週刊代々木忠
いまこの瞬間の代々木忠の想いが綴られる
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第26回 柏木みな[前編]
回春エステでは、機能増強や精力回復のためのマッサージを行う。ただし"抜き"はない。むろん例外的な店もあるのだろうが、少なくとも柏木みなの勤める店にはなかった。
とはいえ、客である男はマッサージ中に勃起する。機能増強や精力回復が目的なんだから、勃(た)って悪いことはない。が、勃てば「しごいて!」「入れさせて!」となる。そんな男たちを、柏木はどこかで蔑(さげす)んでいた。"抜き"がないのは、お客も了解済みのルールなのだから。抜くのが目的ならば、最初からそういう店に行けばいい。
ところがである。マッサージが終わったあと、柏木のパンティは濡れている。欲情する男を蔑みつつ、気づかないうちに欲情している自分をも嫌悪する。このパラドックスを、柏木は「おちんちんは許せる」と表現する。おもしろい言い方をするなぁと僕は思った。言外に「男は許せないけれど」というのが付くのだろうが、明らかに彼女の中で分離が起きている。
彼女の過去には、男にまつわる何か壮絶な経験があったのかもしれない。だが、僕はあえてそれを尋ねようとはしなかった。これまでならば、そこは突っ込みどころでもある。ともすれば、作品のテーマにもなりえるし、それを掘り下げ、彼女が変わっていくさまをカメラに収められれば、一作品としては成立する。
なぜ、僕は彼女に切り込んでいかなかったのだろう。思い返せば、それは今までずいぶんやってきたことだ。それよりも、やはり彼女をじっくり見ていきたいという思いのほうが強かったのだろう。
「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」の事前面接で、僕は初めて柏木に会った。話をいろいろ聴いていくなかで、この子はセックスの迷い道に入っているなぁと思った。女の子のセックスに対する向き合い方には、大きく分けて3つのグループがある。
1つめは、いいセックスを求め続けているグループ。本当のオーガズムを体験したいと思ってる子や、今よりもっといいセックスがあるはずだと思っている子が、このグループに属する。〈本能オクターヴ系〉
2つめは、セックスに失望しているグループ。セックスなんて所詮こんなもんだと決めつけている子たちであり、彼女たちはもうセックスに何も期待していない。実はこのグループに入る子はけっこう多い。〈感情オクターヴ系〉
3つめは、セックスを結果として遠ざけているグループ。個々にさまざまな事情が存在するが、たとえばセックスは好きな人にあげなくちゃいけない(しかし、なかなかそういう相手に出会えない)とか、私はそんな軽い女じゃないと思っている子たちである。〈思考オクターヴ系〉
ふつう僕は目の前の女の子がどのグループに属するかを見極めて、「なぜそうなの?」というところから切り込んでいく。ところが、柏木はどのグループにもあてはまらなかった。
柏木が回春エステ嬢をしていることには、何か意味があるはずだと僕は思った。彼女はエステティシャンの資格と技量を持っている。ならば、女性相手のエステティックサロンでも食べていけるはずである。なのに、わざわざ客や自分までをも嫌悪する回春エステにいるのは、たとえ本人が意識せずとも、深いところでそこに何かを求めているということではないだろうか。
僕は「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」の中で、まず柏木の意識のタテ軸に介入した。具体的に言えば、柏木に催淫CDを聴かせ、充分に欲情した状態で、男優の片山邦生を客に見立て、店の再現を注文した。始まる前から片山は勃起している。本当の店ならば、柏木も寸止めで自分を抑制するところだが、催淫CDによって「H48」の機能ともいうべき抑制力は格段に落ちている。
ついにこらえきれなくなった柏木は、片山のおちんちんをくわえ、二人のセックスは始まった。正常位で片山が上のとき、イキそうになった彼女は、片山を突き飛ばして潮を吹いた。ここで柏木はイッていない。ところが、彼女が上になり「私の中でイッてもいいんだよ」と片山にささやいたときには、自分から思いっきり腰を使ってイッている。
僕はそれを見ながら、やはり彼女は深いところで男を受け入れていないのだと感じてしまった。彼女にとって自分が下になる正常位は「セックス」だが、男の上で自ら腰を使っているときは相手を喜ばせるための「サービス」なのだ。だから「私の中でイッてもいいんだよ」とさかんに言っている。
これは「幸せにしてあげているんだ」という「思考オクターヴ」のエクスキューズに他ならない。店でもパンティが濡れてしまうくらいだから、もともと「本能オクターヴ」は「H24」状態にある。けれども「感情オクターヴ」だけは「H96」のままで、明け渡してはいない。だから、「愛おしい!」とか「一緒にイッてぇー! 私もイクぅー!」とはならなかった。
そこで、本能と思考がH24のうちに、柏木にペニスバンドを付けてもらい、男の感情オクターヴを疑似体験させた。柏木は気づく。「なんだ、こういうことだったの」と。「男って可愛いじゃない」と。ここで、男に対するデータが組み変わった。エネルギーモード(無意識に働く習慣)で、男と向き合ったとき、残影的エネルギーが反応してしまう傾向はあるけれど、第1段階はこれでクリアできたかなと僕は思っていた。
〈つづく〉
「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ(9)」より
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2009-05-29(14:47) :
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第25回 深夜にかかってきた電話
「見たで。柏木みな、手ぇつけとるやろ!」
午前1時、突然ケータイが鳴り出し、液晶画面には知らない番号。ふだんなら絶対に取らない。でも、その夜はなぜか電話に出ていた。そしたら、ドスの利いた声で、このセリフである。
電話の主を明かす前に、知らない人のために「柏木みな」を説明しておいたほうがいいだろう。30歳の回春エステ嬢で、最初「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」に出演し、その後、彼女を軸にして僕は「ザッツ回春エロエステ」という新シリーズを立ち上げた。現在3タイトルが出ている。
電話の主は、この柏木を、監督である僕がやっちゃってるだろうと言っているわけだ。それも唐突に、そして断定的に。やっているのか、いないのかは、僕がいちばんよくわかっている。でも、相手が誰なのかわからない。
僕が黙っていると、電話の向こうでは引きつづき「あれは魔性の女や。手ぇつけたらあかんで!」などと言っている。相手は、僕の知ってるケータイ番号からではなく、自宅の電話からかけてきた笑福亭鶴瓶師匠だった。「手ぇつけとるやろ?」と再び言うので、「いや、つけてない」と僕はきっぱり言った。「それはやっぱり商品だし、オレはオレで、ちゃんとわきまえてるつもりだから」と。
鶴瓶師匠は「ザ・オナニー」の頃から僕の作品をずっと見てくれている。今から8年前、あるテレビ番組でご一緒し、その後も、師匠の番組に2回呼んでもらって、「セックスとは何か」について語り合った。だから、師匠は僕のことをちゃんとわかってくれている人だと思っている。
そんな人物からの疑惑であり、忠告なのだ。テレビにも映画にも忙しい師匠が、なぜわざわざこんな深夜に電話をくれて、「手をつけた、つけない」の話をしているのか? 師匠の話を聞いていると、どうも僕にそういうことをしてほしくないと強く思っているようなのだ。
これまでの作品では、そんな疑惑も忠告もなかったのに、なぜ柏木なのか? 思い当たるフシがなくもない。実はうちの女性スタッフからも、柏木に対する僕の態度が「いつもと違う」なんて言われていたから。
最初に出演した「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」で、柏木は潮を吹き、イッたと自分で言っていた。だが、本当はイク直前に男優を突き飛ばして潮を吹いているのであって、イッてはいない。しかし、それをあえて彼女に告げず、この子が今後どう変わっていくのか見たくて、彼女が主演のシリーズを立ち上げたのだ。シリーズとして成功するかしないかが掛かっているだけに、僕は真剣だったし、撮る対象としての彼女は魅力的だった。
だから鶴瓶師匠も、うちの女性スタッフ同様、いつもと違う僕の変化を作品から読み取り、「こりゃ、いかん」と思ってくれたのではないだろうか。そしてそれは、とりもなおさず師匠自身が自らを厳しく律していることの証左ではないかと思った。「人の道を過(あやま)つな」という、厳しいはずの声なき声は、逆に僕をあたたかく包み込んでしまう。師匠の人間的な魅力は、テレビからも充分に伝わってくるが、実際に話をしていると、慈悲心のようなものまで感じるのである。
僕は心地よくなり、もらった電話でありながら、話はどんどん長くなっていった。そのなかで、師匠はこんなことも言った。「最近、自分を消しとるな......」。僕が「なんでそう思うの?」と訊くと、「ワシもあの番組(鶴瓶の家族に乾杯)のとき、できるだけ自分消して、地元の人たちの生き方にスポット当てよう思うてやっとるから、わかるんやわ」と言う。
僕はふと、この人は「今の日本で何が起き、人々が何を感じ、何を求めているのか」深いところでわかっているんだと思った。でも、そうでありながら、決して世の中を斬ったりはしない。
師匠から電話が来た日は、会社でカップル限定の試写会を行なっていた。2組のカップルが参加された。1組は愛知県からいらした、ともに会社社長のカップル。もう1組は神奈川県からいらした、ご主人がセラピストのカップル。
試写作品は、以前このブログでも紹介した新田利恵のデビュー作「お固い女性がビデオに出る理由 一度でいいから知らない人と...29歳主婦」。参加された2人の女性は、試写中に涙を流されたようだ。そして、みなさんに共通している思いは、今の日本の状況をとても心配しているということだった。
水素論を使ってオーガズムの必要性を語り合ったが、全員の意識レベルが高く、「H24」での会話となった。だから僕も「H24」の意識を保ったまま、家路についたのである。
ふだんなら出るはずのない電話に出たのも、今考えると僕があのとき「H24」でいたから取った行動のように思える。「でも、ワシ、絶対出る思うとったから」と言う師匠も同じ「H24」だからつながったのだと。
寝るまでのひととき、くつろいでいると、ケータイが鳴り出した。
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2009-05-22(14:59) :
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第24回 才女に起こったチャネリング
現在、明治大学の国際日本学部で准教授をされている藤本由香里さんが書いた『快楽電流------女の、欲望の、かたち』(河出書房新社、1999年刊)という本に、僕の作品を見たときの体験を書いた箇所がある。ちょっと長くなるが、「駆け抜けた快感のエネルギー」という項をそのまま引用させていただく。
〈それは、突然にやってきた。
見ていたのは『性感Xテクニック・処女』。この作品の冒頭に、たまたま事務所に遊びに来ていたひかるちゃんという女優が、「せっかくだからヒビヤン(日比野達郎)と感じあってごらん」と言われ、日比野と着衣で抱きあう場面がある。しかし、着衣のままにもかかわらず、昂ぶってきた彼女の声は、しだいに切迫の度を高めていく。「アッ、アッ、アッ、ア------ッ!」------「これは本物だ!」。そう思った瞬間、あろうことか、なんと......私も同時にイッてしまったのである!
何が起こったのか、私にもほとんどすぐには信じられなかった。断っておくが、別に私は、それを見ながらマスターベーションをするとか、そんな不埒なことをしていたわけではない。それになんといってもビデオの冒頭である。エッチな気分になる暇などない。誓って言うが、私は代々木監督の作品を見るのはそのときが初めてで、来週監督と会えるというので一本ぐらい見とかないと悪いだろうと思い、近所のビデオ屋で借りてきただけのことだったのである。
「エ------------ッ!!!」。今しがた駆け抜けた快感で、まだ身体をピクピクさせながら、私は一生懸命、今起こったことを理解しようとしていた。それは、セックスのときのイキ方とも、ポルノグラフィーを読んでエッチな気分になっていくイキ方とも、明らかに違っていた。セックスのときはもっと、追い上げられるような感じがあり、どこか「苦しい」という感覚が混じっている。つまり、身体や心がイクことに抵抗しているにもかかわらず突き抜けてイクという感じなのだが、今のには抵抗感がまるでない。ただ快感のエネルギーが頭の先から足の先までズドーンと駆け抜けていったという感覚である。また、ポルノを読むときにも、どこか息苦しくなるというか、精神がだんだん平たく押し潰されていって、ついに狭いところを通り抜ける、という感覚があるのだが、これはまったくその引っ掛かりがない。ただもう純粋な快感だけなのだ。
「あ~気持ちよかった」。私はまだピクピクしながらそう思った。性的に「気持ちがいい」という語彙を初めて純粋に、自分のものとして獲得したように思った。まったく、こんなイキ方があるなんて!〉
ここに藤本さんが書いているのはチャネリング現象だが、なぜそれが起きたのかを僕なりに説明してみる。
まずはじめに、藤本さんは信じられない映像に触れたのだと思う。着衣のまま抱き合っているだけでイッてしまうというのは、体験はもとより知識のデータベースにもなかったはずだ。「こんなのはあり得ない!」。きっとそう思ったことだろう。しかし、映像の中ではそれが起こっている。そして当の自分は今それを見ている。演技やヤラセを疑ってみても、目を皿のようにして見れば見るほど、真実にしか思えない。
文章にすると長ったらしいが、瞬時にこういった分析と検証がなされ、藤本さんの頭脳は「判断不能」という結論を下した。判断不能......それが思考のブレーカーを落とすキッカケになったのだと僕は推測する。本能が快を求めても、思考はそれを抑制しようとする。ところが、思考が落ちたとき、抑制から解放された本能センターが、映像の中にある"快感"を、無防備なままで丸ごと受けてしまったのではないだろうか。だからこそ、「H24」の意識階梯で可能なチャネリング現象は起きた。
やがて興奮の波が静まり、落ちたブレーカーは元に戻る。つまり「H48」の意識階梯にて機能する思考センターのスイッチがONになって、「今のは何だったのか?」と考える。けれども、先の映像同様、藤本さんはわが身に起こったことも理解できない。お互い言いにくいことも言える間柄になった頃、チャネリングについて質問された。おそらく僕は今書いたような意味のことを話したはずである。でも、それで藤本さんが納得したかといえば、同書の中の次の文章からも、結果は明白だろう。
〈私は代々木監督の作品を尊敬しながらも、チャネリングに関する氏の説明には完全には承服しがたいものを感じている〉
表現こそ婉曲だが、要するに納得していないのである。探究心の旺盛な藤本さんは〈自己催眠で説明できるように思っているのだが〉といったんは書きはじめるものの、そのセンテンスを〈うまく説明できない〉で締めくくっている。なにも考えていない状態で自分の意思とは裏腹にチャネリング現象が起きたわけだから、藤本さんの言うとおり自己催眠ではあり得ない。
東大を卒業し今大学の教壇に立つ藤本さんの知識量に比べたら、僕などは無知もいいところだ。そこに異論はまったくない。だが、前回の江里子もそうだが、知識ベースの人間は、僕のような本能ベースの人間の言うことをなかなか受け入れようとはしない。とりあえずオトナの反応として、その場ではわかったふりをしてくれるが、納得していないのは僕にもわかる。
僕のような無知な人間をも認めてほしいと言いたいのではない。だが、伝えたくても伝わらないもどかしさを感じてしまう。もちろんそれは僕自身の未熟さゆえなのだが......。それはともかく、そうまでして知識ベースの人たちに、本能ベースの僕が今伝えたいことを最後に記そうと思う。
学校教育、生き甲斐、企業の存続、家族、医療、福祉、老後......現代社会の至るところに、根強い閉塞感というか、行き詰まり感がある。そう感じているのは、当然ながら僕だけではないだろう。
4月3日のブログで、オクターヴの法則を書き込んだ「エニアグラム」を掲載した。その中で最も外周を回るのは「知性のオクターヴ」だったが、今はちょうど「ミ」から「ファ」に上がろうとして自力では上がれない段階に来ているように思えるのだ。つまり、"万物の本質を表わす"と言われるエニアグラムをひもとけば、現在の行き詰まり感の正体は、実は「思考」の限界であり、人類が今後さらに先に進もうとすれば、「思考」における"手放しの受容"(明け渡し)が求められているのではないだろうか。
3月6日のブログで、「生き残るためには、しがみつくな。手を離せ。力を抜け」と書いたけれども、手を離すべき最大のものは「思考」だと僕は思っている。「思考」を明け渡すとどうなるのか......については、今後この場でまた書いていきたい。
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2009-05-15(15:06) :
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第23回 「大失敗」の向こう側
前回の話の続きである。「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ10」の撮影をふり返った江里子は、なぜ自分のブログに「大失敗だった」と書いたのか?
僕としては、自分の殻を壊したいと思っていた彼女が現場であそこまで行けたのだから、大奮闘ではないかと考えていた。だから、ホントのことを言うと、「はじめてセックスの悦びを知りました」くらいは書いてあるんじゃないかという思いも片方にはあったのだが、現実は違った。
で、考えてみた。結局のところ、彼女は「H24」を体験したのだろうか? これを検証する際、「体験したのか」「しなかったのか」という二者択一ではなく、「本能」「思考」「感情」に分けて、それぞれがどうだったのかを考えてみる必要がありそうだ。
撮影の終盤、彼女は男優・森林とのセックスで無意識に腰も使っているから、本能センターは「H24」に達していたと言えるだろう。「すごく幸せだった」という彼女の言葉から、感情センターも「H24」を束の間であったとしても体験したはずである。
しかし、彼女の中で最も強固な存在である思考センターは、本能センターとも感情センターとも隔絶しているように見える。そう思うひとつの根拠を次に記そう。
作品の半ば、江里子が愛撫の途中で冷めてしまったので、「じゃあ、休憩にしよう」といったんカメラを止めた。そうして、みんなが雑談している中、江里子と森林が話しているところを、助監督はカメラに収めていた。作品の中でもその光景が差し挟まれているが、二人のやりとりをここにそのまま書き起こしてみる。
江里子「私もさっきしてもらってて、確かに指で触られたときとかは気持ちよかったんだけど、『で?』みたいな感じになってしまうよね」
森林「だったら、あの涙は何だったの?」
江里子「いつ泣いたっけ?」
森林「覚えてない?」
江里子「ああ、泣いたね、そういえば。いつ泣いたっけ? なんだろうな? なんかそんとき覚えとったけど、今忘れてしまった」
江里子にとっては、自分の泣いたこともまるで他人事である。自分が泣いた場合、ふつうはそれを鮮明に覚えているものだ。ああ、泣いちゃった、恥ずかしいなぁとか、本来はそういった感情が出てくるはずだが、江里子は出てこない。なぜ泣いたのかさえ、本人はよくわかっていない。
このように、彼女が泣いたという行為ひとつをとってみても、そのときの「感情」を「思考」は記憶しようとしていない。つまり、感情ベースと思考ベースとの間には埋めがたい距離がある。これがタテ軸の距離である。「感情」と「思考」の関係性と同様に、休憩後ふたたび森林と抱き合い、彼の優しさに包まれ、「本能」が味わった「H24」も、彼女の「思考」はそれを認めていないのである。
江里子は子どもの頃から運動はしておらず、でもそのぶん知識は豊富で、典型的な思考ベースの人間である。だから、セックスで乱れることを、彼女の「思考」は許さない。なぜならば、「H24」に行って乱れるとは、自分をこれまで支えてきたもの、自分を自分としてあらしめてきたものを、ある意味、捨てるに等しいわけだから。
たとえば思考ベース人間は、本能ベース人間を見たときに「なんと無知な」と思う。江里子の中でも、「思考」は「本能」を一段下のものととらえていただろう。だから、みすみす一段下に自分が落ちることなどできないのである。
撮影の終盤、森林とのセックスにおいても「思考」が"手放しの受容"(明け渡し)を拒絶しなければ、「本能」「思考」「感情」というトータルで「H24」に行ったはずだが、「思考」だけは最後までそれに抵抗し、ずっと「H48」のままだった。
前々回の話にも書いたが、「H24」と「H48」では処理能力のスピードが違うので、「H48」の側からは「H24」で何が起こっているのかわからない。自分の蓄積した知識の中にも、それを読み解くデータがないとなれば、その理解不能さ加減が他人事として処理され、時間とともに記憶の表層からは消えていく。これが「大失敗だった」と江里子(の思考)がブログに書いた真相ではないだろうか。
しかし、それでも「本能」は"快"を求めつづける。その「思考」と「本能」の狭間で、彼女の「感情」はいつも苦しんでいたのではないかと僕は思うのだ。もっとも、江里子のようなケースはなにも特異な例ではない。現代社会は思考ベース人間を育てよう育てようとしているように僕には思えてならない。
そこで次回は、東京大学を卒業し、今は大学で教鞭をとる、ある女性のエピソードを介して、「本能」「思考」「感情」をタテ軸で解いてみたい。
「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ10」
のパッケージ色校。リリースは7月11日
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2009-05-08(15:08) :
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第22回 水素論的オーガズムへ
ふだん、僕たちが生活を営んでいるのは「H48」の意識世界である。「H48」は「通常の思考」の振動密度帯だが、セックスにおいて、男が「相手をイカせよう」と考えていたり、女が「この人、ヘタだわ」と思っていたら、いつまでたっても「H48」からは解放されない。
「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」で使っている催淫CDは、トランス状態へと導く触媒のようなものだが、CDによって思考が落ちたとき、人は「H48」から解放される。とはいえ、そのあと、オーガズムやチャネリング(H24)を体験するのか、ネガティブな感情(H96)に支配されるのかは、大きな分岐点と言えるだろう。
前回の話で、涼と紫乃は「H24」を体験し、江里子は「H96」が出てきたことを書いた。では、なぜ、江里子だけが「H96」の状態になってしまったのだろう?
江里子は手紙にも書いていたように、本やカウンセリングやセミナーに、自分の殻を壊すための救いをずっと求めてきた。そのぶん知識は、僕よりずっと豊富である。
けれども、彼女にとっては拠り所であるはずの知識が、実は問題なんじゃないかと僕は思っている。彼女のブログを見ると、いろんな人たちの言葉が日々紹介されている。それらは人生の真理の一面をすくい取ったような名言集であり、元気づけられることも確かにあるだろう。でも、その名言集によって、彼女は本当に救われたのだろうか。もし救われたのならば、彼女の自己救済への旅はどうして終わらないのだろう。
彼女の中には、いろいろな知識によって形成された「強固な自己」が存在しているように僕には見える。しかし同時に、彼女はそれに違和感を覚えている。彼女自身の言葉を借りれば、それが壊したい「殻」なのではないだろうか。
たとえば、ブログに人の名言を引用するのではなく、自らの喜怒哀楽をそのまま吐露してしまえば、もっと救われるだろうにと思ってしまう。知識が形成する常識や良識という名のフタをしてしまうと、表に出られない喜怒哀楽は無意識の深奥にどんどん溜まっていく。
それがトランスに入ったとき、思考の錠前が外れて次々に出てくるのである。催淫CDを聴いた江里子が「H96」に行き、ネガティブな感情を吐き出しはじめたとき、僕は「一回、全部出しなさい!」と言った。
江里子に限らず、多くの人たちは日常、人前で自分の喜怒哀楽をなかなか表に出さない。それは自分の「H48」がしっかり機能しているからだが、会社はもとより家で家族といるときも、本当の感情を飲み込んでしまい、ずっとその状態が続いていることにさえ気がついていないのだ。実はこのとき、喜怒哀楽のエネルギー量に比例して、それを抑え込むエネルギーも同じ量だけ必要になる。なにもしていないのに疲れてしまうという人は、気づかないうちにこのエネルギーを放出しているのである。
さて、涼や紫乃は、なぜ「H24」に行けたのだろうか? 撮影の合間に彼女たちと話してわかったのは、涼は子どもの頃から男の子みたいに飛び回って遊び、スポーツはなんでも好きだということ。紫乃も、ある年齢からストレッチやエアロビクスを続けてるということ。それと対照的に、江里子は物心ついた頃から体を動かすことをしていない。体を動かすこと、特に有酸素運動は本能動作の基礎をつくるためにとても重要である。なによりも感情を育ててくれる。
しかも、涼は面構えを見ても、なかなかヤンチャな目をしている。これは幼児期から自分を明け渡す訓練をしてきた者に共通している目だ。僕は子どもの頃、ケンカに明け暮れていた。たったひとりで十数人に囲まれたときには身の安全など風前の灯火だが、途中で降りる思いはつゆほどもなく、前へ前へと出ていってしまう。かと思えば、ボロボロになって家に帰り、当時一緒に暮らしていた婆ちゃんの顔を見た途端、わーっと泣き出してその胸に飛び込んでいく。今にして思えば、どちらも結果的に明け渡しの訓練になったのだろうと思う。
今の時代は、きっとそうなる前に親が手を差し伸べてしまうのだろう。危険なことをさせない。だから自分を明け渡すという体験もない。そればかりか、本人が求めていないものを「将来のために」ということで強引に詰め込めば、多かれ少なかれ、親の望む子を演じなければならなくなる。すると、ますますホンネは出しにくくなり、素直な感情にフタをする結果となる。
さて、撮影現場に話を戻すと、江里子に「H96」の感情があふれ出したとき、僕は「全部出しなさい!」とは言ったが、特に何かフォローするでもなく、その後「じゃあ、きょうはこれまで」と言って撮影を終えた。
撮影2日目、涼と紫乃はそれぞれ男優たちと気持ちのいいセックスを始める。江里子も自分のパートナーである男優のオチンチンをさわったり、「なめてぇ」とは言うのだが、途中で冷め、ネガティブになってしまう。これまでならば、たとえば男優に「目隠しして、後ろから行ってみようか」とか耳打ちするところだが、今回、僕はいっさいそれをしなかった。本人が「エッチな気分になれない」と言えば、「なれないものはしょうがないよね。じゃあ、休憩にしよう」と突っぱねた。
なかなか「H24」に行けない彼女を、僕は見放してしまったわけではない。自己救済の旅を続ける彼女は、最初の手紙を読ませてもらったときから、依存体質であるのがよくわかった。だから、いろいろな先生の門をたたき、でも自分の求めた答えは得られず、また別のところを訪ねるということを繰り返している。僕に手紙をくれたのも、ひょっとして代々木ならばセックスで救ってくれるかもしれないという思いがあったからだろう。しかし、いいセックスをしようとするなら、自分が欲情するしかないのだ。
そんな江里子も、ついに男優とのセックスで「大好き」「しあわせ」という言葉が口をついて出た。他力依存だった彼女が、自らの殻を破り、快楽を手にした瞬間である。僕はなにも手を差し伸べなかったけれど、それでもここまで来た彼女は大したものだと思うし、凄いことだと思う。
彼女のブログにも生じるであろう変化を読みたくて、撮影の数日後、僕はそのページを開いてみた。そこにはこう書かれていた。「大失敗だった」と。やっぱりそっちかと僕は思った。なぜ彼女が「大失敗」と書いたのかは、次回あらためてお伝えしようと思う。
江里子は「H24」を体験できたのか?
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