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第94回 ローマ国際映画祭へ

 このブログがアップされる頃、おそらく僕はフランクフルト行きの飛行機に乗っているだろう。

 「え? フランクフルト? ローマでしょ?」と言うなかれ。JALの直行便がないのでトランジットです。いくら僕だって、イタリア行くのに、間違えてドイツに行っちゃったりはしません(もっとも「香港珍道中」を読んでくれた方なら心配だろうけど)。

 石岡正人監督の「YОYОCHU SEX と代々木忠の世界」がローマ国際映画祭に正式に招待されると聞いたとき、この映画を見たらヨーロッパの人たちはいったいどんな反応を示すのだろうかと思った。

 映画の中には、僕の手かざしで女の子がイッているチャネリングのシーンとか、派手なピストン運動ではないのにオーガズムを体験してしまった女の子の表情とか、その子がオーガズムの内的世界について語った場面とかが差し挟まれている。

 以前、香港大学の王向華先生から、ヨーロッパでは「性は権力である」というミシェル・フーコーの思想が今なお根強いと聞いた。たしかに過去のある時期なら「性は権力」という概念が力を持った時代もあっただろうが、でも今、僕はそれを受け入れられない。性においては上も下もない、僕はそれをずっとカメラに収めてきたつもりだから......。

 だから、できることならヨーロッパの人たちの反応を、実際にこの目で見てみたいと思ったのだ。これがローマに行こうと決めた第一の理由である。

 もうひとつは、何十年も映像作家の端くれとしてメシを食ってきたけれど、映画祭などという華やかな舞台には、およそ縁のないところで生きてきた。でも、そんな僕でも、生涯に一度くらいは華やかな場所に行ってみたいなぁと思うのである。これが第二の理由。

 ただ、そうは思ったものの、僕はどこかで迷っていた。やっぱ場違いかなぁ、僕なんかが行かないほうがいいのかなぁ......と。そんな僕に、僕の作品を長年撮りつづけてきた齋藤さんは「絶対に行かなきゃダメだよ!」と言ってくれた。そのひと言に後押しされる恰好で、僕は踏ん切りがついたのである。

 で、女房に「一緒にローマに行かないか?」と誘ってみた。ところが、北海道に帰省する際にも陸路を選ぶ、大の飛行機嫌いな女房は頑として首を縦に振らない。さて、どうしたものか?

 そこで、下の娘を誘うことにした。というのも、上とは何度か一緒にサイパンに行ったこともあるが、下とは海外といわず、二人で旅した経験がない。下が生まれた途端に、母親は赤ん坊である彼女にベッタリになったから、僕は上が可哀想でそのフォローにまわった。それからずっと上は父親、下は母親というペアができてしまった。もちろん僕は二人とも同じように可愛かったけれど、下の娘にしてみれば「私はお父さんから好かれていないんではないか」という思いがあったようだ。だから僕は、女房が行かないなら、下の娘と初めての旅行をしたかったのだ。

 「行く?」って訊いたら「行く! 行く!」と言う。「じゃあ、お父さんの"介護要員"と映画祭のレポーター役をやってくれるかい?」と訊いたら「いいよ!」だった。というわけで、娘には映画祭会場等々でスナップ写真を撮ってもらい、それをメールで日本に送る予定である。それらはこのブログやアテナのHPで、ご紹介させていただこうと思う。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第93回 2つの感性

 笹口健著『文化とは何か―知性の文化の発見』(日本図書刊行会、1997年刊)という本には、「対物的感性」と「対人的感性」という言葉が出てくる。とてもわかりやすく書かれているので、この本を引用させてもらいつつ、今一度、感性について考えてみたい。

 笹口氏は、感性とは人間の五感に入ってくる印象を受けとめる能力で、美しいものを美しい、心地よいものを心地よい、あるいは醜いものを醜いと認識し判定する能力だという。さらに、感性には「対物的感性」と「対人的感性」の2つがあると。

 「対物的感性」は美しいものを繰り返し鑑賞したり創作することによって磨かれるが、「対人的感性」は人間ひとりひとりの生命や人生そのものを慈しむ感情を基盤にしており、「対人的感性」をすでに身につけている人々(幼いころは肉親、成長にともなって友人や人生の先輩など)とのふれあいや自分自身の知的な思索を通じて高められてゆくという。

 美醜が比較的はっきりしている芸術的基準で判断しやすく、経済的価値につながることもあって社会的にも評価される「対物的感性」と比べて、これといった判定の基準もなく、経済的価値も生み出さない「対人的感性」は社会的評価も低く、人々にこれを身につけさせようと努力させる動機づけに乏しい。

 「対人的感性」に対する社会的な評価が低いほど、その社会における感性の文化はバランスを欠き、人の住みづらい社会というわけである。

 「対物的感性」は「思考オクターヴの知性」に端を発し、「対人的感性」は「本能オクターヴの愛」に端を発していると僕は思う。

 前回のブログで交通事故の話を書いた。いきなり直進車の前に右折で飛び出してきたり、渋滞で止まっているところに追突しながら、謝るどころか、クルマから降りもせず、目も合わせず、すべてを保険会社まかせにしてしまう人たちは、さしずめ「対人的感性」が欠落しているように僕には思える。

 でも、それは交通事故というアクシデントの対処法に限った話ではなく、日常そのものにも当てはまる。たとえば、ひとりの人間が会社を勤め上げ、定年退職を迎えた途端にやることもなくなり、家族には邪魔者扱いされて、孤独感に苛まれるという話を耳にする。

 僕の友人の友人にも、そういう人たちがいる。彼らは40年以上にわたって仕事を全うしてきた。大企業の部長を務めてきたくらいだから、きっと仕事はできたのだろう。でも、見方を変えれば「本能に根づいた対人的感性」を育ててこなかったのではないだろうか。

 若い頃から仕事のスキルアップには余念がなかったかもしれないが、それ以外のものは後回しにするか、犠牲にしてきた。人間関係もつねに仕事を介してのものだから、定年とともに媒介である仕事がなくなれば人とつながれない。そればかりか、会社という枠組みが取り払われてしまうと、自分が何をしたらいいのかすらわからない。

 家庭においても結局つながっていないから、妻や子どもたちには邪魔者扱いされて居場所もない。実際にいつも家でゴロゴロされてばかりでは、奥さんにしてもたまったもんじゃないだろう。しかし、これからはそういう老人たちが年々溢れてくるのではないだろうか。

 そんな老後はまっぴらだと思っている若い人々も、他人事ではない。「思考オクターヴの知性」「本能オクターヴの愛」「感情オクターヴの感性」のうち、恋愛やセックスでいちばん重要なのは「本能オクターヴに端を発した感性」だと、このブログでも繰り返し書いてきたし、現場でも言いつづけてきた。恋愛もセックスも、相手とつながらない限り、なにも始まらないのだ。

 日本における"つながり感"はどんどん希薄になっている。もしも「対人的感性」が磨かれれば、恋愛や結婚は増え、出生率は上がり、逆に離婚率はぐんと下がるに違いないと思うのだが......。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第92回 自動車保険の功罪

 もう5年以上前の話だが、通勤の途中で事故に遭ったことがある。首都高3号線が空いているとき、僕は用賀から乗って渋谷で降りる。高速を降りてしばらく直進すると、渋谷4丁目の交差点に差しかかる。事故はそこで起こった。

 前方の信号が青なので、直進するクルマは流れている。その流れに乗って僕も交差点に進入したのだが、そのとき対向車線から一台のクルマが右折し、突然目の前に飛び出してきた。僕はその横っ腹に突っ込んだ。僕の左側を並走していたタクシーは、かろうじてハンドルを左に切り、店先に突っ込みそうになって止まった。

 エアバッグが飛び出すほどではなかったものの、僕のクルマのボンネットからは冷却水が漏れていて、右折してきたクルマの前輪はシャフトが折れたのか曲がっていた。ドライバーは20代後半とおぼしき女性である。同乗者はいない。

 流れている対向車線にいきなり右折で突っ込んでくるのも想像を超えているが、それ以上に信じられないことが起きたのは、その後だった。その女性ドライバーは、いっこうにクルマを降りてこようとしないのだ。では、中で何をしているのかというと、ケータイで誰かとずっと話しているのである。

 僕もタクシーの運転手も頭にきて、「とりあえずクルマを降りろ」と言ったのだけれど、ウインドーは閉まったままで、まったく無視された。だから、ますます頭にくる。後からわかったことだが、そのとき彼女は保険会社の担当者と話していたらしい。結局、最後まで詫びの一言はおろか、彼女の声さえ聞くことはなかったのだった。

 僕はこのときのことを思い出すたびに怒りがよみがえってきた。その怒りもやっと薄れた頃、もうひとつの事故が起きた。これも通勤途中の首都高3号線である。3号線は東名高速からつながっているので、スピードを出したまま多くのクルマが入ってくる。ところが、池尻の手前あたりで渋滞が始まる。だから、その最後尾につくクルマは後続車から追突されないようにハザードをたくのだ。

 その日、僕はハザードを点滅させながらブレーキを踏み、渋滞の最後尾についた。そう、いつものように。ところが、いつもと違ったのは、後ろのクルマが止まらず、突っ込んできたことだった。今度は20代前半の男性である。

 ところが、彼もクルマから出てこない。そればかりか、目も合わせようとしない。いったい日本はどーなってんだ!と僕は思った。交通事故を起こしたときは、下手に謝ったりしたら不利になるとでも刷り込まれているのだろうか。ならば保険会社に丸ごと任せてしまったほうがいいと。だから、クルマから降りず、目さえ合わせないのか。でも、それは違うんじゃないか!

 3つ目の事故は、僕が加害者である。その日、僕は下の娘と一緒に帰る約束をしていた。富ヶ谷の近くで娘を乗せ、首都高4号線に乗った。高井戸で降りて、環八で帰るコースである。

 高井戸で4号線を降りてから環八に入るのは、複合型で変則的な交差点である。対向から右折で入ってくるクルマの車間を読みつつ、こちら側は左折で合流してゆく。合流待ちをしている前のクルマが動いたので、僕は右からの流れを読みつつ、アクセルに足をのせた。すると、コツンと何かに当たった。すでに走り去ったと思っていた前のクルマが、まだその場にいたのだ。営業用のバンだった。

 僕はすぐにクルマを降りて駆け寄った。「申し訳ございません」と謝ると、ドライバーは30代後半の男性で、「いや、オレも中途半端だったから」と言う。これは発進した後すぐに合流をあきらめてブレーキを踏んだことを言っているのだが、それはともあれ、僕の前方不注意には違いない。前のクルマはバンパーが少し凹んでいた。

 僕は自分の名刺を渡した。先方も名刺をくれる。見れば、あるコンビニの本部に勤める人のようで、これから店舗を回ると言う。急いでいるみたいだし、修理費用もさほど高くはなさそうだったから、保険は使わないことにした。まず先方に修理に出してもらい、その請求書を送ってもらったら、全額、僕がお支払いしますと伝えた。信用してくれたようで、彼はそれでいいと言ってくれた。

 しばらくして、封書が届いた。請求書だと思って中を見ると、手紙と写真2枚が入っていた。写真は、凹んだバンパーの修理前と修理後。そして手紙には「これは自分でできて、費用は数百円だったので、けっこうです」と書かれていた。

 僕はちょっと感動していた。すぐにお礼の手紙と果物を送った。前の2つの事故がああいう結果だっただけに、今度は僕の不注意とはいえ、正直救われたような気持ちだったのである。

 自動車保険は確かに便利だ。万がいち大きな事故を起こしてしまったときに、とうてい自分では払い切れないような莫大な費用も、保険に入っていればお金の心配だけはしないで済むかもしれない。しかし、金さえ払えばそれでいいという話でもない。

 これは交通事故という特別なケースに限った話ではなく、今や僕たちの至るところで手取り足取りのサービスがあふれている。面倒なことは自分でやらなくても、お金を払えば誰かが代わりにしてくれる世の中だ。

 でも、それは人間のためを思ったシステムかといえば、もちろんそういうものがないとは言わないが、長い目で見たら人間にマイナスになろうとも、とりあえず企業が目先の利潤を追求するために構築したもののように、僕には思えてならない。

 一見それは面倒で、気が重くなるようなことでも、自分で向き合ってこそ自分の人生である。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第91回試写会を見終えて

 10月7日の完成試写会に関するご案内は、このホームページでもさせてもらったが、僕はそれより一足先に、石岡正人監督の「YОYОCHU SEX と代々木忠の世界」を見てきた。

 試写終了後、「挨拶を」と言われた。映画を褒めるのは、どこか自分を褒めるようで言いづらい面もあるが、この作品が石岡監督の労作であることは間違いない。僕自身もこういうふうに客観的に見せられると、波乱万丈ではあるけれど、ツイているといえばツイている人生だと思える。そんななか、劇中で流れる自分の作品の数々を見ながら、ひとつの疑問が湧き上がってきた。

 なんで僕はこういう作品ばかり撮りつづけてきたんだろう?

 こんな難しい方向に来なくても、もっと娯楽作品としての抜きビデオだけを撮ればよかったのに......。抜きと割り切って、それに徹することができれば、それはそれで凄いことだと思う。ところが、僕はそっちに行き切れなかった。言い方を換えれば、どっかでいい恰好をしている自分がおり、そんな自分を捨てられなかったのだ。でも、なぜ捨てられなかったんだろう?

 ビデオに出演した女の子がこれまでの人生で負った心の傷と、僕の中のある部分が共鳴し、それによって僕自身が癒されたというのは確かにある。だから、この一本道を、どこに行き着くのかも考えずに、ただただ進んできたのだと。だが、それだけじゃあない。

 結局、僕は自分の娘たちに軽蔑されたくなかったのではないだろうか。親とのつながりにおいて不幸だった女の子たちを、僕はたくさん見てきた。思春期の学びや体験は、のちのちの人生に大きな影響を与える。なによりも父親である僕を信じられないというのが怖いと思った。なぜなら、娘たちにとって父親は最初の異性であるからだ。父親が信じられないというのは、男を信じられないことにつながる。男を信じられない女の人生が幸福だとはとても思えない。実際、僕はそういう女の子たちと現場でたくさんふれあってきたのだった。

 娘たちが思春期になったとき、もしも僕の作品をどこかで見たとしても、彼女たちが僕を信じられなくなってしまわないためには......。女の股ぐらでメシを食わせてもらっているという後ろめたさは僕の中で完全には消えずとも、その反面というか、だからこそというか、胸を張って娘にも語れる、自分の信念みたいなものを作品の中に溶かし込みたい。そして、出演した女の子ばかりでなく、見てくれた人にも、セックスを通してどうしたら人は幸せになれるのかについて、僕なりにつかんだ何かを示せないものか......。

 ただそれは作品づくりだけではなく、日常、家庭の中でも娘たちには嘘をつかず、本音でつきあってきた自負がある。余談になるが、これは女房にも同様で、これまでさんざん自分をさらけ出し合ってきた。それを言ったらお終いだよということまで、お互いが罵り合ってきた。

 大喧嘩した翌朝、顔を合わせるときには、さて、どう切り出したものかと僕はちょっと悩むのだが、女房のほうは昨夜さんざん吐き出してしまったからか、「おはよう!」とふつうに声をかけてくる。何事もなかったかのようにケロッとしているのである。

 女房と娘がやり合うところも凄まじい。女同士の親子バトルは、ある意味、夫婦よりも激しいのだ。僕はそれを端で見ていて、こりゃあ2、3日大変だなぁと、心の準備をしておくことにする。ところが、2、3時間後には、「ねぇ、お母さん、祖師谷温泉に行かなぁい?」などと娘が言っている。えええ、なんでそんなこと、ふつうに言えるんだよ......と内心舌を巻つつ、血は争えないと思う。

 娘たちがいたから、守るべき家族があったから、僕は続けてこられたに違いない。試写会後、僕はそんなことを考えていた。

テーマ : 日記
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第90回 女性の感度はどうしたら高まるのか?

 セックスでイケない女の子の多くは、腹式呼吸ができない。つまり、深く息を吸い込めないのである。こう書くと、深く息を吸うことくらい簡単だろうと思われるかもしれないが、彼女たちに深い呼吸をさせようとすると、えずいてしまうのだ。

 呼吸は意識と無意識の間にまたがっていると、何かの本で読んだ記憶がある。本の題名は忘れてしまったが、それによれば、人間の臓器のなかで、自分の意思で止められるのは呼吸だけだという。心臓や胃や腸の動きを自分の意思で止めたり動かしたりはできない。

 しかし、呼吸のことを忘れていたら止まってしまうかといえば、もちろんそんなことはない。無意識のうちにも呼吸は続いている。だから、意識と無意識の間にまたがっているというわけである。

 心の傷というのは無意識の中にも存在している。呼吸法でなら、その傷に対してある働きかけをすることができるのだ。つまり、意識的に呼吸することによって、無意識の世界をいじることができる。呼吸を女の子にやっていくと、溜め込んでいたトラウマが出てきたり、エクスタシー状態になったりする。

 人間は呼吸に始まり、呼吸に終わる。だから、腹式呼吸ができない場合は、まずふだんより少し深い呼吸を意識的にするだけでも、体の各機能は活性化してくるし、それにともない性的な感度もアップしてくる。

 セックスするには、相当な量のエネルギーが必要になる。それは筋肉等が激しい動きを続けるためばかりでなく、気持ちよさを感じることにもエネルギーが必要なのだ。逆にいえば、感じるためには、いい呼吸をして、気の流れをよくしておかなければならない。それは感じるための最低限の準備でもある。

 たとえば、これまで現場で出会った女の子のうち、文学少女的なお嬢さんは往々にして感度が悪かったりする。もちろん文学が悪いのでなく、小さい頃から彼女が体を動かしてこなかったからだ。意識して呼吸したことはなく、ともすれば何か考えるときには呼吸を止めていたりもする。

 運動をしていたり、呼吸を意識している人に比べたら、彼女の1日に摂取する酸素の量はきっと大きな開きが出ることだろう。この違いが人間にどんな影響を及ぼすのかについて一度、専門家にぜひ聞いてみたいと思っているが、少なくともAVの撮影現場においては、天と地ほどもセックスが違ってくる。

 これまでも呼吸法については何回か書いてきたが、もし自分の感度をアップしたいと思っている女性は、最初はむずかしくとも、ぜひ意識的に少しずつでも深い呼吸を実践してみることをオススメする。
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