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第337回 2015年をふり返って


 2015年もあとわずか。今年はいったいどんな年だったのだろうか。1年をふり返る番組が多数あるはずだから詳細はそちらに譲るとして、僕は2つのことについて書いてみたい。

 まず1つが地球温暖化である。「ああ、それなら知っているよ」と言う人もたくさんいるだろう。「極地の氷がとけて海面が上昇するんでしょ」と。でも「海面が多少上がったところで自分には影響ない」などと言ってはいられない状況なのである。温暖化によって地球の気候が明らかにおかしくなっている。

 たとえばアメリカ(サウスカロライナ州)では1000年に一度の大洪水が発生したり(10月)、インド(タミルナド州)では100年に一度の豪雨に見舞われたり(12月)、中東のイエメンでは2日間で5年分の雨が降ったり(11月)、サハラ砂漠でも数十年見られたことのない豪雨で洪水が発生したり(10月)……。

 雨ばかりではない。パキスタンでは熱波によって死者が700人に上ったが、同じ頃ニュージランドは歴史的な寒波に襲われたり(6月)、北半球に限ってもアメリカ中西部で49度を記録するなか、オランダでは観測史上最低気温を記録したり(6月)、記録的な熱波が続いたアラスカでは300カ所の山火事が発生したり(6月)……。

 日本でも、記録的な大雨により鬼怒川や渋井川が決壊したり(9月)、東京都心の猛暑日が連続記録を更新したり(8月)、暴風雨がやんだと思えば冬なのに夏日になったり(12月)、竜巻も各地で発生した。竜巻なんて、僕らが子どもの頃には聞いたこともなかったのだが……。このように気候は激化している。今までではありえないことが、そこかしこで起きているのである。

 今年をふり返ったときに思う、もう1つはテロである。フランス同時多発テロ(13日)、ナイジェリア自爆テロ(17日18日)、マリ・ホテル襲撃(20日)、カメルーン自爆テロ(21日)、エジプト・ホテル襲撃・自爆テロ(24日)。これらはいずれも今年の11月に起こったテロ事件である。同時多発テロを受けて、フランスのフランソワ・オランド大統領は「これは戦争だ」とスピーチした。これまで何度か書いてきた“ピラミッド型”の力学が働く従来の国家であれば戦争にもなるだろうが、今その相手の姿は見えない。

 テロの質が変わってきている。これまでテロの根底には貧困があった。だから貧困をなくせばテロは減るはずだった。ISはこのテロを「イスラム軍と十字軍の戦いだ」と言う。十字軍といえば、中世ヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するため結成した遠征軍だ。ということは、貧困を埋めれば済むという話ではない。ISは「その十字軍に日本も加担した」と言っている。現実に犠牲者も出てしまった。中世から続く他国の確執に首を突っ込む前に、日本はもっと違う道もあっただろうにと思わざるを得ない。僕らにはどうにもならないところで事が進んでいる気がしてならないのである。

 先ほど「相手の姿は見えない」と書いたが、従来ならば国や組織のヘッドをやれば、あとはコントロールできたはずだ。だが、12月にアメリカで起きた銃乱射事件も(現在までの報道を見るかぎり)IS支持者の犯行ということで、誰かから命令を受けてやったのではなさそうだ。ああいうことがアメリカに限らずあちこちで起きている。何かが共鳴しはじめているのである。くり返される空爆は「十字軍の身勝手さ」をいっそう彼らに植えつけ、新たなテロを生み出すだけではないのか。

 気候変動とテロ。どちらも今までのパターンとまったく異なる展開、予測不能の事態であるが、共通項はそれだけではない。気候変動もテロも人間の「エゴ」に起因しているように僕には見える。

 たとえば、地球温暖化を緩和する手立ては、みんなわかっている。温室効果をもたらす気体の排出量を抑えればいいのである。先週までパリで地球温暖化対策を話し合う首脳会議(COP21)が開かれていた。しかし、CO2の削減目標1つをとってみても、各国で駆け引きをやっており、首脳たちはこれで本当に危機感を持っているのか、所詮は自分の国に対する点数稼ぎじゃないのかと思えるようなものだった。最後にパリ協定が採択され、歴史的快挙とばかりに会場は拍手歓声に包まれたものの、結局CO2の削減目標は各国バラバラで協定には法的拘束力もない。

 テロにしても、貧困をなくせばと言われながら、なぜ今なお格差の問題が埋まらないのか。そこにも人間の、あるいは社会のエゴがある。それが「イスラム軍と十字軍の戦い」に変わったとしても、宗教戦争自体、エゴが生み出したものに他ならない。エゴは相手の気持ちを察することができないし、察しようともしない。人は自分たちのエゴが作り出したものにかくも縛られ、なかなか途中で方向転換できないのである。

 このように、どうにもならないもどかしさを感じつつ、年の瀬を迎えようとしている。性を撮っている立場から言わせてもらえば、オーガズムとはエゴの死であり、自分を縛るものからも自由になれるのだけれど……。




(*「週刊代々木忠」は年末年始のお休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月22日になります。どうかよい年をお迎えください)







Aito-sei-long

第336回 SM


 「愛と性の相談室」に見えたある女性は、セックスでイッたことはないけれど、かつてSMをしたとき、胸や局部をさわられていないにもかかわらず、縄でぐるぐる巻きにされ肩をつかまれているだけで、涙があふれ、体の震えが止まらず、足がガクガクして、くずおれるほどの快感というか、安心感というか、解放されたような、それまで経験したこともない感覚を得たと言う。

 今回はSMの話である。僕がビデオで初めてSMを撮ったのは「ザ・オナニー」の翌年(1983年)だから、30年以上前になる。知人からひとりの縄師を紹介してもらった。彼はストリップ劇場のSMショーブームの火つけ役ともなった人物だ。当時、僕がSMに興味を持ったのは、女の子がセックス以上にのめり込んでいる姿を見たからだった。縄で吊るされたり、鞭で打たれても、「先生、先生」と慕っていく。「SMの快感たるや、ふつうのセックスの比じゃない」と語るMの女の子たち。彼女たちはオーガズムを体験したのだと思ったし、未知なる世界を僕はのぞいてみたくなった。

 SMにハマる人は知的レベルの高い人が多い。社会的な地位もある。「ふつうのセックスよりも人間同士のつながり感は深く、SMのほうが高尚なんだ」と言う縄師は多い。実際、有名な縄師は世界を股にかけて歩いているし、緊縛はひとつの芸術とまで見なされている。むろん日本の緊縛の文化は世界に冠たるものだと僕も思う。

 けれども、オーガズムとは何かを追求しながら女の子と向き合い、そのなかでSMも何作か撮っていくうちに、Mの子たちが体験しているのは本当にオーガズムなのだろうかという疑問が湧いてきた。オーガズムのひとつの特徴は、相手に自分を明け渡すことにある。Sの命令ならば、たとえそれがどんなに過酷であろうとMは受け入れて耐える。これは果たして「明け渡し」なのか?

 「明け渡し」のように見えて、これは「服従」ではないのか。オーガズムでは、その後の生き方を変えてしまうほどの気づきが起きる。ところが、SMにおいてはどんどんのめり込んでいくだけだ。行き着くとこまで行けば死んでしまうんじゃないかと思うくらいに。Mは「こんなことまで受け入れる私」に酔い、Sは「相手をこんなに征服している」と自らのエゴに栄養を与えている。どちらも「自己陶酔」であり「自己満足」だから、互いの心がつながっているわけではない。

 冒頭に書いた「SMで縛られて涙があふれ、解放された」と言う彼女にも、30年前ならば「そうなんだ、凄いなぁ!」と思ったかもしれないが、今回は「それはオーガズムとは別物だよ」と思わず言ってしまった。そもそも彼女の相談は「どうしたらオーガズムを体験できるのか」ということだったから、SMのときに味わったあの感覚がじつはオーガズムでないことも本人は気づいていたようだ。一方で、いまだセックスにあの「感覚」を求めているのも見て取れる。

 SもMも相手に対して虚像を作っていく。心が共鳴し、心情をシェアしているわけではないので、それはあくまでも頭の中で作り出したものだ。なので、いつかは現実とのズレが生じる。それでもSとMの関係が継続していく裏にはお互いが虚像と気づきながらも暗黙のうちにそれをよしとしている向きがある。相談に来た彼女にそれを話したら、それも否定はしなかった。また、以前僕の作品に出て、いまSMにハマッている女の子に同じことを指摘したとき、彼女は「だって自己完結だもん!」とあっさり認めた。

 とはいえ、僕はSMを否定するつもりはない。過去に虐待を受けたり、それがトラウマになっている子の場合、SMという上下関係はある意味必然でもあると思う。SMでしか人と関係を結べないということは、換言すれば、SMならば関係を結べるということだ。

 相談に来た彼女は、生きていくうえで自分を支えてくれる精神的な拠りどころを求めているように映った。それは幼少からの家庭環境も影響しているかもしれない。SMで得た解放感も、彼女には必要だったのだ。だが、心の拠りどころを内に求められれば、信頼できる自己が育てば、彼女はSMからも卒業して次のステージに行けるように僕には思えた。






Aito-sei-long

第335回 幸せが生まれる場所


 「幸せな人ほど、脳のある部分が大きい」という研究結果が発表された。いったいどういうことなのか?

 〈幸福を強く感じる人ほど脳の「楔前部(けつぜんぶ)」という部位の体積が大きい傾向があることが分かったと、京都大などのチームが20日付の英科学誌電子版に発表した。チームは、楽しい、うれしいと感じた時に活動量が高まるとされる楔前部に注目。平均年齢22.5歳の男女51人の脳を磁気共鳴画像装置(MRI)で調べた後、質問紙で「同年代の人に比べ幸福だと思うか」「生きる上で目標や計画はあるか」など約50項目について尋ねた。その結果、幸福を強く感じる人や人生に意味があると思う人ほど楔前部の体積が大きい傾向があった〉(2015年11月21日付日経新聞)

 幸福を解くカギにもなりそうな楔前部(けつぜんぶ)だが、ここは瞑想トレーニングによっても体積が増えると以前から言われている。ならば、瞑想によっても幸福感は増進するということになる。

 そもそも瞑想とは何だろう? これまで瞑想については詳しく書いてこなかった。瞑想には宗教的なものもあれば、精神統一や健康維持的なものもある。いずれも瞑想には違いない。つまりキッチリとした定義はないように思うが、たとえば「瞑想とは無になることだ」と誰かが言ったとしよう。しかし、無になるべく瞑想してみても、気づくといろんなことを考えていたりする。無になるためには、もう気を失うしかないんじゃないかという笑い話まであるくらいだ。

 それはともかく、ふだん脳はいろいろな情報をやりとりしている。見たり、読んだり、聞いたり(嗅いだり味わったりさわったりもあるだろう)、そうして入手した情報の中にはストレスの原因になるものも含まれている。そういうふだんのネットワークをいったん遮断することが瞑想の最大のメリットと言えよう。ただし、前述の「無になる難しさ」さながら、気がかりな情報であればあるほど、その囚(とら)われから逃れることは難しい。では、どうすればいいのだろうか?

 瞑想の仕方はいろいろあるものの、そのほとんどが最初は呼吸から誘導していく。いくつ吸って、いくつ吐いてと。呼吸を意識すれば、それだけで外のネットワークを断つことができる。つまり、呼吸法だけでも充分瞑想になり得るのだ。いや、酸素を多く取り込めるし、血行もよくなり、体によいことは瞑想以上にある。以前にも書いたことがあるけれど、ゆっくり吐くことに気持ちを集中させれば、吸うのはいい加減であってもいい。吐き切れば、おのずと吸う。かえって正確さにこだわれば思考が働いてしまい、それはよろしくない。

 ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、かつて「歩くこともまた瞑想である」と言った。僕は股関節の調整をやっていて、歩くときにはまず踵をつけて、内側に重心をかけながら親指のつけ根から蹴り出す。先生からは「外側に重心かけちゃダメだよ」と言われている(もちろんそれは僕への指導であり、内側にかけちゃダメな人もいるのだが)。でも、歩くことに心を傾けているとき、僕は歩くことだけを感じており、ほかはなにも考えていないのに気づく。ティク・ナット・ハンの言うとおり、まさに歩くことも瞑想なのだと身をもって感じるのである。

 情報化社会と言われはじめてから、いったい何年が経っただろう。まるで情報の洪水のような社会に暮らしていて、束の間そこから自由になったとき、幸福の芽が育つというのも、それはそれで腑に落ちる話だと僕には思えるのだが、みなさんはいかがだろうか。






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