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第35回 人はどこから来てどこへ行くのか?

 国連の推計によれば、現在、世界人口は約68億2900万人。1年間の出生数は約1億3612万7000人。死亡数は約5684万4000人。ということは、地球上のどこかで1分間に259人が産声をあげ、同時に108人が亡くなっているということになる。

 人は何のために、この世に生まれてくるのだろうか? 哲学的にして根元的なこの問いにひと言で答えを出すのは難しいし、人それぞれで答えは異なることだろう。僕はある時期から、こんなふうに考えるようになった。

 この世に生まれてきた意味、それは生きている間に得た「理解」を持って帰るためだと。思考オクターヴの知識、本能オクターヴにおける体得、感情オクターヴで起きる実感、この3つが三位一体となって初めて完全な理解となる。この理解を持ち帰ることこそが、生を享けた意味ではないかと。

 では、どこに持ち帰るのか? 帰るという限りは元いた場所ということになるが、僕たちは生まれてくる前、いったいどこにいたのだろう? それを示したものが、このブログでも何度か掲載した〈The mapⅠ〉である。この中で「H6」は"創造の源"であり、元々ここから僕たちの魂はやってきたのではないかと想定してみる。


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 「H6」から振動密度を落とした魂が肉体に宿り、この世に僕たちは誕生した。この世とは「H48」の意識階梯だ。「H48」では、いろいろな意識階梯の人々がひしめき合って暮らしている。ネガティブな人もいれば、ポジティブな人もいる。恋愛ができる人もいれば、依存関係を恋愛と取り違えている人もいる。

 そういう意識階梯のるつぼと化した現世において、僕たちは他者と相まみえ、笑ったり泣いたり、ウキウキしたりイライラしたり、盛り上がったり落ち込んだりしながら、日々を送っている。

 ときには不条理としか言いようのない場面に遭遇し、「なんで、こんな目に遭わなきゃいけないのか!」と自分の人生を呪いたくなることも、ひょっとしたらあるかもしれない。

 しかし、僕は思うのだ。たとえどんな状況に放り込まれたとしても、それは何かを「理解」するために、自分にとって絶対必要なことなのだと。「H48」は言うなれば"魂の学校"なのだから。

 では、死んだときには元いた「H6」に帰るのかというと、必ずしもそうではないように思われる。たとえば意識階梯が「H48」で死んだ場合、「H6」には戻れない。なぜならば、魂が肉体に宿っているときには、同じ「H48」意識の人のみならず、「H6」でも「H96」でも、あらゆる意識階梯の人たちと交流できる。だが肉体を失えば、「H48」が発する振動密度と「H6」の振動密度は決して共鳴しない。だから戻りたくても戻れないと思うのだ。

 だとすれば、いったい僕たちはどこへ行くのだろうか?「H48」に限らず、概念思考にとらわれていたり、ネガティブな感情を持ったまま肉体を失えば、魂は循環小数軌道に入る。循環小数軌道とは〈The mapⅠ〉の中央に描かれた、数字をふった円の内側だ。たとえば「5」から入れば「571428......」と、進化も退化もない永遠の循環に入り、やがて転生する機会を待つことになるのではないかと。そして転生の際には、前世でクリアできなかったことを、自らのハードルと設定して生まれてくるのではないかと。

 10年ほど前になるが、僕は自分の過去世を見る機会があった。むろん前世以前に自分がどんな人間でどんな人生を送っていたかなど、記憶しているわけではない。したがって、そこで見せられた過去世が事実であるか否かを客観的に証明する方法はなにもない。

 けれども、自分が現世、つまりこの世においてこれまで経験した様々なことに対する因縁というか因果応報について、僕はすんなりと納得してしまったのだった。「なるほど、そういうことだったのか」と。それは先にも記したように、僕自身が設定したハードルなんだと心の底から思えたのである。

 このように思えると、いろいろなことに動じなくなる。腹が立つことや泣けてくることは依然としてあるものの、それらは"魂の学校"であるこの世で、やはり僕自身が、いつの日か「H6」に持ち帰るべき真の「理解」のために必要な出来事なのだ。

 つい先日、2009年度上半期のわが国の自殺者数を警察庁が発表した。それによれば1万7076人で、過去最悪に迫る水準なのだという。しかし僕は、たとえ今がどんなにつらくとも、死という手段による逃避は考えないほうがいいと思っている。来世また一からやりなおすことになる。逆に、志なかばにしてやむなく病気や事故で倒れようとも、まったく救いがないわけではないとも思う。いずれにしても死んだらすべてがお終いではないのだから......。


「週刊代々木忠」は2週間、夏休みをいただきます。次みなさんにお目にかかるのは8月21日(金)になります。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第34回 児童虐待

 先週、児童虐待の件数をニュースが取り上げていた。厚生労働省の発表によれば、2008年度に全国の児童相談所が対応した件数が4万2662件という。これは統計を取り始めた18年前と比べ38倍以上になるそうだ。

 なぜAV監督の僕が児童虐待の話をするのか、と思われる人もいるかもしれない。僕は仕事柄、女の子と話をする機会が多い。そのなかで、実は子どもの頃に親から虐待を受けていたと打ち明けてくれる女の子たちがとても多いのである。しかも、その数は年々増えている。

 だから、18年で38倍以上というのも、きっとそうなのだろうと僕は思う。もちろん児童相談所が対応していない虐待は、これ以上あるのだろうから、実際にはこの何倍もの子どもたちが苦しんでいることになる。

 ついこのあいだ僕の作品に出演した女の子も、4歳のときにお父さんにいたずらされ、今は体がペニスの挿入を受け入れなくなっている。その前に出た大学生は「18歳までお父さんにされていた」と言う。どちらも実父である(むろん義父ならいいという話じゃないが)。

 こういう性的虐待も少なくはないが、それよりも圧倒的に多いのは、母親からのネグレクト(育児放棄)や身体的・心理的虐待である。こちらもそのほとんどが実母だ。

 児童虐待が語られるとき、虐待している親自身も、子どもの頃にその親から虐待を受けていたという話がある。そういう負の連鎖は確かにあるように思える。だが、自らが被害者の親ばかりではない。にもかかわらず、やはり親たちはいま迷路の中で呆然と立ち尽くしているように見える。

 僕には娘が二人いるのだが、上のが結婚するとき、ひとつだけ注文をつけた。同居してくれとは言わないが、せめて近くに住んでくれと。娘夫婦は僕の家から歩いていける所に住んだ。そして子どもが生まれた。いま2歳になる僕の孫である。

 そんな娘から、女房にときどき電話がかかってくる。娘から母へのSOS。孫が泣きっぱなしで、何をしても効果がない。手に負えないという。娘はダンナが出かける前に朝の支度もしなくてはならないのに、孫はいっこうに泣きやまないらしい。僕は内心ニヤリとする。

 女房が娘の家に出かけていく。可愛い孫だし、頼りにされて、女房は女房なりにうれしいはずである。ニコニコしながら「どーちたのぉ?」って行くと、その途端に孫は泣きやむらしい。娘は「なにそれ? いままで火がついたように大泣きしてたのに。なんだったの、あれは?」と。もちろん女房のほうが経験豊富というのもある。だが、大きな違いはそこではない。

 こんなこともあった。孫は最近好きなトトロの歌を口ずさむことがあるという。娘が僕たちにそれを聴かせようと「あの歌、歌って」と言うけれど、孫は歌わない。それを見ていて「それは歌わないよ」と思わず僕は言った。「じゃあ、どうすればいいの?」と娘。「まず、おまえが歌わなきゃ。おまえが楽しそうに歌えば、この子も歌うんだよ」と。

 後日、孫が遊びに来ていたとき、仕事に出かける僕が玄関でスニーカーのひもを結んでいると、アンパンマンの歌が聞こえてきた。楽しそうに孫が歌っている。そこには娘の声も重なっていた。

 僕が子育てで娘に言いたかったのも、もしも子どもの笑顔が欲しかったら、おまえが笑顔でいるしかないだろうということだった。いまは核家族化が当たり前の時代なので、子育てでひとり悩む母親は多い。娘のようにSOSが出せる場合はいいが、子どもと膠着状態に陥ることもきっと多いだろう。

 若いときの僕がそうだったが、父親や母親の多くは本能が成熟していないように思える。もともと本能は快を求める傾向性だが、成熟していなければ不快がたまり、よりいっそう快が欲しくなる。つまり、夫婦がお互いに快を求め合い、情を奪い合う。でも、相手も欲しいわけだから、与えられることはない。そんなとき、夫から与えられない情を、母親はつい子どもに求めてしまう。当然、子どもも求めてくるから、そこでまた奪い合いが起きる。全員が「H96」の意識階梯のとき、虐待は起きるのである。具体的に母親が欲しいのは子どもの笑顔だが、子どもが笑顔になるのとは結局、正反対のことをしてしまうのである。

 この膠着状態に風穴をあけるためには、やはり国レベルで、制度として何か手を打たないことには、なかなか抜本的な解決というのは難しいように思う。親たちはもうイッパイイッパイなのだ。いつ爆発してもおかしくない状況にある。これを家庭の問題と放り出すのではなく、制度として母親が子育てから一定の時間解放されるような、そしてその時間を有効活用できるような、公的サービスを国は提供しなければならない。そんな時代を僕たちは作ったのだから。愛しいわが子を虐待してしまう当人が、本当はいちばん悩み苦しんでいるのである。

 父親や母親が飲み込んでいる感情のブロックを中和する、これが最も重要だと僕はずっと思っている。そのためには、子育てで迷い道に入った母親や父親が気軽に相談できる、癒しの専門家たちをそろえた機関を充実させてほしいと強く思う。僕らの時代は幼い弟や妹のお守りを小さい頃から経験し、体を通して覚えてきた。いまはそういう経験自体ほとんどないだろう。その意味では、いまの人たちは本能系と感情系の基本ができていないと言わざるをえない。ある女性誌には「マニュアル持って生まれてこないかなぁ」という女性の意見まで載るくらいだ。

 余談だが、いま書いてきたような母親を助ける公的サービスや癒しの専門機関の充実は、たとえば"子育て特区"のような特別行政区を創設し、地域一丸となって実現してほしいと僕は切に思う。だから、次の政権にはぜひとも期待したい。それがひいては経済の立て直しにもつながってゆくはずである。親が生き生きとしてくれば、親自身がやる気になってくるばかりでなく、子どもの創造性は必ずや豊かになっていく。子どもたちが自分の人生に希望を抱けないような国に、所詮未来などあるはずがない。

 いずれにしても、虐待を解決するためには、まず親が幸せにならなければならない。そのためには親自身も、好きなスポーツに興じるとか、心が悦ぶセックスで汗を流すとか、つねに本能系と感情系を快の状態に保っておくことが人の親としての絶対条件だと思うのだが、あなたはいかがだろうか? いいセックスをしている人は、決して自分の子を殴ったりはしない。妻に、愛するわが子と母性で接してもらうためにも、夫たちはいいセックスを体得しなければならないと僕は思っている。



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テーマ : 日記
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第33回 宇宙の中のアンモナイト

 「思考」と「本能」と「感情」のうち、人間の実体(魂)はどれか?

 こんな質問を第4回試写会のとき、参加された方たちに投げかけてみた。「思考」と答えた人も、「本能」と答えた人も、そして「感情」と答えた人もいた。また、「ザ・面接」シリーズの撮影時、面接軍団の男優面々にも同じ質問をしてみた。面接軍団の答えは「本能」が6人、「感情」が2人、「思考」は0人。

 人間の実体を「本能」と言いたい気持ちはよくわかる。さすがに男優たちのなかで「思考」と答える者はいないだろうと思っていたが、そのとおりだった。ちなみに「感情」と答えたのは、市原克也と森林原人である。

 僕自身、ある時期まで人間の根っこは「本能」だと考えていた。「感情」は「本能」から育ち、魂は別物だと。

 ところが、僕がそれまで撮影現場で体験したことをグルジェフの理論に重ね合わせてみると、「感情オクターヴ」が人間の実体である可能性が見えてきた。そのとき、僕が感じたのは「え? 感情オクターヴが魂になるのか......」だった。それは驚きと同時に感動でもあったのだけれど。

 なぜならば、ふり返ってみると、僕は現場で女の子たちに「感情」を大切にすることをくり返し伝えてきたし、ずっとそこにこだわってきたからだ。だが一方では、グルジェフやエニアグラムにふれなければ、果たしてここに行き着いたのだろうかとも思った。あのベテラン男優たちでさえ「本能」と捉えているものを。


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 ここに掲げた〈The mapⅠ〉は、グルジェフのエニアグラム(三の法則+七の法則)と水素論、そして現場の体験から僕自身が学んだことを重ね合わせ、それをビジュアライズしたものである。〈The mapⅡ〉と〈The mapⅢ〉はこのブログでも掲載してきたが、〈The mapⅠ〉はそれらに比べて全体をより鳥瞰したものと言える。

 〈The mapⅠ〉からはいくつものことが読み取れる。それらは今後も折にふれ説明していきたいが、今回は冒頭の問と答え、つまり人間の実体(魂)がなぜ「思考」でも「本能」でもなく、「感情」なのかを見ていきたい。

 図の中央に位置する地球のまわりに3つのオクターヴが描かれている。地球に最も近い緑の曲線が「本能オクターヴ」。次の赤の曲線が「感情オクターヴ」。一番外側が「思考オクターヴ」。これらのうち「本能オクターヴ」と「思考オクターヴ」は「H12」の意識階梯で止まっている。そして「感情オクターヴ」だけが、「創造の源」である「H6」へと進んでいける可能性を秘めているのである。

 だとすれば、そこにはどんな意味があるというのだろうか?

 かつての日本に高度経済成長と呼ばれる、今とはある意味、真逆の時代があった。1955年から1973年までと言われる高度経済成長は、第一次オイルショックによって終わる。その後、1991年までを安定成長期と呼ぶが、これもバブル崩壊とともに終焉を迎えた。すでに18年も前の話だ。

 僕の記憶では、成長が終わったり、翳(かげ)りが見えたころ、経済的な繁栄を追い求めてきた反省として「物質的に豊かにはなったけれど、精神的にはかえって貧しくなった」という主旨のコメントをくり返し目や耳にした。

 むろんそこに気づき、自らの生き方を改めた人もいるだろう。だが、どうも社会全体としては、そうは言いつつ、どこに快を求めるのかという"対象"の切り替えができないまま、現在まで突き進んできているように思える。

 現に今でも、テレビは今年の夏のボーナスがどれだけ下がったかをサラリーマンやOLに取材し、事細かにレポートしている。僕はそんなテレビを見ながら、おいおい、この期に及んでまだ基準はカネなのか......と思ってしまう。

 たとえば、ファミレスのマニュアル的応対の善し悪しは、ずいぶん前から取り沙汰されてきた。店舗や店員が変わっても、その企業が同質のサービスを提供するために考え出されたものなのだろうが、画一的にして事務的な定型句に、違和感を覚える人も少なくなかった。

 「いらっしゃいませ。ようこそ○○へ。おタバコはお吸いになりますか?」。行くたびにこれをやられると、こっちも機嫌のいい時ばかりじゃないから、「オレはいつもカウンターでタバコ吸ってるだろう」と言ってやりたくなる。言っている向こうだって、バカバカしいに違いない。

 なのに、マニュアルは一向になくならない。だから客も店員も、自分の感情を押し殺して、とりあえず台本どおりにその場の役を演じるしかない。でも、本当にそれでいいんだろうか? 感情を押し殺すというのは、魂を押し殺すことにつながる。もっとも、客との心の交流までも定型化しようとしたマニュアル一辺倒のファミレスは今、姿を消しつつあるけれど......。

 そもそも企業が大きくなろうとしなければ、マニュアルなど必要なかったはずなのに、と僕は思う。それはずっと以前から感じていて、だからアテナ映像も社員は20人以上に増やさないと決めていた。それ以上だと心が通じ合えないから、それこそマニュアルが必要になるだろう。ある時期それをやれば、ビルの2つや3つは建っていたかもしれない。でも今は、やらなかったから、人間らしく生きられてよかったなぁと思っている。

 今、みんな行き詰まっている。自分がわからなくなっている。それは個人ばかりではなく、企業も、いや、もっと正確にいえば企業を動かしているシステムも主客転倒していると僕には思える。主客転倒とは、本来、人間が幸福を実現する手段としてシステムが必要だったはずだが、今はシステムを維持するために人間が犠牲になっている。いずれにしても、システムが個人を助けてくれることは今後もないだろう。

 〈The mapⅠ〉は、自分がどこから来てどこへ向かえばいいのかをイメージする地図になってくれれば、という願いを込めた。自分の「感情」を大切にし、意識階梯を「H48」から「H24」に上げ、「感情」を「感性」に開花させたとき、自分が本当は何をしたいのかが、きっと見えてくるに違いない。人間は自分のしたいことをしているときが一番幸せだと、あなたは思わないだろうか?

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第31回 呼吸で幸せになる!

 前回のブログで、トラウマのある女の子が意識的な呼吸によってそれを吐き出し、その後、いいセックスをするという話を書いた。そこで今回は、僕自身が20年以上実践し、効果を上げている呼吸法を、みなさんに紹介したい。

 僕の呼吸法には「長息(ちょうそく)」と「短息(たんそく)」の2種類がある。毎晩、寝る前に実行している「長息」から先に説明しよう。

 「長息」とは、ひと言でいえば腹式呼吸(横隔膜呼吸)である。4秒鼻から吸って、6秒口から吐く。腹式呼吸は、横隔膜を押し下げて深く吸い、押し下げた横隔膜を元に戻すことによって吐く。

 しかし、横隔膜を押し下げるといっても、腹式呼吸ができない人には、これがなかなか難しい。だから当面は、いっぱい吸って、いっぱい吐くことから始めるのがいいだろう。続けるうちに、自分の体のどこがふくらんでいるのかがわかってくる。もし胸がふくらんで、お腹がふくらんでいないようなら、胸式呼吸になっている。それではあまり効果がない。

 そこで、腹式ができていないなぁと思ったら、自分の内臓を下に押し下げることを意識してみる。そのとき、内臓の前よりも奥のほう、いわゆる背骨寄りの内臓を下にグーッと押し下げる意識を持ちながら息を吸っていくと、いい感じでお腹がふくらんでくる。これが吸うときのコツである。

 吐くときは、お腹の力を全部ゆるめると、一気に空気が出てしまう。かといって、口をつぼめたり喉を閉めることで、空気の量を調節してはいけない。それでは横隔膜が鍛えられない。6秒のあいだ均等に空気が出て行くよう、お腹(横隔膜)の力をキープしつつ少しずつ抜いてゆく。これが吐くときのコツである。

 そして、だいたい空気が出たなと思ったら、そのままお腹の皮が背中にくっつくくらいの気持ちで、お腹をしぼり全部出し切ってしまうといい。するとその勢いで、しぼり切った力をゆるめれば、今度は鼻から自然に空気が入ってくる。

 こうして4秒で吸って6秒で吐く、合わせて10秒が1往復。僕はこの長息を1日20分~30分行っているが、たとえ5分でも10分でも日々続けていれば、心身ともによい状態を、きっとあなたは実感するはずである。

 ちなみに僕の場合は、この長息にストレッチを組み合わせている。ストレッチは1つのポーズが60秒。つまり1ポーズを取る間に、6往復の長息を実行している。このとき僕は、ストレッチで伸縮する筋肉や腱などに意識をフォーカスする。たとえば首のどの筋肉が伸びているかとか、もう少しアキレス腱を引っ張ったほうがいいなとか、そういう感触を味わう。それはふだん意識しない自分の体との対話でもある。

 この長息&ストレッチをしながら、同時に僕はテレビも見る。なぜわざわざそんなことをするのかといえば、異なった複数の事象に意識を向ける訓練が、人生で大いに役立つことを知っているからである。「なにを大げさな」と思う人もいるかもしれない。

 深い呼吸ができているか、ストレッチの1ポーズで呼吸はいま何往復したか、筋肉の感触はどうか、テレビは何を伝えているか、それらを全部こなそうと思えば、ひとつの事象だけにとらわれるわけにはいかない。とらわれた途端、別のものができなくなる。たとえばテレビの番組にのめり込むと、僕は呼吸の数を忘れる......。

 ところが、それぞれの事象から等距離にあるニュートラルな所に、意識の立ち位置を定めると、全体が認識できるようになる。全部きっちりやりつつ、でも何かひとつだけにとらわれていない状態。ニュートラルだから、あるがままを見られるのである。

 そればかりではない。ニュートラルでいるクセをつけておくと、逆に何かひとつに集中しようとしたときには、自分の意識を全部そこに向けることもできる。何かにこだわっていると、こだわっているその分が残ってしまうのだ。僕らはいつも何かにこだわっているし、気づかないうちに何かを引きずっている。呼吸というのは、そういうものから解放してくれるきっかけにもなるのだ。

 次に、呼吸法のもうひとつ「短息」について説明しよう。「短息」は、その名のとおり短いブリージングである。1秒間に吐いて吸うの1往復を行う。短息の効果は、デトックス(解毒)だ。

 たとえば、その日だれかとぶつかり、でも感情を出したらケンカになりそうなとき、それを飲み込むことがある。家に帰ってからも「あいつ、あんなこと言いやがった」と思うと、そのときのシーンがまざまざと浮かぶ。

 「まぁ、あそこではこっちが折れなきゃ」とか「オレがオトナになれば」とか、自分で自分に折り合いをつけようとはするものの、頭で解決しようとしたら、結局は迷路に入って悶々とするはめに......。

 しかし、そういう心の荷物は、なんとかその日のうちに下ろしておかないと、その後もずっと引きずってしまうし、溜まる一方ではいつか病気になってしまう。

 そんなときに役立つのが、短息なのである。1秒間に吐くと吸うの1往復は、かなり速いテンポだ。きっと初めての人は、これを10分も続けられない。2分~3分もすると、手が硬直してきたりする。自分がどこかに飛んでいってしまうのではないかという恐怖にも襲われる。

 僕も最初の頃は怖かった。すごく怖い。そうなったら、無理をせずに、やめればいい。やっていくうちに体が対応してくるから、だんだん長くできるようになるだろう。短息をするとき、両手の親指をそれぞれ内側に握りしめる形でグーを作ると、僕は踏ん張りやすい。

 僕の場合、恐怖を超えたときに、ものすごく気持ちのいいところに行った。それを形容すると、まるで全細胞がよろこんでいる感じなのだ。指先もポカポカしてくる。室内が無音の状態ならば、ちょうど変圧器が唸るみたいに、全身にバイブレーションが起きて振動しているのが聞こえてくるようなのである。ここにいるようで、いないような、なんとも言えない至福感。そこまで行けると、きょうあったイヤなことも全部吐き出せている。

 長息と違い、短息は毎日やる必要はない。きょうはちょっと心の中のモヤモヤを吐き出したいなぁと思うときにやるのがいい。

 以上が、長息と短息のやり方だが、最後に呼吸全般について僕が思うことを書いておこう。

 感情オクターヴが未成熟だったり、感情を封じ込めたままで、人が幸せを感じるのは難しい。仕事などでパソコンと長時間向き合っている現代人は、無意識の浅い呼吸を強いられている。この無意識の呼吸とは、感情オクターヴが思考オクターヴの縛りを受けている状態なのだ。

 そして、この状態が長い期間続くと人は機械人間になってしまう。これが精力減退やインポテンツ、そして不感症の最大の要因になっているように僕には思える。

 運動しているときの呼吸も、意識ではコントロールできないわけだが、本能が欲求するこの呼吸は本能オクターヴを活性化させ、それがひいては感情オクターヴを成熟へと向かわせる。

 意識的な呼吸(長息・短息)が、感情オクターヴを思考オクターヴの縛りから解き放ってくれるのは説明してきたとおりである。

 ついつい僕たちは無意識の浅い呼吸ばかりしがちだが、運動を忘れず、また長息・短息を取り入れることによって、3種類の呼吸をバランスよく行うことこそが、実はとても大切なのだと僕は思っている。



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無意識の浅い呼吸を続けていると、人間は機械になる!?

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