見た人のなかには「心停止後も脳が活動しているのなら、臨死体験はやっぱり脳内現象なんじゃないか」と思った人もいたはずだ。僕はどうだったかといえば、この脳波が脳のどの部位から発生したものか知りたいと思った。だが、そこは説明されていない。唯一あったのは「脳の奥深い部分の脳波」というナレーション。では、奥深い部分とはいったいどこなのだろう?

 人間の脳でいえば脳幹が最も奥深いが、ここは心臓の拍動や呼吸など、生命を維持するための活動がメインである。だからこそ生命脳とも呼ばれる。これに対して人間脳と呼ばれる大脳新皮質は、ものを考えたり感じたりできるけれど、脳のいちばん外側に位置している。ちなみにネズミの大脳新皮質は切手くらいの大きさと薄さだそうである。ならば、発見された脳波は少なくとも大脳新皮質からではないだろうという印象を持った。そして、もしも脳幹あたりから微細な脳波が数十秒間出ていたとしても、それが「体外離脱」や「人生回顧」や「大いなる気づき」を果たして起こさせるものだろうかと。

 オーガズムも臨死体験も科学的に解明されるには、まだまだ時間がかかりそうである。けれども一方には、オーガズムや臨死を体験し、生き方そのものがポジティブに変わり、人の道標(みちしるべ)になったり、人を癒している人たちがいる。それは誰にも否定できない現実なのである。








Aito-sei-long

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