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第282回 セックス・グル

 ラジニーシは35歳まで大学で哲学の教鞭をとっていたというが、たしかに哲学や思想、宗教に関する知識量たるやハンパない。前回紹介した『TAO 永遠の大河 1』(スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる社刊)の中でも、主だった宗教の教祖たちに対する思いを独特の語り口で説いている。その一部を抜き出してみる。

 ジャイナ教の家に生まれたので、最初はジャイナの開祖マハヴィーラから。〈彼は偉大だ。悟っている。だが、広大な砂漠のようだ。彼の中では、ひとつのオアシスにも出くわせない。(中略)マハヴィーラについて話すとき、私はひとりのアウトサイダーとして話す。彼は私の内側にはいない。私も彼の内側にはいない〉。

 続けて〈同じことが、モーゼやマホメッドについても言える〉と。〈彼らはみな同じカテゴリーに属する。彼らはあまりにも計算ずく、極端論者だ。彼らは反対の極端をのがしている。(中略)もし道で、マハヴィーラやモーゼやマホメッドに会ったなら、私は敬意を表し、そして逃げ出すだろう〉

 イエスについては〈私は彼に深く共感する。私は彼とともに苦しみたい。そして私は、彼のかたわらで、その十字架をしばしの間かついであげたい。だが、われわれは平行線のままだ。けっして出会わない。(中略)彼はいい。だが、良すぎる。ほとんど非人間的なまでにいい〉。

 ゾロアスター教のツァラトゥストラについては〈私はあの人を、ひとりの友人を愛するように愛している。(中略)良き友――永遠に一緒にいられる。ただし、ただの友だちだ。友情はいい。が、充分じゃない〉。

 ブッダについては〈彼はあまりにも洗練されていて、とてもこの地上には根づけない。彼はどこかより高次の天国にふさわしい。そういう意味で、彼は一面的だ。天と地は彼の中では出会わない。彼は天上的だ。が、地上的な部分が抜けている〉。

 では、肝心の老子はどうか? 〈私が老子のことをしゃべるのはまったく違う。私は彼に関わってなんかいない。なぜならば、関わるためにすら、或る距離が必要だからだ。私は彼を愛してもいない。というのも、どうして自分自身を愛することなんかできる?(中略)老子のことをしゃべるとき、私はまったく彼と一緒だ。「完全に一緒だ」と言うそれすらも本当じゃない。私は彼だ。彼は私なのだ〉。

 冒頭のマハヴィーラ以下、否定的だったり、突き離していたり、褒めていても全面的には受け入れていなかったり……。けれども、最後の老子は手放しで絶賛している。1974年、ラジニーシはインドのプーナという地にアシュラム(修行場)をつくるが、アシュラム内の自宅を「ラオツ(老子)ハウス」と名づけているくらいだ。

 このアシュラムには、欧米をはじめ世界各国からラジニーシを師と仰ぐ若者たちが押し寄せることになる。もちろん日本からも……。アシュラムの規模が大きくなるにつれて、いろんな瞑想法のグループができ、たとえばタントラ・グループのセッションでは、参加者が裸になって、相手を替えながらみんなの前でセックスするようになる。

 これは意識的にセックスにのめり込み、耽溺し、そこを超越するという、自己解放の試みなのだが、ほとんどの宗教において、性的なものは修行の邪魔だと見なされる。まさに宗教の本場ともいえるインドにおいて、修行場内でのフリーセックスである。周囲の衝撃は想像を絶するものだったに違いない。いや、他の宗教から見たら、衝撃どころでは済まされない話だ。

 僕はラジニーシの講話録に精神的な拠りどころを求めていたけれど、彼が修行においても性を肯定していると知ったとき、女の股ぐらでメシを食っている身としては、やはりどこか救われた思いがしたものだ。こうして僕は、ラジニーシに一気にのめり込んでいく。

 当時、まわりの仕事仲間にも、インドへ行ってラジニーシに弟子入りした者たちがいた。彼らは一様に長髪で、マラを首からさげている。マラは108個の木製の玉からできており、先端のロケットにはラジニーシの写真が収められている。彼らに紹介を頼めば、ラジニーシと会うこともできたかもしれない。けれども、僕はラジニーシの哲学に傾倒しながら、会いたいとは一度も思わなかったのである。


(つづく)



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