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第205回 オープンカレッジ in 浜松

 浜松駅のホームに降り立ったのは、新幹線が東京駅を出てから1時間半後のことだった。浜松は思い出のある土地だ。

 興行を生業(なりわい)としていた20代の頃、「金馬車ミュージック」という浜松のストリップ劇場に3カ月間、寝泊まりさせてもらった。僕はある人物との抗争の渦中で、「金馬車」にはいくつかの名だたる組から相当数の不良たちが加勢に集まってきていた。取らなければこっちが取られる。当然ながら僕は彼を取るつもりでいた。そんなある日、不良仲間が乗り合わせた劇場の宣伝カーが交通事故を起こし、荷台に寝っ転がっていた僕も頸椎の7番目を損傷した。それは夜襲をかける前日のこと。半年間、石膏で固められる身となって、夜襲は頓挫する。もしも事故が起きなければ、監獄に入れられたか、死んでいただろう。そして、8年前から始めた骨格矯正で、その古傷が今も足を引っ張る。

 新幹線ホームを歩き、改札を出ると、蛍光グリーンのジャンパーを着たスタッフの人たちが立っている。案内デスクで名前を言い、講師用パスを受け取る。案内されるままにタクシー乗り場に向かっていると、「ご一緒させていただいてもいいですか? ナツノと申します」と笑顔で声をかけられた。車中、慶應大学で教えていらっしゃると聞き、こんなに気さくな教授がいるんだとちょっと驚く。あとからわかったのだが、フジテレビ「とくダネ!」のコメンテーターもされている夏野剛さんだった。夏野さんのおかげで気持ちよく会場に入る。

 講師控室がズラリと並ぶ廊下には、テレビや雑誌でよく見る顔ぶれが溢れていた。彼らのほとんどは「エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議」の会員で、僕は今回だけのゲストだが、それにしても場違いな所に迷い込んだような……。そんな気分でいると、田原総一朗さんがニコニコしながらやってきて、向こうから挨拶してくれた。舌鋒鋭い討論番組の印象とは打って変わって柔和な笑顔。それが僕を和ませ、落ち着かせてくれる。

 懐かしい人にも会えた。秋尾沙戸子さんである。僕は十数年前、関西テレビの「ワンダラーズ」という深夜番組に月1回出演していたことがあったが、その番組の司会をされていたのが秋尾さんだった。彼女は番組で取り上げた呼吸法に興味を持って、自ら体験されたこともある行動派のジャーナリストだ。その後、海外での活動も多くなったようで、滞在先の国々から何通かハガキをもらった。

 僕が呼ばれたのは「アダルトビデオ産業は必要か?」がテーマの講座で、進行役は和田秀樹さん。他には、会場となった静岡文化芸術大学で准教授をされている木下千花さん、そして花房観音。和田さんとは3年ほど前、三枝成彰さんを介して一緒に飲んだことがあったので気心が知れている。そのときから彼の頭の回転の速さとズバ抜けた記憶力のよさはよく知っている。しゃべることが好きな人なのに、講座では一歩引いてこちらを立て、うまく引っ張っていってくれた。

 和田さんから、前回飲んだときに『受験のシンデレラ』、今回は『「わたし」の人生(みち)』という彼自身が監督した映画のDVDをもらった。ご覧になった方もいるだろうが、『受験のシンデレラ』では「受験」を、『「わたし」の人生(みち)』では「介護」をモチーフとしている。どちらも彼の専門分野であり、自分の向かうべき道を外していない、一本筋の通った作品である。

 僕の出る講座は終わったが、夜に来場者と酒食をともにしながら語り合う「夜楽(やがく)」が待っている。まだ3時間以上あるので、誰かの講座を聴講させてもらうことにした。時間割を眺めていると、秋尾さんが「メディアはどこへ?」という講座に出るようだ。タクシーでご一緒した夏野さんもいるではないか。この講座にしよう。他には黒岩祐治さん。進行は茂木健一郎さん。茂木さんは3年前に三枝さんたちと飲んだときメンバーに入っていたのだが、当日急に来られなくなった。以来、茂木さんの話を一度聴いてみたいと思っていたのだ。そのうえ、ずっと注目していた上杉隆さんの飛び入り参加というオマケまでついた楽しい講座だった。

 「夜楽」はいったんホテルに講師たちが集合し、そこからグループごとに決められたレストランや料理屋に向かう。そのホテルにて、僕はある人から声をかけられた。迷惑がかかるといけないので名前は伏せるが、アカデミズムの重鎮である。当然、面識はない。その人は「代々木さんのチャネリングは面白いですね」と言う。意外だった。「チャネリングFUCK」は賛否両論あったとはいえ、「ヤラセだ」「宗教を興す気だ」とさんざん顰蹙(ひんしゅく)も買った。キワモノとして見られたのだ。にもかかわらず、その人はご夫婦で「チャネリングFUCK」を見ながら、「なぜこういう現象が起きるんだろう?」と関心を持っていらっしゃる。僕は「じつは○○大学にそのメカニズムが解明できそうなMRIがあると聞いて、去年、そこの教授に手紙を送ったんですが」と言ったら、「ああ、○○君かい?」と即座に名を言い当てた。僕がうなずくのを見て、「で、どうなったの?」と訊く。「門前払いでしたよ」と答えたら、彼はおかしそうに笑った。その機械が1台何億するのか知らないが、脳の解明にやっきになっている学者にAV監督の僕が「チャネリングFUCKについて調べたいんだけど」と打診したことがハチャメチャすぎておかしかったのだろう。

 「夜楽」は2時間という限られたなかで、講師たちがお客さんの中に散らばる。僕のグループは講師が6人だったので、15分ごとに講師が席を移動し、60人のお客さん全員と話をするというシステムだ。15分というと、やっと打ち解けてきたところで次に移らねばならない。僕の前が別所哲也さんだった。タッパもあってカッコいい彼に会いたくて来たファンは多かったはずである。ところが、あっという間に時は過ぎ、彼は次の席へ……。そして彼がいた席に僕がやってくるという流れは、終わりまでずっと変わらない。「この変なオジサン、誰?」って感じの席もあった。もちろん、それはそれで面白かったし、なかには「ずっと会いたくて」と言ってくれる20代の男の子がいて、内心ホッとしたりした。たくさんの人と話をした印象は、総じて女性のほうが性についても具体的で突っ込んだ質問をしてくるということだ。

 このオープンカレッジを主催している「エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議」という組織は、三枝成彰さんが中心になってここまで大きくしてこられた。最初は会員である人たちがお金を出し合って始めたと聞くし、今回も会員はノーギャラだ。それでも各界の第一線で活躍する多忙な人たちが協力を惜しまなかったわけである。今回、三枝さんに驚かされたことがある。「夜楽」で彼は僕のグループのリーダーだった。会が始まるとき、集まった60人のお客さんを前に「僕が尊敬する代々木忠さんです」と紹介された。彼一流の気づかいなのは言うまでもないが、著名な人間がなかなか言えることではない。三枝さんは日本を代表する偉大な作曲家だが、彼のこうした人間性が多くの人たちの心を動かし、ここまで会を育ててきたのではないかと僕は思った。浜松に着いてから、僕はいろいろな縁を感じていた。人と人は見えないところでつながっている。そのつながりを、三枝さんはきっといちばん大切にしてきたのだろうと。



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第204回 人妻エキストラ

 今、僕は「ザ・面接」特別版の、1999年の全作品を見返して編集している。「ザ・面接」はウィークデイの白昼、実際にアテナの社員が業務をしているオフィスでレイプシーンを撮ってきた。ご覧になった方ならわかるだろうが、外部から電話はかかってくるし、お客さんは来る、スタッフはミーティングをしている、その最中に「いやー、やめて!」と叫ぶ女の子を面接軍団が犯している。

 チョコボールなどは、仕事をしている女子スタッフの前でわざと見せつけたりするもんだから、「いい加減にしてください!」と、ついに社内からクレームがついた。ちょっと僕もやりすぎたかなと反省し、事務服を着たエキストラたちを入れることにした。もっとも、平日昼間の撮影は変わらないので、女子スタッフにしてみれば、「目の前で」が「何メートルか先で」に変わったくらいかもしれないが……。

 で、1999年になると、このエキストラ制も定着した。一方、面接に来る子には主婦が増えた。もちろん、それまでも主婦が出ていない年はないのだが、99年は主婦オンパレードなのである。そして、エキストラも主婦の比率が高まっている。

 そのワンシーンを紹介すると、こんな具合である。恵理子という34歳の主婦がやってくる。10年間ダンナとうまくいってないようで、市原がいろいろ話していくうちに「ぬくもりが欲しい」という言葉を聞き出す。「ぬくもりだったら」ということで、平本がやさしくハグし、硬いのを股間にこすりつけると、ついに「オチンチン入れて」と恵理子に言わせる。平本が挿入し、テーブルの上で突き続ける。市原は「変になるんや! なっていいんや!」と叫んでいる。だが恵理子はイキそうになると、平本を突き飛ばす。続けてチョコも彼女とセックスするが、平本同様、突き飛ばされた。

 撮っていて僕はだんだんイライラしてきて「どうして逃げるのかな。どうして人を拒絶するんだ」とか「今だけでいいから、この男を好きになれ!」とか言っている。でも結局、恵理子は最後まで自分を開こうとはしなかった。セックスが終わったあと、僕は彼女をボロクソに言う。「ダンナの責任じゃないよ。あんたと一緒になろうとしても、途中で逃げちゃうんだもん。どうするんだよ、男は。それだったら、センズリかいてたほうがいいよ」

 その勢いで僕はエキストラに「どう思う?」とカメラを向ける。問われた主婦のエキストラは「ちょっと私は女性側から見ちゃったので、10年していないのは、なんてひどいダンナさんだろうと」と、そこまで言いかけて涙があふれてくる。そして「可哀想だなと思って……」と言いながら泣いている。

 今でこそ主婦がビデオに出るのは珍しくもなくなったが、出はじめの頃は、彼女たちのおかげでオレはメシが食えてるというのを自覚しながらも、一方で「なんでダンナがいるのに出るんだ?」という思いが強固にあった。独身と比べたらさらにリスキーなはずの主婦に、その一線を越えさせてしまうものとは、いったい何なんだろうと僕は正直不思議だったのだ。

 だが、その後、どんどん主婦たちが出るようになって、この1999年を迎える。僕が抱いていた疑問に対して、彼女たちは口をそろえてこう答える。「だって、ダンナがしてくれないから」と。しかし、彼女たちのセックスを見てみればわかる。先ほどのワンシーンで書いたように、彼女たちは求めるだけで、自分はダンナがしたくなるようなことを一切していない。ダンナだから気持ちよくさせてくれるのが当たり前だとどこかで考えている。

 そして、エキストラの主婦も「私もわかる」と彼女の味方をする。「10年間してくれない」主婦の悩みが、まさに自分の問題でもあるのだ。同じ悩みを抱えているからこそ、そこに共感して泣き出してしまう。

 僕はといえば、エキストラへの興味がどんどん高まっていく。すぐ目の前で犯されているのを目の当たりにしている彼女たちの反応が、もともと気になってはいたけれど、やるつもりで来ている女の子よりも、「ただ座ってるだけでいいから」と連れてこられたエキストラのセックスを見たいという思いが強くなっていく。同じ主婦であり、セックスレスの問題に共感し涙するくらいなら、なおさら見たいのである。

 泣いた彼女に「じゃあ、今日していきますか?」と水を向けると「いや、いいです」というつれない返事。僕は片山を彼女に向かわせ、2人をだれもいない別室に移動させる。そして僕は、残った他のエキストラたちに「面白いね。やると思う?」「やるとやらない、どっちに賭ける?」なんて無責任なことを言っている。まぁ、結果は作品でご確認いただきたい。

 1999年からは14年が経とうとしている。「ダンナがしてくれないから」とビデオに出だした主婦たちは、この14年でどう変わったのか? 夫婦のセックスレスは蔓延した。不況のアダルトビデオ業界にあって「熟女もの」は唯一元気がいいジャンルだ。

 女が本気になったら、男は太刀打ちできない。あの面接軍団でさえ、最後にはギブアップしてしまうくらいだから。やはり、あの生命力というか、生き物としての強さを目の当たりにすると、混迷の今こそ女の時代だという思いを強くする。

 片や、男はどうだろう? 余談だが、先日撮った「ザ・面接」最新作に出た女の子がこんなことを言っていた。「彼氏は、私がフェラチオしているだけで貧血を起こしてしまう」と。特異なケースには違いないが、30年間5000人以上の女の子と話をしてきて、これまでそんな話は一度も聞いたことがなかったのに……。



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第203回 セックスから恋愛が始まる時代

 男と女が出会い、ときめき、恋愛が始まる。デートで手をつなぎ、キスをし、やがてセックスをする……と思いきや、全部すっ飛ばしてセックスだけする子が増えている。「彼氏はいませんけど、セフレなら何人かいます」と言う子たちである。

 そんな女の子たちを監督面接する。撮影現場では、いいセックスをしてもらいたいし、それを撮りたいから、面接とは言いつつ、実際にはセックスのレクチャーみたいになってくる。「性交っていう字を見てもさ、りっしんべんは心を表わすから、心が交わるっていう意味もそこにはあるよね」とか……。

 口で言ってわかる子は多くない。僕としても頭だけで理解されても……というのがある。そこで、ほぼ全員に催淫CDを聴いてもらう。「これを聴くとリラックスできるよ。セックスのイメージトレーニングにもなるから、自分を抑えないで」と。なかには「聴いたら、どうなっちゃうんですか?」と不安げな子もいる。そういう子には、催淫CDを使った過去の作品を見せる。「トランスに入れる子は、ここまでなれるんだよ」と言いながら。モニターの前で食い入るように映像を見ている子の目は、いつしか点になっている。

 いざ催淫CDを聴かせると、なかには鼾(いびき)をかいて寝てしまう子や最後まで冷静な子もいるけれど、聴き終わるやいなや「入れてー!」と抱きついてくる子がいる。催淫の名のとおり、効く子はとにかくしたくなるのである。

 ちょっと話は変わるが、カウンセラーやセラピストたちと話をすると、彼らは最後に“性の壁”にぶつかるのだそうだ。人の悩みは千差万別にしても、その根底には孤独がある。相談者との間に信頼関係が築けて、たとえば友人や家族にさえ打ち明けたことのない悩みを、カウンセラーたちは傾聴し、共感し、受容する。そんなやりとりを重ねたすえに、相談者が女性の場合、「私を抱いてください」と言い出すケースが少なくないというのだ。きっとそれは彼女の心の叫びなのだろう。

 では、相談者を抱くのか? あるいは、抱かないのか? でも断れば、拒絶されたと彼女は深く傷ついてしまうかもしれない。ここでカウンセラーたちは壁にぶつかるというのである。そして僕に「代々木さんはいいよね」と言う。もともとセックスが仕事だから……。

 たしかに彼らのような悩みは感じないものの、催淫CDを聴いて「入れてー!」と抱きついてきた女の子と、面接でセックスしちゃったことは一度もない。もちろん突き放しもしない。

 じゃあどうするかというと、かつてこのブログでも紹介した「握った手のひらが膣になる」というのをやる。女の子に握りこぶしを作らせて、入口のここがクリトリス、中が膣という暗示を与える。すでにCDによってトランスにいるため暗示もすぐに入る。握りこぶしのクリトリスの部分を指で愛撫したり、場合によっては舐めたり……。「中に入れてほしいよねぇ」と言うと、腰がぐうーっと持ち上がってきたりするから、僕が自分の指を唾でベチョベチョにしてゆっくり握りこぶしの中に挿入する。

 指を出し入れしながら、感じてきた女の子に「こっちを見ろ!」とか「オレの目を見てイケ!」と僕は言う。そこで何かをつかむ子もいれば、昇りつめそうになると目をつぶり顎が上がってくる子もいる。そんな子にはあとで「君は自分の中に逃げ込んでいるんだよ。自己完結だと、相手の男は置いていかれちゃうでしょ。セックスで男の目を見ないと、別れが来るんだよ」と言って聞かせる。そこで気づく子もいる。

 自己完結のセックスをしているのは、なにも女たちばかりではない。男のほうも相手の体を使ったオナニーのようなセックスをしている者は多い。では、お互いにオナニーのようなセックスなら、割れ鍋に綴(と)じ蓋よろしく、それはそれで上手くいくのかといえば、これがそうもいかない。

 感情を閉じて、思考と本能でしていると、目の前で喘ぎまくる女を男はいつしか見下してしまう。「なんだよ、ふだんは気取ってたって、ひと皮むけば単なる好きモノじゃん」と。心が交わらないと、相手に愛おしさも湧いてはこない。刺激はくり返しのなかで必ず鈍化する。飽きてしまえば、もうしたくないのだ。

 僕の監督面接は、対話や催淫CD、握った手のひらセックス、そして人によっては呼吸法もいくつか駆使しながら、本当のセックスとは何かを、あの手この手で伝えていく作業である。だから、撮影日が近づき、1日に2人の面接が入ったりすると、終わったあとはもうクタクタになる。

 だが、手のひらセックスで「監督の目を見たら涙が出そうになった」「すごく愛おしく思えた」「安心できた」……とセックスの深奥を体感していく子たちがいる。セフレしかいなかった子が、である。「この子なら現場はもう大丈夫だな」と心の中で思う。

 恋愛できない人間がどんどん増えている。一方、恋愛とは別モノと割り切って、快楽追求のためにセフレをつくる人間も増えている。だが、そのセックスにおいて心が交わったなら、そこから本当の恋愛が始まることもあるだろうと僕は思うのだ。恋愛からセックスではなく、セックスから恋愛へ……ひょっとすると今はそういう時代なのかもしれないと。



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第202回 働いてこそ人生

 定年退職とともに一気に老け込んでしまうという話をよく耳にする。耳にするだけでなく、実際、僕の知り合いのなかにも、そういう人たちが何人かいる。会社に行かなくなった途端に、生きがいまで失ってしまう人たちが。

 人は「自分が必要とされている」「何かの役に立てている」という実感なくしてイキイキと生きるのは、どうも難しいようだ。この傾向はとくに男のほうが強い。女性の社会進出が目覚ましいとはいえ、今すでに退職している世代では、女以上に男のほうが定年とともに大きな変化に遭遇し、より多くのものを失うという面は確かにあるだろう。

 だが、それだけではない気がする。もともと女は自分のまわりの物事に生きがいを見いだすのが上手い。たとえば夫が頑張っていい仕事をしたり、世間に認められれば、それが自分の生きがいにもなる。その点、男はどうだろう。自分の女房が世間に認められたとき、それを生きがいと感じられる男が、果たして何人いるだろうか。

 日本人の平均寿命は、男が79.44歳、女が85.90歳(2012年、厚生労働省発表)。日本は世界にも長寿国として知られている。寿命が延びた背景には医学の進歩があげられるが、その中には延命治療もある。病院のベッドの上で人工呼吸器や点滴で生かされていて、本当に生きていると言えるのだろうか。近年はQOL、つまり単なる長さではなく、人生の質に人々の関心が移ってきている。質の中心に、きっと生きがいは位置する。

 多くの人は退職したのち、年金が主な収入源となる。それだけで食べていければ仕事をしていない人もいる。なかには、働きたくとも体が思うに任せない人もいるだろうが、動ける人は働けよと内心僕は思う。もちろん個人の自由だし、僕が口を出すことじゃないのはわかっているけれど、人間は腹さえ満たせればそれでいいというわけにはいかない。

 これは年金受給者だけの話ではない。公的年金の破綻がもう何年も前から取り沙汰されている。高齢者が今後ますます増えて、そのとき働き手である若い世代は、年金を納めるだけ納め、いざ自分の老後には生活に足る分をもらえないのでは、というものだ。積み立てた分を取り戻すという点ではもっともな話だが、もう国をあてにしないほうが結果的にはいいように思える。

 かつて敗戦をさかいに180度違うことを言い出した国を、僕は子どもの頃から信用できない。だから年金も昔からあてにしてはいなかった。若い読者は「そうは言っても、もらえる分は自分たちよりたくさんもらっているだろう」と言うかもしれない。

 74歳の僕自身について言えば、現在1回の年金受給額が7万円弱である。2カ月に1回の受給だから、ひと月あたり3万5000円に満たない。かつてはたくさん給料を取っていた時期もあるから、それなりに納めた。にもかかわらず額が少ないのは、今も働いて給料をもらっているからだ。減額された分がその後、たとえば仕事を辞めた以降に上乗せされることはない。それでかまわないと僕は思っている。もともとあてにしてないから……。

 年金は当然の権利とばかりに、老後の受給に不安を抱いたまま、国をあてにして生きるのか。あるいは、たとえ国が約束を守らなくても困らない生き方を自分で見つけるのか。それが今の人たちに問われているように僕には見える。

 自分の責任において生きれば、何かに守られているよりも、雨風をたくさん受けるかもしれない。そしてそれを誰かのせいにはできない。だが、そこには本来の生きる歓びが待っているに違いない。誰かに頼らない生き方。それが生きがいにつながっていくと僕は思うのだ。

 戦後、国家も企業も、組織にとって都合のいい人間たちを求めてきた。言い方は悪いが良質な歯車、それがあったから日本の経済はここまで発展を遂げたのだろう。でも「じゃあ、みんな、幸せかい?」という話なのである。



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1月29日(火)、全10タイトルに増えました!

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