上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
オーガズムのとき「溶けちゃう」と言った女の子がいた。それも一人や二人ではない。なかなか男にはわからない感覚だ。僕も最初は「溶けるって、何が溶けるんだ?」と思った。オーガズムの言葉としては「死んじゃう」とか「イッちゃう」というのもある。
いったい何が「溶け」「死に」「行く」のか? ひと言でいえば、それは「個」ではないかと思う。「個の自分」が溶け、死に、どこかへ行ってしまう。だから、お互いがそうなれれば、自他の境界線もなくなり、ひとつに同化してしまうのではないかと。
しかし、今は以前にもまして、セックスで溶け合うということが難しくなっている。セックスのマニュアル本だったら、溶け合うためのテクニックが列記されるところだが、事はもっと複雑なようにも思う。
ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。
日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。
これには宗教観も大きく影響している。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。
それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。だから身近にいろいろな神様がいる。中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。
このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
セックスで相手と溶け合えない最大の原因は、テクニックなどではなく、「個の自分」に根源があるのだと思う。本当のオーガズムとは、ある意味、悟りでもある。溶け合えば、真理の片鱗を人はのぞくことができる。そしてその表情は、このうえもなく幸せそうである。
もしあなたが怒りや悲しみに襲われたとき、それを引き起こした人や出来事をうらみ、いつまでもそこに留まっていると、よいことはなにもない。いずれ心や体を病むことにもなるだろう。だから「この出来事は自分が成長するために必要だったのだ」と自らに言い聞かせ、ネガティブな心をポジティブに切り換えて、明日もまた生きていこうとする。
これは正しい。まったくそのとおりなのだが、人の感情というものが一筋縄ではいかないのもまた事実である。いくら頭ではわかっていても、理屈によって感情はなかなか抑えられない。僕なんか感情オクターヴ系なので、暴走しようものなら余計に厄介である。ポジティブ思考は大きな効果があるが、どうしても中和できない感情のシコリが残る。それを取り除くには、呼吸が最も効果的だと僕は思っている。
これまでもこのブログで呼吸法のいくつかを紹介してきたが、今回は最も重要だと思われるポイントを記しておこう。
今から20年ほど前、僕は毎月(多いときには月に2回も)サイパンに通っていた。当時、成田とサイパンを直行便でつなぐコンチネンタル・エアラインの機内で、こんなことがあった。
コンチネンタルの機内には、中央よりやや前寄りにカウンターバーのあるラウンジが設けられていた。僕はそこが好きで、離陸とともにシートベルトのサインが消えると、すぐに席を立った。その日、いつものようにカウンターバーで飲んでいると、機内アナウンスが流れた。「ご搭乗のお客さまの中にドクターはいらっしゃいませんか?」と言っている。
だれも名乗りをあげない。ふり返ると、若い女性が斜め後ろの席のフロアに横たわっていた。パニックになっているらしく、呼吸も乱れ、過換気状態なのが僕の位置からも見える。あとからわかったことだが、この女性はサイパンへの新婚旅行のため、生まれて初めて飛行機に乗ったという。気流の関係で機体が大きく揺れたから、彼女にとってはパニックを起こすほどの、それは恐怖だったに違いない。そういえば、隣でダンナさんはおろおろしていた。
彼女の状態を見て、すぐ僕はカウンターの席を立った。女性のそばについているスチュワーデスが「ドクター?」と訊く。カウンターの中にいたスチュワーデスは僕と顔見知りだったので、ドクターなんかじゃないことはわかっていたが、なんと答えたものか、返事に詰まっている。
かまわず僕は、横たわっている女性のもとにしゃがみ込んだ。女性の手を握り、「大丈夫、私の目を見て」。彼女が僕の目を見ると「息を吐いて。とりあえず吐き出しなさい。全部、吐いて。あわてて吸わないで。自然に入ってくるから。そう、吐き切って。そうそう、それでいい。もう大丈夫」。すると、彼女はすぐに笑顔を取り戻し、「ありがとうございます。おかげさまで、もう大丈夫です」と自分の席に座った。ここまで、ものの1分くらいだった。
と同時に、客席からは拍手が湧き起こった。「さすが、ドクター!」みたいな感じだ。サイパンに到着し、飛行機を降りてから、一緒に行った友人からは「ドクターだって!」と腹を抱えて笑われた。つられて僕も笑ったが、でもあのときは下手なドクターよりもドクターだったかもしれないと思った。呼吸は感情をコントロールできるのだ。
それはパニックのときだけではない。地に足をつけ生きていても、中和しきれない感情のシコリは残る。それを呼吸が溶かしてくれるのである。その際、まずあなたがすべきことは、息を「吐く」ということだ。自分のシコリを外に出すように息を吐き切ってしまう。心配しなくても吐けば、次には自然に吸い込んでいる。深く吐けば、深く吸うのである。
ところが、深呼吸では「吸って」から「吐く」と思っている人が多い。僕はラジオ体操の影響も大きいのではないかと思っている。ラジオ体操では、第一も第二も、最後に深呼吸がある。両手を上にあげながら「深く息を吸って」、その手を横に下ろしながら「吐きま~す」と。しかもこの深呼吸は胸を使ったもので、腹式ではない。気功においては、息を吸うと「気が上がる」と言われる。「気が上がる」と緊張が解けなくなったり、恐怖感や不安感が増すと。
ラジオ体操は80年以上前にアメリカで考案された。ラジオ体操ばかりでなく、日本は西欧からいろいろなものを取り入れ、物質文明を築いてきたが、そのぶん自然からは遠ざかってしまった。自然とともに生きていた頃には、とりわけ呼吸を意識する必要もなかっただろう。狩猟や漁労で獲物をとる際、あるいは畑を耕すにしても、かつては体を使っていたから、無意識のうちに「ハアハア」と息の荒い呼吸をしていた。「ハアハア」は、吸う音ではなく、吐く音である。
現代のストレス社会を生きるみなさんには、呼吸の「呼」、つまり息を「吐く」ことを、ぜひとも意識していただきたい。