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第21回 セックスにおける意識世界

 今年の1月下旬、このブログを読んでいる30代の女性から手紙をいただいた。手紙はきれいな字で、書き損じもなく、小ぶりの便箋10枚に及んでいる。

 その内容はというと、ずっと自分の殻を壊したいと思いつづけ、本やカウンセリングやセミナーにそのヒントを求めてきた。でも、このブログを読んで、「本当にいいセックスがしたい」、そしてそれが「充実した人生を送るということにつながっていく」と思った。AVに出るのは抵抗もあったが、同時に今は嘘偽りのない私をたくさんの人に観てほしいという気持ちもある。ついては、ぜひお会いしたいと。

 電話で連絡を差し上げ、その後、事務所に来てもらって、いろいろと話をし、「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」に出演が決まった。この作品には、手紙をくれた女性・藤原江里子のほかに、加々美涼、真波紫乃という2人の女性も出演している。そして男優が3人。撮影は3月中旬、千葉県勝浦市にある一軒家にて1泊2日で行った。

 撮影1日目、まず涼に催淫CDを聴いてもらい、江里子と紫乃にその光景を見ていてもらった。トランス状態に入った涼が感じはじめる。グルジェフの水素論でいえば「H48」から「H24」に移行した状態である。

 それを見ていた紫乃も感じはじめ、自らの手を股間に持っていきつつ喘ぎ出す。彼女もまた「H24」に移行している。ところが、江里子に変化は生じない。彼女は依然として「H48」のままだった。

 次はバトンタッチして、紫乃が催淫CDを聴き、他の2人に見ていてもらう。紫乃もトランス状態に入り、感じはじめる。それを見ている涼の腰がいやらしく動きはじめ、パンティの上からでも濡れているのがわかる。先ほどの紫乃と同様、彼女も「H24」で同調しているのである。

 ただし、紫乃と涼の違いは、紫乃は股間を手でまさぐったが、涼は手も使わずに見ているだけでその股間は快感を露わにしている。つまり、同じ「H24」の状態に移行しつつも、手を使った紫乃は、まだ「H48」側の猥褻(わいせつ)観をどこかで引きずっているということだろう。

 では、江里子はどうなったか? 結果は今回も変わらなかった。「H48」のままである。江里子が言う。「CDを聴いて感じてる子を見ているだけで、なぜ自分も同じように感じてしまうのか、わからない」と。

 僕は、紫乃と涼に訊いた。「どういうことか説明してよ」。すると、こんな返事がかえってきた。「勝手に体が反応してしまっているとしか言いようがない」「もしかしたら、頭はついていってないのかも......」。

 彼女たちの言葉を、僕はこんなふうに考えた。たとえば、火にかけた鍋があるとする。そろそろ料理ができた頃なので、フタを取って中身を確認したい。フタのつまみをつかむ。その瞬間、あまりの熱さに手を離し、とっさに耳たぶをつかむ。この一連の動作のなかで、前半の、フタのつまみをつかもうとするスピードが「H48」であり、後半の、思わず「アチッ!」と耳たぶに手をやるスピードが「H24」。鍋の中身を確認するためフタを取ろうという行為は思考センターが支配し、予期せぬ熱さに対する反応は本能センターが支配している。

 つまり、「思考の速度」と「生体の処理能力の速度」には、そもそも違いがある。彼女たちの言う「勝手に体が反応してしまっている」というのは「生体の処理能力」だから、「頭」つまり「思考の速度」が追いついていかないというのも、しごく当然なことだと僕は思うのだ。

 さて、現場では、いよいよ江里子にも催淫CDを聴いてもらうことにした。ヘッドフォンをした江里子はしばらくすると、よがり声ではなく、苦しそうなうめき声をあげはじめたのだった。江里子のような状態も、現場では珍しいことではないが、言葉としては同じ「もだえる」でも、快感にもだえるのと、苦痛にもだえるのでは、天と地ほどの開きがある。

 人がトランス状態に入ると、思考が落ちて「H48」から解放される。これは涼も、紫乃も、江里子も同じである。「H48」から解放されたのち、涼と紫乃は「H24」に移行した(もっとも、紫乃は「H48」の一部を引きずってはいたが)。それに対して、江里子は「H24」には行かずに、「H96」が出てきたのだと僕は思う。

 「H24」が「生体の処理能力」の振動密度帯、「H48」が「通常の思考」の振動密度帯なのに対して、「H96」とは「ネガティブな感情」の振動密度帯である。では、なぜ江里子だけにネガティブな感情が出てきたのだろうか? 先ほども書いたが、トランスに入ればみんながみんな「H24」に行くわけではなく、「H96」に行く女の子も少なくはない。その理由については、次回書いてみようと思っている。




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涼の「H24」に紫乃も同調するが・・・・・・

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第20回 「H48」

 「水素」と聞いて、あなたは何を想像するだろう? 

 「元素記号H。原子番号1。最も軽い物質。酸素と化合したら水になる」ということを遠い昔に理科で教わった気もするが、日常生活で水はともかく、水素を意識することはまずないから、大半の人は水素から何も想像などしないのではないだろうか。

 でも、心配はご無用。グルジェフの「水素論」において、学校で習った水素の知識は不要である。グルジェフは「H3」とか「H48」という記号で、僕たちの"意識"についての説明を繰り広げる。

 記号のうち「H」の部分は文字どおり水素の元素記号を意味し、だからこそ「水素論」なのだが、まさか人間の意識が本物の水素から出来ているという話ではない。彼は自分の思想を説明する際、音階や天体や元素などを比喩としてよく使う。

 Hの次にくる「3」や「48」という数字が、意識の階梯(かいてい)、つまり意識の段階というか、レベルを表している。といっても、数字なら何でもここにくるわけではない。「水素論」で用いるのは「1」「3」「6」「12」「24」「48」「96」「192」「384」......といった数字なのだ。

 「3」以降の数字は、倍々で増えているように見えるが、なぜ「4」や「5」といった間の数字はないのだろう?

 これは、実は前回のブログで紹介した「3の法則」と関係がある。ちょっと復習になるが、「3の法則」における3つの力とは、エニアグラムの中では正三角形で表され、「能動」「受動」「中和」がその特性だ。

 グルジェフは、人間の意識の源を「H6」に位置づけている。〈創造の源〉であるこの「H6」には、「能動1」「受動2」「中和3」が内包されている。1+2+3=6、この正三角形が「H6」なのだ。ただし、「能動1」「受動2」「中和3」は力の活動順序であり、物質密度の点から見れば「能動1」「中和2」「受動3」というように、力の導体とも言うべき「中和」が「能動」と「受動」の間にくる。

 「H6」が次の物質を作るとき、創造の活動順序「中和3」(ただし物質密度としては2番目の中和因子)が、今度は「H2」として「能動」の役割をする。こうして、「H2・能動」+「H4・受動」+「H6・中和」=「H12・感情の源」が創造されるのである。この「H12」がまた次の物質を作るときには、同様のことが繰り返されていくわけだが、文章だとわかりにくいので、僕はふだん下の図のように考えている(図が小さい場合はクリックしてみてほしい)。


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 図の中で一番左のエリア「H6」にて、「能動1」を白い円、「受動2」を黒い円で表せば、物質密度としては両者の間に位置する「中和3」が高さ的には中間の左側に入って正三角形を作る。このとき「中和3」は上半分が白、下半分が黒の円になる。

イメージとしては、父である「能動」と母である「受動」から生まれた子の「中和」が、両親の要素を半分ずつ受け継いだと思ってもらえたらいい。この子どもである「中和」も、次の世界「H12」では自らが父(能動)となり、受動と交わって子を生み出す。受動は常に黒で表されるため、半分ずつ受け継ぐ中和は「H12」においては4分の1が白い円となる。これが子から孫、孫からひ孫のごとく「H24」「H48」「H96」......と繰り返されていくのである。

 先ほど「物質密度」という言葉を使ったが、これについても少々説明しておきたい。グルジェフは、宇宙のあらゆるものは「振動」から成り立っていると言う。その観点に立てば、テーブルや椅子といった物質だけではなく、人間の意識や精神活動もまた「振動」から出来上がっているということになる。そして、Hの次の数字が増えるにしたがって「物質密度」は高くなり、逆に「振動密度」は低くなる。

 「水素論」から離れるが、たとえばこんなふうに考えればイメージしやすいかもしれない。水は液体だが、100度を超えたとき蒸発して気体(水蒸気)にもなりうる。このとき体積は約1700倍にも膨れあがる。ということは、水の分子と分子の間隔は大いに離れ、液体のときよりも自由に動き回れるのである。

 実際、窓を開ければ、水蒸気は部屋の外へも逃げていけるだろうが、水がコップの中から自分で出ていくことはできない。つまり、水は水蒸気になることによって、密度が低くなる代わりに、振動は大きくなる。逆にいえば、水は水蒸気より物質密度が高く、振動密度は低い。

 話を「水素論」に戻すと、より振動密度の高い「H24」からは「H96」の世界が"物質的"に見え、より振動密度の低い「H96」からは「H24」の世界を"予感"あるいは"印象"として知覚する。

 図の中にも書いたが、グルジェフはそれぞれの意識世界を宇宙にたとえている。「H1」...絶対、「H3」...全宇宙、「H6」...全太陽、「H12」...太陽、「H24」...全惑星、「H48」...地球、「H96」...月。

 これらはあくまでも比喩なのだが、〈「H48」...地球〉だけは気に留めておいてほしい。なぜならば、僕たちが現実に生きているこの世を、グルジェフは「H48」だと規定している。

 P.D.ウスペンスキー著『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社刊)の中から引用すれば、こうである。「我々は48種類の法則に従った世界に生きている。ということは、〈絶対〉の意志から非常に遠い、宇宙のひどく辺鄙な暗い片隅に生きているということだ」。

 この表現からは、あまり居心地のよさそうな場所とは思えない。なるほど、図をもう一度見てもらえれば、「H48」の地球において、円の中に占める「白い面積」はごくわずかしか残されていないのが一目瞭然だろう。「白い面積」を仮に "神の意志"だとすれば、僕たち人間は、神からかくも遠い所に存在していると言わざるを得ないのである。

次回は、僕が最近撮ったある作品をモチーフにしつつ、「水素論」の示唆するところを、もっと具体的に考えていきたい。



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第19回 正三角形の正体

 これまで「エニアグラム」と「7の法則」を紹介した。「エニアグラム」は「3の法則」と「7の法則」の結びつきを表していると言われる。ということで、今回は「3の法則」のほうを見ていきたい。

 エニアグラムの中には、「3」「6」「9」で構成される正三角形が存在する(下の図でいうと、円の中の波線の部分だ)。ちなみに、1から6までの数を7で割ったとき、答えは循環小数になって割り切れないが、永遠にくり返されるこの循環においても、「3」「6」「9」という3つの数字は一度たりとも出てこないのを前々回確認した。

 では、この正三角形は、いったい何を意味するのだろう?

 答えを先に書いてしまえば、「創造の原理」だとグルジェフは言う。「創造の原理」と言われても、わかったようでよくわからない。ぶっちゃけて言えば、現象だろうが、行動だろうが、世の中に起こり得るあらゆることは、すべてこの正三角形「3」「6」「9」の力だと彼は言うのである。

 正三角形ひとつで、あらゆる現象の解明だと言われても、にわかには信じがたい。P.D.ウスペンスキー著『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社刊)の中のグルジェフの説明を要約すると、こうなる。

 僕たちは、この世の中の仕組みをとかく2元論でとらえがちである。力と抵抗、N極とS極、陽電気と陰電気......。ちょうど1枚の紙には表と裏があり、表だけでも、また裏だけでも紙は存在しないように、2つの相反するもので、この世の中は成り立っているように思っている。

 ところが、グルジェフは2つではなくて、3つが正解だと言っているのである。「え? じゃあ、3つめは何?」と思われるかもしれない。いや、それ以前に、そもそも彼の言う3つとは何なのだろうか?

 第1の力は「能動的」あるいは「積極的」と呼ばれる。第2の力は「受動的」または「消極的」と呼ばれる。ここまではいい。「能動的」に対して「受動的」、「積極的」対して「消極的」。ここで終われば、僕たちがよく知っている2元論の範囲内だ。さて、問題の第3の力だが、グルジェフは「中和的」だと言う。

 そして「いかなる規模のものであれ、すべての現象は必然的に三つの力の現われであり、一つないし二つの力は現象を生みだすことができず、したがってもし、あることの中に停止を見たり、同じところで停滞しているのを見たりするなら、その場所には第三の力が欠けているということができるのである」と。

 となると、僕らにはなじみの薄い「中和的」という第3の力が、ますます重要だということになるが、「中和的」をどうイメージしたらいいのだろうか?

 たとえば、一人の人間がある目標を自ら設定し、その目標に向けて日々トレーニングを開始したとしよう。彼のこの欲求は能動的な力と言える。ところが、トレーニングを進めるうちに、それを妨げるいろいろな誘惑も生まれてくる。ときには誘惑に負けて、トレーニングをサボるための自己正当化をしてしまう日もあるかもしれない。このような生活の習慣的惰性とでもいうべき阻害要因を、受動的な力と見ることができる。

 彼はいまだ目標を達成したいと思っていても、阻害要因も同時に存在している限り、めでたく目標に到達するのは難しい。あるいは、仮に受動的な力が完全に能動的な力を吸収してしまえば、トレーニングはそこで終わってしまう。

 そうなってしまう前、つまり能動的な力と受動的な力が綱引きをしている状態のときに、第3の力が"新たなる知恵"という形で出現し、トレーニングの真の必要性と利点を彼に示せば、彼は阻害要因を克服し、目標達成のゴールまで無事に行き着くことができるだろう。これを中和的な力だとグルジェフは言うのである。

 しかし同時に、僕たちは世の中をありのままに観察しているつもりでも、それは自分の意識の主観的状態においてである。つまり本人が客観的なつもりでも、その意識すら実は主観的だということになる。この主観にとらわれている限り、第3の力は決して見えてこないとグルジェフは言うのだ。

 さて次回は、第3の力を出現させるための、いうなれば意識の成長を、いよいよ「水素論」を使って考えてみたい。それがやがては、タテ軸の発想へとつながっていくはずである。


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第18回 オクターヴの法則

 今回は「7」についての話である。G.I.グルジェフの思想に「7の法則」というのがある。別名「オクターヴの法則」とも言われる。

 「オクターヴ」といえば「ドレミファソラシド」。2度出てくる「ド」まで含めれば8つあるが、種類としては「ド」から「シ」までの7つ(全音階)。これを使って、グルジェフは「7の法則」を説明している。

 よく目にするピアノの鍵盤は、白(白鍵)と黒(黒鍵)からできている。白鍵の「ドレミファソラシド」の上に黒鍵があるが、「ミ」と「ファ」、そして「シ」と「ド」の間には黒鍵がない。なぜ黒鍵がないかは、音楽をしている人には自明だろうが、たとえば「ド」と「レ」の差は全音なので、「ド」より半音だけ高い黒鍵が必要になる。ところが「ミ」と「ファ」、「シ」と「ド」の間にはもともと半音しか差がない。だから半音の黒鍵が必要ないというわけだ。つまり「ドレミファ」の音階は「全全半全全全半」であり、均一にはなっていない。


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  P.D.ウスペンスキー著『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社刊)の中で、グルジェフは、宇宙のあらゆるものは振動から成り立っているが、「ミ」から「ファ」、そして「シ」から「ド」に移る段階で、それまでは「全」であった振動が「半」になるため、減速を余儀なくされると言っている。「ド」から始まった進路は、「ミ」と「ファ」の間、「シ」と「ド」の間で、振動の減速により、元の進路からの脱線が起こり、否応なく方向を変えられてしまうと言うのだ。イメージとしては次の図のような感じである。


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 たとえば僕たちが何か新たな目標を立て、それに向かって邁進しているつもりでも、最初にあった気力や志は、知らないうちに薄れて弱まってしまい、気がつけば、最初に立てた目標とはまったく違う方向に向かっているなどということがある。グルジェフに言わせれば、それは「オクターヴの法則」に僕たちが支配されているから、ということになる。

 でも、だとすれば、僕たちは何をやってもうまくいかない、自分の立てた目標が達成する日など永遠にやってこない、ということになってしまう。では、どうすればいいのだろうか?


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 上の図は前回のエニアグラムに、オクターヴの法則を書き込んでみたものだ。青で書いたオクターヴ(身体のオクターヴという)の「ド」から始まり「レ」「ミ」と来て、次の「3」の場所が空白である。ここで進路変更(減速)が起こるため、そのまま「ファ」には進めない。

 しかし、ピンクで書いた次のオクターヴ(感情のオクターヴ)の「ド」が介入することによって、「ミ」は「ファ」へ進んでいける。ただし、感情のオクターヴにも同様に「ミ」と「ファ」の間に空白「6」が訪れる。ここは赤で書いた次のオクターヴ(知性のオクターヴ)の「ド」が介入することにより、「ファ」へ移行できるというわけである。

 つまり、1つのオクターヴは、単独では「ファ」に上がることはできず、単独で働くかぎり停滞し、放置しておくと退行を開始する。これが現在、先進国といわれる多くの人間社会で起きていることだと僕は思う。

 『奇蹟を求めて』の中で、グルジェフは人間が生きていくためには、「食物」「空気」「印象」の3つが必要不可欠だと言う。そして「水も食物もとらずに人は数日間は生きられる」「呼吸をとめて数分間は生きていける」「しかし印象なしでは人間は一瞬たりとも生きていることはできない」と言うのである。

 「食物」や「空気」はいいとして、グルジェフの言う「印象」とは何なのか。「音の形をとるか視覚の形をとるか、あるいは匂いという形をとるかはともかく、我々はあらゆる外的印象を受けとるたびに外部から一定量のエネルギー、一定数の振動を受けとっている」と同書の中でグルジェフは言っている。

 身体のオクターヴにおいては食物摂取が、感情のオクターヴにおいては呼吸リズムが、そして知性のオクターヴにおいては印象運動が重要になる。

 また、上のエニアグラムを3次元的にとらえれば、1つのオクターヴの中でなんとか問題を打開しようともがく姿は、ヨコ軸での方法論にすぎないように思える。それに対して、第2、第3のオクターヴとはタテ軸の変化だと僕は思うのだ。

 タテ軸を知るには、エニアグラムの知性のオクターヴ「ミ」のところで起きる思考の限界での「手放しの受容」というものが必要になってくる。それがタテ軸の意識階梯へのパスポートとなるのである。なぜならば、知性のオクターヴそれ自体は、それ以上前に進む可能性を一点も持っていないからだ。このタテ軸の発想については、今後あらためて記すことになると思うので、今回はちょっと予告編である。

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