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第102回 正月とクリスマス

 きょうはクリスマス・イブ。でも、それは後まわしにして、まずは正月の話から。

 僕が覚えている正月といえば、三が日はどこに行ってもお店が開いていなかった。開いているのは、初詣に行った先に並んでいる露店くらいだ。だから正月といえば、町全体が何もしていない、日常とはまったく異なる独特な空気感に満ちていた。

 僕が子どもの頃、九州小倉では正月に宝引(ほうびき)が行なわれた。掘り炬燵に子どもも交えて近所の人々が集まり、人数分用意した太目の紐を、親役の者が束ねて握る。紐はそれなりに長い。親は鉛の指輪のようなものを握ったうちの1本に通す。ただし束ねて握っているから、どれに通ったかは見ていてもわからない。親以外の者は好きな紐を1本ずつ選び、親とは反対側の端をつかむ。みんなが選んだあと、最後に残った1本が親の分である。そうして親が握る力を緩めると、通された鉛の指輪は紐をつたって落ちてゆき、勝者の手に渡るというものだ。子どももいるので、大した額ではないけれど、1回5円とか10円を賭けた記憶がある。勝った者はそれがもらえる。

 でも、宝引が楽しかったのは、勝てば幾ばくかのお金が手に入ることではなく、ふだんは見せない顔を大人たちも見せてくれることだった。そこには親しみとともに正月特有の雰囲気が醸し出されていたのである。

 特別といえば、どんな悪いヤツでも、正月だけはいい子になってしまったような気がする。やはり神様の前で神聖な気持ちになるからだろうか。それは親から子へ肌で感じながら受け継がれていった。

 僕は毎日仏壇に線香をあげて掌を合わせる。たまたま孫が遊びに来ているときは、3歳の孫も僕の横に立って、神妙な顔で掌を合わせている。これは最初、鈴(りん)を鳴らす音につられて僕にじゃれついてきたとき、ふだんと違って僕が取り合わないまま掌を合わせていたからだろう。それが何度かくり返されると、孫なりに何かを感じ取ったのかもしれない。このように畏怖すべき存在を意識することが、人間には必要だと僕は思う。

 つまり、僕にとっての正月とは、神聖な気持ちとともにまっさらになって、一から出直す、大切な節目なのであり、それが若い世代へと受け継がれていくものだった。

 しかし、正月の特別さも年々稀薄になっている。コンビニはもちろんのこと、スーパーでも元日から営業している店がある。かつてと違って、町はぜんぜん休んでいないのだ。今の若い人たち、とりわけ恋人たちにとっては、正月よりもクリスマスのほうが重要なイベントなのかもしれない。

 先週それとなく下の娘に「そういえば、クリスマス・イブは家で一緒に食事ができるかい?」と訊いてみた。娘は何も答えなかった。なによりの答えである。今つきあっている彼と一緒に過ごすのだろう。クリスマスが正月に取って代わったとしても、若い人たちが日常とは異なる節目を味わうのはいいことだと思う。

 とはいえ、バレンタインデーと同様に、クリスマスはどうしても企業の戦略に乗せられている感が否めないのだけれど、これは僕が年を取ったからだろうか……。


(*「週刊代々木忠」は2週間お休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月14日になります。みなさん、よいお正月、そしてよいお年をお迎えください)

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第101回 「依存」から「自立」へ

 今回は「どうしたら真の自立ができるのか」について考えてみたい。自立というのは、なかなか難しい。なぜならば、僕たちはこの数十年で自立からは程遠い所まで来てしまったように思えるからだ。

 こんなことを書くと世の奥さんたちから叱られそうだが、数々の電化製品は家事の煩雑さを解消したり軽減してみせた。掃除機しかり、洗濯機しかり。炊事も風呂も、ボタンひとつでできる世の中である。電気・ガス・水道をライフラインと呼ぶが、文字どおり電気がひとたび止まろうものなら、僕たちは手も足も出なくなる。トイレを流すことさえままならないのだから。

 遊びにしてもそうだ。僕たちが子どもの頃は、自分たちで遊びを作り出していた。そして遊び道具も。それがだんだんメカニックになり電子化されて、今やゲーム機が多くの子どもたちの時間を占有している(いや、これは子どもばかりではないか……)。ゲームソフトというものは、ゲームをしなければいられない中毒状態を作るのが実にうまい。

 このように、快適さや便利さ、面白さという衣をまとって多くのモノが僕たちの生活に入り込み、それなしではもう生きていけない状態にまでなっている。これはモノに限らず、以前「自動車保険の功罪」という話でも書いたが、ある種のサービスもまた僕たちの主体性を奪っている。お金と引き換えに面倒なことは全部やってくれるのだから。

 つまり今の時代、たとえ本当の意味で自立しようと思っても、周囲を見まわしてみれば、何かに頼ることを強いられる世の中なのである。

 自立から遠ざかるということでは、法律やルールもその方向に向かっているように僕には思える。たとえばクルマを運転していると、歩行者がいきなり目の前を横切るという場面に遭遇する。横切る人は、歩行者優先なんだからクルマが止まるのが当たり前だと思っている。昔ならば道路を渡る際、自分の身は自分で守るという意識が働き、クルマに轢かれないよう歩行者も注意していたものだ。

 弱者にやさしい世の中には賛成だけれど、法律で保護される状態が当たり前になってしまうと、自分の命に関わるような重大なことも、どこか他人任せになっているようで、僕は怖いと思うのである。「保護されている」とは、見方を変えれば「縛られている」ということにもなるのだから。

 このように僕たちは何か(それはモノであったり、サービスであったり、ルールであったり)に知らず知らずのうちに頼ったり、それに縛られて生きている。主体性はどんどん稀薄になり、生かされているというか、もっと悪く言えば飼われている状態なのだ。では、誰が飼っているのかというと、組織はあるものの飼い主の実体がない。しかし、それは巡りめぐって自分たちがそうしているということなのだろう。

 では、どうしたらいいのだろうか。洗濯機をやめて、タライと洗濯板で手洗いというのでは現実味がない。僕は自立への第一歩は「目覚め」だと思う。自分がどういう状況に置かれているのかを自覚すること。これが重要なのだ。変えられなければ変えなくてもいい。ああ、自分はこんなに依存しているのだなぁと意識するだけでいいのである。

 「自覚」は今書いてきたような生活様式にとどまらない。「自分は本当にやりたいことを今やっているのか?」も自らに問うてみる。たとえば今の仕事が、本当に自分のやりたいことと一致している人は幸せだ。でも、そうでない人も、その自分を否定しないほうがいい。

 否定すると、自己正当化、さもなくば自己嫌悪が始まるだろう。これでは自分の中で分離が起こってしまう。分離とは自分が自分と闘うわけで、そこにエネルギーを取られていては、今の状況から抜け出すことはいっそう困難になってゆく。

 では、どうすればいいのか。自分のしたくないことをしている人は、善悪や正邪の意味づけを与えずに、ありのままを見るレッスンをすればいいのである。自分と本当に向き合ったとき、どうすればいいのかはおのずと見えてくるだろう。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第100回 アセンション(その2)

 「ピラミッド型の力学から多次元的円に入っていく」。これがアセンションを解くヒントのように感じ、僕は「多次元的円」とは何かについて考えつづけていた。先々週、勝浦でひらめいたのは、下の写真のような分子模型のイメージである。


20101210-yoyogi-blog.jpg


 この分子模型の中の赤い球を、仮に僕だとしよう。赤い球からは前・後・左・右・上・下の6方向に線が伸びて、それぞれ白い球につながっている。つながった先の白い球も同様に線が伸びて次の球とつながるという網の目のような状態。

 説明の便宜上「前・後・左・右・上・下」と書いたけれど、宇宙に上も下もないように、この関係性にも本来は、上下も前後も左右もない。僕(赤い球)を中心にしてまわりに“つながり”が伸びてゆく。それは僕を中心とした同心円である。平面的に見れば同心円は1種類だが、立体的にとらえればいくつもの同心円ができてゆく。

 さらに、このブログを読んでくれているあなたを、上の写真の中の青い球だと仮定しよう。青い球からも同心円が複数できる。そのうちの1つには赤い球、つまり僕がいる。僕から見れば、僕の同心円の1つにあなたがいる。このように幾重にもつながってゆく、その関係性が「多次元的円」ではないかと思うのである。赤い球と青い球、どちらが上でどちらが下という話ではない。

 すでにネットの世界においては「多次元的円」がかなり進行している。たとえば Twitterでは、自分たちの趣味なり興味において共通のものを持っている人たちが1つの世界を作っている。この人はどんな人だろうとクリックしてみると、そこにはまた別の世界が広がり、その中で見つけた人を追いかけていくと、またそれまでとはまったく異なる世界が出現するというように、何層にも無限に広がってゆくのだ。

 こういうつながり方は、かつてはなかった。テレビ局にしても新聞社にしても、情報伝達は1カ所から配信されて、それがトップダウン方式で流れていったのだから。言わずもがなだけど、そこに働いていたのは「ピラミッド型の力学」である。

 このように特定の分野ではすでに兆候が現れているが、2012年のアセンションとは、従来の「ピラミッド型の力学」が完全に機能しなくなり、「多次元的円」へと切り替わっていく、そのタイミングを言っているのではないだろうか。

 また「アセンション」とともに論じられる「フォトン・ベルト」だが、前回も書いたように、アセンションとともに太陽系がその「光の粒子の帯」の中に完全に入ると言われている。ただし、太陽のまわりを公転している地球自体は、20世紀末よりフォトン・ベルトへ出たり入ったりをくり返していたのだと。


 「フォトン・ベルト」を唱えている人たちは、フォトン(光)の影響によってそれまで隠されてきたいろいろなこと(闇)が露呈してきており、その傾向はこれからいっそう顕著になっていくと言う。たとえば2005年以降、マンションの耐震構造をはじめとして、食料品の賞味期限や原材料表示や産地等々の偽装がこれでもかと言うくらい噴出した。最近では、ウィキリークスによる米外交公電の公開が、国際社会に波紋を投げかけている。ウィキリークスの是非はさておき、闇の露呈がそれまでの権威を失墜させているのは事実だろう。アセンション以降は、政治家や企業に限らず、個々人のレベルにおいても、いろいろなものがもう誤魔化せなくなるということだろうか。

 要するに、旧来の「ピラミッド型の力学」にこだわっている国家、会社、人などは、それまで上手くいっていたことも上手くいかなくなってくるということだろう。この視点に立てば、菅さんの政治的指導力のなさも、移行期としては、まぁこれはこれでいいのかもしれないと思わなくもない。地球上を見回してみれば、強力な指導者をいただく一党独裁の国もあれば、宗教が根強く支配している国もある。こういう国は「多次元的円」への移行にさぞかし苦労するんじゃないかと思うのだ。

 その点、日本は宗教的に見ても「八百万(やおよろず)の神」と言われるほど、たくさんの神様がいる。たくさんの神々はそこかしこに宿っている。あるヒーリング・アーティストの言葉に「如来は拝むものではなく、自分の内なる神と知ること」というのがあったが、神や仏は僕たち一人ひとりの中にいる。その意味でも、もともと日本は「多次元的円」へ移行しやすい国であり、国民ではないかと思うのである。

 そして僕はこうも思う。アセンションとは、真の意味の「自立」ではないかと。「ピラミッド型の力学」において、もしあなたがたった一人の支配者でないかぎり、あなたは上のだれかの言うことを聞いていれば、とりあえずはよかった。一方、「多次元的円」では、あなた自身が円の中心である。もう支配者はどこにもいない。いや、仮に形のうえでの支配者はいたとしても、前述のとおり、すでにその力学は機能していない。

 来春卒業予定の大学生の就職内定率が57.6%で過去最悪の状況だとか、完全失業率が5.1%で再び悪化したとか、日々のニュースが報じている。だから多くの人は、どうすれば無事に就職できるのか、どの企業が今後倒産せずにやっていけそうかと気になるのだろう。その気持ちもわからないではないが、やはりそれは「ピラミッド型の力学」における話だと僕は思う。

 もう誰かを頼れないし、寄りかかれない。ましてや、ぶらさがることなどできない。だとすれば、あなた自身が自立するしかないのである。自立しないかぎりは他力依存に陥ってしまい、「多次元的円」への移行はいつまでたっても完成しない。こう書くと、だったら「ピラミッド型の力学」のほうがラクでいいやと思われるだろうか。

 次回は「どうしたら真の自立ができるのか」について考えてみたい。僕たちに残された時間は、あと2年と数週間かもしれないから……。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第99回 アセンション(その1)

 「アセンション」という言葉をご存じだろうか。もともとは「上昇」や「昇天」を意味する英語だが、スピリチュアルな世界では「次元上昇」という概念でとらえられている。「次元が上昇する」とは、いったいどういうことなのか?

 それを考える前に、言われているアセンションの時期から書いておこう。アセンションは、マヤ歴の終わる2012年の冬至前後に訪れるとされている。2012年の冬至は12月21日。昨年公開されたハリウッド映画「2012」も、マヤ歴による2012年終末説を題材にしていたから、映画を見た人ならば、アセンションとは地球滅亡論なのかと思われるかもしれない。

 地球滅亡といえば、1973年に刊行されミリオンセラーを記録した『ノストラダムスの大予言』は「1999年7の月」を喧伝した。ところが、それを過ぎても僕たちはこうして地球上に生存しているわけで、終末説や予言の類は所詮そんなものだろうと感じている人も少なくないはずである。

 アセンションを唱えている人たちからすれば「ノストラダムスと一緒にされても……」となるだろうが、スピリチュアルな世界に懐疑的・否定的な人は、アセンションも科学的な根拠が希薄もしくはないと言うに違いない。ただし、僕はこの手の話が嫌いではない。現在の科学的な真偽のみで即断するのではなく、僕たちの知らない世界で何が起きているのかに興味があるし、それを知りたいとも思う。

 アセンションが話題になるとき、「フォトン・ベルト」という概念もセットで取り上げられることが多い。「フォトン」とは「光子」の意味である。だから「フォトン・ベルト」とは「光の粒子によってできた帯」となろうか。「フォトン・ベルト」を唱える人たちは、約2万6000年周期で銀河を回る太陽系が、約1万1000年ごとに約2000年かけて、このフォトン・ベルトを通過すると言う。

 では、なぜフォトン・ベルトとアセンションがセットかというと、太陽系が完全にフォトン・ベルトに入る時期とアセンションの時期が同じだからだ。つまり2012年12月21日前後。もっとも、地球は1年かけて太陽の周囲をまわっているので、20世紀末からフォトン・ベルトに出たり入ったりしているとされ、それ以降の異常気象(干ばつや大洪水など)や地殻変動はその影響だと言われている。

 アセンション(次元上昇)に話を戻そう。「アセンションとは何か?」と訊かれれば、実は僕にもよくわからない。僕がアセンションという概念を知ったのは、十数年前、ある女性チャネラーの沙庭(さにわ)的な役割を務めたときだった。沙庭とは「神のお告げを承る人」という意味だが、僕は彼女が、サラージと名のる宇宙意識のチャネルになるのをサポートしていた。チャネリングは2年にわたり数十回行われたが、その間、たびたび「アセンション」という言葉を聞いたのだった。

 そこで当時、僕はアセンションについて書かれた本を何冊か読んでみた。いったい何が起きるというのだろう? しかし、少なくとも僕が読んだ本の中に、地球上に何が起こると明確に書かれたものはなかった。それは当時チャネリングしていた宇宙意識も同様で、アセンションを具体的に解説する言葉は、ついぞ聞けなかったのである。ただ、僕には今も心に残るフレーズがある。それは次のようなものだ。

 「ピラミッド型の力学から多次元的円に入っていく」

 これも抽象的ではあるものの、感覚的にはいちばんフィットするように感じた。だから、この表現をもとに僕なりにアセンションについて考えてみようと思ったのである。

 「ピラミッド型」では、頂点に国王や大統領といった支配者がいて、階層が下に行くほど人口が増える。力学的には上への絶対服従が条件であり、上意下達でなければピラミッド型は機能しない。こう書くと、どこぞの独裁国家の話かと思われるかもしれないが、日本のほとんどの会社組織はピラミッド型ではないだろうか。たとえば社長が1人、部長が3人、課長が6人と……下にいくほど人数は増え、有能か無能かはさておき、一応上司には楯突けないという。

 この「ピラミッド型の力学」がずっと地球上を支配してきたし、長い間、人々もそれが正しいと信じてきた。というか、多少の難はあっても、さしあたってそれに代わるものはないと大多数の人たちは考えてきた。

 ところが、蔓延する閉塞感。今までのようにカリスマ的なトップがいて、その人の言うことを聞いておけば上手くいくという考えは、至る所で破綻をきたしている。つまり「ピラミッド型の力学」ではもう立ち行かなくなっているのではないか。だとしたら、どうすればいいのだろう?

 「ピラミッド型の力学」の終わりとともに「多次元的円」に入っていけばいいのだろうが、この「多次元的円」が何なのか、よくわからない。僕は十数年来、ずっとそれを考えつづけていたのだけれど、先週、千葉の勝浦に友人たちと行った際、ふとしたことからひらめいたのである。「多次元的円」とは、ひょっとしたらこういうことではないのかと……。

(つづく)

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