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第219回 カラダの快感に気づかないアタマ

 「愛と性の相談室」に来られた女性(30代・主婦)の話である。すでに相談映像を掲載しているので、ご覧になった方もいるはずだ。彼女はセックスでイケないことにずっと悩んでいた。余談だが、「相談室」では「イク」関連の閲覧がとりわけ多い。相談に来た彼女同様、多くの女性がイクことに関心があるのだろう。

 相談者に話を戻すと、「性的に満足することが自分の人生で一番で、それがないならアナタといれないって感じて、ダンナにも言ってしまった」そうである。彼女は自分をイカせてくれる相手を求めて、夫以外の男とのセックスを重ねていく。

 その過程で、目を見ないと絶対できないという人に出会う。セックスで男と目を合わせられなかった彼女が、その人としているとき、見てくるので見返したら、とても温かくて「ああ、幸せだなぁ、本当に好きでいてくれてるんだ」と感じる。そして「目を見つめ合うセックスが、こんなにも気持ちいいものなのか」と。

 ことの詳細を夫には言わなかったものの、代わりに彼女は僕の本をすすめる。読み終えた夫は「目を見てしてみよう」と言ってくれたそうである。実際に夫としてみると、「好きっていう気持ちが入ってるとき」と「ただ見てるだけのとき」があり、その違いがはっきりわかるという。

 話を聴きながら、なるほど違いはわかるのだろうが、そのとき彼女は夫を観察してしまっているなと思った。「イケない子は冷静な自分がいる」と僕は彼女に言った。「頭が働いているってことは“今”にいない。ところが、感じる世界というのは“今”にしかない。だから、自分がセックスという行為そのものになったとき、オーガズムは訪れる。そこに思考はいっさい介在しないんだよ」と。

 「それは怖い」と言う彼女に、僕は呼吸法を試みることにした。長息から始めて短息、そして性器呼吸まで来ると、仰向けに寝た彼女はソファの上で感じ出し、「イキたい!」「イカせて~!」と叫んだ。やはり思いは先(未来)に行ってしまっている。呼吸法を終えてから、僕が「あのとき、そのまま楽しんでいれば……」と言いかけると、彼女はこんなことを口にした。

 「イキたいと言っている自分と、感じている自分が別だから。イキたいと言っているほうは、感じていることにも気がついてないんですよ」。僕はうまいことを言うなぁと思った。まさに彼女の言うとおりだ。呼吸法は自分の深いところまで覗いてしまう。おそらく気づきが起きたのだろう。

 彼女がさらに続ける。「コレ(イキたいと言っている自分)は興奮しないし、感動しないし、好きにもならないし、いると幸せ感もあまり感じない。幸せなんだろうなとは思うけど、コレが幸せと感じるわけじゃないから」。僕は彼女に「コレは“社会”だからね」と言った。

 相談の最後、僕は「この瞬間を生きるレッスン」をすすめた。それは「考える」から「感じる」へのシフトであり、今起きていることを楽しむ生き方である。さしあたってセックスでは、事前に自分で呼吸法をしてみることを提案した。性器呼吸まで行けば、おのずと欲情してくるに違いない。

「じゃあ、呼吸法を1回だけじゃなく、何度かして(したいのを)我慢して、それからセックスします。そのくらい焦らさないとコレは落ちないと思うから」と彼女は言う。

 かつて「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」で、柏木みな(30歳)を撮ったときのことだ。前夜、柏木に呼吸法を行ない、催淫CDを聴かせた。ここで彼女に気づきが起きる。翌日、自分にコンプレックスを抱き、まだイッたことがないという女の子・岩崎あきら(32歳)と男優たちを迎えて、僕たちは「どうしたらイケるのか?」についてみんなで話していた。その一部を書き起こしてみる。

柏木「たぶん自分が、すっごい欲情してたんじゃないかな」
岩崎「私、足りないんですかね。でも、そういうのはあります。だけど、それは言っちゃいけないというか。冷静なフリをしてる自分をつねに演じているというか」
代々木「エッチしてるときも?」
岩崎「うん、でも、これしちゃいけないんじゃないかな、あれしちゃいけないんじゃないかなとか。自分の外見とかもすごいコンプレックスなんで、きっと今すごいヘンな顔してるんじゃないかなとか。(宙を指しながら)自分はこのへんにいて、『なに、こいつ!』って言って自分を見てる感じなんで」
代々木「そのへんにいる自分がいなくなりゃいいんだよな」
岩崎「そうですね」

 岩崎が言う「自分を見てる自分」とは、相談者の言う「コレ(イキたいと言っている自分)」と同じであり、その正体は思考なのだ。思考を落とすひとつの方法は「心(しん)から自分が欲情すること」。最初に柏木が言ったそのままである。

 たとえば何かにつけ、あれこれ考えてしまう質(たち)の人がいたとしよう。そんな人でも、とことん腹が減って、でも食べる物がなくて、さらに何時間も空腹に耐え、やっとのことで食事にありつき、ガッツイているときは、食べるのに夢中で何も考えてはいないはずだ。これと同じことをセックスでもすればいい。だが、思考が強固な場合、ちょっとやそっとの欲情では落ちてはくれない。相談者の彼女には、きっとそれがわかったのだろう。




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5月30日(木)、全26タイトルに増えました!

テーマ : 日記
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第218回 姦通罪と家庭崩壊

 姦通罪(かんつうざい)というのがあった。人妻が浮気して、恋人やセフレとやってしまうと、6カ月以上2年以下の重禁錮(今でいう懲役)に処すというもの。浮気相手の男も同罪になるものの、夫が未婚の女性とやった場合には罪に問われない。親告罪ではあるけれど、男尊女卑を絵に描いたような不平等な法律である。

 だが、これがほんの六十数年前まではわが国にあった。第二次世界大戦後、日本国憲法が制定される折に廃止されたわけだが、そのとき「平等ならいいじゃん」という根拠で、「妻同様、夫もダメでどうか」という意見もあったようだ。

 現在でもイスラム圏では姦通が禁止され、最高刑は死刑。イスラム世界ならば、さもありなんという気がするけれど、お隣の韓国にも、廃止の方向で動いているとはいえ、今もって姦通罪は存在する。ただし、夫も妻もダメという平等な形で。

 たった今、男女平等の姦通罪が日本にいきなり復活したら、シャバから人は減るだろう。ネットをのぞいていると、倫理の低下をなげく人たちから「姦通罪を復活したらどうか」といった書き込みも見かける。そうすれば、離婚率も下がり、逆に出生率は多少なりとも上がるんじゃないかと。

 僕も「世間体があるから」「子どもがいるから」等の理由で取り繕ってはいるが、実質的には機能していないというか、崩壊している家庭も少なくないように見える。しかし、結論を先に書いてしまうと、姦通罪を復活させたところで家庭崩壊は食い止められないと思うのだ。

 「夫がいながら、罪の意識はないの?」と不倫中の主婦たちに訊いてみると、「その後ろめたさがいいの!」という答えが返ってくる。背徳も二人が燃えるためのスパイスといったところか。女の貞淑・貞操ばかりが強要された時代と比べたら、女性たちも自由を手に入れたと言える。

 では、自由を手に入れて、幸せになったのだろうか? このまえ「ザ・面接」の現場で、22歳にして男性経験151人という審査員の子に「幸せ?」と訊いたら、「幸せっ!」と元気よく返ってきた。僕はちょっと意地悪に「でも、そんなにやるってことは、やっぱり心に満たされないところがあるから……そういう子が多いんだよ。そういう子って心に傷がある、人には言えないね」、そこまで言った途端、彼女はポロッと涙を流した。

 みんな自由にやって、楽しそうに見えるんだけど、本当は空しいのである。それはなにも女たちばかりではない。男たちのなかで、自分の得意ジャンルの話なら一方的によくしゃべるけれど、対人関係とか恋愛になると、一転して手も足も出ないという人間が増えている。

 これは男も女も、人間力が衰えているからだと思う。戦後、金銭的価値に置き換わりやすいもの、たとえば偏差値の高い学校への進学や大企業への就職といったものにプライオリティを置き、そのための準備には余念がなくとも、人間性という曖昧なものは二の次とする風潮が蔓延した。つまり、競争社会における経済原理が優先されたのだ。

 そこで重要なのは法にふれないこと。もっと言えば、バレなければ法を犯したことにもならない。要は競争に勝つことが重要なのだから。だが、行動の規範を法や決め事にゆだねてしまえば、一人ひとりの主体性は失われてゆく。「それは人間として恥ずかしい」――そんな思いは決め事があろうがなかろうが、自分が自分であるための矜持(きょうじ)であったはずだ。

 だから、家庭の崩壊も、法律で規制したところできっと歯止めはきかない。問われているのは「自分はいかに生きるべきか」という人生観のほうである。




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第216回 亡くなった友人からのメッセージ

 「女性のための愛と性の相談室」の中の〈誰にも聞けない悩み相談〉では、すでに掲載した女性だけで25人。そのうち、スピリチュアル・カウンセラーの早坂ありえさんに入ってもらっている相談は全体の3分の1ある。ありえさんには、おもに相談者の過去生との関係を見てもらったり、守護霊を代えてもらったりしている。編集段階でカットしているが、これまで相談の場に相談者とは無関係な霊が来ることもたびたびあった。

 その霊の多くは、亡くなった僕の友人たちだ。話したいのはヤマヤマだけれど、相談者そっちのけで霊と思い出話に興じるわけにもいかない。そこで先日、悩み相談が終わって相談者がお帰りになったあと、ありえさんにあらためて彼らを呼んでもらうことにした。次の映像はその一部である。





 興味深い部分は、故人のプライバシーもあって見せられないのが残念だが、紀世や長さんが、当時を知らないはずのありえさんを介して伝えてきた内容は、事実とほぼ一致していた。

 じつは僕には、もうひとり話をしたい友人がいた。ペンネームを東ノボルという。アダルト業界では名の知れたフリーの編集者でありライターだった。本名を笠原一幸という。笠原さんの紹介で知り合った女性・泉みゆきを撮った作品に「多重人格、そして性」がある。それを本にしたのが『マルチエイジ・レボリューション』だ。

 当時、笠原さんはみゆき以外に何人もの多重人格の子たちの面倒を見ていた。たとえ自分の締め切り間際でも、「手首を切った」「クスリを飲んだ」と聞けば素っ飛んでいった。

 そんな笠原さんがある日、緊急入院することになる。最初見舞いに行ったときには集中治療室にいた。でも1週間後には、一般病棟のベッドの上で原稿の手直しをしていた。僕は撮影で千葉に行く途中だったから「帰ったらまた寄るけど、きっともう退院してるよね」と言って病室をあとにした。

 それが彼と交わした最後の言葉になった。千葉で「笠原さんが亡くなった」という電話を受けたのだ。嘘だろ、そんなのありえないよ……と僕は思った。笠原さんが亡くなってから、彼が面倒を見ていた多重人格の子たちは、僕に連絡を寄こすようになる。あまりに突然のことだったから、引き継ぎもないままに……。あれから丸14年である。

 彼が亡くなって何年かして、みゆきは結婚し、子どもが生まれた。みゆきからもらったメールには、その子の誕生日が笠原さんの命日と同じだとあった。「この子は笠原さんです」と綴られている。いつかその子に会えたら「やっと会えたね、笠原さん」と言ってやろうと思っていた。

 だが、今回ありえさんの見立てでは、どうやら笠原さんはまだ霊界にも行っていないようだ。笠原さんの思いを聞いてもらう。ありえさんは「こう言ってるよ」と言ったあと、彼の言葉を続けた。「監督、なぜ俺、死ななきゃいけないの? まだ途中なんだよ。監督と一緒にやってたこともできなくなっちゃったし……」。

 今から18年ほど前、日本に多重人格者は10人そこそこと公的機関が発表するなか、僕らは10人以上の子たちと連絡を取り合っていた。「統合」ということが当時から言われていたが、社会に適合できる人格だけを残してあとは……。これは統合じゃないんじゃないかと僕らは話していた。虐待と人格解離の連関を検証したい、治癒する方法論を見つけたい、そしてこの現実を世の中に発信しなければならない、そんな一念で僕らは地道な作業を続けていた。

 笠原さんの分まで僕が引き受けるようになったことについて、ありえさんは彼の思いを口にした。「悪いと思ってるけど、でも、悪いと思ってない。それは監督にとってもやりがいのあることだったと思うから」。確かに彼の言うとおりである。

 「でも、ああなって、監督も生身の人間だと思った」。僕自身がひどい鬱になり、それまで連絡を取り合っていた子たちとの関係を一方的に終わらせたことを言っているのだろう。そのとき、僕は彼女たちから偽善者だと非難された。「あそこで自分がなんの力にもなれなかったことは申し訳ないと思ってる。本当は自分がやりたいけど、体がないから……」。

 しばらくして、ありえさんが「気にしてる仲間がいるみたいね」と言った。咄嗟に水津さんかもしれないと思った。それは、笠原さんに編集やライティングを一から教えたアダルト業界で有名な人物である。アダルトビデオという呼び名も彼が名づけ親だったはずだ。

 「水津さんに伝えることがあれば聞いておくけど」と言うと、「ありがとうって言ってほしい」と。「きつかったけど、やさしかった。すべてを学んだつもりでいたのに、まだまだだった。なのに、俺のほうが先に逝っちゃった。せっかく教えてくれたのに申し訳なかった」と。

 最後に笠原さんは「死んでいいこともあった」と言う。そのひとつは、思ったところに瞬間移動できること。もうひとつは過去生からの因果が見えること。そうすると、生きているときには不可解だったことも解けてくるのだそうだ。

 紀世や長さんや笠原さんとの対話を終えて、こんな形で亡き友や亡き肉親と気軽にコミュニケーションが取れたなら、きっと人々の死生観は大きく変わるに違いないと僕は思った。死生観が変容すれば、すなわち生き方も変わるということである。



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第216回 まな板の上のマグロ

 「ザ・面接 極悪非道の面接軍団 ジラして犯して暴いたる!」(1998年)のひとコマである。

 女子大1年・谷口佐代子(18歳)のプロフィールには、出演動機の欄にお金(カバン)と書かれている。きっとブランドもののバッグが欲しいのだろう。初体験は17歳6カ月のとき。資料を見ていた市原が「これ、6カ月前やで。大丈夫かい?」。初めてビデオに出るときはみんな緊張するものだが、セックスの経験が浅いとなればなおさらである。

 オフィス中央の大きなテーブルには、たまたま鬼闘組の出番待ちをしている川奈佳子というAVギャルがいた。もうすでに何本か出ている子だ。彼女の目の前で佐代子の面接が始まる。

 「念のために言っとくと、アソコを見られると恥ずかしいやろ? オレら、そんなんしかできひんのや! こういう明るいとこでな、パンツ脱がしてな、開いてイジくるわけよ! ほんでナンボなんよ。わかる? こういうのに耐えないと、カバンは遠いよ!」。どうやら恥辱によって、感情を出させる作戦のようだ。いきなりテーブルの上に寝かせて、問答無用の愛撫が始まる。

 その光景をAVギャルの佳子は唖然として見ている。彼女がこれまで出演した作品にはきっと台本があったり、「こういうことをやりますよ」という事前の打ち合わせがあったに違いない。

 ところが、当の佐代子は抵抗もせず、まったく恥ずかしがらない。テーブルの上で仰向けのまま無防備に股を広げ、アソコを舐められたり、バイブを突っ込まれたりしても、ずっと下半身はゆるみっぱなし。なのに、首から上は冷静で、ふつうに会話をしている。フェラをさせても、ただ口をあけているだけで画にならない。

 さすがに業を煮やした市原が、「こういうの、マグロっちゅうねん!」と佐代子に説く。たしかに見ている人の目には、彼女がどうにもならないマグロに映ったことだろう。

 一方、AVギャルの佳子のほうは「なにもわかんない子によくそこまでやるよね」という顔であきれ返っている。けれども、されている佐代子本人はといえば、それを悪くとっている様子はない。人間性というか、もともと素直な性格なのか、どうも最初に「明るくても、恥ずかしくても、それに耐えんと……」と市原から言われたことを彼女なりに実践しているようなのだ。

 攻めあぐねている面接軍団。「もうヤッちゃえ」とばかりに平本がハメる。すると、やっと佐代子に変化が生じる。今までマグロだった彼女が感じてきて、声をあげはじめたのだ。これがガンガン突いてイカせるタイプの男優だったら、きっとこうはならなかっただろう。平本は「その子のいいところを見いだして、どれだけ好きになれるかが勝負です」と言う男優である。

 あきれていた佳子も、次第に幸せそうな顔になってくる。僕はフレームに佐代子と佳子の両方を入れていたが、最後は見ている佳子のほうにズームしてゆく。うれしさでウルウルしそうな彼女の表情が、その場のすべてを物語っていると思ったからである。

 セックスが終わったあと、佐代子は平本に「ありがとう」と言う。平本も「こちらこそ」と。しばらくして片山が「最後終わったあと『ありがとう』って言ったよね?」と訊くと、彼女は「こんな私にも」とだけ言った。こんな私にも何だというのだろう……。

 経験も浅く、初めての現場で、されるがままのマグロにしかなれなかった女の子。年の差もキャリアの差もある平本は、しかし、そんな女の子を決して見下すことなく、むしろ自分のほうから声を出して、彼女とつながろうとした。性に対する思い込みやテクニックへの過信が彼女のほうになかったがゆえに、平本の思いはそのまま届いたはずである。「ありがとう」は、思いを受け取った佐代子の心が発した言葉のように僕には聞こえた。

 さんざん感じさせようと揉んだり、舐めたり、バイブの強い刺激を与えてなお反応のなかった女の子が、平本に心を開くことによってイッてしまった――ここにセックスの真髄がある。


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第215回 自分を出せない言葉

 「なんもそんでねして、バレーボールのバレー。こう中腰になるばな。こういうふうにして、こごの内腿と内腿さ力入れちゃさ。こごの中腰さ、こう力入るばな。こごの股ぐらもさ力入るばな。でこうボール受けるときにこう中腰のまま待つべな」
「おお、いいな、すごく」
「でこごのとこさ力入るあんで、こごのところギュッと締まるばな。なるんだってさ、コーチが言うのさ。この体勢はすごくつればたっておなごとして」
「将来に」
「役に立つときがあるだって!」

 これは2001年の「ザ・面接」の一場面で、青森出身のエキストラの女の子が秋田出身の加藤鷹に話しかけているところだ。彼女に最初会ったとき、訛(なま)りがあった。僕は「みんながわかんなくてもいいから、自分のお国言葉でしゃべって!」と注文をつけたように記憶している。

 いま見返してみても、彼女のエロさは生々しい。それは単に方言をしゃべっているというだけではなく、生き物としての女が出ていると思えるからである。前回、市原についての話の中で「彼は半分ジョークで言いたいことを言ってのける。それができるのは、ひとつには関西弁だから」と書いた。関西弁自体がそういうムードに適しているというのもあるんだけど、青森のこの子と同様に、市原は関西弁をしゃべることによって、人を惹きつけ、心を揺さぶっていると思うのだ。

 先日、あるテレビ番組で自動車ディーラーのトップセールスマンを紹介していた。彼はお客さんと話をするとき、大事な場面では博多弁を使う。そのとき、お客さんは彼に気を許すというか、彼の言っていることを真実と受けとめる。テレビを見ていた僕でさえ、なかなかいいヤツだなぁと思ってしまった。

 セールスマンの彼は意識的に、もっと言えば計算して方言を使っているわけだが、生活に根づいた言葉というのは、それほど人の心にスッと入ってくるものである。きっとそれは長い歴史の中で、人々の心が作り上げた言葉だからだろう。

 にもかかわらず、故郷を離れて暮らしていると、そこが都会ならなおさら、多くの人は方言で話すことにコンプレックスを感じてしまう。それは僕も同じである。東京では九州弁で話すのを恥ずかしいと思い、ずっと標準語を使ってきた。

 だが、標準語は制度の言葉であり、万人に共通な記号みたいなものだ。だから当たり障りない会話や建前の話をするのなら都合がいいが、本音を伝えようとしたら、方言のようなダイレクトさはなく、そこにはワンクッションあるように感じる。要するに、本当の自分をそもそも出しにくい言葉なのである。

 いま若者たちは、恋愛がうまくいかないとか、コミュニケーションがとれなくなっているとか言われるけれど、都会も地方も日本じゅうで画一化が進み、みんなが標準語を話すようになったことも、その大きな原因のひとつじゃないかと僕は思っている。




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