週刊代々木忠
いまこの瞬間の代々木忠の想いが綴られる
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第254回 イベントを前に
ロフトのイベントは今年で4回目になる。映画「YOYOCHU」の前夜祭的イベントの際、ロフトの担当者から「次は代々木さん主催で」と声をかけてもらった。
だが、僕は人前で話すのが苦手である。質問を受ければ、それに対して自分の考えは言えるけれど、もともと受動的な生き方だし、率先して自分から何かを言うのは、押しつけてるようで気が引ける。
若い頃、「やるならやれ。やらないんなら能書き言うんじゃない」を是としてきたが、それはいまだに染みついている。このブログも5年やってきたものの、要らぬお世話だよなぁ……と心のどこかではずっと思っているのだ。
なので、ロフトのイベントでは僕の話をするのではなく、面接軍団を前面に出そうと思った。ところが、イベントの1カ月前に東日本大震災が起きる。直後、世の中のイベントが軒並み自粛していった。ましてやこちらはAVのイベントである。むろん、なにがなんでも決行したいと思っていたわけではない。
しかし、こういう時期だからこそ、チャリティーという形でわずかばかりでも被災地を応援したかったし、被災された人のみならず日本中が意気消沈するなか、来場された人たちが笑顔を取り戻し、ひとりひとりが元気を発信してもらえたら……と心から思ったのだ。
とはいえ、毎年こうしてイベントが続くとは考えもしなかった。ここまで続けてこられたのは、当然ながら会場に足を運んでくれる人たちがいたからだ。ふつうAVのイベントといえば女優がメインで、来場者は男というのが相場だが、うちは男優たちがメインで、来場者も7割近くが女性である(ちなみに、みんな美人で元気がいい)。
3年たった現在、東日本大震災を忘れた日本人はひとりもいないはずだが、日々の生活に追われていたり、大きな災害が発生すると、人々の記憶はいっそう過去へと遠のいてしまう。放射能の半減期は長いが、人間の記憶の半減期はかくも短い。1年に1回の小さなイベントではあるけれど、イベントごとに大震災の記憶を新たにしたいと思う。
3月12日(水)午後7時、ロフトプラスワンにて、面接軍団とともに、みなさんのご来場をお待ちしております。
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2014-02-28(00:00) :
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第253回 思考→感情→本能
「よいことなのか、悪いことなのか」、「法律にふれるか、ふれないか」、「自分にとって損か、得か」、「あとで揉めるか、揉めないか」などなど、判断のモノサシは数え上げたら切りがない。
交差点に差しかかったクルマが右折か左折か直進するように、人はつねに自分のモノサシで取るべき行動を選びながら日々を生きている。
もっとも、冒頭にあげた4つの例は、いずれも社会性に根ざした尺度だと、僕は思う。なぜならば、善悪や合法違法や損得計算やリスク回避は、思考が判断の主導権を握っているからである。
ちなみに「自分の立場を有利にしたいから○○する」と「だれそれに迷惑をかけたくないから○○しない」は一見、逆方向のベクトルのようだが、これらもともに社会性の思考であることに変わりはない。
もちろん「社会性の思考がいかん」と言っているんじゃなくて、それが必要なときは必ずあるんだけど、必要じゃないときまで、ずっと思考のモノサシのままという人が少なくないようにも思える。
では、思考が介在しないモノサシとは何か? たとえば「心地いいのか、悪いのか」、「好きか、嫌いか」、「安心なのか、不安なのか」。思考のモノサシは客観性が色濃いのに対して、これら感情のモノサシはどこまでも主観的である。
だが、主観とはもともと自分自身のことであるはず。その自分にずっと我慢を強いると、遅かれ早かれ限界が来る。うつになったり、人によっては鬱屈したエネルギーが倒錯した形で噴き出すこともあるだろう。狂気の沙汰と言われる事件の多くは、いっときの激情にかられてというより、溜まりに溜まったものが引き起こしているようにも見える。
とはいえ、感情のおもむくままに行動していれば、当然ながらまわりとの衝突も増える。だって、善悪も正邪も損得もリスクも、いったん横に置いておいたのだから。思考が登場するのは、この段階でいい。なにか事が起きたり、行き詰まったりしたとき、思考に戻って客観的に見つめてみる。
で、僕の経験から言うと、思考に戻って解決するものもあれば、解決しないものもある。当たり前だけど。たとえば誰かと激しく揉めた際、間に人が入ってくれて「まぁまぁ」とか、仲裁者がいなくても自分が「ちょっとここじゃ……」と、その場では怒りを飲み込んだとする。しかし家に帰ってからも「やっぱりスジから言っても許せねえ!」となったりする。
この場合、カッとなったのは最初だけで、仲裁が入ったり、自分で飲み込んだ時点で、激情はある程度おさまっている。家に帰って、いろいろ思い出したり、目にもの見せてやると計画を練ったりするのは思考なのだ。そこには冷静さすらあり、淡々と事を進めたりする。だから、よけいに厄介だ。
ちょっと整理をすると、思考ベースから感情ベースに移り、そこで問題が勃発。思考ベースに戻ったものの、いまだ解決せず……あるいは、さらに悪化というのが今の状況。さて、どうしたものか?
こういうときには、思考からも感情からも一回離れて、本能に戻るのがいい。本能に快を与えてあげるのである。うまいものを食べたり、爆睡したりもいいけれど、山登りやサーフィンやスイミングなどなど、ともかく体を動かして汗をかくのがいい。もちろんセックスも。
本能が快で満たされると、問題に対する自分のとらえ方が変わっている。つまり問題自体はそのままでも、自分のほうが変化しているのだ。思考に比べて本能は、ともすれば下に見られがちだけれど、思考じゃ真似できないドンデン返しの大ワザを打ったりもできるのである。
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2014-02-21(00:00) :
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第252回 面接で落とした高校教師
現役の高校教師を監督面接した。現在20代半ばで、体験人数は約50人。そのうちつきあったのは2、3人。会話の中で「味見」という言葉を、彼女は頻繁に口にした。たとえば「男を味見して、よければ次もありだし、つまんなければ終わり」といった具合に。彼女にとってセックスは、デパ地下の試食みたいなものなのか……。
実際、セックスをしていて「さわり方が雑だなぁ」とか「ツボに来ないなぁ」とか「あっ、このパターンか」などと思うそうだ。話を聞きながら、「そうすると恋人ができないよねぇ」と思わず僕はつぶやいた。彼女も「好きになる人がいないんです」と言う。セックスの真の歓びも知らないに違いない。
「セックスってのは、心を開ければ、抱き合うだけでも幸せを感じるものだし、言葉だけでもイケるんだよね」と言ったら、「えええっ!!」というリアクション。ひと言でいうと軽い。そして、こちらの話をまったく信じていない。
催淫CDは言葉だけでイクところまで誘導するものだが、過去の作品のそのシーンを見せることにした。百聞は一見にしかずだ。見終わって感想を求めると「あんな大きな声出して、なんかねぇ……本気なの?」と言う。「演技に見える?」と訊いたら「演技といえば演技でもできちゃうし……」。
彼女がこれまで肌を合わせた50人のなかには、本来恋人になる人間が何人もいたかもしれない。だが、彼らを「味見」していたら、彼女はそれに気づくことなく「はい、次!」と取り逃がしていたのではないか。このままでは、恋人に出会うことは生涯ないかもしれない。
「もう結婚なんて考えてないし、私の友達でも離婚して、子ども2人を自分で育ててる。結婚は墓場です」と言う。彼女はもう誰にも期待してないのだろうか。自分で「これはこう」と決めた基準だけを信じて……。この人が本当に人を教えているのか。あるいは教壇に立てば、今とはまったく別人と化すのだろうか。
自分と向き合うのが怖いのかなと僕は思って、そのへんのことも訊いてみたのだが、「私はこういう人間だし、それがきのうきょうじゃなくて、もう10年以上こうだから、それを変えろったって無理ですよ」と言う。
そこで、自分の奥にしまい込んだ感情が出てくる呼吸法を彼女に試みた。ところが、ハッ、ハッ、ハッという速い呼吸を2、3回やると咳き込む。「咳は出るんだったら、しっかり出して!」と言うが、また2、3回で咳き込むから呼吸法はそこで止まってしまう。そのくり返しだった。
「僕はこれまで多くの人を見てきたけど、たったこれだけの呼吸で咳き込むというのは、あなた、やりたくないんだよね」。やりたくないという思いが咳になって現われる。彼女の咳は拒絶なのだ。「いや、この前まで風邪引いてたから」と彼女は認めなかったけれど。
きっと彼女にしてみれば、たかがAVの事前面接でなんで根掘り葉掘り訊かれ、こんなことまでしなくちゃいけないのかと思っているだろう。撮影現場の話になったとき、彼女は「監督が言ってくれれば、そのとおりにしますから」と何度も言った。「いや、そうじゃなくて、あなたが自発的にいろんな行動を起こしてくれるというか、セックスのときにね、そこを撮りたいんで、その自発の根っこになるものがないから、今こうして話してるわけで……」。
彼女は(そんな七面倒臭いことはいいから、言われたとおりにするんで、何すればいいのか言ってください)というノリなのだ。「監督に言われたとおりにやっても、心が入ってなければ撮ってもしょうがないんで」と言う僕に、彼女はこう言った。「でもAVって、そんなもんじゃないですか」。
「悪いけど、僕は撮れない」と言って帰すしかなかった。面接を終えて、終始、彼女が片足しか突っ込んでいないというか、半身しか向き合ってこないような印象だけが残った。参加しているようで、じつは常に客観的に引いて見ている。だからセックスが味見になる。
仮にビデオに出ても「監督が指示してくれれば、そのとおりに動きますよ」というのでは、最後まで本当の自分は出てこないだろう。もしそれで上手くいかなかったら「だって、あれは監督に言われたんだもん」という逃げ道も用意されていると言ったら、ちょっと意地悪だろうか。
しかし、人は自分が与えたものしか与えられないのだ。甘えたり、思いを伝えたり……それが自分に返ってくる。生身の心は傷を負うこともあるけれど、それでしかつかめない、だからこそ尊い歓びがある。そこに逃げ道はない。
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2014-02-14(00:00) :
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第251回 きょうも川にいます
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2014-02-07(00:00) :
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第250回 誰が男をMにした?
撮影の合間、女の子たちが「男のMはイヤだ」と言っているのが耳に入った。えっ、イヤなのか???
すぐれた男優は、攻めるだけでなく受けるのも上手い。女の子から愛撫やフェラで攻められれば、本気でヨガるし、マジで悶える。そうされた女の子たちはといえば、「男のくせに気持ち悪い」などとは言わない。10人いたら9人までが「うれしかった」と言うだろう。
このブログの読者には説明するまでもないと思うが、男がへんなプライドにこだわっていたら、とてもじゃないがヨガれない。それができるということは、カッコ悪い姿でもおまえになら見せられるという、自己の明け渡しである。それがわかるから、女の子もうれしいのだ。だから、もっと男は女の前でヨガるべきだとさえ僕は思っている。
しかし「男のMはイヤだ」となると、この子たちはセックスがわかっちゃいないのだろうか。そこでとりあえず「なぜイヤなのか?」を訊いてみた。だが、どうも話が噛み合わない。よくよく聞けば、彼女たちの言う「M」とは、SMの「M」ではなく、マグロの「M」だということがわかってきた。マグロをMと略すのがいいかどうかはさておき、マゾとマグロではぜんぜん違う。
ひとりの子が言う。「いつも咥えて、勃たして、私が上に乗っかってやるってパターン」。聞いていた主婦も「そうそう、うちもそう」。なんと。男は横になったままなんにもしないで、全部女にさせてるのか。ならば彼女たちの言い分ももっともだ。
男マグロを嘆いてから数週間後、雑誌の取材準備のために「ようこそ催淫世界へ」シリーズの1本を見返していた。その中のシーンを見ながら、ああ、男がマグロ化する一因は、やっぱりここにあるよなぁと僕はあらためて思った。そこにはハコヘル嬢の弥生(21歳)という子が出ている。彼女は驚くほど大量の潮を吹くのだけれど、今回重要なのは潮吹きではなく、彼女のお仕事のほうである。
男優を客に見立てて、ヘルスのサービスを実演してもらった。ところが、これが手とり足とりで、至れり尽くせりなのである。客はなにもしないで身を任せておけばいい。最後はお掃除フェラまでしてくれる。
なぜこういう風俗ができあがったんだろうと映像を見ながら思った。結局のところ、それは本番がないからではないのか。風俗の女の子たちに話を聞くと、本番があったほうがラクだと言う。言い方は悪いが、穴を貸しておけばいいのだから。ところが、それができないとなれば、他のサービスで客を満足させなければならない。
世界的に見てもこういう国はあんまりないんじゃないかと思えるくらい、日本の風俗産業は成熟している。射精に至るサービスは百花繚乱の感さえある。だが、その“至れり尽くせり”が、男たちから主体性を奪い、いっそう弱体化させ、結果的にはセックス離れを加速させているように思えてならない。
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2014-01-31(00:00) :
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第249回 PLAY
ひきつづき「得体の知れない彼女」の話である。前回さらっとふれたプロフィールをもう少しくわしく書いておこう。
婿養子のかたちで、彼女が結婚したのは20年ほど前のこと。夫に多額の借金があることなど、知る由もなかった。結婚後、それが発覚する。夫が婿養子にこだわった本当の理由も見えてきた。借金の取り立てから多少なりとも逃れるべく、名字を変えたかったのだ。
名前さえ変えられれば、誰でもよかったんだろうか。私は愛があって結婚したつもりだったのに……。だが、彼女の悩みはそれだけではなかった。夫は家庭にお金を入れない。そして、DV。
それでも16年間我慢したのは、子どもがいたからだ。彼女は水商売で生計を立てた。銀座のお店に勤めていた頃の話を聞くと、お客には政財界の錚々たるメンバーの名があがる。きっと彼女は売れっ子だったのだろう。
今回じっくり彼女を撮るべく千葉の別荘につれていった。たまたま前の月に2人の女性を同じ場所で撮っていたので、その映像を彼女に見せた。
ひとりは47歳。20年近く前、流産しかけ母子ともに危険な状態に陥ったとき、実家の親が電話を入れたら夫は別の女と一緒にいたという。「そのときから感情出して怒っても、無駄なものは無駄かなとなっちゃって。それ以降、あんまり感情的に子どもにも怒ったことがないし……」。彼女は「セックスでイクっていうのが何なのか、わからない」と言う。たとえば「男に『舐めて』なんて言ったことないし、そもそも思わない」と。
もうひとりは42歳で、二十数年前に僕の作品に出て、その後引退したが、数年前にカムバックした。最近は攻め役が多いそうで、「セックスは職業でしかなく、最近は女を捨ててる」ものの、「やっぱどっかで女になりたいなって思ってる部分もあって……」と言う。
この2人はどちらも離婚していて、子どもがいる。つまり、今回の彼女も含めて3人全員が、40代、バツイチ、子どもあり。そしてセックスに何らかの問題を抱えているのだ
彼女は2人のインタビューを見ながら「わかる!」と共鳴したり、セックスでつながる姿を見ながら「よかったですね!」と手を叩いたりしていたが、やがてこう言った。「セックスして好きになっちゃうって感情がないかも……私」。
だから、彼女はセックスで男を支配し、終わりのない責めを続けているのだろう。やはり、それは別れた夫のせいなのか……。だが、口が重い。やっと彼女が語ったのは「恨(うら)むとか、そういうんじゃなくて、呪(のろ)いですよね」だった。「ダンナのことかい?」と訊いたら、「そのあとで、もっとひどい男にも会ったし」と言ったきり、それ以上はどうしても話そうとしない。
彼女は「ザ・面接」で卓、ウルフ、片山を責めたわけだが、今回の「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」では、森林原人をキャスティングしていた。森林は攻めも受けもできる。ひょっとしたら封印した感情が出てくるかもしれない。
最初は攻めで森林を向かわせた。「抱きしめて!」という彼女の言葉は印象的だったものの、ついぞ明け渡すには至らなかった。直後、森林はこう語っている。「エッチしていくと、心の快楽、心の濡れがちょっと収まって、体のほうは濡れてるけれども……。心も濡れながらセックスするっていうのは、今のはならなかったかなぁって」。
次に攻守逆転し、彼女が攻め役になるのだが、これは「ザ・面接」のとき男3人を手玉にとったのと同じかっこうである。すると、どうだろう。表情もイキイキとしており、先ほどとは別人の観さえ漂う。彼女は、自分の心を明け渡さないまま、ワイセツ感を楽しむだけのプレイが好きなのだ。そして作品はと言えば、ここで終わっている。
つまり、根本的に彼女は何も変わっていない。闇の正体もわからずじまいだ。昔だったら、なんとかして闇の正体を暴き、力ずくでも彼女を変えようとしていたかもしれない。けれども今回僕は、これも時代かなぁ……と思ってしまった。お互い深入りせず、だから裏切られたり傷ついたりすることなく、ラクな関係を続けていくうえでのプレイ。
今プライベートで、彼女はプレイによって、自分からは何もしないマグロ男たちをせっせとM男に変えている――。
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2014-01-24(00:00) :
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第248回 得体の知れない彼女の魅力
まだ発売前だが、昨年撮った「ザ・面接VOL.137」の話である。面接にやってきたひとりに、バツイチの主婦(43歳)がいる。離婚理由は、夫の借金とDV。結婚していた16年間に夫以外の男性経験は10人、離婚後は5人と言う。
彼女曰く「(つきあったのがM男ばかりなので)セックスも奉仕するだけで、じつは私は満足していない」。「どうしたいのか?」と訊けば「たとえばレイプみたいなもの……いつもするばっかりだから、そういうのをされてみたい」。
吉村卓とウルフ田中が担当だったが、僕は「卓ちゃん!」とすぐに振った。卓はブラウスのボタンを引きちぎるくらいの勢いで襲いかかる。そのまま一気呵成に攻めまくるのだけれど、彼女のほうは向き合っていないというか、明け渡していないというか、全部ハズされてしまっているように見える。
それでも、攻める側の卓は自分のイチモツを咥えさせる。彼女は妖艶な光をたたえた瞳で卓を見上げている。いやらしい音をたててしゃぶりながら。「咥えさせて、というよりは、攻め込まれてる気がするねんけどな」と市原。フェラをしながら、彼女は卓からずっと目をそらさない。
それは次にウルフを責めてるときも同様で、「目に支配されてる!」といみじくも言ったウルフの言葉が、その状況を如実に表わしていた。結局、ウルフは彼女の責めで潮を吹く。男の潮吹きを僕は初めて見たのだが、ウルフは過去にも吹いた経験があったようだから、「ここで見せ場を作ろう」という思いが半分、「あの快感をもう一度味わいたい」という思いが半分、といったところだろう。
それにしても、男に潮まで吹かせる主婦とは何者なのか? 実際、風俗をやってたのかと思えるくらいの技を持っている。M男の責め方、開き方、追い込み方は、もう素人の域を越えている。潮吹きも、てっきり今流行のM性感かなにかで身につけたテクニックではないかと僕は思った。
卓とウルフが責め落とされて、市原は片山に振る。ところが、これから起こることがわかる片山は、あろうことかエレベーターで別のフロアへと逃げてしまう。みんなで追いかけていって、銀次が後ろから片山を押さえるのだが、ずっとそうしてるわけにもいかず、「おい、ロープないか?」となったとき、「私、縛れるのよ」と突然、彼女が言い出した。
卓がロープを渡すと、見事な手さばきで片山に縄をかけ、あっと言う間に形にしてゆく。彼女は緊縛を会得しているのだ。まわりのみんなは唖然としてそれを眺めている。もはや逃げられない片山に、彼女の責めが始まった。
ところが、僕はファインダーをのぞきながら、これは風俗じゃないなと思った。風俗仕込みであったなら、責めは必ず終わりへと向かう。にもかかわらず、彼女は片山をイカせようとはしていないのだ。焦らして、焦らして、焦らし抜きながら、イカせる気配がまったくない。これでは、いつまでたっても終わらない。
しかし、ウルフのときは射精し、その数秒後に潮まで吹いたではないか……。なぜウルフがフィニッシュを迎えたのか、僕はそのシーンを思い返してみた。あのとき、ウルフには「見せ場を作ろう」という思いが半分あったはずだ。だから、最後の最後は自分でシゴいた……そうだ、ウルフは自分自身でフィニッシュまで持っていったのだ。
男を支配し、終わりのない責め。いったい彼女は何者なのか? 別のシリーズで彼女をじっくり撮ってみたいと僕は思った。
(つづく)
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2014-01-17(00:00) :
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第247回 あたたかなしあわせ
体を温めると気持ちいい。とりわけ今の季節はぬくもりが恋しい。ところで、なぜ温まると心地いいのだろう。それはもとが冷えているからである。あたりまえだけど。暑いときに温めたら不快になる。
ただし、冷えているのは季節のせいばかりじゃない人もいる。平熱が36度未満だと低体温というが、現代人は大人も子どもも低体温の人が増えているそうだ。原因としてはエアコンの完備、運動不足、食生活の変化、ストレス……。
体温が1度下がると、免疫力は約30%低下するという。体温35度はガン細胞が最も増殖しやすい環境だとも。肺、胃、腸、食道、肝臓、膵臓、子宮などなど、それこそ体のあちこちにガンはできるけれど、心臓にはない。その主な理由が、40~42度と心臓が高温のためだと言われている。
心療内科では夏になると「冷たいもの、飲まないでくださいよ」とよく言われた。体を冷やすのは内臓だけでなく、うつにもよくないのだ。たしかに自分をふり返ってみても、精神的な要因に加えて、日夜つめていた編集室の右上にちょうどエアコンの吹き出し口があり、それこそ脚が痛くなるまで体を冷やしていたことが、うつの引き金になったと思う。
年末年始、風邪も引かず健康に過ごすためには、体温を落とさないように気をつけていただきたい。体を温める方法として、僕は半身浴を楽しんでいる。半身浴は“へそ湯”とも言われるが、へそのちょっと上まで、ぬるめの湯(38~40度)に長めに(20分以上)浸かる。全身浴でも「熱めに短め」より「ぬるめに長め」をおすすめする。体が芯から温まるから。どうかホカホカで、よい年をお迎えいただきたい!
(*「週刊代々木忠」は2週間お休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月17日になります)
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2013-12-27(00:00) :
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第246回 獄中読書
未決勾留(みけつこうりゅう)という言葉をご存じだろうか? 裁判で有罪か無罪か決まるまで、被疑者を拘置所などに拘束しておくことをいう。20代の頃、僕はこの未決勾留をくらったことがある。かけられた嫌疑は営利誘拐。
営利誘拐なんていうと身代金目当てに子どもをさらったみたいだが、僕の場合、少し事情が違った。それは興行をしていた頃の話で、博多のダンスホールにJという女性を訪ねるよう組織から言われた。
Jは家出してきた女の子たちにはちょっと知れた顔だったし、頼られてもいた。家出に限らず、食うに困った女の子たちには働き口も世話していた。
その日、僕は先輩のMと一緒に車で博多まで行き、Jに会った。Jからは2人の女の子を小倉のストリップ劇場まで送り届けるよう頼まれた。「劇場と話はついてるから」と。MがJに封筒を手渡すのを目にしたとき、とっさに感じた。これは売買だと。
当の女の子たちは仕事が決まってうれしそうだった。だが悪いことに、彼女たちは未成年で、しかも1人は親から捜索願が出されていたのだ。ペイペイの僕は言われるまま、女の子たちを車で送っただけだが、それをそのまま警察に話すわけにはいかない。そんなことをすれば上が捕まる。そもそも警察はオヤジを挙げたいわけだから。
取り調べ検事の質問には「知りません」しか答えない“問答調書”で貫き通した。つまり、検事にとって都合のいい“作文”は最後まで書かせなかったわけである。でもそのおかげで、僕は8カ月間、未決勾留となる。
拘置所の中で、最初は接見禁止の独居房だったけれど、裁判が始まると雑居房に移された。雑居房には僕を含めて7人いた。刑務所と違って懲役、つまり作業の義務はない。だから、ときどき裁判に出る以外は、これと言ってすることがないのである。義理を通したオヤジからは差し入れがあった。中身は意外にも本だった。山岡荘八の『徳川家康』が10巻入っている。
べつに家康のファンではなかったけれど、第1巻から読み始めた。ろくに本など読んだことのない僕のことだから、人名や地名など読めない漢字がたくさん出てくる。そのたびに同じ房にいた作家くずれの詐欺師に「これ、なんて読むんだ?」と訊いた。いつでも教えてくれる人間が目の前にいることも、読書にはうってつけだったのだ。
『徳川家康』は家康の生前から没後までが描かれているが、あの時代を生きて死んでいった人々の織り成す物語は、一気に僕を夢中にさせた。たとえば今でも思い出す武将に石川数正(かずまさ)がいる。彼は家康を裏切って、秀吉に寝返ったというところで話は進んでいくのだが、じつは捨て身の戦法で最後まで自分の信念を貫き通したことがのちに明らかになる。数正の出奔(しゅっぽん)は史実であり、その動機には諸説ある。実際には単に家康と仲違いをしただけかもしれないが、数正に限らず山岡の筆にかかると、ものすごく魅力的な男たちの生きざま・死にざまが立ち上がってくる。
未決勾留時にその時点で最新刊だった19巻までを差し入れてもらって読み、出所してからは続刊されるたびに買って全巻を読み終えた。もしも拘置所に入らなければ、おそらく『徳川家康』を読むことなど一生なかっただろう。だが読んでみて、若かった僕は、筋を通している男、一本持ってるヤツはいいよなぁとつくづく思った。ひとつの生き方を貫けば摩擦も起きるし、まわりの者を傷つけたりもする。でも、それを押してなお貫かねばならぬ生き方に、僕らの世代は男の美学を感じ、心打たれたものである。
ところが、今はそういう時代じゃない。筋を通すこと自体むずかしい世の中だし、男の美学じゃメシも食えない。「男はこうだ!」というものがあった時代のほうが、男はラクだったかもしれないなぁと思う。
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2013-12-20(00:00) :
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第245回 自分を自分で
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2013-12-13(00:00) :
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第244回 セックスを教える場所
少子化は日本にとって深刻な問題である。厚労省の人口動態統計によれば、昨年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産むとされる子どもの数)は1.41で、16年ぶりに1.4台へ回復したという。ところが、女性の全体数が減っているため、出生数自体は前年比1万3705人減の103万7101人と過去最少なのだ。
ちなみに、第1次ベビーブーム(1947年)の合計特殊出生率は4.54、第2次ベビーブーム(1973年)が2.14。厚労省によると、人口を維持するためには出生率は2.07必要だが、高齢化で子どもを産める年齢層が減っている日本では、それを上回ったとしても人口減少は止まらないという。
少子化は20年来の課題ゆえ、国も子育て支援の施策をいろいろと打ち出し、少子化社会対策基本法とか、次世代育成支援対策推進法といった法律まで作った。すでに子育てをしている人がこういった施策に助けられたというケースは、もちろんあるだろう。しかし、先にも書いたように少子化の歯止めにはなっていない。
子どもを産んだあとの不安要素を軽減するだけでは、子どもは増えない。なぜなら、晩婚化や未婚化が進んでいるし、それ以前にセックスをしたいとは思わない若者たちが増えているからである。
先日、男優の吉村卓が事務所に来たとき、まだ日程は決まってないけれど、「脱童貞化計画」というテーマの講演を知人から依頼されたと言っていた。その知人は以前に政治家秘書をしていた人で、厚労省もセックスの問題にはどこから手をつけたものか、手をこまねいている状態だそうである。僕は卓に「経験をもとに、どんどん話をするべきだよ」と言った。
18~34歳の男性で「性体験なし」が全体の36.2%。同様に女性は38.7%(2010年、国立社会保障・人口問題研究所調べ)。今の日本には、セックスを学ぶ場所がない。このまま行けば、若者たちのセックス離れはさらに加速していくことだろう。そうなったら、恋愛も結婚も出産もいっそう遠のいてゆく。
僕はかねてから遊郭の復活が必要だと思っている。かつてそこにいたプロの女性は、対人的感性の成熟した人が多かった。半人前でセックスがどういうものか知らない男に、女のさわり方を教え、目合(まぐわい)を教え、柔らかく温かな母性で女を教えてくれた。そうやって一人前の男に育てていくことを自らの歓びと感じている女性がたくさんいたのである。
ところが、射精産業である今の風俗ではヌイてもらうことしかできない。男は横になったまま、手や口でヌイてもらうお手軽な射精では、とうていセックスの学びにはなり得ず、“男マグロ”を増殖させるのが関の山だ。
新しくできる遊郭では、逆に面接軍団のようなセックスをわかっている男たちがイケない女性をオーガズムに導くことも必要になってくるかもしれない。いずれにしても、本当の意味で人間が幸せになれる制度なり施設が待ったなしで求められていると僕は思うのである。
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第243回 もしも来世があるならば……
今回は「来世があれば」という前提で話を進めてみたい。「そんなのありえない」と思ってる人もいる。僕自身そこに行ってきたわけではないのであくまで仮定の話だけれど、その前提に立てば、今の世の中が少しは変わるんじゃないかとも思うのだ。
関西の一流ホテルで食材の誤表示がニュースになったかと思えば、日本全国ここでもあそこでもと似たような事実が明るみに出た。誤表示といえば悪意も希薄だが、実際には安い食材を高い食材と謳って利益を出しているわけだから(逆なら文句も出ないだろうけど)、偽装としか言いようがない。
8年前の2005年、「シャブコン」という言葉が有名になったマンションの耐震構造をはじめ食料品の賞味期限や原材料表記などの偽装が世の中を騒がせた。あれほど大騒ぎになっても、今回の当事者たちは、人のふり見て我がふり直せとは一度も思わなかったのだろうか。所詮は、対岸の火事でしかなかったということか。
偽装に限らず、バレなきゃいいんだという空気は次第に濃くなっているように思える。人に見つからなければ、警察に捕まらなければ、法に触れなければ……。これじゃあ、正直者がバカを見る世の中になってしまう。かつて「おてんとうさまが見てる」とか「おてんとうさまに申し訳ない」という言葉が存在した。人間の良心さえ、このご時世では、背に腹は代えられないのだろうか。
さて、来世である。人間、死んだらお終いではない。肉体は滅んでも、生まれ変わって次の世を生きる……と考えてみる。ただし、前世→現世→来世は脈絡なくつながっているのではなく、因果応報、つまり過去の善悪の業(ごう)が現在の幸不幸の果報を生み、現在の業に応じて未来の果報が生じる。
人の目をあざむいて、生涯それが隠しおおせたとしても、あるいは逃げ切れたとしても、結局は次の世で帳尻を合わされることになる。人を不幸にすれば、たとえ死んだ後でもそれは自分に返ってくるということである。
以前にも書いたが、僕はうつを患っているとき、毎日襲ってくる重度のダルさや孤独感から「ラクになりたい!」とはずっと願っていたけれど、「死にたい!」と思ったことはついぞなかった。なぜなら、ここで死んでラクになっても、どっちみち来世で、自分が逃げたものと再び向き合うことになるんだからと、つねに感じていたからである。だから、僕にとって死は逃げ道にならなかった。しかし、そのおかげで今もこうして生きている。
死んだら終わりではなく来世があり、その来世は現世の生き方が影響を与えるという考え方は、犯罪や自殺を思いとどまらせる力にならないだろうか。
また、生きているといろいろ理不尽な目にも遭う。「なんで自分がこんな目に」と思う日もあるかもしれない。僕もこれまで信頼し、金銭的にも応援してきた人間から、いったんそれが儲かるとなったら手の平を返したように手痛い裏切りを受けたことがある。腹が立つじゃ、とても済まないような状況なのだ。
けれども、そこでヤケを起こして「目にもの見せてやる!」とならなかったのは、「オレ自身がひょっとしたら前世で同じようなことをしたのかもしれない。それの償(つぐな)いとして、あるいはバランスを取るために、自らがそれを設定してこの世に生まれてきたんじゃないか」と自分を説得したからである。
いろいろな戦い方がある。だが、たとえどんな戦い方で勝ったとしても、相手をやっつけたという気分に束の間ひたるだけで、失ったものは返ってこない。もしも心の空洞を埋められるとしたら、それは「自分が自分のためにそれを選んだんだ」ということだけではないだろうか。そういう視点が人々に定着していけば、少なくとも生きるのがラクになるだろう。そうして、世の中は変わっていくはずである。
11月29日(金)、全36タイトルに増えました!
2013-11-29(00:00) :
週刊代々木忠
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第242回 初体験は何歳?
上の図は戦前(大正8年)の学校系統図である(文部科学省「学制百年史」より)。今と違って進路が複数あり、多岐にわたっているのが見て取れる。とはいえ、当時ほとんどの人は、義務教育である尋常小学校を卒業したのちには、働きはじめたことだろう。
2つめの図は、昭和47年の学校系統図(文部科学省「学制百年史」より)。6・3・3制になってシンプルである。ただ、戦前との違いはそればかりでない。今や高校は当たり前、高校卒業後は半分以上の人間が大学・短大へと進学する。そのうえ、偏差値の高い有名大学に進もうと思えば、幼稚園からもうお受験が始まる時代である。
就職難や失業率を考えれば、学歴がないと仕事にもありつけないという世の中の風潮がある。それは僕にもわかる。でも、そこに乗っからない生き方だってあるんじゃないかと思うのだ。
僕自身はグレて学校も行かなかったから、そこに乗っからない生き方を続けてきた。ただ、それは育った環境がそうさせたというより、やはり僕自身がそれを選ばなかったからだと思う。それはビデオの仕事を始めて以降も同じである。僕の作品は「オナニー」も「性感」も「チャネリング」も、つねに王道からは外れている。いつも“空きチャンネル”を狙ってきたようなものだ。ただし、自分がワクワクして楽しめれば、見る人もきっとワクワクしてくれるはずだと思ってやってきた。
たとえば100人いたとして90人が目指せば、それが主流になる。みんなと同じということで、安心感も生まれるのだろうが、そこでの競争はおのずと激化する。一方、残りの10人のほうに熾烈な競争はない。
戦後の大量植林で、いっせいにスギやヒノキを植えた。特にスギが多い。その結果、どうなったのか。今、スギ山は大変である。いろいろな木が混在しているからこそ山は強いのだ。戦後の学校教育も、偏差値競争が知ることへの偏重と感じる力の喪失を招き、学歴盲信者を大量に生んだように僕には見える。
では、今すでに主流の側にいてうまく行かない人はどうしたらいいのか? まったく別なステージで「行動」を起こせばいいのだ。新たな行動を起こしたときに、初めて何かが起きる。行き詰まるかもしれないし、失敗するかもしれない。でも、そうなってこそ、次にやるべきことが見えてくる。
失敗と後悔、その中には必ず学びがある。言うまでもなく、それは体験をともなった真の学びである。もし人間が本当に成長しようと思えば、この学びをどれだけ得るかにかかっている。自分を責める必要など、どこにもない。
失敗のない人生なんて、所詮は伸び切ったゴムみたいなもので、おもしろくないではないか。苦あれば楽ありというが、苦も楽もどっちみち同じ量だけ人生では経験することになる。ならば苦もまた楽しである。
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2013-11-22(00:00) :
週刊代々木忠
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第241回 欲情のすれ違い
いやらしい映像を見たり、直接さわられたりして、人は欲情する。でも、同じ映像を見てもいやらしいと感じるかどうかは人それぞれであり、さわられる相手によっては、欲情どころか嫌悪感しか湧かない場合だってある。
このように外的要因に絶対はないけれど、脳のメカニズム的に見れば「性欲中枢」が刺激されれば必ず欲情するのである。性欲中枢は当然ながら男にも女にもあるのだが、男女で影響を受ける部位が違うといわれている。男は「摂食中枢」から、女は「満腹中枢」から影響を受けるのだそうだ。摂食中枢とは、空腹感や飢餓感を感じるところ。一方、満腹中枢は、満腹感や安心感を感じるところ。
ええっ、空腹と満腹では真逆じゃん!という話なのだが、男の場合はハングリーなほうが性欲をかき立てられ、逆に女は満ち足りて安定しているときのほうがしたくなるということらしい。
生きものとして考えてみれば、性欲はもともと子作りが目的だから、安定が脅(おびや)かされたとき、種の存続のためにもオスはいっそう種つけに励み、メスは環境が整ったときに身ごもりたいと欲するということだろうか。
でも、それではオスとメスの欲情のタイミングは、つねに一致しないことになる。こっちがやりたいときに向こうにはその気がなく、こっちがやりたくないときに向こうから迫られても、それはお互い「ちょっと勘弁してよ」である。
蔓延する夫婦のセックスレスも、このような脳のメカニズムから考えれば、それが当たり前と言えなくもない。夫は家庭内の妻には食指が動かず、バレたらヤバい外の女にわざわざチンチンを勃てる。妻のほうは家庭を持った時点である意味、安定を手に入れたわけだが、自分を女として見ない夫に愛想を尽かし、しかし欲情も後押しして、機会があれば外の男としてしまう。まぁ、結婚しても働いていたり、趣味の場や習い事やネットで知り合う可能性も格段に広がったわけだから、その気になれば今はそういう機会がたくさん身のまわりにあるだろう。
そう言ってしまえば元も子もないというか、話は終わってしまうのだが、でもそれは「一夫一婦制にあてはめれば」という前提においてである。誤解を恐れず言えば、一夫一婦制であるかぎり、セックスレスは今後も増えつづけることになる。
では、どうすればいいのか? 一夫一婦制は制度の側が作り出したものだと僕は思っている。かつてこのブログの
「結婚の新しいかたち」
という話で紹介した母系社会の“通い婚”ならば、男と女の欲情のタイミングも一致するはずである。
母系社会の“通い婚”とは、男が女の家に夜だけ通ってくる。一緒に暮らすわけではなく、それは子どもが生まれても同様である。かといって、女はシングルマザーで子育てするのではない。母系社会だから、自分の両親や祖父母、兄弟姉妹もずっと同じ家で暮らしている。つまり、生まれた子どもは、その大家族の子であり、全員が親代わりなのだ。
この場合、女は安定した状態でいられる。家庭を顧みない夫に一人孤独を味わうこともないし、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)に気をつかうこともないのだから。それに対して男は、不安定だ。通い婚の場合、女が断ればそれで終わり。もちろん男のほうが女の家に行かない自由もあるから、お互いイーブンなのだが、一夫一婦制のように固定化していないぶん、通っていく男のほうがやはりハングリーな状態だろう。
サイパンによく行っていたころ、現地の友人ができた。ビル、スタンレー、ピーターの3人。彼らは兄弟だが、ぜんぜん顔が似ていない。親しくなるにつれ、お母さんは同じだが、全員お父さんが違うのだと知った。お母さんはパラオの出身で、ビルたちのような母系家族がサイパンにもけっこういることがわかってきた。日曜の午後、食べ物や飲み物を持ち寄り、ビーチでバーベキューをするというので、僕も誘われて何度か行った。家族の中心にお母さんがいる。お父さんたちは少し離れた所にいるが、お父さん同士も仲がいい。親戚や孫たちも来ていて、みんなで食べたり飲んだり、海で遊んだりしている。お母さんが中心だからトゲトゲしさはなく、和気あいあいの時間がゆったりと過ぎていった。当時、こういうのもいいなと感じたものである。
総務省の発表によれば、2010年、わが国のシングルマザーの数は108万人だという。3年前のデータだが、現在、それより減っているとはとても思えない。
夫婦がうまくいってない、あるいは、うまくいかなかったという人は、自分や相手の非に目を向けるだけでなく、婚姻制度そのものが、もはや現状に合致していないんだという視点に立てば、また新たな風景が見えてくるのではないかと僕は思う。
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2013-11-15(00:00) :
週刊代々木忠
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第240回 オスがオスであるために
かつてヤップにハマッていたころ、帰国途中、グァムに2泊したことがあった。伸び放題だったヒゲを剃って、ビーチやプールサイドにいると「一人ですか?」とか「どれくらいいるんですか?」と女の子たちがやたら声をかけてきた。
グァムに寄る前、ヤップにはたしか1カ月ほど滞在していたと思う。だから僕はずいぶん日に焼けていた。だが、モテたのは日焼けのおかげでもなさそうだ。なぜなら、日に焼けている男たちなら他に何人もいたし、僕自身、グァムでもっと黒くしたこともあったが、そのときは何も起こらなかったからである。
きっとこれはオスの匂いだろうなと僕は思った。五感でいう匂いではない何かをメスが嗅ぎつけてやってきている。そのとき僕は何かを発していたのだ。
今とは違い、当時のヤップはまだ未開の地で、海洋民族である島民たちは気性もなかなか荒かった。男はみな蛮刀を持っており、集落間の抗争で酋長の四男坊が殺されたとか、その報復には巻貝の毒が使われたとか……生々しい話し合いの場が持たれているときに滞在したこともある。さすがに日本人の僕らが抗争に巻き込まれることはないけれど、島全体の空気感というか緊迫感がミクロネシアの他の島々とは違うのだ。
滞在していたベチョル村は遠浅のリーフなので、遠泳しようと思えばアウトリーフまで行くことになる。そこにはサメもいる。でも、サメよりも怖いのはダツである。ダツは細長い魚だが、特に両顎は前に長くとがっている。小魚のウロコが反射する光に向かって、ダツは時速60キロで突進してくる。そのスピードでダツにぶつけられれば、とがった口は人間の体にも深く刺さり、刺さった途端えぐるように回転するという。だからダツは、村の人々にも恐れられていたのだ。僕は気持よく泳ぎながらも、波を立てないように気をつけた。つねにダツのことが頭から離れなかったのである。
危険なのは海の中ばかりではない。のどかな砂浜を歩いているときでさえ、危険を察知する感覚は養われる。ヤップには集落を囲むようにヤシの木が密集している。しかもこっちのとは違って、めっぽう背が高い。上のほうにはヤシの実が鈴なりだが、ちょっと強い風が吹けばドスーンと落ちてくる。数が多いだけに、それこそ5分か10分おきくらいに、どこかで落ちる。村人からも「これだけは気をつけろよ。俺たちは助けられないから」と言われた。そりゃ、そうだ。落ちたと思ったときにはもう地面に転がっている。「もし頭を直撃したら、きっと即死だよな」と僕らは話していた。
その他にもあげれば切りがないが、こういう所で1カ月も暮らしていると、野性が出てくるというか、おのずと本能的になってくる。
脳を、その進化になぞらえて3つに分ける考え方がある。(1)爬虫類の脳、(2)哺乳類の脳、(3)人間の脳などといわれる。(1)爬虫類の脳は、呼吸や心拍や血圧といった内臓器官を動かす、生命維持のための脳。(2)哺乳類の脳は、快や不快、恐怖や不安、怒りなどの情動をつかさどる脳。(3)人間の脳は、情報や知識を膨大に蓄え、それを論理的に組み立てる脳。
先日、TOKYO МXテレビで戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長が石原慎太郎議員と対談をしていた。戸塚さんの持論は「脳幹論」というのだそうだが、対談においても盛んに「脳幹を鍛えなきゃいけないんだ」と言っていた。
脳幹は、前述の(1)爬虫類の脳に属する。要するに、生きものとして根っこの部分である。戸塚さんの「脳幹論」では、現代っ子はこの大事な脳幹を刺激されないまま成長しているがゆえに生命力が弱くなり、精神力も弱くなったという。
僕も、思考至上主義の現代においては、(1)爬虫類の脳や(2)哺乳類の脳がとかく軽視されてきたように思える。ヤップでの1カ月は、戸塚さん言うところの脳幹をはじめ大脳旧皮質や大脳古皮質、つまり(1)爬虫類の脳や(2)哺乳類の脳を駆使することによって、僕は野性的になっていたと思うのだ。
これらを鍛えるには、そこを使わざるを得ない状況を作ってやるのが早い。たとえばヨットやサーフィン、ウインドサーフィンといったマリンスポーツは、つねに海という自然の脅威に身を置くことになる。とりわけサーフィンは、それに加えて腰を鍛えることにもなる。また、ロッククライミングなども重力という脅威と隣り合わせであるからオススメである。
いずれにしても、いつも安全な場所に身を置いて、体を動かさず、汗もかかず、机やパソコンに向かっているだけでは、どんどん野性は退化してゆくことだろう。
オスがオスでなくなっている。それをメスたちはたしかに感じ取っているのである。
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2013-11-08(00:00) :
週刊代々木忠
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第239回 初体験は何歳?
先月、「ザ・面接」で元アナウンサーを撮った。短大卒業後、地方のテレビ局に就職し、5年間アナウンサーをしていた子だ。ローカル局だが、その地方の人ならば、きっとテレビで見かけたこともあっただろう。
その子が撮影現場で漏らした局アナ時代の性体験は、僕もちょっと驚きだった。プロデューサーの面接資料には、体験人数30人とあった。特に多いという感じはしない。ところが彼女は、アナウンサーをしていた5年間だけで、実際には200人近くしたと言い出したのである。仕事がらみの飲み会があれば駆り出されて、多いときには1日に5人相手したこともあると。
ローカル局が大変なのは話としては聞いていたけれど、もしこれがスポンサーたちへの“枕営業”だとすれば、まさかここまでとは思わなかった――というのが正直な感想である。彼女の言い分を額面どおりに聞けば、「そういうのが耐えられなくなって、テレビ局を辞めた」そうである。でも、それでアダルトビデオに来るというのも、どうなの?とは思うけど。
いくらなんでもローカル局の女子アナたちが、みんなスポンサー相手にセックスしてるわけはないので、おそらくこの彼女自身、200人近くとのセックスを楽しんでいた部分もあったはずだと僕は思った。
なぜならば、彼女は小学校6年から兄の持っていたAVを毎日のようにこっそり見てオナッている。初体験は中学1年。相手は女友達のお兄さん。中学2年のときには49歳の塾の先生ともしている。アナウンサー時代のオナニーのイメージは、会社の取引先の人に手縛りや目かくしをされて無理矢理っぽく……だそうである。
中1という彼女の初体験は、今回出演したメンバーのなかでは最も早い。性的虐待やレイプ体験などは別にして、初体験が早いと、セックスに対する抵抗感がなくなる傾向がある。そんなことを考えているうちに、女の子たちは何歳で初体験を迎えているのか――という、これまであまり気にしてこなかったことが、僕は急に気になり出した。
プロデューサーはほぼ毎日面接しているが、初体験はどの子にも必ず訊く質問の1つである。先述のとおり、体験人数が多い場合、少なめに言う子はいるものの、初体験についてはプロデューサー資料と現場の本人発言で食い違ったという記憶がない。古い資料はすでに処分してしまっているけれど、いま事務所に残っているものだけでも、かなりの人数にのぼるはずだ。そこで僕は過去の記録をひっくり返し、初体験の年齢を集計してみようと思った。
全体数としては3,293人。いちばん多いのは16歳の755人(全体の22.9%)。13歳から3ケタに増える。中学に入ってから初体験を迎える子が増えるということだ。13、14、15歳で体験する子が1,064人(32.3%)。16、17、18歳で体験する子が1,680人(51.0%)。合わせると2,744人(83.3%)。これが21歳になると2ケタに減る。今回集計した3,293人のなかに処女はいないけれど、それ以前にはわずかだがいた。「ザ・面接」シリーズにも1人出ている。
16歳がいちばん多いというのは、僕がイメージしていたよりも早かった。高校1年か、人によっては2年だろう。まぁ、ビデオに出ようと思っている子たちだから、世の中全般の初体験年齢よりは総じて早いのかもしれない。
淫行条例というのがある。それぞれの地方自治体が定める青少年保護育成条例の中にそれはある。ここでいう青少年とは18歳未満の未婚の男女。だとすると、17歳以下のセックスはすべて淫行なのかということだが、民法では16歳以上の女性の婚姻を認めているから、恋人同士がするぶんには16歳になっていればいいということだろう。
ただ、3000人分の資料を見るかぎり、初体験の相手は「彼」「先輩」「友達のお兄さん」が多いものの、かなり年の離れた男性もちょくちょく見かける。たとえば「塾の先生」「学校の先生」「部活のコーチ」というように。発覚すれば大騒ぎになりそうなケースも少なくないのだ。
ところで、年の離れた男たちが初体験のお相手となると、同世代の男は何をしてるんだろうという疑問も湧く。男については、さすがに面接資料もないわけだが、女の子を通して見えてくる男たちは、どうも生きもののオスとして元気がない。男が草食化していくのは、平和が続いて、性闘争本能が弱まったからだと以前に書いた。今もそれは一因として僕の中にあるのだけれど、脳に関する本やネットの記事を読んでいて、「なるほどなぁ」と近ごろ思ったことがある。次回は、それについて書こうと思う。
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2013-11-01(00:00) :
週刊代々木忠
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第238回 祭りと友と商店街
北海道にいる娘が孫2人をつれて泊まりに来ていた。ちょうど隣町の祭りがあり、「なつかしいから、子どもたちをつれて行きたい」と言う。そこで僕も一緒に4人で出かけた。
家を出て、ほんの20、30メートル行ったところで、太鼓の音が聞こえてくる。つづいて、お囃子(はやし)の音も。僕は祭りが好きである。あの音を聞くとワクワクしてくる。音のする方向へ4人で歩いていくと、次の辻で一行に遭遇した。
先頭は、背に「神」と書かれた白装束のおじさん。そのあとに子どもたちが太鼓車を引っぱっている。大きな和太鼓が1張乗っているだけなので、大人なら2人もいれば、子どもでも10人くらいで充分そうだが、すでに40、50人の子どもたちが長い引き綱をつかんで歩いている。上の孫もすぐにそれに加わる。
ドーン、ドーンと打ち鳴らしながら進んでいく太鼓は「来るぞー!」とまわりに告げる露払いか。そのあとに、笛や太鼓といったお囃子を乗せた山車(だし)がつづき、最後は大人たちが担ぐ神輿(みこし)だ。
で、一緒に出かけた娘はといえば、行く先々で幼なじみに出会い、話に花が咲いている。娘が通った小学校・中学校の、ここは学区内なのだ。久しぶりに会った同級生たちと「わー!」とか「久しぶり!」とか「私、子ども3人なのよ」「うちは2人!」とか、とにかく大盛り上がりで、一緒に行った僕のことはとりあえず忘れている。
その光景を見ながら、僕はよそ者だが、娘はここが地元なんだよなぁと思った。娘は夫の転勤で2年東京を離れているけれど、ずっとここで暮らしていたとしても、ふだん同級生と会うことはそれほどなかっただろう。こういう機会でもなければ。
太鼓車を引っぱっていた子どもたちは、駅前で福袋のようなご褒美をもらって解散になった。そのあとは、神輿がこの地区の氏神を祀る神社に向かって商店街をのぼってゆく。
会社では大人しいサラリーマンも、家事や育児に追われる主婦も、お店をやっているダンナもオカミサンも、神輿を担ぐこのときばかりは血湧き肉踊り、真剣そのものの形相。お互いの肩書きは消え、オスとメスの本能がほとばしっているように僕には見えた。それを見ている6歳の孫も、目が輝いて高揚しているのがわかる。
今は、全国のいたるところで“シャッター通り”と化した商店街を見かけるけれど、ここの商店街は珍しく活気に溢れている。祭りを見ても、地元への愛着と誇りのようなものを感じる。その団結は、きっと地域のコミュニケーションが健全で、昔からあった人間関係が商店街とともに生きているということなのだろう。
そして、たとえふだんは忘れていようとも、この地域の中心にはまぎれもなく神社の存在があるということなのだ。かつては、日本のどの町や村でもそうであったように。
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2013-10-25(00:00) :
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第237回 秋の夜長
30年ほど前は、仕事が一段落ついた9時10時からでも、友人たちと飲みに出かけた。友人の多くが鬼籍に入ったのもあり、今は仕事帰りに誰かと飲みに行くことはめったにない。仕事自体も昔のように深夜や明け方までぶっ通しでやることはなくなった。
その代わり、夜、僕は自分の時間を持てるようになった。日によって帰宅時間は前後するけれど、帰って、風呂に入って、食事が終わるのがだいたい10時前後である。それから僕は2匹の犬たちと一緒に庭に出る。
広い庭ではないが、庭を囲むようにウッドデッキが家から張り出している。そこなら犬の足もそんなに汚れない。僕もウッドデッキにそのまま座り込む。で、何をするかというと、特に何をするというのではなく、犬と戯れたり、月や星を眺めたり、気が向けばストレッチや腹式呼吸をしたり……。
話は変わるが、わが国のネット依存者は、中高生で50万人以上、成人で270万人以上と推計されている。現代はネット社会だから……などと言ってはいられない状況がある。
ネット依存が引き起こすのは、睡眠障害やうつ症状といったメンタルのトラブルだけではない。視力や筋力の低下、骨粗鬆症、長時間のオンラインゲームでは脳血栓や心不全で急死するケースまであるという。
僕はネット依存ではないけれど、1日じゅうパソコンでビデオの編集をしていると、これは体に悪いなぁと実感する。じっと同じ姿勢のまま動かず、長時間同じことをしているのは、ネット依存者と共通するものがある。
しかも、事務所を出たとき意識を切り替えたつもりでも、頭の中には編集の仕事が残っている。考えていないようで、まだ考えている。つまり、“今ここ”にいない状態なのである。
それに対して、庭で犬と遊んでいるとき、ストレッチをしたり、腹式呼吸をしているとき、僕は“今ここ”にいる。加えて、月や星という遠くを見ることは、パソコンのモニターという近くばかりを見ていた眼球を緩めるというか、休めているのだ。
夜のすごし方として、僕は自分の部屋で民族音楽を聴くのも好きである。YouTube で検索すれば、いろいろな民族音楽に出会える。たとえば今気に入っているのは
「FOLI」
。見ていただければわかるが、ここには生活があり、その生々しさの中に僕は懐かしさを感じる。
ずっと昔、僕らの祖先が生活を始めたころ、やはりそこには音があったはずだ。音楽のリズムというのは、こういうところから生まれたんだなぁと思う。民族音楽を聴いていると、リズムに合わせて体も動いてくる。そうして自分の中で滞(とどこお)っている何かが中和されていくのを感じるのである。
部屋でテレビを見る夜もある。ケーブルテレビに「アニマルプラネット」というチャンネルがある。世界最大級の動物エンターテインメントチャンネルだが、なかでも野生動物ものをよく見る。
たとえば、草食動物はエサとなる草を求めて3000キロも旅をする。その途中で、弱いものは肉食獣に食われ、ついてこられないものは群れから置き去りにされる。そこには「生きる・食べる・死ぬ」が記録されている。
見ていると、僕ら人間が彼らの世界からいかに遠く離れてしまったかと思わざるを得ない。出過ぎてしまったと言ってもいいかもしれない。
庭も、民族音楽も、野生動物も、共通するのは自然である。日々なんらかの形で自然にふれることで、僕は安心できるし、落ち着くのだ。それがいつの頃からか、心地よい自分の時間になった。歳をとったということかもしれないけれど……。
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2013-10-18(00:00) :
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第236回 あっぱれ!
少子化が叫ばれて久しいが、先日、監督面接で会った女性(37歳)は子どもが6人いるという。いちばん上が中学生で、下はまだ幼稚園前。出演動機は、子どもが多いので生活費を稼ぎたいとのこと。ご主人の給料は月40万。今どき少ないとは言えないものの、子ども6人ともなれば大変だろう。このように主な動機はお金だが、「AVを見てると楽しそう」とも言う。
職歴を訊いていくと、20代のころにヘルス、ピンサロ、ランジェリーパブに勤めている。そして、2カ月前からヘルスに復帰した。これもお金が目的らしい。もちろんご主人には内緒である。
しかし、ここまで読まれた方は、AVにも興味があるし、収入を得る手段として風俗を選ぶくらいだから、ダンナさんとはセックスレスか、してても回数が少なくて欲求不満なんだろうと思うかもしれない。たしかにビデオに出る主婦で、「子どもができたら、しなくなった」「してもおざなり」とこぼす人は多い。
ところがである。彼女いわく、ずっと夫婦仲はよくて、現在も週3回はしているというのだ。週3といえば、ほとんど1日おきのペースである。「自分から行くの?」と訊いたら「私から行くこともあるし、ダンナのほうから来ることもあります」。敵わねえなぁ……と僕は思ってしまった。だが、彼女は「私たちの間ではこれがふつうで、ちょうどいいんです」と言う。
しかも、彼女もご主人も、最初から子どもはたくさん欲しいと思っていたそうで、ずっとゴムなし。今は7人目ができてもいいと。この少子化時代に、もう表彰ものだと僕は思った。
けれども、驚くのはまだ早い。現在、彼女にはセフレが5人いる。内訳は20代2人、30代2人、40代1人。彼らとだいたい月5回(1人平均1回)はしてるという。さらには、オナニーが週2回。とても体ひとつじゃ足りない感じだ。僕は思わず「何食ってんの?」と訊いてしまった。
では、話してみた彼女の人となりはどうなのか? これが、いたって“ふつう”なのである。常識を備えているし、偏った考えにとらわれていないし、会話のキャッチボールは心地よく進む。見た目からは、とてもそんなにセックスしてるとは誰も思わないはずだ。かといって、自らの欲望を持て余し、悩んでいるわけでもないから、セックス依存症ではないだろう。
ダンナと子どもがいながら、5人もセフレをつくり、ヘルスで働き、ビデオにも出たいと言う。ふだんならば「それってどうよ!?」と言いたいところだが、彼女と話していて、なぜか否定する気持ちにはなれなかった。もう超えちゃってるというか……。
女性は歓びを知ってしまうと、本当は毎日でもしたいと思う。男も若いときにはそうであったように。ところが今は、男も女も“したくない子”が増えている。それは生きものとしての生命力が衰えてきているようにも僕には映る。だから、セックスが好きで、実際これほどしている彼女は、人間の本来あるべき姿なのかもしれないと思うのである。
そんな彼女が、現場ではいったいどんなセックスするのだろうか? 僕はそれが見てみたいと思った。
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第235回 老いない魔法
夏には気の合う友人たちと千葉の別荘に出かけるのだが、今年は女房の具合が悪かったり、看病疲れから僕が風邪を引いたりで、行けないままになっていた。朝夕秋めいてきて、友人からは「そろそろどうですか?」の声もかかり、女房の具合も落ち着いていることから、先日、男5人、3泊4日で行ってきた。
メンバーはいつもの顔ぶれで、下が50代後半、上が77歳のジャイアント吉田さんだ。若者はいない。さすがにみんなこの歳なので、老眼鏡や遠近両用の世話になっていると思いきや、最年長の吉田さんは新聞や雑誌を読むのにも眼鏡を使わない。老眼鏡がなくても、あの小さな文字が見えるのだ。
目だけではない。これまで虫歯で歯医者に行ったことはあると言うが、77の今なお、全部自分の歯である。これって、凄くないだろうか? 残りの4人は、アンチエージングの秘訣を吉田さんから聞き出すことにした。
彼は若い頃から「体が資本だ」と考えており、武道をたしなみ、ずっと体を鍛えている。今も週に2日はスポーツジムに行く。たしかに長年の弛(たゆ)まぬ稽古やトレーニングは大きな効果をもたらしているはずである。
けれども吉田さんいわく、目や歯が現役なのは、それ以外にも理由があるという。彼は日本催眠術協会の理事長であり、催眠術をたくさんの人たちに教えている。彼は率先して自分にもアンチエージングの自己催眠をかけつづけているというのである。たとえば「歯はもう全部、死ぬまで自分の歯でいる」と。
人に教える手前、身をもって実証しないと自信をもって言えないというのもあるはずだが、もともと好奇心が人一倍旺盛な人である。いったい自己催眠でどこまでできるのか、本当は自分がいちばん知りたいに違いない。
10年ほど前、吉田さんは友達と立ち話をしていて、バックしてきたフォークリフトに足を轢(ひ)かれた。運転していたのは、地元のバイトのおじいちゃん。吉田さんも、まさかおじいちゃんがこっちをぜんぜん見てないとは思わなかったらしい。
結果、足首を複雑骨折。歳は当時もう60代の後半だし、ケガの場所が場所だし、複雑骨折だしで、もとどおりになるのは難しいだろうと思われた。なかには、寝たきりになってしまう人だっているくらいだから。
ところが、吉田さんは「絶対もとどおりになる」と自己催眠を入れつづけたそうである。そして今はまったくふつうに歩けるばかりか、走れるし、涼しい顔で正座までしてみせる。
「だけど苦労もあるんだよ」と吉田さんが言う。要は自己催眠が上手くなると、自分の思いが肉体に与える影響が顕著になる。日常生活の中ではいろいろな人と接するし、体調がいいときばかりではない。そんなときに、ちょっとでもネガティブなことを思うと、思っただけでそれが体に来てしまうようなのだ。
さて、吉田さんのアンチエージングの秘訣は自己催眠にあったわけだが、今回、千葉で友人たちと過ごしていて、自己催眠に加えてもうひとつあるんじゃないかと僕は思った
それは吉田さんが“自分の体の声”に忠実であるという点だ。たとえば、前回ゴールデンウィークに集まったとき、彼は酒を一滴も飲まなかった。もちろん飲めないわけではない。飲んでも美味しくないと感じたときには、僕らがいくら勧めても飲まない。ついつい、つきあいで……とはならないのである。それが今回は2日目、朝風呂から上がったときに「ビールでも飲もうかな」と言い出した。きっと体がビールを求めていたのだろう。
こうした「オレはオレ」という生き方は、社会から見たら「わがまま」とも取られがちだが、それを貫けば老いてヨレることもないように思える。僕ら5人はだれもサラリーマンの経験がなく、それぞれの道で自由に生きてきた。吉田さんの「体が資本」じゃないが、だれかが守ってくれることはないから、その都度自分でなんとかしなきゃならなかった。
それでも、この歳まで楽しい人生を送ってこられた。今の人たちはとかくリスクを計算し、回避しようとしがちだけれど、思いどおりに行かない可能性や失敗するかもしれない危険性は、なにも悪いことばかりとは限らない。それらは、生かされているのではなく、自分で生きているという証(あかし)でもあるのだから。
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2013-10-04(00:00) :
週刊代々木忠
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去る9月7日、2020年のオリンピック開催地が東京に決まった。イスタンブールやマドリードに分(ぶ)があるのでは……という不安を、見事最終プレゼンでくつがえしてみせた。
プレゼンはチームの勝利ではあるけれど、なかでも女性3人が素晴らしかった。とりわけアスリート・佐藤真海のスピーチに、僕は心を動かされた。テレビで見た人も多いはずだが、彼女のスピーチの主要部分(日本語訳)を引用してみる。
〈19歳のとき、私の人生が変わりました。私は陸上、水泳、チアリーダーもしていました。そして足首に痛みを感じ、数週間後には骨肉腫で足を失いました。もちろんつらかった。私は絶望していました。
でも大学に戻り、また陸上競技を始めました。目標を立てて、それを達成することが楽しくなりました。新たな自信が湧いてきたのです。そしてなにより私にとって大切なのは、自分が持っているものであり、失ったものではないということを学びました。
アテネと北京のパラリンピックに出場し、2012年のロンドンも楽しみにしていましたが、2011年3月11日、津波が私の故郷を襲いました。6日間、家族の安否が不明でした。家族が見つかったとき私は歓びましたが、私個人の歓びなど、国全体の深い悲しみとは比べものにもなりませんでした。
私たちは一緒になって、自信を取り戻してもらうためのスポーツ活動を主催しました。そこでスポーツの真の力を目の当たりにしました。新たな夢と笑顔をはぐくむ力。希望をもたらす力。人々を結びつける力。200人を超えるアスリートたちが、日本そして世界から、被災地に約1000回も足を運びながら、5万人以上の子どもたちをインスパイアしています。
私たちが目にしたのは、それまで日本では見られなかったオリンピックの価値がおよぼす力です。そして、日本が目の当たりにしたのは、これらの貴重な価値(卓越さ、友情、敬意)が、言葉以上の大きな力を持つということです〉
19歳の女性が膝から下を失うことの絶望とは、いかばかりかと思う。そんな彼女にスポーツは新たな自信を与え、大切なのは失くした足じゃないという気づきを起こさせる。被災地ではスポーツが、夢と笑顔をはぐくみ、希望をもたらし、人間同士を結びつけたのだと。
彼女のメッセージは、会場のIOC委員をはじめテレビの前の僕たちの心にしかと届いた。
メディアはオリンピックの経済効果をさかんに喧伝している。経済効果もあるにはあるだろうが、それ以上に大きいのは、やはり彼女が訴えたスポーツ効果のほうだろうと僕は思う。
経済は疲弊し、政治には失望してきた。それに加えて、観測記録を更新するほどの酷暑、豪雨、そして竜巻……。いつしか人々の心にも暗雲が垂れこめ、希望や目標の光が見えないムードが蔓延してはいなかっただろうか。それが今は、7年後に開かれるスポーツの祭典に心浮き立つものがある。
心理面ばかりではない。僕はこれまで監督面接で、撮影現場で、そしてこのブログでも、「体を動かせ!」「汗を流せ!」と言いつづけてきた。昔だったら、ことさらスポーツなどしなくても、生きる・食べるが体を動かすことに直結していた。
それがテクノロジーの進化によって、しんどいことや面倒なことは機械が代わりにしてくれるようになった。そのうえ今という時代は、頭脳や知識が優先され、体を動かさないことばかりが要求されているように見える。「じゃあ、幸せなのかい?」っていうと、肉体的にも精神的にも不健康な人が増えた。
オリンピックには世界の競技がそろっている。それらを見るにつけ、触発され、思い思いに自分のスポーツを始める人が増えるだろう。特に子どもたちにとってオリンピックは、憧れとともにひとつの目標となる。
今の高校生はもとより、中学生、小学生でも、7年後にはほとんどの競技へ出場可能な年齢に達している。学校内では部活の勧誘がしやすくなるだろうし、クラブチームへの参加も活性化することだろう。そうして、スポーツ人口の裾野は広がってゆく。
実際オリンピックやパラリンピックに出場し、ましてやメダルを手にできるのがごく一部の人たちだけだとしても、可能性はあなどれない。よしんばそこには至らなかったとしても、目に見えないさまざまな恩恵を、きっとスポーツはもたらしてくれるに違いない。佐藤真海が自らの体験をもとに語ってくれたように……。
9月26日(木)、全34タイトルに増えました!
2013-09-27(00:00) :
週刊代々木忠
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第233回 3つのオーガズム
前回のブログで「多くの女性がイキたいと思っている」と書いた。僕自身も長きにわたり「オーガズムとは何か」を追い求めてきた。このブログでも、オーガズムにまつわる話は少なくない。
女性たちと話をしているとき、あるいはメディアから取材を受けているとき、ひと口にオーガズムと言っても、人によってそのイメージはバラバラであることに気づく。それは大学の先生においても、なお同様である。たとえば一例をあげれば、イクとオーガズムは果たしてイコールなのか……。
今から20年以上前に上梓した『プラトニック・アニマル』は、いわばオーガズムに関する理論と方法の書だが、この中でオーガズムは特に区分されていない。だがのちに、僕はオーガズムを3つに分けてとらえたほうが、より正確に伝わるのではないかと思い直した。その3つを次に記すが、それぞれのオーガズムを記録した短い映像も添えるので、ぜひ見比べていただきたい。
(1)小さなオーガズム
これは“肉体的な快感”が頂点に達したときに我を忘れる状態である。この場合の多くは、肉体的な刺激をフィードバックさせて自己完結している。だから、セックスしている相手と心の交流がないのが特徴だ。オナニーでイクのも、オナニーのようなセックスでイクのも、それは小さなオーガズムと言えるだろう。クリトリス派といわれる女性の多くや、射精が最終的な快楽だと信じ込んでいる男性のほとんどがここに属する。
(2)中くらいのオーガズム
肉体的な快感よりも、むしろ好きな相手への“心のときめき”のほうにウエイトが置かれたセックスに多く見られる。肉体の快感の頂点と心と心の融合から起きる忘我の状態。心ゆえに感動をともない、「好き!」「愛してる!」といった思いが込み上げ、それが言葉となって現われる。また、このオーガズムを体験しているカップルのセックスは、目と目を見つめ合いながら愛し合っているのが特徴である。そして思わず涙が溢れてくることも多い。
(3)大きなオーガズム
心というプリズムを通さずにダイレクトに“魂同士が共鳴し合う”ことから訪れる至福の境地。このオーガズムを体験すると、気づきが起きて、人生観が一変し、それまでネガティブだった生き方もポジティブに変容する。小さなオーガズムが肉体の快感によって我を忘れ、中くらいのオーガズムが心の融合によって忘我の境地に至るのに対して、この大きなオーガズムでは、明け渡しによって自分そのものがいなくなる。一種のスピリチュアル体験である。
オーガズムを大中小に分けてみたが、厳密に言えば、僕が真のオーガズムと呼ぶのは3番目の「大きなオーガズム」だけである。とはいえ、この30数年間で延べ1000人近くの女性たちを撮ってきたけれど、大きなオーガズムを体験した人は10人にも満たない。
だから、大きなオーガズムを体験しなければ「そんなのはセックスじゃない」などとは、つゆほども思っていない。2番目の「中くらいのオーガズム」に至れば、人はセックスでこの上ない幸せを実感できる。それは僕が保証する。性の道を究めるつもりならいざ知らず、ふつうの人はそれで充分なはずである。
2013-09-20(00:00) :
週刊代々木忠
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第232回 女性たちの悩み
「女性のための愛と性の相談室」の中に「誰にも聞けない悩み相談」というコーナーがあるが、現時点で次のような「相談」の数々がアップされている。
◆
体だけの関係が続く彼と将来はあるでしょうか?
◆
性器や乳首にふれずにイク方法を教えてください
◆
レイプのトラウマから自由になりたいんですが…
◆
つきあってはフラれる彼と、なぜ別れられないのでしょう?
◆
4年つきあっているのに、心の距離が縮まりません
◆
上司との不倫に悩んでいます
◆
私は解離性同一性障害です。夫とのセックスでイキたいのですが
◆
一回したら連絡が来なくなった彼…それ以来、恋愛ができません
◆
40代、50代の出会いはどこにあるのでしょう?
◆
このまま研究者の道を進むのか? 恋愛・結婚を経て家庭を作るのか?
◆
すなおに自分の感情が出せません
◆
人生にも恋愛にも“自立”したいのですが…
◆
もう夫を男として見られません。セックスも義務です
◆
家のこと母のことを考えると、自由に恋愛ができないんです
◆
自分に魅力がないので、恋愛ができません
◆
26歳の今まで男の人とつきあったことがありません
◆
悩みはセックスでイケないことです
◆
私はこの世に必要のない人間だと思うことがあります
◆
「しょせん風俗嬢だから」という目で見られてるんじゃないかと…
◆
ストーカーやレイプのトラウマで、恋愛に臆病です
◆
恋愛になると相手との関係をうまく築けません
◆
セックスでイケないからか、ダンナ以外の人に…
◆
いじめを受けたせいか人間不信で、本当の自分を見せられません
◆
夫の裏切りを許すには…?
◆
数年前から主人以外の不特定多数の男性と…
◆
どうしたら恋人ができるんでしょうか?
◆
7年つきあったセフレに情が移ってしまったのですが…
◆
中途半端な状態で、進むべき道が見えません
◆
望まない結婚をして今に至っています
◆
つきあって自分を出すと逃げられるんです
この相談サイトを始めるにあたって、僕は次のような文章を載せた。
〈ご本人にとっては切実な問題であり、相談を切り出すだけでも勇気がいる。その映像を不特定多数の人たちが見られる場に掲載すること自体、いかがなものかと考える方もいるかもしれない。恋愛もそうだが、性はそれにもまして人に聞けない悩みだから、他者の悩みを見る機会はほとんどない。しかし、相談風景を見ることによって、まったく同じ悩みではなくとも、そこに共通するヒントが見つかるかもしれない。仮に見つからなくても、悩んでいるのが自分だけじゃないと感じるだけで、何らかの風穴があくかもしれない。そうなれば、相談に来られた女性が、結果として別の女性を救うことになる〉
いろいろな相談がある。このうちのいずれかに自分と重なる悩みを見いだした方もいるはずだ。とはいえ、何カ月にもわたって視聴が最も多いのは「悩みはセックスでイケないことです」という相談である。裏を返せば、それだけ多くの女性が「イキたい」と思っているということだろう。
次回のブログでは「3つのオーガズム」について書いてみたい。
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2013-09-13(00:00) :
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第231回 妻の異変
1日目。
夕方になって、女房の具合が急に悪くなった。体をよじるくらい肋骨のあたりが痛いと言う。顔面蒼白で、脂汗も流している。これは尋常じゃない。だが、あいにく土曜日で、きょうもあすも病院は休みだ。救急車を呼ぼうとしたが、行くのなら女房が糖尿病で通っている大学病院がいいだろうと思い直す。救急車だと、どこへ運ばれるかわからない。かかりつけの病院の救急へ電話を入れると、最低1時間から1時間半は待つことになるけれど、とりあえず診てくれると言う。
救急の窓口で状況を話すと、看護師さんが出てきて血圧を測った。232もある(ちなみに、成人の血圧の正常値は上が130未満と言われている)。すぐに奥へつれていかれて、正式に測ると240。造影剤を注入してCTで胸部をスキャンする。疑われたのは大動脈解離だった。けれども、CTの結果から大動脈解離ではないとわかる。ただし、それがわかっただけで、痛みと高血圧の原因はわからない。とりあえず血圧を下げる薬と痛み止めが投与されて、点滴を受けた。
深夜の2時ごろ、降圧剤のおかげで血圧は130台まで下がった。痛みのほうは来たときほどではないものの、まだ息をするのも痛く、その範囲は「肋骨だけでなく背中のほうまで広がった」と言う。どんなふうに痛むのか訊いても、女房は「表現のしようがない」と繰り返す。体の表面が痛いのか、中のほうが痛いのか、それも「わからない」と。
病院側は「血圧が下がったので、家に帰ってください」と言うが、「このまま帰っても、痛みは治まっていないし、入院させてほしい」と僕は頼んだ。しかし「病名が特定できないので入院はできない」と言う。「どの科が受け持つか決められないから」というのが理由のようだ。しかたがないので、その日は家につれ帰った。
2日目。
指示どおり降圧剤を飲んでいるのに、朝から血圧は240台に上がっている。午後まで辛抱していたが、夕方また痛みが激しくなり、とうとう救急車を呼んだ。来てくれた救急隊員にきのうからのいきさつを話し、「できたら同じ大学病院に運んでほしい」と言ったら承諾してくれた。救急車には下の娘が同乗し、僕はあとから自分のクルマで追いかけることにする。
ところが、救急での対応はきのうとまったく同じものだった。血液検査で炎症が起きていることはわかっても、それがどこなのか特定できない。すると娘がこんなことを言った。「帯状疱疹にかかったことがあるんですが、私は表に(発疹が)出ませんでした。母は私と同じ症状だから、帯状疱疹じゃないですか?」。問われた医者は「帯状疱疹だと皮膚科ですが、きょうは日曜なので皮膚科の先生はいません。循環器系の先生とちょっと相談してみます」と言って席を立った。
相談した結果は「その可能性はあるけれども、断定はできません」だった。僕は「その可能性があるのなら、それで入院の措置は取れませんか」と頼んでみた。このまま、また家につれ帰っても痛みは引いていないし、降圧剤の効きめが切れれば、血圧はきっと240台に戻るだろう。だが、医者の返事は「病名が特定できないと入院はできない」という同じ言葉の繰り返しだった。
3日目。
依然として痛みは引かない。降圧剤が切れると血圧が上がるのも同じである。娘とともに女房を同じ病院につれてゆく。これまでと同じ対応になるだろうことは想像がつくけれど、ほかに手がない。「病名が特定できないって、なぜですか!?」と娘が医者に訊いている。医者だったら何でもわかるだろうとは言わないが、なんの病気か医者が診断できなければ、いったい誰ができるんだよと思う。
すると、救急のきょうの担当医は「では、ほかの病院に行ってください」とこともなげに言う。「小さな病院だったら、病名が特定できなくても入院させてくれるところはあるでしょうから」と。僕がキレる前に、娘がキレた。この3日間インターネットでいろいろ調べてきたらしく、医者を追い込んでいる。追い込まれた医者は、「私たちもサラリーマンですから、決められたことしかできません」と平然と言ってのけた。私たちもサラリーマン? それを医者が言うのか……。
4日目。
この日は糖尿病科の主治医が出ている日だった。僕は仕事だったので、娘がつれていった。「帯状疱疹の疑いがあるけれど、断定ができない」と主治医に話したら、「あらためて血液検査をしてみましょう」ということになった。検査結果がわかるのは1週間後。結果自体はもっと早く出るようだが、主治医は週に2日しか出てこないから、最短で1週間後になる。
8日目。
1週間を待たずして、女房はまた強い痛みに襲われ、血圧が240を超えたので、救急につれていった。「主治医のほうが帯状疱疹に絞り込んだ血液検査をしているので」と言ったら、そのデータが目の前のパソコンに出てきた。正常な値は2以下だそうだが、女房の数値は22。10倍以上である。ということは、やはり帯状疱疹なのだろうか。やっと病名が特定できるかもしれない。そうなれば治療方法も見えてくるはずだ。
10日目。
同じ病院の皮膚科に娘がつれてゆく。飛び込みの初診ということもあり、5時間半待ってやっと診察。皮膚科の医者は血液検査の数値を見るなり、「過去に水疱瘡にかかっていると、なにもなくてもこの数値は出ます」とのこと。10日目にしてやっと病名まで辿りつけると思いきや、またふり出しに戻ってしまったような空しさである。
この10日間で救急に4回行った。そのたびに点滴を5時間半かけてやるので、僕もずいぶん長い時間そこにいたことになる。救急医療の大変さの一端は見たように思う。とくに小児科は大変である。相手は子どもだから泣き叫ぶ。それをなだめすかしながら、診察や検査を進めていく。相手が大人だったら、少なくともその苦労はないはずだ。そして、とにかく急患は次から次にやってくる。だから、いちいち情を移していたら、とても医者の身が持たないというのもよくわかる。
しかしである。患者の側からすれば、あまりにも事務的なのは否めない。ペナルティを負いたくないというのもひしひしと伝わってくる。なかなか病名を特定しないのも、もし違った場合の責任を考えて……というのを感じてしまうのだ。
何回か前のブログに矢作直樹先生の話を書いたが、先生が言っていたことを僕は思い出していた。それはまずタテ割り診療の弊害である。科が違えば医者といえどもまったくわからない。判断もしない。それを打開するためには、矢作先生の唱える総合診療医の育成が本当に必要なのだと思った。
もうひとつ、矢作先生の言葉として「『なぜ病気になったのか?』について、患者も医者ももっと考えなければいけない」というのがあった。なぜ女房はこうなったのだろう? 今回具合が悪くなる2週間ほど前から風邪気味だった。それでも庭いじりをしたり、買い物に行ったりしていた。僕は「休んだら?」とは言ってみたけれど、じっとしていられる質(たち)でないのはわかっているから、それ以上は言わなかった。
風邪というのは「免疫力が落ちたよ」というシグナルではなかっただろうか。免疫力が落ちたとき、もし持病があれば出てくるだろうし、ふだんは平気なウイルスや菌にもずっと感染しやすくなるはずだ。だから、もしもあのとき、もっと注意していれば、こうはならなかったかもしれない……。
このあいだ、北海道にいる上の娘と電話で話をしたとき、「お父さん、よしみを褒めてあげて!」と泣かれた。「私は北海道にいて、なにもできなかったから」と。よしみとは下の娘である。聞けば、娘たちはお互い母親の病気についてインターネットでいろいろ調べ、その情報をもとに毎晩遅くまで話し合っていたらしい。姉のほうは昔から最初に計画を立て、それをきちんと実行していくタイプだった。合理的で、無駄なことを嫌う。それにひきかえ妹は、僕に似て、出たとこ勝負の性格。だからいつも姉からは、やりこめられていた。
その姉が初めて「妹を褒めろ!」と泣きながら父親に訴えてきたのである。女房が病気になってからきょうまでの下の娘の献身ぶりが目に浮かんだ。上の娘にはそれがずっと見えていたのだと思った。そして親を思う娘たちの心を、あらためて見せつけられた思いだった。
21日目。
発病から3週間になる。あれから別の大学病院にもつれていったが、「これまでの検査データをすべてもらってきてください。でないと、うちで診るにしても一から全部やり直さないといけなくなるから」と言われた。最初にかかった病院のほうでは、まだ検査が続いている。血液検査もそうだが、測るたびに不整脈が出たり出なかったりするので、近々、検査入院して心電図を一昼夜とることになっている。
とはいえ、鎮痛剤が効いているのか、このところ強い痛みからは解放されている。身をよじるくらいの痛みに襲われる本人が、いちばん苦しいのは言うまでもないが、何もしてやれずにただ見守るだけの家族にとっても、それはつらいことだった。その痛みが遠のいている。鎮痛剤を飲んでもあれだけ痛がったことを思えば、病気は快方に向かっているようにも見える。ほとんど寝たきりだったのが、いまは起きて生活できるようになったのだから。
ただ、引きつづき降圧剤は飲んでいるものの、血圧は相変わらず240を超えるときもある。医者からは「血圧に関しては長い目で見て、治療していきましょう」と言われている。その病名は……いまだ特定されていない。
2013-09-06(00:00) :
週刊代々木忠
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第230回 街の論理と村の論理
夜這いの研究で有名な民俗学者の赤松啓介先生とある雑誌で対談したことがあった。性にまつわる風俗がテーマだった。大いに盛り上がった対談ののち、先生から「ぜひ読んでみてほしい」と『村落共同体と性教育、性生活の問題に就いて』と題する未定稿のコピーをあずかった。その後、この原稿がどの本に収められたのか確認していないが、先生自身の子どもの頃の体験を綴った部分を紹介しよう。
〈私なども近所に男の子が居ないので、隣の女の子の家へよく遊びに行った。これが女大将で、近所の女児も遊びに来ており、よく泣かせて怒られた。女児の尻をめくると女児たちがおさえつけてチンポをつかんでむいてくれる。痛いと泣いていると女大将が手をつかんで自分のマタへ入れてつかませてくれ、もう泣くなといった。初めてでなんだか大きいものをつかんだと思った。その後、夏の川遊びに女の子がよびにくるので行くと、女大将が鯨の一尺さしを渡して、みんなのもん計れと厳命。七つ頃まではわれ目の計測でごまかせるが、九つぐらいから上もふくらんでくると、ドテも高くなって直尺では計れない。しようがないから下腹のふくれたところから曲線に沿って尻の穴の近くまで計測、女の子でも大きいと思った。だいたい2寸5分から3寸近い。しかし女の子でも色の白い子のはキレイだと思った。まだあまりサネの突出していないのは、ほんまに「桃」みたいで美しいと思った。女大将のものなど、キレイであった。正確に計れるわけがないから女大将のものが最大ということにしてごまかした。この女大将が十五、私が十一の春休みに誘われて性交、私も初めて射精した。結婚したいと思ってもできるわけなく、十九でお嫁に行った〉
原稿のほんの一部にすぎないが、ここからも性に対する大らかさと子どもたちの早熟ぶりが伝わってくる。だが、村は大らかなだけではなかった。赤松先生は同原稿の中で村掟(むらおきて)を村の憲法、村定(むらさだめ)をその細則と位置づけている。つまり、その時々の状況に応じて、村定は改変されるものの、村掟は基本的に不変であったと。原稿を読んでいると、これら村のルールはある意味、国の法律よりも力を持っていたのだろうと思われる。かなり緻密に張り巡らされた決め事によって、秩序を重んじていたのがうかがえる。
山口県で起きた連続殺人放火事件で、Uターンしてきた男に住人たちが取ってきた行動も、一見いじめや嫌がらせにしか見えないが、村の秩序を守ろうとする彼らには必然のことだったのかもしれない。今さら言っても詮なきことだけれど、もし男がずっとこの集落に住んでいたなら、親が存命であったなら、あるいは集落の長老が住民間の揉め事を差配していたなら、きっとこういう結末には至らなかったに違いない。しかし、昔ながらの意識は受け継がれながらも、長老が問題解決の判断を下すという村の機能が、過疎化した限界集落においてはすでに失われていたということだろう。
かつて千葉で古い農家を借りていた頃、僕はそこに暮らす人たちと良好な関係を築きたいと思った。過疎化も進み、祭りの際、神輿(みこし)の担ぎ手も不足しているという。また、複数の地区でどこがいちばん盛り上がったかという選定があると聞き、ここは頑張らねばと、事務所のスタッフも応援に駆り出した。めでたくいちばん盛り上がった地区に選ばれたものの、長老たちからは「おまえらの祭りじゃねえんだ」と言われた。別の地区の長老が「あそこは外の人間をつれてきてズルしてる」と言っているのではない。多少なりともよろこんでもらえると思っていた同じ地区の長老から言われたのである。よかれと思ってやったことだが、なかなか難しいもんだと痛感した。だから山口の場合も、村おこしに奔走し、結果それが仇(あだ)となっていった男の心情も想像がつく。
日本の、それも都会はどんどん変化してゆく。でも、田舎は自然とともに生活しているから、都会ほど変化する必要に迫られていない。そして、両者の格差は広がってゆく。共同生活を営もうとすれば当然ルールは必要だが、街と村ではルールが違う。人間関係の濃さに辟易(へきえき)して都会へ飛び出すか。つながり感のなさや孤独に耐えかねて故郷に帰るか。どちらも天国になりえるし、地獄にもなりえるのである。
8月30日(金)、全32タイトルに増えました!
2013-08-30(00:00) :
週刊代々木忠
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第229回 挿れて1時間してほしい?
30歳、独身、男性経験50人という女性を面接した。出演理由は「今までイッたことがないので、ビデオでイッてみたい」というもの。性体験が少なくてイケない場合なら、比較的簡単にイケるようになる。だが、50人という数はもはや初心者ではない。しかも、プロデューサーから来た資料に目を通しながら、この人はちょっと厄介だなぁと思った。
彼女は小学校4年からレディコミを読んでオナニーしている。そして、オナニーで濡れたパンツは自分で洗っている。それから20年を経た今、「バイブが好き、ローターも好き、電マは大好物」とある。ちなみに電マにはディルド(ペニスの張り型)を装着して使っている。ビデオでやってみたいことは「3~4人に犯される、外でヤラれる、手縛り、レズ、コスプレ」。
なぜ厄介なのかというと、頭で妄想し、そこから欲情してくるという回路が、すでに彼女の中でできあがっているからである。
外的な欲情の回路には、大きく分けて2通りある。ひとつは、そばにいるだけでドキドキしちゃうくらい好きな人に対して「この人に抱かれたい」と欲情するケース。男だったら「この女とやりてぇ」という、つまりは生身の人間に欲情するものだ。そしてもうひとつは、エッチな画像や本やビデオなどを見るなり読むなりして欲情するもの。どちらも欲情には違いないが、出発点はまったく違う。
前者の場合、生身の人間に欲情しているので、そのままセックスに入ればいいが、後者の場合は妄想からいったん覚めて、現実の人間と向き合わざるを得ない。向き合ったとき、自分が作り上げてきた妄想とは異なる現実にふれることになる。
さらに彼女が、オナニーで道具が好きなことや、ビデオでやってみたいことを見ても、強い刺激を求めているのがわかる。プロデューサーの資料には、直近のセックスとしてこんなエピソードも綴られていた。2週間前、出会いクラブで知り合った男としたのだが、「挿入してから20分だった」と不満げだ。「挿れて1時間はしてほしい」と。
応接室で彼女に会ったとき、僕はまず「ビデオに出るのは、ビデオだったらイケるだろうと、そういうことだよね?」と確認した。「それがいちばん大きいです」と彼女。「でも、プロの男優でも、今の状態だったら、あなたイケないよ」。まだ何も話してないうちから、いきなり否定されて彼女は戸惑っている。「きついことを言うようだけど、あなたの中に問題がある。あなたはセックスに参加してないもんね」。
妄想から欲情するタイプは、生身のセックスでいったん覚め、肉体の刺激を味わいつつ、また妄想の世界へと戻ってゆく。体と頭はしていても、心はそこに参加していないわけである。
僕は質問を投げてみた。「今までセックスしたなかで、イカないまでも、『ああ、幸せ』って思うか、涙が出るようなこと、そういう体験はない?」。彼女はしばし考え、「過去につきあった人と1回だけそういうことがありました」と答えた。「オーガズムというのは、そういう状態で起きるんだよ。そのとき、あなたの心はきっと参加してたんじゃないかな」。
僕の言葉を聞いて、「この歳までそれに気づきませんでした。恥ずかしいです」と彼女が言う。殊勝というか、優等生的というか……。彼女は銀座でホステスを5年している。その後は、宝石販売と化粧品販売。どれも自分の本音だけではやっていけない商売である。嘘とまでは言わないが、無意識に表の顔と裏の顔を使い分けることになるだろう。
だが、本当の自分をなかなか表に出せないという姿勢は、これらの職業に就くずっと前からあったんじゃないかと僕は思っていた。それは小学校で始めたオナニーまでさかのぼる。彼女はオナニーのたびごと、濡れたパンツを家族に知られぬよう自分でこっそり洗っていたのだから……。
つづいて彼女にはソファに横になってもらい、催淫CDを聴かせた。聴きながら体は反応しているものの、まだ声を抑えている。本当の自分を出せていないのだ。「どうだった?」と訊くと「入り込もうとするんですけど、どこかで素に戻る自分がいます」という返事がかえってきた。
僕は横になっている彼女のかたわらにしゃがみ込み、彼女の目を見ながら手を握った。そしてもう一方の手で彼女の股間をさわる。ビチョビチョに濡れている。「オレを見て! ここ、どうなってんの? 目をそらしちゃダメだよ」。生理の最終日ということでタンポンが入っている。だからクリトリスと入口のところをさわっているだけだが、彼女はどんどん感じていく。
しかし、感じてくると自分の世界へ入るのがクセになっているから、僕から目をそらそうとする。そのたびに僕は「オレの目を見ろ!」「スケベなんだろ?『私、スケベです』って言ってみろ!」「セックス好きなんだろ!」と言葉をかけつづけた。すると初めて「セックス大好きー!」と叫んだかと思うと、「イキそう!」と言い出した。「ちゃんと目を見たら、そのままイケるから!」と僕が言うが早いか、「イッちゃう! イッちゃう!」とそのままイッてしまった。
事前に催淫CDを聴いているとはいえ、僕が彼女にふれてからイクまでの時間は3~4分。「20分ピストンされても短い」「1時間はしてほしい」と言っていた彼女が、ペニスはおろか指さえ入れていないのに、ものの数分でイッてしまったのだ。
落ち着いてきた彼女が「こんなの初めて……監督、好きになっちゃった」と言う。「目を見ると愛おしくなるんだよ。その愛おしさ、好きになるってことがポイントなんだね。今は妄想してなかったでしょ?」「もう、そんな余裕ぜんぜんなかったです」と彼女は笑った。その笑顔を見ながら、この人に本当に恋人ができるといいのになぁ……と僕は思った。“恋愛”ができたとき、彼女はイケるようになるだろう。
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2013-08-23(00:00) :
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第228回 子どもと大人の性教育
もう30年以上前になるが、僕はミクロネシアのヤップにハマッていた。ヤップに最初につれていってくれたのは、日本ヤップ友好協会の会長をしていたSさんである。彼は夏休みになると、日本からヤップへ子どもたちをつれて出かけた。小学生ばかりで、男の子と女の子を合わせたら十数人はいただろうか。
ヤップ本島までは親も一緒である。着くなり、親たちからは「え、こんなところ?」と溜め息まじりの声が聞こえた。電気こそ通っているものの、エアコンはうるさいだけで冷えないから扇風機だし、ベッドからはスプリングがはみ出している。もし南国のリゾートを思い描いていたならば、完全に肩透かしをくらう。
だが、子どもたちが10日前後を過ごすのは、このヤップ本島ではない。ここからさらに舟でマープ島という、もっと小さな島に渡る。ただし、親は同行できないルールだ。しかも、マープ島には電気が来ていない。Sさんや現地の人々はいるが、子どもたちだけの自給自足の生活が始まるのである。
水道のない島で子どもたちの飲み水といえば、若いヤシの実のジュースである。まず水分を確保すべくヤシの木の登り方から始まって、海への入り方、魚の獲り方を教わってゆく。主食となるタロイモ掘りは重労働であり、ヤブ蚊との戦いだ。もちろん料理も自分たちで作る。
そればかりか、島の人がニワトリを絞めたり、ブタをつぶしたりするところも、子どもたちは目にすることになる。食べるという行為は、生きていくうえでいちばん根っこにあるものだが、そこを一から教え込まれる。そして、それは他の尊い命をいただいたうえに成り立っていることも、Sさんは子どもたちに伝えていくのである。
サンセットは毎日異なる自然のパノラマを見せてくれるし、電気のない島の夜は、凪いだ海に満天の星が映る幻想的な異空間が訪れる。かと思えば、スコールが嵐のように子どもたちを襲う。自然は美しいばかりでなく厳しい。
言葉だけでは決して理解することのできないものがある。子どもたちは体験を通してその多くを学んでゆく。10日間が過ぎると、彼らはまるで別人のように逞しくなっている。男の子も女の子も面構えが違うし、なによりその瞳には自分の意思という光が宿っているのだ。
なぜこんなエピソードを書いたかというと、食べることが生きるうえでの根っこならば、性もまた同様だと僕は思うのだが、大人は「性はいかにあるべきか」を子どもにきちんと伝えているだろうか?
食べることはある意味、残酷さも併せ持っていたわけだが、性はといえば、セックスしている当人たちは気持ちよくて幸せであっても、それを客観的に社会性の中で見たときには、無様だし、なにより下品である。
だから、親はわが子に対してなかなか踏み込めないのだろう。そればかりか、可愛いわが子に対して、性のことなど想像すらしたくないのかもしれない。だが、それを覆い隠せば、どんどんイケナイこととして子どもの中に位置づけられてゆく。そして、前回の保育園児のエピソードにも書いたように、イケナイことはあっと言う間に横に広がってゆくのである。
いま売らんがための情報は、ネットを中心にそこかしこに溢れている。きちんとした性教育をしなければ、子どもは溢れている扇情的な情報のほうを取ってしまう。表層的なことだけに右往左往して、対症療法でどんどん法律を作り取り締まったところで、そういうものはなくならないばかりか、地下に潜るだけである。厳しく禁じたものは付加価値を呼び、高値で取り引きされる裏の社会があるからだ。
誤解のないように書いておくと、僕は売らんがための扇情的な情報が必要だと言いたいのではない。そうではなくて、なくならないという前提に立ったとき、子どもたちが今後生きていくうえで自ら何を選び、何を選ばないのか、その判断の基準を彼らに示さなければ、何も始まらないではないかと思うのだ。
ただし、性はもともと本能に根ざしているから、思考のブレーキだけでは手に負えない。単に社会性の善悪や正邪では割り切れないものが必ず残るのである。性は人間を幸せにしてくれるけれど、不幸にもする。そんな諸刃の剣を、大人でさえ持て余しているものを、子どもたちにどう伝えていくのか。
長い道のりの第一歩は、まず大人が自分の性との向き合い方を見つめ直すことではないかと僕は思う。児童ポルノを成り立たせているのは、本能が未成熟な大人たちである。性の対象は内なる自分の合わせ鏡みたいなもので、中身(本能)が大人になりきれていないからこそ、同じ子どもに欲情するのだ。その意味では、大人の異性と向き合える人間力、それを育む制度づくりのほうが先決の問題に違いない。「ドラえもんのしずかちゃん」の入浴シーンを「調査研究」する前に。
(「週刊代々木忠」は2週間、夏休みをいただきます。みなさんに次にお目にかかるのは8月23日(金)になります)
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第227回 児童ポルノ禁止法
「児童ポルノ禁止法」の改正案が衆院に出されたのが2カ月ほど前。その内容についてはいろいろ物議をかもしているので、ネット等で読んだ人も少なくないだろう。
読んでない人のために簡単に説明しておくと、改正案というくらいなので、「児童ポルノ禁止法」自体は今もある(正式には「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」という)。子どもたちの虐待にあたる児童ポルノを根絶するための法律である。
たとえば、大人の金儲けのために子どもの写真や映像を撮って売ったり、子どもに売春させたり買春したりは、当然やってはいけないことで、虐待の根絶が社会的に間違っていると言う人はきっといない。
で、今回の改正案の争点は2つあって、1つは児童ポルノの規制対象が漫画やアニメにまで拡大されたこと。つまり、写真や映像といった実写には、被写体となる子どもがいる。彼らが被害者である。ところが、漫画やアニメの場合、実在のモデルがいるケースを除けば、被害者が存在しないではないかという声があがっている。
また、世界に冠たる日本の漫画・アニメである。それが規制対象となれば、「表現の自由」を阻害しかねないと懸念する声があちこちから聞こえる。だったら「ドラえもんのしずかちゃん」や「トトロのメイやサツキ」の入浴シーンはどうなるのか、児童ポルノか否かの境界線は、いったいどこにあるのかと……。
先月、漫画家のちばてつやさんに会った。ちばさんは現在、日本漫画家協会の理事長もされている。今回の改正案には頭が痛いようだが、それはちばさん自身の作品づくりにおいて困っているわけではなく、若い漫画家たちの「表現の自由」をどう守ってゆくかという理事長としての悩みなのだ。
ちばさんに訊いたら、日本の漫画界において自主規制機関はないというので、「ぜひそれを作られたらいかがですか」と申し上げた。というのは、前述の「児童ポルノか否かの境界線」の話に戻るが、僕はそんな境界線ははなから引けないと思っている。何をワイセツと感じるかは、本人の主観の問題だからである。40年前の日活ロマンポルノ裁判において、検察側はついぞワイセツの概念を示すことができなかった。そしてそれは今も変わらないだろう。
ところが、グレーゾーンゆえに、作り手側は「ひょっとするとこれも引っかかるのか?」という疑念がつねに生じる。実際に摘発されれば、そこに時間もエネルギーも費やさなければならない。ならば、性の学識経験者や専門家を入れた第三者機関としての自主規制機関を作り、そこを「表現の自由」の防波堤にすべきではないかと僕は思ったのだ。
とはいえ、なかには目を覆いたくなるような作品があるのもまた事実だ。描かれた被害者がいないからといって、それが新たな被害者(犯罪)を生まないという保証もない。だから「表現の自由」の名のもとに、野放しがいいというわけではもちろんない。そういった、人の目にふれないほうがいいような作品に対しては、表現の自由の「良心」として、自主的に注意を促すことが可能になる。
ちばさんは僕の話を黙って聞いていた。だが、聞き終わってから「そういう機関は必要ですね」とはならなかった。かといって「そりゃ無理ですよ」と言われたわけでもない。ただ、黙って考え込むその姿を見ていると、タイトな締切との闘いのなかで「審査」というワンクッションを入れることはやはり難しいのだろうと僕は思った。加えて、たとえ自主規制であっても、表現を規制されることへの抵抗もひょっとしたらあったのかもしれない。
改正案の2つ目の争点は「単純所持の禁止」といわれるものである。つまり、持っているだけでアウトなのだ。しかも、児童ポルノの定義が曖昧な状態で……。争点1は漫画・アニメの作り手側におよぶ話だったが、単純所持はすべての人が対象となる。別件逮捕で引っぱろうと思えば、こんなに都合のいい法律はない。
話は変わるが、7年前に撮った「ザ・面接 VOL.90」に現役の保育士(30歳)が出演している。このエピソードは、かつて別の話でもちょっと書いたが、今の保育園児は先生の乳首を大人顔負けのテクニックでつまみ、「きのう、うちのパパとママ、やってたよ!」とか「先生もやるの?」とか「先生の乳首、黒いの?」とか……大人の知らない園児たちの性意識の実態が、先生の口から実にリアルに語られている。
子どもの人格や人権は守られなければならない。けれども、子どものことを本当に考えるならば、いろんなところにペナルティを課す前にやらなければいけないことがあると僕は思うのだけれど……。
(つづく)
7月26日(金)、全30タイトルに増えました!
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第225回 医者をめざす彼女の秘めたる性癖
面接会場に入ってきた相馬幸子は、ひと言でいえば覇気のない子だった。隊長の市原が「朝ごはん食べた?」と訊いてしまうくらいに。24歳の大学院生で、専攻は経済。専門的なことを聞いても僕らにはわからないが、「途上国と先進国の関係を学んでいる」と彼女は言った。
そして将来は医学部に進みたいので、また大学に入り直すと。大学院まで行きながら、なぜ医学部に入り直すのか問うと、途上国で医者をやりたいと言う。「途上国と先進国の関係」を学ぶうちに、きっと進むべき方向が見えてきたのだろう。そんな幸子の出演動機は、医学部の学費を稼ぐためだった。彼女いわく、生活費を含めると3000万円くらいかかるらしい。
幸子には、大学院で同期の彼がいる。彼とはどんなセックスをしているのか訊かれて「オシッコをかけ合ったりとか」と答えた。くわしく訊いてみると、週1回くらいの割合で、彼と互いの顔にオシッコをかけ合っているらしい。それも、終わったあとに拭くとは言うけれど、トイレや風呂場ではなく部屋でしていると言う。「賃貸やったら貸したくないな」と市原。
ふつうの人から見たら、かなりの変態である。SMもそうだが、頭を使う人ほど、脳の刺激による快楽を求める傾向が強い。それは幸子と担当面接官・森林との会話からもうかがえる。
森林
「なんでオシッコなんかかけるんですか?」
幸子
「かけられると興奮するんですよ。ふつう絶対あり得ないことじゃないですか、トイレにするものだから」
森林
「あり得ないってことはわかってるんですね」
幸子
「そう、それが興奮するんです」
そしてこのあと、幸子は森林に「オシッコをかけてください」とせがむ。そればかりか、汚い言葉でののしられたいという本人の希望どおり、オシッコとともに「ブタ!」「ド変態!」といった言葉を浴びせかけられた。顔じゅうオシッコまみれの彼女に僕は訊いた。「なんでそんな恍惚とした顔すんの?」。幸子が答える。「うれしいんです」。その表情はキラキラと輝いている。
放尿したばかりのオチンチンをうっとりとした顔で咥え、やがてセックスが始まった。その間も「もっとののしってください!」と本人が言うので、男たちは汚い言葉を浴びせつづけた。セックスが終わると、今度は「精子、飲みたいです」と言う。そしてオチンチンばかりか、コンドームに残った精子までを飲み干した。
これまで女の子たちに、セックスで精子を飲むかどうかについて訊いてみたことがあるが、「好きな人だったら飲みたい」と答える子が多い。だが、幸子の場合は、森林が好きだから飲みたいわけではむろんない。オシッコを顔にかけられるのも、汚い言葉でののしられるのも、そしてコンドームの精子を飲み干すのも、すべて自分を辱(はずか)しめ、貶(おとし)めたいからである。そんな汚された自分を意識し確認することで脳が欲情している。
しかし、刺激は慣れるにしたがって鈍化するから、「ふつう絶対あり得ない」の度合いはどんどんエスカレートしていく。延長線上には食糞もある。
僕はこの作品では、あえてありのままを見せるにとどめた。幸子からたとえば「やっぱり異常だと思うので、ここから抜け出したい。どうしたらいいんでしょう?」と相談されれば話は別だが、実際、彼女は何もアドバイスを求めてはこなかった。ならば、今の段階では大きなお世話にしかならないだろうと思ったのだ。
2005年に撮ったものなので、あれから8年になる。幸子はどうしただろう。その後、彼女に関する情報は何も入ってきていないが、望みどおり医者になり、途上国の医療へ貢献してるんじゃないかと僕は思っている。
なぜそう思うかといえば、将来について語る彼女に、まったく揺れを感じなかったからである。大学名は出せないけれど、あのとき名のある大学の院まで行っていた。医学部入学は大変なことには違いないが、それを訊かれたときも「勉強のほうは、どうにかなりそうなので」と彼女は気負うことなく答えている。学費の件も、それでビデオに出るくらいの覚悟があれば、きっと算段がついたのではないかと。
残るは、セックスである。オシッコかけはエスカレートしているのか? もちろん、8年の変化を予測するのは難しい。ただ、ものごとには必ず原因がある。なぜ、彼女はオシッコをかけられて「うれしかった」のか? それは彼女の中に、いまだ癒されていない心の傷があったからではないかと思うのだ。具体的にそれが何かを訊いてはいないが、ひょっとしたら幼い頃、近しい人間から受けた虐待の可能性もある。なぜならば、そうやって育った子の多くは被虐・加虐でしか相手と関係を結べなくなるからである。
それは、途上国で医者をやりたいという思いにも同じものを感じる。もちろん経済を学ぶ過程で途上国の現状を思い知らされたというのもあるだろうが、医療環境が整っていない国の人々を救うことは、そこに自分の居場所を見つけ、生きがいを見いだし、自分自身を癒すという行為に思える。一人を救うごとに彼女の傷もまた少しずつ癒されていくことだろう。そうして傷は必ず癒える日がやってくる。そうなれば、もうオシッコも汚い言葉も、彼女には必要なくなっているはずである。
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第225回 続・矢作直樹先生の話
前回
紹介した矢作直樹先生の講演「科学をはるかに超えた現実――救急医療の現場から」である。
まず象徴的な事例として、ある日救急に運び込まれたAさん(若い女性)のケースがスライドとともに紹介される。彼女は自宅マンションの10階から飛び降りた。下はコンクリート。ふつうは助からないのだが、体じゅうの骨(首を除く)が折れ、内臓も多少壊れることで、衝突のエネルギーが分散され、一命を取りとめた。
元気になったAさんが当時のことをふり返る。じつは飛び降りる1週間くらい前から亡くなった人の声が聞こえたと言う。その声は「体を貸してくれ!」と言っている。Aさんは「やだ!」と拒否したが、声は執拗だったらしい。
一緒に暮らしていたダンナさんに様子を訊くと、Aさんは突如人が変わったように本人が知っているはずのないことをまったく違う話しぶりで語ったと答えた。そして注意していたにもかかわらず、ちょっと目を離した隙に飛び降りてしまったと。
似たような話を僕はこれまでにもいろいろなところで聞いてきた。いや、単に聞いただけでなく、撮影現場で女の子をトランスに入れれば、Aさんのように訳のわからないことを別人の声でしゃべり出し、暴れたり、自らの首を絞めたりする子たちと接してきた。だから、Aさんの事例自体に新鮮さは感じない。新鮮だったのは、東大救急部部長が、たとえば幻聴という脳内現象としてではなく、「これは霊の憑依だ」という前提、つまり霊障(れいしょう)として話を展開したことである。
実際、除霊による治療を年間600人から800人に施術している人の現場に、矢作先生自身も立ち会ってきたと言う。さらにはその能力が自分にも身についてきたと……。そのエピソードからも先生がスピリチュアル・ヒーリング(霊的な治療)の実効性を認めているのがわかる。つまり「東大医学部教授」「東大病院部長」というポジションにいながら、西洋医学一辺倒ではなく、もっとズームバックして事の真髄を鳥瞰している人なのである。
だから、代替医療の必要性にも言及されていた。代替医療とは、西洋医学以外の医療の総称として用いられる。そこにはいろいろな療法が入ってくるわけだが、先生はより高次なものから順に、霊的な「スピリチュアル・ヒーリング」、気功やレイキといった「サイキック・ヒーリング」、カイロプラクティクや鍼灸などの「マグネティック・ヒーリング」をあげられた。ただし、西洋医学を「治」とすれば、代替医療は「癒」であり、施術は「治」「癒」の順が望ましいと。僕のまわりにも、ガンで医者から余命宣告されながら、代替医療で奇跡的に助かった人たちが何人かいる。
この代替医療について聴講者からは、「利権構造が代替医療を封じ込めているのではないですか?」という質問が出た。それに対して矢作先生は明確にイエスとは答えなかったものの、否定もしなかった。そして「利権構造を支えている国民にも問題があるんです」と答えたのである。
これまでのインタビュー記事等で先生はさかんに、「なぜ自分が病気になったのか?」について、患者も医療にたずさわる者ももっと考えなければならないと述べている。そして、「寿命が来れば人は死ぬ」という当たり前の現実が、人々の心から抜け落ちようとしている。だから今の医療はとかく結果だけを求めるけれど、「死」は決して負けではないと。
人間の目に見えるものが可視光線という、きわめて限られた狭い範囲であることに前回ふれたが、矢作先生の講演を聴いていると、西洋医学が施術できる幅もまた限られているという印象を新たにした。僕たちが生きているこの世界について、人はあらかたわかったつもりでいるけれど、サイエンスが解明できた領域はほんのわずかでしかないのだ。
このブログの何回か前の「
ナチュラル
」で書いたように、僕は相反するもの同士が共存する時代に入ったと思っている。これまでは通常医療(西洋医学)に対する代替医療だったわけだが、もし国が代替医療を認めたなら、医療形態は変わり、医療費も激減することだろう。なぜならば、代替医療には手術はもちろん、薬もいらないのだから……。
医療の世界に限らず、利権構造というものは強固な壁に違いない。その内部に身を置きながら、相反するものの重要性を声高に叫ぶことなど、誰にでもできることではないし、どれほど勇気のいることかと思う。でも、ひとりの医師がそれに果敢に挑んでいる。「利権構造を支えている国民にも問題があるんです」。その言葉は、「みんなの意識さえ変われば、利権構造なんていくらだって突き崩せるんですよ」というメッセージのように僕には聞こえた。
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