2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第344回 修羅場をくぐって


 今回はある人物について書こうと思う。といっても、彼に会ったことはない。メディアの取材を通して彼を知っているに過ぎないのだが、それでもどこか親近感を覚え、その仕事ぶりを見たり読んだりするにつけ、「ああ、うれしいなぁ」という感情が自然と湧き上がってきた。

 人がよりよき人生を送る根幹は、自分が育った家庭にあると僕は思っているけれど、今や家族が崩壊しつつある。親が子を殺し、子が親を殺す世の中だ。そこまで行かずとも、たとえば子どもが引きこもった場合、子ども部屋にも入れない親たちがいる。子が精神を患っているケースもある。そうなると医者に連れていきたいわけだが、親ではとても手に負えない。

 本来ならばじどう相談所や保健所が管轄なのだろうが、細かいフォローができてないことは容易に想像がつく。今からちょうど20年前、民間で「精神障害者移送サービス」を始めた男がいる。押川剛(おしかわ・たけし)その人である。当時、彼の会社は「トキワ警備」。その後「トキワ精神保健事務所」に社名を変更し、代表も部下にゆずっている。

 押川の個人HPのプロフィール欄にはこんな記述がある。〈1984年、常磐高校入学――高校は私立の男子校に進学。ワルの密度の高い学校だったため、危機管理の重要性を感じ、必然的に危険予測・危機管理能力があがる〉。彼が社名を変えても残した「トキワ」とは出身高校の「常盤」ではないのか。

 彼は僕より30歳下だが、同じ福岡県小倉の出身である。僕の入学した中学は常盤中学だった。彼は高校を〈ワルの密度の高い学校〉と表現しているけれど、そのニュアンスはよくわかる。僕も中学の初日、校門をくぐった途端「この学校、ヤバイな」と思った。むろん真面目なやつもいるのだが、ヤバイやつしか印象に残っていない。ところが、中学2年のとき、僕は問題を起こして補導され、ワルの密度の高い中学さえも退学処分になる。そして公立の中学に転校したので、高校は常盤には行っていないのだけれど。

 かつて精神障害者の移送といえば、布団などで患者を簀(す)巻きにして有無を言わせず連れていく強制拘束が当たり前だったというが、押川は自ら部屋に入り、患者を説得して、病院まで連れていった。始めた頃には軍用サバイバルナイフで足を刺されたこともあった。説得して医療につなげた患者は1000人を超える。押川でなければ、とても続けてこられなかった功績と言える。

 先に紹介したプロフィール欄に、彼自身こんなことを書いている。〈移送の現場は壮絶だった。ゴミだけでなく排泄物までもが堆積する部屋。大声で叫び、凶器を振り回す患者。しかしそんな彼らにも、ふとしたときに垣間見える本当の感情があった。それは病気の苦しみであり、理解しあえない家族への悲しみや怒りであった〉。

 押川は面構えもなかなかのものである。若い時分に体を張り、修羅場をくぐってきた人間は、痛みも知っているし、人の情けもわかっている。人は極限状況に追い込まれたときに己を知る。そのなかで本能はより高みへと成長を遂げ、天性が育まれる。それはコインの裏表みたいなものだが、彼はその振り幅が人より大きいように見える。谷が深ければ山が高いように。

 彼に憧れたり、影響を受けている人間はたくさんいるはずだ。世の中を変えていく者がいるとしたら、きっと彼のような人間だろう。同じ北九州からこういう男が出てきているというのはうれしいなぁと思うと同時に、これからも思う存分活躍していただきたいと心から願う。


〈お知らせ〉
今回、本文中に「じどう相談所」という言葉が出てきます。このブログの利用規約が「アダルト」のジャンルにおいて「じどう」を漢字表記すると掲載不可と変更になりました。他にもいくつかの言葉が文脈に関係なく使えない模様です。次回以降は、お手数ですが、下記のライブドアブログにて引きつづき「週刊代々木忠」をお読みいただけますようお願い申し上げます。

http://blog.livedoor.jp/yoyochu/







Aito-sei-long

第340回 「満たされない女」と「向き合えない男」


 先日撮った女性は○○一族と言われるような名家の出身だった。結婚も許嫁(いいなずけ)とした。これがお見合いならば事前に相手のことがわかるし、断わる選択肢も残されているが、許嫁は当人同士が会っていないうちから両家の親が婚姻を決めてしまう。彼女はそうして結婚し、10年後に離婚した。

 夫婦っていったい何だろう? そんな思いが現場に漂っていたからか、男優の森くんから休憩時間にこんなことを訊かれた。「監督の家庭での役割って何ですか?」。僕は家での日常を思い返してみた。「うーん、ないね」。

 しいてあげれば、関西風すき焼きを作るのと花を活けるくらいである。すき焼きは大阪の花屋に住み込みで働いていたとき、ご主人が作るのを見て覚えた。女房は「あなたのすき焼きのほうが美味しいから」とこれだけは僕に任せる。華道の心得が多少あるので、花を活けるのも女房よりは上手いだろう。しかし、それ以外の家事を僕には一切させない

 「男子厨房に入らず」という言葉があるが、女房がそれを地で行ってるのかと言えば、ちょっと違うような気がする。口に出して言うわけではないけれど、「家のことするんだったら、仕事やんなさい」みたいな感じが近い。おそらく女房にとって僕は子どもみたいなものなのだろう。だから、家庭で「これをしなきゃいけない」という役割が振られていない。

 惚気(のろけ)のようで申し訳ないが、僕は女房と出会えたのが大きかったと今でも思っている。やはり男は女次第だなぁとも。母性の育った女性と一緒にいれば、男は仕事にもセックスにも自信がつく。ところが、今の若い人たちは「そもそも出会いがないんですよねぇ」と言う。

 ピンク映画の頃から数えたら足かけ50年、性を撮ってきた。「オーガズムとは何か?」を自問自答しつつ、「どうしたらオーガズムを体験できるのか?」をビデオの現場で試してきた。それを一冊にまとめたのが『プラトニック・アニマル』だった。

 その後、20年の歳月を経て男も女も変わった。もっとも男は、男優以外、直接会う機会がないので、女の子たちの話から見えてくる風景ではあるけれど。その変化をひと言でいえば、先ほどの「出会いがないんですよねぇ」もそうだが、男も女も恋愛ができなくなってるという点である。

 セックスする相手がいたとしても、多くの人が“本当は好きじゃない人”とセックスしている。50人、100人とセックスしている子でも、じっくり聞いてみると、やはり寂しいのだ。恋愛とセックスはもともと別物ではある。だから恋人じゃなくてもセックスはできる。だが“恋愛感情”のないセックスからオーガズムは絶対に起きない。

 『プラトニック』では、彼女や彼氏、妻や夫といった相手がすでにいる前提でオーガズムを説いた。だが、今や問題はセックス以前に存在している。さて、どうしたものか? そんな思いが色濃くなったとき、幸運にも『つながる』を出版する機会を与えてもらった。

 『つながる』は「満たされない女たち」と「向き合えない男たち」が「どうすればつながれるのか?」について綴った。僕が半世紀、性について試行錯誤してきた到達点とも言える。今月、新潮文庫にも入ったので、興味のある方は読んでみてもらえるとうれしい。






Aito-sei-long


第339回 トランスとは何か?


 僕はこれまで「トランス」という言葉をしばしば使ってきた。それはオーガズムを語るときであったり、催淫に関する話であったり……。僕の文章を読んでくれた人は、きっと文脈の中で意味を理解してくれたはずだが、それでよしとし、僕はことさら「トランス」の定義はしてこなかったように思う。そこで今回は「トランス」の話である。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を「五感」というけれど、日々僕たちは五感によって多岐にわたる情報を知覚している。いかにも胡散臭いものなら話は別だが、自分の目で見たもの、耳で聞いたことを、とかく人は真実と信じ込んでしまいがちだ。しかし、本当に真実なのだろうか。

 精神を集中して自己の本性や真理を観察することを「内観」というが、内観するには外部からの情報、つまり五感をいったん遮断する必要がある。僕はこの外部から遮断された状態、五感から解放された状態こそが「トランス」であると考えている。たとえば音や匂いがあったとしても、そこに意識が行っていない状態。ゆえに、ないに等しい状態なのである。クルマのギアに例えるならニュートラル。どこにもギアは入っていない。

 このようにトランスに入るとは自分の内側に入ることだから、本人も忘れていた過去の出来事がよみがえったり、今まで気づかなかった真実が見えてきたりする。先に「見たもの、聞いたものを真実だと信じ込んでしまいがちだ」と書いたけれど、自らの思い込みや他者の作為、親や社会からの刷り込み等々によって、客観的に見える情報もあらかじめ歪められていることが多い。だからこそ、それらからいったん自由になったとき、初めて真実は立ち現われてくるのではないだろうか。「ああ、そういうことだったのか」と。

 話はちょっと飛ぶが、仏教の意識作用に「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識」というのがあり、これらを「五識」という。順に「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」と対応しており、「五識」は「五感」と同じだ。では次の「六識」は何かというと、「意識」なのだという。僕たちが使う「意識」と同じ意味だが、たしかに「意識する」ということは「見たり」「聞いたり」「嗅いだり」……とは別物である。

 そして「七識」が「末那識(まなしき)」、「八識」が「阿頼耶識(あらやしき)」。どちらも耳慣れない言葉だが、「末那識」とは「潜在意識」のことである。「阿頼耶識」のほうは「個人個人の潜在意識をつないでいる根っこみたいなもの」だと僕は理解している。カール・グスタフ・ユングなら「集合的無意識」と言うのかもしれない。

 さて、ここまで読んで「六識」とは「六感」でもあるわけだから、「第六感」の正体が「意識」だと言うと、なにか物足りないというか、肩すかしを食ったように感じる人もいるかもしれない。「第六感」には物事の本質を見通す超能力のようなニュアンスがあり、そういう文脈で使われるのが常である。

 だが、僕はこう思うのだ。「第六感」とは五感の縛りから自由になった意識が、自らの潜在意識から、そして場合によっては他者の潜在意識ともつながっている大本(おおもと)から何かを得るということなのではないかと。だから厳密に言えば第六感とは、じつは七識、八識のことを指していると思うのである。

 話を「トランス」に戻そう。仏教の意識作用に照らせば「トランス」は六識の「意識」だが、そこはほんの「入口」に過ぎない。ただし、それまで自分が気づけなかった物事の本質、真の姿を見せてくれるとても重要な入口なのである。






Aito-sei-long

第338回 笑ったり、泣いたり、怒ったり


 2016年も3週間経ったから、今さら正月の話もどうかと思うが、今年僕はこれまでと違い、ずっと家にいて家族と過ごした。出かけたのは女房と初詣に行ったくらいである。家でのんびりすることになったのには、やはり孫の存在が大きい。

 孫はまだ伝い歩きしかできないが、目を離すと1人で階段を上っていってしまう。そこでリビングのテーブルを別室に移し、空いたスペースにベビーサークルという八角形の囲いを置いて、その中で遊ばせている。サークル内には姉の子どもたちから大量にもらい受けたオモチャのうちのいくつかが入っているが、半分くらい水を入れた小さめのペットボトルも3~4本混じっている。孫はペットボトルが好きなようで、それを噛んだり、投げたりして遊んでいる。

 投げるといっても遠くまで飛ぶわけではないが、ときにはサークルを越えてサイドボードにぶつかることもある。すかさず大人たちからは「ダメ!」と叱られる。すると、孫は吐き出す息で唇を震わせながら「ぶぅー!」と口答えする。しゃべれないだけで、言われた意味はわかっているのだ。ヤンチャだけれど、僕は可愛くて仕方がない。

 ある日のこと、キッチンのほうから女房と娘が言い争う声が聞こえてきた。お互い感情オクターヴ系なので、衝突するとなかなか激しい。年の瀬だったから、女房は「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と体より気持ちが先走っていたのかもしれないし、娘は娘で風邪を引き、体調も芳しくなかったのでイライラしていたのかもしれない。「かもしれない」というのは、僕は孫と遊んでいて詳細を知らないのである。

 憤懣やるかたないといった顔で女房がやってくる。孫はニコニコしながら遊んでいる。その笑顔を見たとたん、女房がフッと笑う。次に娘がやってくる。こちらも「冗談じゃないわよ!」という顔をしている。でも、両手を伸ばしてくるわが子の笑顔を見たとたん、一気に機嫌がよくなる。場の空気が一瞬にして変わってしまう。その変化を目の当たりにしながら、笑顔ってのはつくづくスゲエなぁと僕は思った。この子はこの笑顔で守られているんだなぁと。父母も祖父母も、みんなこの屈託のない笑顔にふれたいのだ。

 孫は娘がやきもちを焼くくらい父親っ子だ。体ごと宙に放り上げたりして豪快に遊んでくれるから、男の子にとってはたまらないのだろう。そんな父親が出勤前に着替えを始めると、もう孫は出かけることを察知する。そして「行ってきまーす!」と父親が玄関で手を振ると、毎回「行かないで!」とばかりに大泣きしながら小さな手を伸ばす。

 だから、父親が帰宅したときの歓びようといったらハンパない。僕とサークルの中で遊んでいても、帰ってきたとたん僕は無視される。今まで一緒に遊んでいたのはなんだったの?と思わないでもないが、そこにはむろん悪意などあろうはずもない。

 笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情がその瞬間瞬間に呼応し、表に溢れ出る。それは言葉を換えれば、今を生きているということである。誰が教えたわけでもないけれど、もともと人間はそういうふうにできているのだ。けれども、大人になるにつれていろんなことを考えはじめ、条件づけされた思考が笑顔を、涙を、そして「ぶぅー!」を抑えてしまう。

 娘一家は今年3月に引っ越しすることが決まっている。けっして遠方ではないけれど、孫と頻繁に会うのは難しくなるだろう。限られた時間。だからこそ、この子の笑顔がいっそう尊いものに思えてくる。






Aito-sei-long

第337回 2015年をふり返って


 2015年もあとわずか。今年はいったいどんな年だったのだろうか。1年をふり返る番組が多数あるはずだから詳細はそちらに譲るとして、僕は2つのことについて書いてみたい。

 まず1つが地球温暖化である。「ああ、それなら知っているよ」と言う人もたくさんいるだろう。「極地の氷がとけて海面が上昇するんでしょ」と。でも「海面が多少上がったところで自分には影響ない」などと言ってはいられない状況なのである。温暖化によって地球の気候が明らかにおかしくなっている。

 たとえばアメリカ(サウスカロライナ州)では1000年に一度の大洪水が発生したり(10月)、インド(タミルナド州)では100年に一度の豪雨に見舞われたり(12月)、中東のイエメンでは2日間で5年分の雨が降ったり(11月)、サハラ砂漠でも数十年見られたことのない豪雨で洪水が発生したり(10月)……。

 雨ばかりではない。パキスタンでは熱波によって死者が700人に上ったが、同じ頃ニュージランドは歴史的な寒波に襲われたり(6月)、北半球に限ってもアメリカ中西部で49度を記録するなか、オランダでは観測史上最低気温を記録したり(6月)、記録的な熱波が続いたアラスカでは300カ所の山火事が発生したり(6月)……。

 日本でも、記録的な大雨により鬼怒川や渋井川が決壊したり(9月)、東京都心の猛暑日が連続記録を更新したり(8月)、暴風雨がやんだと思えば冬なのに夏日になったり(12月)、竜巻も各地で発生した。竜巻なんて、僕らが子どもの頃には聞いたこともなかったのだが……。このように気候は激化している。今までではありえないことが、そこかしこで起きているのである。

 今年をふり返ったときに思う、もう1つはテロである。フランス同時多発テロ(13日)、ナイジェリア自爆テロ(17日18日)、マリ・ホテル襲撃(20日)、カメルーン自爆テロ(21日)、エジプト・ホテル襲撃・自爆テロ(24日)。これらはいずれも今年の11月に起こったテロ事件である。同時多発テロを受けて、フランスのフランソワ・オランド大統領は「これは戦争だ」とスピーチした。これまで何度か書いてきた“ピラミッド型”の力学が働く従来の国家であれば戦争にもなるだろうが、今その相手の姿は見えない。

 テロの質が変わってきている。これまでテロの根底には貧困があった。だから貧困をなくせばテロは減るはずだった。ISはこのテロを「イスラム軍と十字軍の戦いだ」と言う。十字軍といえば、中世ヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するため結成した遠征軍だ。ということは、貧困を埋めれば済むという話ではない。ISは「その十字軍に日本も加担した」と言っている。現実に犠牲者も出てしまった。中世から続く他国の確執に首を突っ込む前に、日本はもっと違う道もあっただろうにと思わざるを得ない。僕らにはどうにもならないところで事が進んでいる気がしてならないのである。

 先ほど「相手の姿は見えない」と書いたが、従来ならば国や組織のヘッドをやれば、あとはコントロールできたはずだ。だが、12月にアメリカで起きた銃乱射事件も(現在までの報道を見るかぎり)IS支持者の犯行ということで、誰かから命令を受けてやったのではなさそうだ。ああいうことがアメリカに限らずあちこちで起きている。何かが共鳴しはじめているのである。くり返される空爆は「十字軍の身勝手さ」をいっそう彼らに植えつけ、新たなテロを生み出すだけではないのか。

 気候変動とテロ。どちらも今までのパターンとまったく異なる展開、予測不能の事態であるが、共通項はそれだけではない。気候変動もテロも人間の「エゴ」に起因しているように僕には見える。

 たとえば、地球温暖化を緩和する手立ては、みんなわかっている。温室効果をもたらす気体の排出量を抑えればいいのである。先週までパリで地球温暖化対策を話し合う首脳会議(COP21)が開かれていた。しかし、CO2の削減目標1つをとってみても、各国で駆け引きをやっており、首脳たちはこれで本当に危機感を持っているのか、所詮は自分の国に対する点数稼ぎじゃないのかと思えるようなものだった。最後にパリ協定が採択され、歴史的快挙とばかりに会場は拍手歓声に包まれたものの、結局CO2の削減目標は各国バラバラで協定には法的拘束力もない。

 テロにしても、貧困をなくせばと言われながら、なぜ今なお格差の問題が埋まらないのか。そこにも人間の、あるいは社会のエゴがある。それが「イスラム軍と十字軍の戦い」に変わったとしても、宗教戦争自体、エゴが生み出したものに他ならない。エゴは相手の気持ちを察することができないし、察しようともしない。人は自分たちのエゴが作り出したものにかくも縛られ、なかなか途中で方向転換できないのである。

 このように、どうにもならないもどかしさを感じつつ、年の瀬を迎えようとしている。性を撮っている立場から言わせてもらえば、オーガズムとはエゴの死であり、自分を縛るものからも自由になれるのだけれど……。




(*「週刊代々木忠」は年末年始のお休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月22日になります。どうかよい年をお迎えください)







Aito-sei-long

第336回 SM


 「愛と性の相談室」に見えたある女性は、セックスでイッたことはないけれど、かつてSMをしたとき、胸や局部をさわられていないにもかかわらず、縄でぐるぐる巻きにされ肩をつかまれているだけで、涙があふれ、体の震えが止まらず、足がガクガクして、くずおれるほどの快感というか、安心感というか、解放されたような、それまで経験したこともない感覚を得たと言う。

 今回はSMの話である。僕がビデオで初めてSMを撮ったのは「ザ・オナニー」の翌年(1983年)だから、30年以上前になる。知人からひとりの縄師を紹介してもらった。彼はストリップ劇場のSMショーブームの火つけ役ともなった人物だ。当時、僕がSMに興味を持ったのは、女の子がセックス以上にのめり込んでいる姿を見たからだった。縄で吊るされたり、鞭で打たれても、「先生、先生」と慕っていく。「SMの快感たるや、ふつうのセックスの比じゃない」と語るMの女の子たち。彼女たちはオーガズムを体験したのだと思ったし、未知なる世界を僕はのぞいてみたくなった。

 SMにハマる人は知的レベルの高い人が多い。社会的な地位もある。「ふつうのセックスよりも人間同士のつながり感は深く、SMのほうが高尚なんだ」と言う縄師は多い。実際、有名な縄師は世界を股にかけて歩いているし、緊縛はひとつの芸術とまで見なされている。むろん日本の緊縛の文化は世界に冠たるものだと僕も思う。

 けれども、オーガズムとは何かを追求しながら女の子と向き合い、そのなかでSMも何作か撮っていくうちに、Mの子たちが体験しているのは本当にオーガズムなのだろうかという疑問が湧いてきた。オーガズムのひとつの特徴は、相手に自分を明け渡すことにある。Sの命令ならば、たとえそれがどんなに過酷であろうとMは受け入れて耐える。これは果たして「明け渡し」なのか?

 「明け渡し」のように見えて、これは「服従」ではないのか。オーガズムでは、その後の生き方を変えてしまうほどの気づきが起きる。ところが、SMにおいてはどんどんのめり込んでいくだけだ。行き着くとこまで行けば死んでしまうんじゃないかと思うくらいに。Mは「こんなことまで受け入れる私」に酔い、Sは「相手をこんなに征服している」と自らのエゴに栄養を与えている。どちらも「自己陶酔」であり「自己満足」だから、互いの心がつながっているわけではない。

 冒頭に書いた「SMで縛られて涙があふれ、解放された」と言う彼女にも、30年前ならば「そうなんだ、凄いなぁ!」と思ったかもしれないが、今回は「それはオーガズムとは別物だよ」と思わず言ってしまった。そもそも彼女の相談は「どうしたらオーガズムを体験できるのか」ということだったから、SMのときに味わったあの感覚がじつはオーガズムでないことも本人は気づいていたようだ。一方で、いまだセックスにあの「感覚」を求めているのも見て取れる。

 SもMも相手に対して虚像を作っていく。心が共鳴し、心情をシェアしているわけではないので、それはあくまでも頭の中で作り出したものだ。なので、いつかは現実とのズレが生じる。それでもSとMの関係が継続していく裏にはお互いが虚像と気づきながらも暗黙のうちにそれをよしとしている向きがある。相談に来た彼女にそれを話したら、それも否定はしなかった。また、以前僕の作品に出て、いまSMにハマッている女の子に同じことを指摘したとき、彼女は「だって自己完結だもん!」とあっさり認めた。

 とはいえ、僕はSMを否定するつもりはない。過去に虐待を受けたり、それがトラウマになっている子の場合、SMという上下関係はある意味必然でもあると思う。SMでしか人と関係を結べないということは、換言すれば、SMならば関係を結べるということだ。

 相談に来た彼女は、生きていくうえで自分を支えてくれる精神的な拠りどころを求めているように映った。それは幼少からの家庭環境も影響しているかもしれない。SMで得た解放感も、彼女には必要だったのだ。だが、心の拠りどころを内に求められれば、信頼できる自己が育てば、彼女はSMからも卒業して次のステージに行けるように僕には思えた。






Aito-sei-long

第335回 幸せが生まれる場所


 「幸せな人ほど、脳のある部分が大きい」という研究結果が発表された。いったいどういうことなのか?

 〈幸福を強く感じる人ほど脳の「楔前部(けつぜんぶ)」という部位の体積が大きい傾向があることが分かったと、京都大などのチームが20日付の英科学誌電子版に発表した。チームは、楽しい、うれしいと感じた時に活動量が高まるとされる楔前部に注目。平均年齢22.5歳の男女51人の脳を磁気共鳴画像装置(MRI)で調べた後、質問紙で「同年代の人に比べ幸福だと思うか」「生きる上で目標や計画はあるか」など約50項目について尋ねた。その結果、幸福を強く感じる人や人生に意味があると思う人ほど楔前部の体積が大きい傾向があった〉(2015年11月21日付日経新聞)

 幸福を解くカギにもなりそうな楔前部(けつぜんぶ)だが、ここは瞑想トレーニングによっても体積が増えると以前から言われている。ならば、瞑想によっても幸福感は増進するということになる。

 そもそも瞑想とは何だろう? これまで瞑想については詳しく書いてこなかった。瞑想には宗教的なものもあれば、精神統一や健康維持的なものもある。いずれも瞑想には違いない。つまりキッチリとした定義はないように思うが、たとえば「瞑想とは無になることだ」と誰かが言ったとしよう。しかし、無になるべく瞑想してみても、気づくといろんなことを考えていたりする。無になるためには、もう気を失うしかないんじゃないかという笑い話まであるくらいだ。

 それはともかく、ふだん脳はいろいろな情報をやりとりしている。見たり、読んだり、聞いたり(嗅いだり味わったりさわったりもあるだろう)、そうして入手した情報の中にはストレスの原因になるものも含まれている。そういうふだんのネットワークをいったん遮断することが瞑想の最大のメリットと言えよう。ただし、前述の「無になる難しさ」さながら、気がかりな情報であればあるほど、その囚(とら)われから逃れることは難しい。では、どうすればいいのだろうか?

 瞑想の仕方はいろいろあるものの、そのほとんどが最初は呼吸から誘導していく。いくつ吸って、いくつ吐いてと。呼吸を意識すれば、それだけで外のネットワークを断つことができる。つまり、呼吸法だけでも充分瞑想になり得るのだ。いや、酸素を多く取り込めるし、血行もよくなり、体によいことは瞑想以上にある。以前にも書いたことがあるけれど、ゆっくり吐くことに気持ちを集中させれば、吸うのはいい加減であってもいい。吐き切れば、おのずと吸う。かえって正確さにこだわれば思考が働いてしまい、それはよろしくない。

 ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、かつて「歩くこともまた瞑想である」と言った。僕は股関節の調整をやっていて、歩くときにはまず踵をつけて、内側に重心をかけながら親指のつけ根から蹴り出す。先生からは「外側に重心かけちゃダメだよ」と言われている(もちろんそれは僕への指導であり、内側にかけちゃダメな人もいるのだが)。でも、歩くことに心を傾けているとき、僕は歩くことだけを感じており、ほかはなにも考えていないのに気づく。ティク・ナット・ハンの言うとおり、まさに歩くことも瞑想なのだと身をもって感じるのである。

 情報化社会と言われはじめてから、いったい何年が経っただろう。まるで情報の洪水のような社会に暮らしていて、束の間そこから自由になったとき、幸福の芽が育つというのも、それはそれで腑に落ちる話だと僕には思えるのだが、みなさんはいかがだろうか。






Aito-sei-long

第334回 幸福のとき


 いま会社の要職に就いている人のなかには、ペーペーのころがいちばん楽しかったと言う人たちがいる。こういう時代だから企業内でのストレスや軋轢(あつれき)も並大抵ではないだろうし、過去をふり返ればそういう重責がなかった時代が懐かしく感じられるのかもしれない。

 僕はといえば、彼らのような社会の枠組みからは外れたところで生きてきたので、ノルマに押し潰されそうになったり、会議で吊るし上げを食ったりというのはない。ただ、いつのころがいちばん楽しかったかと訊かれれば、それは小学校の時分だろう。父から暴力を振るわれたり、新しい母との間に距離があったり、隣村の連中にいじめられたり……と、つらいこともあったものの、楽しいことのほうが多かったよなぁと思う。いや、正確に言うなら、つらかったことすら、いまは懐かしく思えるのだが。

 自然がいっぱいあったし、ただし戦後のモノがない時代だったから、遊び道具もたとえばまっすぐな木を切ってきて、握るところ以外の皮を剥いて刀にしたり、竹トンボやバンピュー(Y字型の投石機を僕らはそう呼んでいた)を作ったり……。でもそれは自分1人で作っていたわけではなく、いつもつるんでいた友達4~5人とワイワイ言いながらやっていたから楽しかったのだと思う。山に自然薯を掘りに行ったときも、川で泳いだり魚を獲ったときも、思い出の中には必ず友がいる。加えてあのころは体験することごとが新鮮だったし、毎日が充実していたのだ。

 だが……と思う。いま僕はそれとはまた違う幸福の中にいるではないかと。

 同居している娘夫婦に生まれた孫が、再来月で1歳になる。僕が早めに帰宅した日や休日には、夕食を家族一緒にとることが多い。テーブルについて元気に離乳食を食べるのを見ていると、孫は食べ終わるなり僕に手を伸ばしてくる。娘夫婦が食器を下げたり洗い物をしている間、僕が相手をするのがわかっており、まだ言葉はしゃべれないけれど「遊ぼう!」と言っているのである。

 「パパは?」と僕が言うと父親をチラッと見て笑う。「じいじの時計」と言えば僕の腕時計を指さす。ついこの間まで乳飲み子だったのに、ここまで言葉がわかるようになったのだなぁと思う。ソファに移り、膝にのせて「ブリッジ」と言うと体を後ろに反らしながら身を預けてくる。でも、したくないときにはぐっと顎を引いてがんとして動かない。ひとしきり遊んで、飽きるとぐずり出す。ぐずり出すのは行きたい所があるからだ。リビングの隅にエアロバイクが置いてあるのだが、自分の背より高いそれに登りたいのである。危なっかしくてしょうがないのだけれど、下から体を支えてやるとハンドルにぶら下がる。やはり男の子だなぁと思う。

 女の子しか育ててないから、男の子ってこんなにアクティブなのかと驚かされる。くんずほぐれつ一緒になって30分も遊んでいると、もうこっちは汗だくになる。自分の娘とさえ、こんなには遊ばなかったかなぁという思いが頭をよぎる。孫と一緒にいると、僕はありのままの自分でいられる。孫は自分のしたいことをする。いやだったら絶対にしない。そこには嘘もないし、駆け引きもない。だから僕もそのときどきで自分の内側から湧き上がってくる感情――歓びだとか愛おしさを、てらいもなく素直に表現できるのである。

 そして、この子は娘が産んだんだよなぁという感慨もそこにはある。幼いころからやんちゃで自然児のように育ってきた娘。社会の型にはハマらない娘が母親になったんだなぁという感慨である。もともと同居する予定ではなかったし、こうして孫と毎日過ごせるのは僕にとっては思いもよらぬ幸運である。その幸運の中にいて、かつて紹介したムヒカさんの言葉を思い出す。「幸せは命あるものからしか、もらえないんだ」という言葉を。






Aito-sei-long

第333回 セックスレスの大きな要因


 新幹線が走り、オリンピックが開かれたころの話だから、もう50年以上前になる。僕はストリップの興行を任されていた。踊り子が日舞と洋舞を合わせて10~12人、幕間のコントを担当するコメディアンが3人、そしてバンドマンが3~4人。これがステージに上がる一座である。束ねているのは太夫元(たゆうもと)と呼ばれる人間だ。

 こういうグループがいくつもあって、同時に全国あちこちを回っていた。僕はおのおののコースを切ったり、各興行先へ集金をしていたが、そこで顔を合わせた太夫元やその下の若い衆によく言ったものである。「おまえら、まんべんなく回ってるかい?」と。

 太夫元はだいたい一座の看板の子とデキている。若い衆も別の子とデキている。では、それ以外の女たちはどうなるのか? 限られた狭い世界で1人が複数に手を出せば、チームワークを重んじる一座は成り立たなくなる。そこで、ほかの一座の太夫元や若い衆が、それ以外の女たちのために通ってくるのである。彼らも自分の所に女がいるわけだから、どの道かけもちには違いないのだが。

 つまり視点を換えれば、自分の所の女だけ見ていればいいという話ではない。僕が言った「まんべんなく回ってるかい?」とは「ほかの一座の女の子たちもちゃんとフォローしてるのか」という意味である。

 安い給料で使っているのもあって、男のいない女の子たちは隙があれば簡単に逃げてしまった。特に目を光らせておかなければいけないのが、将来看板になりそうな子だ。で、彼女たちをつなぎとめておくために男たちはがんばる。当時ストリップの一座というのはかなり管理された中で動いていたので、女の子たちは男日照りしていた。みんなセックスがしたい。彼女たちの性欲を満たすこと、それは太夫元や若い衆にとって重要な“仕事”なのだった。

 ところが、ほとんど毎日その“仕事”をしている彼らからは似たような泣きがよく入った。「あの子、イカねえから疲れるし、つらいですよねぇ」と。そのような子にかぎって何度も要求するからだ。将来の看板を嘱望されるような子だから、顔もスタイルも当然悪くない。にもかかわらず、僕に泣きを入れるくらい彼らは「やりたくない」のである。

 話は飛ぶが、「愛と性の相談室」でセックスレスにまつわる相談が少なからずある。女性のほうが「もうしたくない」という場合もあるけれど、「夫(あるいは彼)が抱こうとしない」というのも多い。僕は彼女たちに訊く。「あなた、イッてるの?」と。ほとんどの人が「イッてない」と答える。

 女性がセックスでイクかどうかは、セックスレスの大きな要因だと僕は思っている。とはいえ、セックスレスの責任が一方的に女性の側にあると言いたいわけではない。なぜならば、イケない女性には共通して足りないものがあるからだ。それは絶対的な安心感というか、相手に自分を全部さらけ出せるという信頼感である。

 なぜこの安心感や信頼感がないのかといえば、たとえば男を信じられなくなるような出来事が過去にあったケースもあれば、相手の男自体に問題があるケースもあるだろう。いずれにしても、セックスは2人でするものだから、どちらか1人ががんばってもどうなるものでもない。

 逆に、女がイッてくれると、男はまたしたくなる。そして、なにより自信が湧いてくる。その自信はいろいろなところに反映されるだろう。仕事もしかり、生き方そのものもしかり。だから、やはり男は女をイカせなきゃダメなのだ。それは相手のためでもあり、自分のためでもあり、2人のためでもある。






Aito-sei-long

第332回 対話Ⅲ



――“オーガズムを体験させるのが得意な監督”って伺ったんですけど。

――

――切実です。

――

――それって、私じゃダメってことですか?

――

――イキたいという思考が邪魔って言われると……。

――

――確かに100パーセント夢中になれてないかも……。

――

――好きな人だとよけいに考えちゃいます。

――

――感じてる私の顔ヘンかなとか。

――

――私でホントに満足してくれてるのかなとか。

――

――「取り逃がし続けてる」って言われるのはちょっとショックです。

――

――今にいないと起きないって……今にいるつもりですけど。

――

――歩きスマホですか?

――

――確かに2つのことを同時に、しかも同じレベルで体験することはできないです。

――

――ええ、少しずつ見えてきた気がします。

――

――えっ、本性?

――

――引かれたりしないかな……。

――

――本当にですか?

――

――ええ、快感にこだわってましたけど……。

――

――レールが違う?

――

――明け渡し?

――

――崇高な感情に打たれる?

――

――再誕……。

――

――私の理解を超えてます。

――

――確かに抱き合うだけで幸せだなぁと感じたときも……。

――

――はい、彼の温もりとか……。

――

――甘える感情ですか?

――

――そっか、今にいるって、そういうことなんですね。

――

――心が共鳴……。

――

――いちばん大切なものを軽く見ていたのかもしれません。

――

――社会に合わせた私が死んだとき、崇高な感情に打ち震え、私は生まれる。

――

――うーん、これ凄いです。

――

――オーガズムというものを取り違えていました。









Aito-sei-long

第331回 女の側の心理――そこを男は見落としている


 女がイクかどうかに男はこだわる。女がイケば、男は己に自信を持つ生き物である。そのために精力剤が欠かせなかったり、テクニックを磨いたりする。ヘタなテクニックなど身につけても策士策に溺れるのが関の山で、目合(まぐわい)が大切なのだとさんざん書いてきた。ところが、目合をしてもイカないケースがある。それを今回は紹介しよう。

 いま再編集している「ザ・面接 VOL.122 回春エステとエロ女神 ピアニストも来たんかい」(2011年)から。離婚後1年以上していない美和子(30歳)を面接するのは、一徹とじったの中折れ委員会。美和子はイケメンの一徹を差し置いて、なぜかじったを選ぶ。じったは「初めての女がいい、可愛くても2回目はない」というタイプ。現場で見ていても、自分本位というか、ほとんど女のことを考えてない。だが、やりたさ一心から美和子の中のタンポンまで食べてしまったから、彼女はその一途さを買ったのかもしれない。

 けれども、じったは例のごとく中折れしてしまう。すると美和子は手を上げてチェンジのサイン。順序としては一徹の番だが、まだ勃っていないので銀次が行く。じったは「勃ったら入れさせてくれる?」と未練がましい。銀次は目を見ながら美和子の内面に入ろうとしている。このへん銀次は上手い。彼女もそれに呼応するよう銀次を見ている。そこへ「美和子、勃ったよ!」とじった。審査員たちからは失笑が起こる。まさにつながろうとしているかに見えるセックスの最中、遅きに失した間抜けな言葉だ。

 ところが、ここで美和子はじったを呼ぶのである。している銀次も腑に落ちないだろうが、審査員からも「なんで!?」という声。挿入され突かれながら、じったに「さっきのとどっちが好き?」と問われて「じった!」と叫ぶ美和子。だが、ここでもじったは中折れする。「まだチャンスある?」と性懲りもなく訊くじったに「検討する」と答えた彼女は「切なくなってきた」と漏らす。

 そこで一徹が行くが、あえなくチェンジ。次に、さっきいいところで邪魔された銀次がふたたび行き、渾身のセックスが始まる。「こっちはいつでもOKだよ!」とじったは混ぜっ返すが、その雑音に惑わされぬよう銀次は美和子を自分へと向かせる。じつに官能的なセックスだ。そしてついに銀次はイクが、美和子のほうはと言えばこれがイッていない。意識的にイクことを拒絶しているように僕には見えた。感じていて、受け入れてるんだけど、最後の最後で開いていないというか。

 彼女が本当にイッたのは、その後、じったと奥のソファでしたときである。このときはじったもさすがに中折れはしなかった。さらにそのあと、片山が行くものの、片山はイッても、やはり美和子はイッていない。じったとイケるわけだから、イケない体ではないのだが……。美和子が1人の男に操を立てる女かといえば、途中でチェンジのサインも出すくらいだから、そこまでではないだろう。

 冒頭に「女がイクかどうかに男はこだわる」と書いたが、とりわけ男優は相手をイカせるという宿命を負った男たちだ。イッたふりでもOKな現場ならプレッシャーもさほどではないだろうが、「ザ・面接」ではまさにそこが問われる。

 なぜ美和子はイカなかったのか? その一点に銀次は納得いかなかったはずである。だから、僕が別の審査員のセックスを撮っているとき、美和子に「なぜじっただったの?」と聞きに行っている。彼女はこう答えたそうである。「きょうビデオに初めて出て、初めてセックスする相手と最後までちゃんとしたかった」と。この思いが、中折れするじったに何度もチャンスを与え、他の男優たちを拒みつづけた理由だったのだ。

 女が心の中で何を思っているのかは、はたから見ているだけでは当然ながら知りえないことだ。けれども……。「女の側の心理を見落としたままでは、決してイカないのがセックスですよね」。銀次がぽつりとつぶやいた。






Aito-sei-long

第330回 世界一貧しい大統領


 初めて彼のことを知ったのは今年の3月頃だっただろうか。たちまち魅せられた僕は彼をもっと知りたいと思い、ネット等で情報があれば見たり読んだりしてきた。そして先日、「Mr.サンデー」(フジテレビ)で彼の特集が組まれた(2015年10月11日放送)。彼とはウルグアイの前大統領、ホセ・ムヒカその人である。

 彼は“世界一貧しい大統領”と言われている。大統領に就任した際、財産は中古のフォルクスワーゲン1台のみ。大統領としての給料の9割を社会福祉に寄付して、残りの1割で生活していた。彼は番組内でこんなふうに言っている。

 「みんな〈豊かさ〉を勘違いしていると思うんだよ。大統領は王家のような生活をしなければと思い込んでいるようでね。私はそうは思わないんだ。大統領というのは多数派が選ぶのだから、多数の人と同じ生活をしなければいけないんだ。国民のレベルが上がれば、自分もちょっと上げる。少数派じゃいけないんだよ」

 彼は7歳で父を亡くし、母が家計を支える極貧の中で育った。だが、大統領になって、現実に富を手にできる機会が訪れても、その思想と行動がブレることはなかった。それを如実に表わしているのが、2012年リオ会議(Rio+20)での有名なスピーチだ。その一部を紹介しよう(邦訳は「Mr.サンデー」のもの)。

 「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっと欲しがることである。ハイパー消費社会を続けるためには、商品の寿命を縮めて、できるだけ多く売らなければなりません。10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです。長持ちする電球は作ってはいけないのです。もっと働くため、もっと売るための使い捨て社会なのです。私たちは発展するために生まれてきたわけではありません。幸せになるために地球にやってきたのです」

 リオ会議とは〈環境と開発〉に関する国際会議で、約120カ国の首脳が集まった。地球の気候変動が後戻りできないほど危機的状況にあると科学者たちが警鐘を鳴らす現代、彼のスピーチは聴く者の心に響く。

 そんな彼の清貧の思想の原点が、じつは日本にあるという。幼い頃の極貧生活で貴重な収入源が花の栽培だった。彼の家の近所に十数軒の日本人家族が住んでいて、みんな花を栽培していた。昔ながらの日本人で、みんなすごく働き者だったという。幼かったムヒカ氏も彼らから花の育て方を教わり、家計を助けた。

 日本へ敬愛の念を抱く彼が番組のインタビューに答えて、「日本人は魂を失った」と言い切った。

 「人間は必要なものを得るために頑張らなきゃいけないときもある。けれど、必要以上の物はいらない。幸せな人生を送るには、重荷を背負ってはならないと思うんだ。長旅を始めるときと同じさ。長い旅に出るときに50kgのリュックを背負っていたら、たとえいろんな物が入っていても歩くことはできない。100年前、150年前の日本人は、私と同意見だったと思うよ。今の日本人は賛成じゃないかもしれないけどね」

 「今の日本は産業社会に振り回されていると思うよ。すごい進歩を遂げた国だとは思う。だけど本当に日本人が幸せなのかは疑問なんだ。西洋の悪いところをマネして日本の性質を忘れてしまったんだと思う。日本文化の根源をね。幸せとは物を買うことと勘違いしているからだよ。幸せは命あるものからしか、もらえないんだ」

 本当の幸せとは何なのか? 僕たちが幸せだと思ってきたものは、じつは幸せとは別のものではなかったのか? 彼は日本の子どもたちに向けても、こんなメッセージを残している。

 「日本にいる子どもたちよ。君たちは今、人生で最も幸せな時間にいる。経済的に価値のある人材となるための勉強ばかりして、早く大人になろうと急がないで。遊んで、遊んで、子どもでいる幸せを味わっておくれ」

 子ども時代の遊びは生命力の源とも言うべき脳幹を鍛えてくれる。たとえば幼い頃から塾通いで勉強に明け暮れ、たまの息抜きがゲームというのでは、生身の人間と向き合う機会も少ない。「幸せは命あるものからしか、もらえないんだ」。その言葉の意味を僕たちは真に理解し、行動に移す時期に来ている。






Aito-sei-long

第328回 総理大臣の呼吸法


 「4-7-8」なる呼吸法が話題になっている。ハーバード大学出身のアンドルー・ワイル博士が20年前に提唱したこの呼吸法は、「4秒鼻から息を吸い」「7秒止めて」「8秒で口から息を吐く」というものだ。最近になって週刊誌やネットで頻繁に紹介されたきっかけとしては、先月とある懇親会で安倍総理が「私は『4-7-8呼吸法』をやっていて、これをやると気分が落ち着く」と言ったからとか……。

 これまで僕は何度も呼吸法の話を書いてきた。「深い腹式呼吸は6秒口から吐き、4秒鼻から吸う」と。まず吐くことから始めるのは、吐き切れば自然と吸うからであり、呼吸法では吐くことこそが肝心というのも書いた。「4-7-8呼吸法」は、吸うことから始まっているものの、まず事前に吐き切ったあとに4秒吸うという意味らしいので、ここは同じと言ってもいいだろう。吐く時間が6秒ではなく8秒だが、これも要は吐き切ることが大切であり、初めてやる人は吸う4秒に対して6秒くらいがちょうど吐きやすいだろうと思うが、8秒吐きつづけられるのならそれに越したことはない。けれども、僕にわからないのは、7秒止めるというところである。

 なぜ息を止めるのか? 現代人は無意識のうちに呼吸が浅くなり、悩んだり何か考え事をしているときに息を止めていることさえあるから、意識的な呼吸、つまり呼吸法が必要なのだと思う。それなのに、意識的な呼吸でわざわざ息を止める理由はいったい何なのか? 息を止めれば血圧も上がってしまうだろう。7秒といったら、けっこうな時間である。ネットの記事の中には〈7秒息を止めることで酸素が血流に影響を与える時間ができる〉と書かれたものも見かけたが、説得力に欠けるのではないだろうか。

 僕がいま毎日実行している深い腹式呼吸法は(とりあえず吐いたあとに吸うところから書けば)、1から4まで吸い、5で手放すが横隔膜は下がったままでキープする。ただし吸ってはいないから、めいっぱい吸い込んだ空気はわずかずつ漏れはじめる。そうした状態を6、7、8、9と維持し、10で横隔膜のキープを緩め(横隔膜が上がってくる)、11、12で腹筋を絞りつつ完全に吐き切るというものである。これは4吸うのに対して、漏れているところも含めて吐くが8という、1:2になっている。

 僕がこの歳までビデオを撮ってこられたのは、呼吸法を続けてきたことが大きな一因と言える。だから、ことあるごとに、みなさんにもオススメしてきた。安倍総理は「呼吸法で落ち着く」と言っていたけれど、安倍さんに限らず、政治家たちはみんな呼吸法を実践すればいいのにと僕などは思ってしまう。呼吸法を続けていれば、本来の自分を曲げてでも腹の底に溜め込んだものが自然と外へ出てくるようになる。それは言い方を換えれば、本来の気づきである。そうして人は本当の自分を取り戻すことができるのだと思う。本当の自分になれば、たとえば新たな法案について考える際、党内右へならえで保身に走る必要もないだろうし、大国の前に言いなりになる必要もないはずである。









Aito-sei-long

第327回 何のためにセックスするのか?


 何のために人はセックスするのか? あらためてそんなふうに問われると、答えに窮する人もいるかもしれない。「ザ・面接」に出演した女の子たちの声をいくつかアトランダムに拾ってみる。

 花嫁修業中のさな(22歳)は、親が1500万もする高級外車を買ってくれるほど、お金持ちのお嬢さんだ。体験人数は20人くらいだと言う。出演動機は「エッチがうまくなりたい」。誰かから「ヘタ」と言われたわけでもないのに、本人としては「万人ウケするセックスがしたい」ようなのだ。なにも万人にウケずとも自分の好きな人とだけ合えばいいように思うのだが、今の時点では誰と結婚するかわからないし、セックスが理由で、結ばれるものも結ばれなくなるのはイヤだということだろうか。彼女の話を聞いていて気になったのは、セックスを「うまい・ヘタ」でとらえていることだった。

 面接官は森林と優作だが、さなは優作を選び、ある程度までは行くのだけれど、優作が中折れする。そこで森林が行くが彼女は相手にせず、結局じったが行く。ところが「気持ちいいんだけど、勉強にならない」と言って、彼女は途中でやめてしまう。それを見ていたエキストラたちの感想を聞いたあと、最後にカメラを向けると「まだまだ上を目指そうと思います」と言う。僕は「もう目指さなくてもいいって、みんな言ってるよ」と言ったあとで、「3人いたじゃない? どの人が一番よかった?」と訊いてみた。優作か? 森林か? じったか? しかし彼女の答えは「あんまり覚えてない」であった。

 当然ながら聞いた男優はガッカリする。けれども、これはさなに限ったことではない。別の回に出演したかすみ(26歳)という女の子も、終わったあとに感想を求めると「さっぱりしました」と答える。続けて「誰としたか、覚えてる?」と訊いてみたが、返ってきたのは「覚えてない」だった。べつに男優の名前を知らないとか、そういう話ではない。もちろんその場で「あの人としたでしょ」と指させば「ああ、そうだった」と言うはずだが、要するに「誰としたか」は覚えてない程度の印象しか残っておらず、そこには関心がないということだ。

 なぜこういうことになるのか? それは冒頭に書いた「何のために」セックスするのかとじつは関わってくる。それを書く前に、もう2人ほど紹介しておこう。

 空港職員の由恵(26歳)は「2年間セックスしていない」と言う。彼女の体験人数は4人。職場でそういうチャンスがなかったのかもしれない。ともかく彼女はセックスがしたいのである。たとえば複数の男からされて、上の口も下の口もふさがれ、まわされることだって、「それもアリよ」と答える。彼女のセックスを見ていて、僕はもう充分だろうと思っていた。ところが、そうでもないようだ。市原が「満腹を10としたら、どれくらいや?」と訊くと「1.5」と答える。その後、別の男優としてもまだ「5」だった。

 化粧品販売の佳子(30歳)の出演動機は「今まで男性とエッチなことをしてもイッたことがないので、こういう所でそれをお仕事にしている方だったら、うまくイカせてもらえるかなと思って」というもの。面接官は片山と銀次。2人は例によっていきなり強引に責めていく。言葉なぶりも加わり、股間をガン見していると「今、シャワー浴びてないから」と言う。この抵抗はいい感じだなと思った。ところが、彼女は次第に自分の言葉に酔っていく。「舌使いが上手」「いやらしい音がする」「興奮しちゃう」……。そして自分の世界へと入っていくのだ。そのうちに「もっと激しくして!」「もっと! もっと!」と注文が出てくる。見せ物としてはいやらしいのだけれど、これでは自己完結で終わってしまう。

 彼女たちは何のためにセックスをしていたのだろう。さなは「エッチがうまくなりたいから」。由恵は「2年間セックスしていない」ので、欲求不満が溜まっていた。佳子は「イッたことがないので、プロの男優ならイカせてもらえると思って」。理由はそれぞれ違うけれど、3人ともセックスが「手段」になっている。うまくなるための手段、欲求不満を解消するための手段、イクための手段。これ以外にも、なかには男をつなぎとめるためにセックスしている人もいるだろうし、枕営業のように仕事の成績を上げるためにセックスしている人もいるかもしれない。

 だが、「手段としてのセックス」をしている限り、相手とはつながれないのである。では、「手段ではないセックス」とは、いったいどんなものだろう。次にその一例を紹介する。

 真弓(37歳)はエキストラの1人として「ザ・面接」に出演した。以前にも書いたことがあるが、僕はエキストラの中に仕込みの子を用意する。彼女とは事前に会っていたが、「やりたくなったらやってもいいけど、やりたくないときにはやらなくていいよ。それは撮ってもしょうがないからね」と言っておいた。とはいえ、彼女の中に「私はセックスするんだ」という意識がどこかにはあったはずだ。だからこそ「さあ、やるよ」では面白くないし、彼女も「どういうふうにやろうか」と思考が働く。そうさせないためには「まさかこんなところで」というタイミングが重要になる。

 2人目の面接が終わり、その感想を真弓に聞いているとき、片山と銀次と森林が彼女を囲み、森林が彼女の指を舐めはじめる。そのまま森林の舌は耳へ……。いつしか片山も反対側の耳を舐めている。「固まってるから穴ほぐしてたるわ」と市原。あれよあれよという間にパンティを脱がされ、みんなの前でアソコを指でいじられて、真弓はなすすべがない。複数の男たちに体じゅうを愛撫されたまま、銀次のそそり立つ男根が口の中に入ってくると、彼女はたまらずしゃぶりはじめる。テーブルに手をつき、立ちバックで銀次のが挿入されると、「まだダメ、動いちゃダメ」と言うが、おかまいなしに突きながら、銀次は彼女の顔を斜め後ろに向かせて、「ちゃんと見てごらん」と彼女の目を見る。そして「気持ちいいだろ」とやさしく耳元でささやくと、真弓はぼろぼろと涙をこぼした。「もうここまで来たんだ、銀ちゃんに甘えろ」と僕は言った。ソファに移ってからも、彼女は銀次の目を見ながら「銀次さん、気持ちいい」と涙を流しながら高まっていく。見ていた他のエキストラたちも、一様に「胸がいっぱい」「泣きそうになっちゃった」と真弓のセックスに感動している。

 真弓は意表を突かれたのだ。突如始まった自分へのちょっかいに考える間もなく、みんなの前で辱めを受け、気づいたときには相手である銀次と向き合わざるを得ない状態になっていた。だから、「誰としたかは覚えていない、そこにはそもそも関心がない」という状況とは違い、「銀次とした」のである。相手の心とつながれたからこそ、あの涙は溢れ、それは見ている者たちの心まで熱くした。真弓は決して「何かのために」セックスをしたのではない。「手段ではないセックス」とは、このように「生まれながらの心」が「交わる」ことであり、究極的に溶け合って瞬間恋愛に陥るということである。









Aito-sei-long

第326回 サイレントベビー


 これまで撮影現場や事前面接、愛と性の相談室などを通して、女性たちが抱える悩みと向き合う機会がたくさんあった。悩みは人によって異なる。たとえば恋愛やセックスに幻滅してしまっている人もいれば、何十人何百人とセックスをくり返しながら満たされない人もいる。その原因というか、そもそもの発端は同じところにあることが多い。それは主に幼い頃の親との関係である。

 サイレントベビーという言葉をご存じの方も多いだろう。初めて聞く方のために簡単に説明すると、赤ちゃんはお腹が空いても、オムツが汚れても、暑くても、眠くても泣く。言葉の話せない赤ちゃんは泣くことで(あるいは笑うことで)自分の意思を伝達しようとする。ところが、いくら泣いても親が何もしてくれなければ、やがて赤ちゃんは泣かなくなる。これがサイレントベビーである。

 なぜ泣かなくなるのか? 親の手を煩わせないために、聞きわけのいい子になったのではない。自らの意思の伝達を諦めてしまったのだ。アメリカの発達心理学者のエリク・H・エリクソン博士は「人は赤ちゃんの頃に基本的信頼感を形成する」と言う。「基本的信頼感」とは、言うなれば「人を信じ、自分も信じる力」である。いくら泣いても親が応えてくれなければ、基本的信頼感がうまく形成されないまま大人になっていく。表面上は如才なく社会生活を送っているようでも、深いところでは人を信じられなかったり、自己肯定感が希薄だったり……。

 かつては「抱きグセがつくから、赤ちゃんが泣いても頻繁に抱かないほうがいい」と考えられていた時代もあった。だが、前述のような理由から今は抱いてあげたほうがいいと言われている。僕のところでも、娘がちょっと部屋を出ただけで孫が泣き出す。ダンナがいるときにはダンナが、いないときには女房や僕が孫のところに行って、声をかけたり抱いたりしている。

 このように子育ては手がかかるものだが、今やシングルマザーは108万人。ただし、これは前回2010年の国勢調査の数字だから、この5年でさらに増えているだろう。子育てをフォローしてくれる親兄弟と同居していればいいが、お母さん1人ではなかなか大変だろうと思う。さらには、スキンシップ以前に経済的な問題も看過できない。というのも、現在は「子ども6人に1人が貧困」と言われている。「両親のいる世帯」の貧困率が12.4%なのに対して、「親が1人の世帯」は54.6%と4.4倍になる(2012年、厚生労働省)。

 先日、テレビであるシングルマザーの家庭を特集していた。小学校低学年の子が2人いる家庭だった。お母さんはそれまで働いてなんとかやっていたのだが、過労で倒れた。それ以来週に2日くらいしかパートに出られなくなり、いい月でも収入は8万円くらい。そこから家賃や光熱費等を払うといくらも残らないから、子どもに食べさせられない。学校があるときには給食が1日のうちで重要な食事だったが、夏休みにはそれもない。お母さんも仕事しているときに1日なにも食べていない。飴玉をポケットに入れて、それをなめるだけだ。ちょっとお金があれば、そうめんを買う。具はなく、そうめんだけなのだが、子どもたちは美味しそうに食べていた。さぞかし腹が減っていたのだろう。

 僕が子どもの頃も貧しかったけれど、まわりも貧しかった。しかし、貧しいからこそみんなが分け合っていたという記憶がある。「ドジョウがいっぱい獲れたから」「柿がたくさん生ったから」と。当時は地域が支え合っていたのだ。その地域が今は崩壊している。かつて地域が支えたものに匹敵する何かを制度が作っていかないと、この貧困からはなかなか脱出できないだろう。この原稿を書いている矢先、政府が本日(10月1日)、子どもの貧困対策専用のホームページを開設したというニュースが飛び込んできた。テレビ朝日のニュースによれば、このホームページでは子どもが検索しやすいように「家で食べるご飯がない」「進学したいけどお金がない」など60個の「悩みごと」から当てはまるものを選ぶことで、相談窓口や支援情報を探すことができるようになっている。ぜひ有効に機能していってもらいたいと願う。子どもたちが生きやすい世の中を作るのは大人たちの役目なのだから。









Aito-sei-long

第325回 真似る


 東京五輪のエンブレム問題が世間を騒がせてからしばらく経つが、今回は「真似る」について書いてみたい。盗用か否かという文脈においての「真似る」は当然ながら否定的な意味合いだけれど、「真似る」こと自体がいつも悪いとは限らない。

 人間は真似ることから新しい事柄を学んでいく。とりわけ武道や芸事は先達の確立した基本を型どおりに模倣することから始まる。「守破離」という言葉があるが、「守」は基本の型を身につける段階、「破」は身につけた型を応用する段階、「離」は型から離れて自分独自のものを創造してゆく段階。基本ができていない我流ではなかなか上達しないと言われる。かといって、型どおりのままだといつまで経ってもオリジナルは生まれない。

 以前にも書いたことがあるが、僕が「ある少女の手記・快感」という作品で初めて監督をしたとき、映画のセオリーなんて知らなかった。だから、映画を勉強してきた監督たちからは「あんなもの、映画じゃないよ」とさんざん言われた。たしかに映画理論を無視したメチャクチャな作りだったのだ。それでも、どうにかこうにか映画ができあがったのは、助監督として現場で見たことを見よう見まねでやったからだ。型を身につけるまでには至ってなかったけれど、これも模倣である。

 その後、ビデオの出発点である「ザ・オナニー」が売れると、他メーカーからは似たような商品がたくさんリリースされた。とはいえ、これはトクホ飲料でも保温下着でも1000円カットでも……要はどんなジャンルでも起こりうる資本主義経済の常である。

 ところが、驚いたのは(当時はレンタルでなく、すべてセルだったが)、有名な家電量販店が「ザ・オナニー」の海賊版、つまり違法コピー商品を山積みしていたことだ。中国の話ではない。都内の一等地で堂々と売られていたのだ。どう見たって、これはアウトだろう。さすがに僕も腹が立って「どういうことなんだ。全部、海賊版じゃないか!」と撤去を求めたら、渉外係みたいなのが出てきた。平身低頭謝るのかと思ったら、「うちも現金で仕入れてるんだから、文句があるんだったら、あんた買い取んなよ!」と言うではないか。どこの世界に、真似されたものを自分で買い取るバカがいるだろうか。

 しかし、1980年代初頭といえばアダルトビデオに著作権など認められてなかった時代。とりあえずビデ倫ができて自主規制はしていたけれど、警察の扱いとしては裏ビデオと大差なく、保護する気などさらさらなかった。海賊版を作る側もそれがわかっているから、やりたい放題。流通経路を逆にたどって製造元をつきとめても、また別の所が作りはじめる。その明け暮れに疲れ果てた僕は思った。いつまでやってもキリがないから、もう気持ちを切り替えよう。海賊版ができるってことは、それだけ多くのお客さんから支持されている証でもあり、それはありがたいことなんだと。だから、この不毛な争いにエネルギーを費やすのではなく、創作活動に使おうと。ちなみにビデ倫の中に海賊版排除を目的とした監視機構ができたのは、のちに警察の天下りを入れてからである。

 話は変わるが、同居している娘夫婦に生まれた孫が月齢8カ月になる。親たちや僕ら夫婦がテーブルを叩くと、幼い孫も真似をする。バンザイをすると、バンザイをする。たったそれだけのことなのに、こちらとしては真似されることがたまらなくうれしいのである。身ぶり手ぶりで自己表現を始めたばかりの赤ん坊だからというのもあるけれど、きっと大人同士でも、好意を持っている相手が真似するぶんにはうれしいのだと思う。恋愛心理でよく言われる「ミラーリング」がそれである。

 人はかくも模倣する生き物だ。さらには、ネット検索やコピペなど、以前に比べて簡単に真似ができてしまう環境がまわりにある。でも、どうせするなら人を心地よくさせる模倣でありたいものである。









Aito-sei-long

第324回 スマホ買いました…


 日本の移動式電話の始まりは自動車電話だそうである。僕も30年ほど前、初めて自動車電話を買った。運転席と助手席の間に置いて、電源はクルマのバッテリーから取り、アンテナは後ろのトランクの上につけるというものだ。固定電話しかなかった時代に、外に出て、そこから自由に電話をかけられ、またかかってくるというのは、当時にしてみれば画期的な出来事だった(途中で1ケタ増えたが、このときの電話番号を今も僕は携帯で使っている)。

 自動車電話が進化したのが、ショルダーホンというもの。自動車電話の場合、自由に電話ができるといっても、クルマの中にいることが前提となる。しかし、ショルダーホンならば歩きながらでも、店や電車の中でも電話ができた(僕は引きつづき自動車電話を使っていたので、ショルダーホンには買い換えなかったが)。ただし、その名のとおりショルダーホンは肩にかけて持ち運ぶ。電話機の下にはカバンのように大きなバッテリーがあり、重さは3キロもあった。

 バッテリーが小型化されると、電話機と一体化されてハンディタイプになる。ここからがまさに携帯電話である。とはいえ、初期の携帯電話は重さが900グラムもあったから、かなりカサ張るものだった。このあと、携帯電話はどんどんダウンサイジングされて軽くなるとともに、「iモード」「EZweb」「J-スカイ」といったインターネット接続サービスが始まる。ここから携帯文化が一気に花開く。もしも携帯が今も電話機能しかなかったら、みんなこれほど夢中にはならなかっただろう。

 ところが僕は、パソコンなら家にも会社にもあるし、移動手段はほとんどクルマだから、携帯は電話できればそれでいいと思っていたのだ。なので、家族がみんなスマホに買い換えても、1人だけずっとガラケーを使いつづけていた。だが今年、膀胱がんの手術で入院する際、病室で退屈そうだし、パソコンは持ち込めないというので、とうとうスマホに買い換えた。

 使ってみてどうだったかといえば、いろいろな情報がその場で手に入るし、便利なのはよくわかった。同居している娘夫婦と一家4人でLINEのグループを作成すれば、確かにメールでやりとりするのとは比較にならないくらいの楽しさと手軽さがある。写真も動画もきれいに撮れるし送れるから、孫の動画を自分の部屋で見ながらニタニタすることもある。同じ屋根の下に暮らしていてこれなのだから、遠く離れてなかなか会えないじいちゃん・ばあちゃんにしてみれば、孫の動画はもうたまらないものがあるだろう。

 しかし便利になったぶん、失ったものもあるように思う。上の娘が遊びに来ていて、女たち3人がそろった日のこと。以前ならば、よくまぁこれだけ話すことがあるなーと思うくらい賑やかだったのが、静かなのである。あれ?と思って見ると、3人が3人とも自分のスマホに入り込んでいる。家族の会話が明らかに減ったのだ。

 これはどうにか避けたいなぁと思った僕は、できるだけ女房と会話をしようと心がけているのだけれど、スマホで何かを検索しているときには、だいたい生返事である。そういうときには寂しさを感じたり、ちょっとムカッときたりする。この先、同居している娘夫婦と孫がマンションに移り住むことになったら、また女房と2人の生活になる。そのときスマホの中に逃げ込まれたら、イヤだなぁ、つまんないなぁ……と思う今日この頃である。








Aito-sei-long

第323回 売買春は合法化すべきか?

 先月、アムネスティ・インターナショナルが「売買春の合法化」を支持する方針を決定した。ご存じの方も多いと思うが、アムネスティといえば世界最大の人権団体。これまでにノーベル平和賞を受賞し、今や世界で700万人以上がその運動に参加している。

 そんな団体が、「合意のもとで」(自分の意思で働いている)という条件はつくものの、「売買春は合法化すべきだ!」と言い出したものだから、他の人権団体や女性団体からは、当然のごとくと言うべきか、非難が殺到した。ハリウッドの女優たちからも強い反対の声があがったという。

 では、なぜそんなことをアムネスティは言い出したのだろうか? アムネスティの事務局長が言うには「性労働者は世界でもっとも軽視された集団であり、ほとんどが差別、暴力、虐待の危険に常にさらされているから」。

 娼婦は古代からある職業だと言われている。人類あるところに売春あり。「売買春が違法か? 合法か?」はこれまで各国でくり返し議論されてきた。現在、合法としている国はタイ、台湾、オランダ、フランス、ドイツ、デンマーク、スイスなど……ほかにもたくさんある。

 合法化して問題がないかというと、そんなことはない。たとえばオランダは合法化すれば女性に対する強要や暴力、性病の予防ができると考えた。ところが現実には脅迫されて売春を強要されているケースがなくならないという。

 たとえばスウェーデンは完全解禁ではなく、買う客のほうを罰することにした(売る女性にはお咎めなし)。しかし、これによって客は海外に買いに行く一方、国内の売春は地下にもぐり、危険はいっそう増したともいわれる。また、かりに児童売春が行なわれていたとしても、客はそれを通報しない。言うまでもなく自分がパクられかねないからである。

 さて、わが国はといえば、売春防止法によって売春は禁じられている。だが、罰則はない。売春防止法でパクられる可能性があるのは、第5条の勧誘に抵触した売るほうのみで、買った男はいずれにしても裁かれない(相手が未成年の場合、淫行条例には抵触する)。売春防止法の罰則規定で問題になるのは、客から暴力行為を受けたり、料金を踏み倒された場合でも、女性はなかなか訴えづらいという点だ。

 歴史をふり返るまでもなく、いくら法律で禁じようが買う者は絶対にいるし、売春はなくならない。違法とすれば、そこに付加価値が生じて、地下へともぐる。犯罪の温床にもなるだろう。このように違法にしても解決せず、さりとて完全に解禁しても、あるいは売る側・買う側のどちらか一方だけを罰しても、どのみち問題はついてまわるというわけである。

 じゃあ、どうすればいいのかだが、とかく売買春の議論で思うのは、結局のところ「性処理の捌(は)け口の場を解禁するのか、しないのか」というだけの話に聞こえる。まるで娼婦はモノ扱いだ。アムネスティが言う「性労働者は世界でもっとも軽視された集団であり」というのは、まさにその通りだと思う。

 僕は現場でいろいろな女性と接してきて、日本の性の現状はふつうの人よりは深く知れる立場にいる。その立場から言わせてもらえば、売買春が合法か違法かを論ずる前に、そこが性処理の単なる捌け口ではなく、何かを分かち合う場であり、人が真に癒される場であり、同時に性を教わる場だととらえない限り、なにも変わらない気がする。

 性は個人個人に委ねられてしまっている。本能なんだから誰かが教えずとも、あらかじめ身についていると言いたいのだろう。だが、本当にそうだろうか。人間をあらしめている、その根源とでも言うべき性。これまでどの国も、必然である性の本質に対してあまりにも無知であるがゆえに軽視しつづけてきたように僕には思える。言い方を換えれば、「性とは何か」「性はいかにあるべきか」――そこを引いたところで、ちょっと見下したところで片づけちゃってるように見えるのだ。人権が主張される一方で、人と人との温もりはどんどん希薄になっていく時代だからこそ、人類は真摯な態度で性を哲学・科学する必要があると思えてならないのである。










Aito-sei-long

第322回 右脳セックス


 左脳は「論理的な思考」を担い、右脳は「五感を通じた感覚や感性」を担うといわれている。それぞれの特徴を個別に対比させてみると、次のようになる(「貴方の効き脳はどっち? 右脳派? 左脳派?」より引用)。

        test-004.jpg

 右脳・左脳については、これまでメディアでもさんざん取り上げられてきたから、みなさんもよくご存じだろうし、上の対比を見れば、右脳と左脳の違いがすんなり頭に入ってくることだろう。

 さてここで、≪左脳≫を≪左脳セックス≫、≪右脳≫を≪右脳セックス≫と置き換えて、もう一度その中身を見返していただきたい。たとえば最初の「論理←→直感」。「論理でするセックス」と「直感でするセックス」。あなたなら、それぞれどんなセックスをイメージされるだろうか?

 「詳細指向←→鳥瞰指向」。セックスにおける「詳細指向」とは何だろう。さしずめ、脚フェチ、パンストフェチ、声フェチといったフェティシズムは「性の詳細指向」と言えるだろう。

 このように個別の対比項目を、セックスに置き換えてイメージしてほしいのだが、もう1つだけ例を記せば、「戦略の構築←→可能性の探求」。セックスで「戦略の構築」といえば、事前に得た情報から作戦を練り、それを1つ1つ実行に移していくさまが目に浮かぶ。一方、「可能性の探求」は、自分の好奇心が出発点で、行為も探り探りだが、相手の反応を感じ取りながら進んでいき、やがてどこかに行き当たるといったところか。

 ≪左脳セックス≫は、一歩引いて冷静に相手やセックスをとらえている感じがする。セックスで我を忘れてヨガりまくるということはおそらくないだろう。一方、≪右脳セックス≫は自分から行動を起こし、向き合い、溶け合うセックスを感じさせる。これは≪左脳セックス≫が思考オクターヴ主導であるのに対して、≪右脳セックス≫が感情オクターヴ主導だからだろう。僕がどちらをオススメするかは言うまでもない。

 では、≪右脳≫にしっかり機能してもらうためには、どうすればいいのだろう? 踊りや音楽を楽しんだり、サーフィンやロッククライミングに熱中したり、なんでもいいから遊びに夢中になったり……というのがいいと思う。要するに、体を使い、夢中になって何かを楽しむことで、考える隙がない状態を作り出すということである。これが今この瞬間を感じて生きるという体質を育む。そうすればセックスもおのずと≪右脳セックス≫になっているはずである。










Aito-sei-long

第321回 夏の疲れに


 このブログも夏休みをいただいていたが、今年は本当に暑かった。まもなく9月になろうとしているけれど、ここに来て、夏の疲れがドッと出ている人も多いのではないだろうか。

 疲れといえば、「累積疲労」という病名があるのを最近知った。ひょっとしたら当てはまる人もいるかもしれないので、読売新聞(2015年8月9日付と16日付)に掲載された記事の一部を紹介しよう。

 〈厚生労働省の調査によると、働く人の7割以上がふだんの仕事で疲れているという。疲労は、痛み、発熱と並んで、体から発せられる重大な警告。体の限界に近付いているサインだが、見逃されることが少なくない〉

 〈「人間は意外とタフなので、疲れが続いても、すぐに倒れたり、病気にはならない。疲労は時間がたてば消える、と誤解している人が多い。借金に例えると、何年かにわたってたまった疲労は、蓄積した借金となって、“自己破産”することになる。体の健全経営のため、疲労は早めに解消して、ためないようにしなければなりません」。「累積疲労」という言葉を生み出した東京都渋谷区の「エビス心療内科」院長、堀史朗さんはこう説明する〉

 〈疲労がたまってくると、血管の9割を占める毛細血管と、リンパ管がつまりやすくなる。また、体の細胞を修復する成長ホルモンの分泌が減って、死んだままの細胞がたまっていく。こうして、体のだるさを感じるようになる。さらに、胃腸が弱り、栄養素が消化・吸収できなくなる。特に、ビタミンや微量の重要な栄養素が吸収できず、消化や運動などの生命活動の中心でもある酵素の活性も落ちる。ますます、毛細血管がつまりやすくなる。こうした中で、脳の毛細血管がしだいにつまっていくと、理性をつかさどる大脳の前頭前野の働きがゆっくりと衰え、神経回路網もだんだん荒廃していく〉

 〈「つまった末梢(まっしょう)の細い血管が体内、特に脳に増えていくのが、累積疲労の要因だったのです」と堀さん。治療は、患者の毛細血管をひろげたり、修復したりして、末梢循環を改善することを重視している〉

 どうだろうか。疲れというと生きるうえでのつきものというか、ほどよい疲れは人生の充足感にすらつながっていそうに思えるが、タカをくくって放っておくとシャレにならないというわけである。

 ちなみに、ちょっとしたことでイライラしたり、怒りがうまく抑えられないというのも、「累積疲労」の初期症状。進行すれば、うつやパニック障害といった心の病も引き起こすし、ひいては過労死に至ることもあるという。

 僕自身ふり返ってみても、うつになる前は休む間もなく仕事に追われて、睡眠不足が続いていたから、体は累積債務で自己破産に至ったんだなぁと思う。

 平日、仕事などで寝不足が溜まっている人は、週末なるべく長い時間寝ることを堀先生はすすめている。睡眠とはたんに体を休めるだけではなく、細胞を修復し、疲れをとる成長ホルモンが分泌される大切な時間でもあるからだ。

 先の「累積疲労」へのメカニズムを読むと、血流とリンパの流れが滞ることが事の起こりのようだ。ちなみに僕が10年通っている股関節矯正の先生も、血流とリンパの流れが健康の根幹だという。

 もちろん睡眠がいちばん重要だと思うけれど、夏の疲れを感じている人には、残暑が和らいできたら、なるべく自然に接してほしいと思う。システマティックな社会からひととき解放されて、自然のリズムに自分を合わせれば、おのずと気分も安らいでくる。気分が安らげば、気血の流れもよくなる。

 そして、深い呼吸をぜひ試みていただきたい。ふだん頭を使っていると、気が上がってしまって呼吸が浅くなったり、ときには止めていることさえあるが、深い呼吸は毛細血管を広げて、より多くの酸素を取り込む。呼吸を続けると体が温まってきて、指先までポカポカしてくるのが実感できるはずである。それは詰まった末梢の血管にまで血が巡りはじめた証でもある。末梢循環が改善されれば、脳の働きも活性化され、溜まった疲労も解消されるに違いない。










Aito-sei-long

第320回 セックス経験1回の女の子


 「ザ・面接VOL.143」の冒頭で、エキストラたちに自己紹介がてらプライベートのセックスについて訊いたところ、20歳の学生は「このまえ1回だけしました」と答えた。1人ではなく1回なのだ。市原いわく「あんたの穴、ほぼ新品やん!」。さてこの女の子、その後、あちこちで同時多発的に始まるセックスを目の当たりにし、はたしてどうなったかというと……。

 自分から服を脱ぎ、オッパイ丸出しで森林に「練習したい」と訴える。オチンチンをさわり亀頭を口にふくむが、森林は応じない。すると今度は「私まだ入れてもらってなくて、きょう入れてほしいんですけど」と、別の子と始めようとしている銀次にすり寄っていく。そして相手の女の子に「1回だけさせて」と手を合わせる。でも、僕はOKを出さなかった。市原が「まずは見ているように」と彼女に言うと、隣でセックスを始める銀次の巨根を未練たっぷりに見つめながら、「すごく太くて美味しそう」などと言う。結局、彼女が交わる機会は最後まで巡ってこなかった。

 僕は内心「この子、面白いなぁ」と思った。だから、次の「VOL.144」でも再びエキストラとして呼んでみることにしたのだ。そこで、もし彼女がしたくなったら、今度は止めないかもしれない。であれば、事前に会っておいたほうがいいような気がした。

 事前面接にやってきた彼女に、アダルトビデオに出るようになったいきさつをあらためて訊いてみた。彼女はこんなふうに答えた。本当はずっとセックスがしたくて、したくて、たまらなかったけれど、高校時代はそういうチャンスがなかったし、大学受験で恋愛どころじゃなかった。大学にさえ入ればと思っていたのに、実際に入ったら、そこでも恋愛やセックスの気配はまったくないのだと……。

 彼女の話を聞いているだけで、その切実さが伝わってきた。彼女がビデオに出たのは、純粋にセックスがしたかったからなのだ。1回だけある体験とは、他のビデオに出演しての処女喪失だった。そのときの感想としては、痛いの半分、気持ちいいの半分、でもMなので多少痛いのは平気だったという。

 つづいて近況を尋ねてみたところ、「ディルド(張り型)を買ってきて、一生懸命練習してます」と言う。おそらくフェラテクとかを磨いているのだろう。僕は「そりゃあ、違うよ」と言った。心の通う「セックス」と快楽を得る手段としての「セックスプレイ」の違いなどを、時間をかけて話し合った。

 「VOL.144」で、ついに彼女は前回からオアズケだったセックスをすることになる。そのシーンの言葉を一部拾い出してみよう。

 彼女「きついですか? 私すごくいい。どうですか? 入ってます。すごいあったかくて、すごく気持ちよくなってきた。ああ、激しいの、いいです。すごくいいです。当たってるのわかる。気持ちいいです。うれしい。はい、気持ちよくて、恥ずかしいのに気持ちいい。すごくいい。あったかくて、すごい気持ちよくて……」
 「ガマンできそうにない!」
 彼女「ああ、いいです。私のこと、気持ちよくなってください。私もすごくいいんで、おかえし……」
 「出そうだ、出ちゃうよ!」
 彼女「は、はい、お願いします」
 「どこに?」
 彼女「中に、私の中に熱いとこ出して、お願い!」

 文字に起こすと文章になっていないところもあるけれど、それは彼女の感情がダイレクトに言葉として出ているからだ。セックスしている相手と真に向き合っている証でもある。100人、200人とセックスを重ねてきても、一度も歓びを体験したことのない子がいる。つねにセフレが4、5人いて、いかにも性を楽しんでるように見えても、セックスごっこで止まっている子がいる。セックスにおいて大切なことのひとつは「自分の気持ちを相手に伝える」ことだが、まだ1回しかセックスしていない女の子が、それを見事に体現してみせたのだった。

 市原はじめ面接軍団は「いい女になった」「絶対モテるようになるぞ」「男、並ぶっちゅうの」と彼女を絶賛した。撮っている僕も、彼女の思いがバシバシ伝わってきて、思わず心があたたかくなった。

 前回、彼女が最初にエキストラで来たとき、あわよくば誰かとできないかとチャンスをうかがっていた。でも、「誰でもいいから」と彼女が言ったこともあって、僕はOKを出さなかった。誰でもいいからではダメなのだ。それは勃起したペニスが必要なだけということなんだから。

 彼女のセックスに対する熱意は、いったん“ディルドで練習”という間違った方向に走りはじめる。そこを僕が指摘したとき彼女が理解したのは、性体験がほとんどなかったことと、ドキュメンタリーな撮影現場にて心の通い合うセックスも見ていたからではないだろうか。そのなかには、女子高のときからずっと卓に恋い焦がれ、やっと願いが叶ったエキストラの子のセックスもあった。

 だからこそ、彼女は「プレイ」ではなく「セックス」ができたのだと思う。




(「週刊代々木忠」は夏休みをいただきます。次に読んでいただけるのは8月28日(金)になります)









Aito-sei-long

第319回 いじめの根っこ


 いじめのニュースがあとを絶たない。小学校・中学校の頃、僕もいじめられていたと言ったら意外だろうか。同じ学校に通う上級生や同級生たちからだった。きっかけは僕の家の庭に植えたビワやミカンやイチジクを、隣村に住む連中が盗みに来たことだ。戦後のモノがない時代だから、みんな腹を空かしていた。とはいえ、みすみす盗られるのが悔しくて、僕は石を投げて全力で追い払った。こうして彼らから目をつけられたのだ。

 それ以来、小学校の帰りに待ち伏せされたり、町で偶然会ったりすれば、囲まれて袋叩きにされ、ときには川に投げ込まれたりもした。こっちはいつも1人だが、向こうは複数、多いときには10人以上いた。「おまえら大勢で卑怯じゃないか!」とずっと思っていたものの、いつもやられる一方だから、ついには自分でも自分がわかんないくらい高揚してしまい、「うわーーん!」と泣き喚きながら、手当たりしだい近くにあるものを投げたり、噛みついたりした。その叫び声から、彼らは僕に「消防車」というあだ名をつけた。

 中学に上がっても、この関係は続いた。「このままじゃ、ずっと勝てない」と思った僕は、彼らのうちの誰かが1人でいるときを狙い、ものも言わず後ろからいきなり殴りつけた。1対1だし、なにせ奇襲だから僕が勝つ。それでも最後まで決して手は緩めなかった。相手にとっては体の痛みもさることながら、僕の危なさは恐怖だったはずだ。「今度やったら殺すけの~!」最後に僕はそう言って、相手の反応を見極めた。本当に殺されると思わさなければ、僕はまたやられるのだ。脅しが充分効いていないと判断すれば「冗談と思うちょるんか!」と言って絞めながら一度落とした。そういうふうに1人また1人と潰していくと、たとえ仕返しで囲まれたときでさえ、僕にやられた当の本人は二度と手を出してこないことに気づいた。

 地域一帯を暴力が支配していた時代である。しかし、いじめなどまるで別世界の出来事であるかのように毎日を送っていた同級生たちもいる。いや、彼らのほうがむしろ多数派だったろう。他人の家に生(な)った果物を盗りに来て、それを阻止されたからといって、ことあるごとに寄ってたかっていじめるというのは、やはり彼らの心に闇の部分があったからだと思う。けれども、それは僕も似たようなものだった。エリートだった父は終戦とともに仕事を失い、商売をしてもうまくいかずに荒れていた。父のイライラの矛先は母ではなく、妹や弟でもなく、いつも必ず僕だった。酔って帰ってくると「親に対する態度が悪い」と言って、いや、理由などその場でいくらでも見つけては、足腰が立たなくなるまで殴られ、投げられ、引きずり回して蹴り上げられたりした。子ども心にも理不尽だと思った。だが、柔道有段者の父に対抗する術は、幼い僕には何一つなかったのである。新しい母にも結局馴染めなかった。こうして親の愛情に飢えたまま、僕はねじれて育ったのだった。

 下の折れ線グラフは、厚生労働省が発表している児童虐待件数の推移である。正確にいえば、児童相談所での児童虐待相談の対応件数。つまり、児童相談所に持ち込まれた虐待のみの数であり、明るみに出ていないものはこの中には含まれない。それはともかく、この数だけを見ても、20年前の45.8倍という増え方である。虐待が最も大きな原因だと思うが、それに限らず子どもの中に溜まった負のエネルギーは捌け口を探している。だから残念ながら、これからもいじめは減らないだろうと思う。


20150724


 いじめによって子どもが亡くなると、「担任はどう対応していたのか?」「校長は知っていたのか?」といった話になるが、もちろん対応できてなかったから、その子は死んでしまったのだ。担任や校長の責任を問うことも必要ではあるだろうし、学校側を庇うつもりはないけれど、一方でもう彼らに期待しても無理なんじゃないかとも思う。なぜならば、教育の現場がいじめに対応するシステムになっていないからである。では、どうしたらいいのだろうか?

 いじめに対応する専従班を早急に置くべきだろうと僕は思う。それに近いことを実践している学校もあるようだが、教師に務まらなければ外部からでもプロを雇う必要があるだろう。専従班の構成は、理屈で説く人、いじめる側の心の傷をケアできる人、いじめる側が暴れても力じゃかなわないと思える人。それぞれ〈思考〉〈感情〉〈本能〉に働きかけることになる。刑事のアメとムチではないが、「おまえの気持ちも察する」というところを組み込んでいかないと、理屈だけで理解させようとしても、あるいは力でねじ伏せようとしても、いじめはより巧妙に地下へと潜るだけだろう。

 だが、いちばんいいのは、そもそも子どもが心に闇を宿さぬよう、親が育てることだと思うのだけれど……。











Aito-sei-long

第318回 対話Ⅱ


――きょうは仕事についての話だね。
――
――就職や転職で悩んでる人は多いのかな?
――
――将来性や安定性、やりがいや待遇面も判断材料ってわけだ。
――
――今の人は大変だね。いや、いろいろ考えることがあってさ。
――
――だって、オレの場合は選べる余地なんてなかったもの。
――
――学歴がない、資格もない、前科はあるけど、小指がない(笑)
――
――ピンク映画の助監督になったのも、なりゆきだったし……。
――
――将来性や安定性なんて端(はな)から頭になかった。
――
――まぁ、ずっと行き当たりばったりの人生だったしね。
――
――それで成功するのは、ほんの一握りの人間だろうって?
――
――そうかな? そもそも成功したいって思いもなかったけど。
――
――じゃあ、訊くけど、なんでそんなに成功したいの?
――
――つまり、そうなったら人生が楽しいだろうってこと?
――
――なるほどね。将来のビジョンというか、目標があるんだ。
――
――目標を達成するためには、努力も惜しまないと……。
――
――え? それがなかなか難しい?
――
――オレは地道な努力なんて無理だね、無理、無理。
――
――だって、努力って楽しいかい?
――
――楽しい将来のために、それまでは楽しくない人生を生きると。
――
――ぜひ成功してほしいね。でないとずっと楽しくない人生だもの。
――
――30年ビデオを撮ってきたのは、努力じゃないのかって?
――
――違うよ、やってるオレが面白いから続いてるだけで。
――
――そう、子供と同じだね。
――
――だけど、大人も子供も、ホントはみんな子供なんだよ、人間は。
――
――それに、オレ自身が面白かったからこそ見てくれた人も……。
――
――たとえば義務で作ったものを見て、お客さんは楽しめるかな?
――
――どんな仕事にも同じことが言えると思うな。
――
――あなたが心から楽しんで作った物やサービスを提供すれば……。
――
――そうそう、お客さんも満足してくれるはず。
――
――それこそがやりがいだろうし、安定性にもつながってゆく。
――
――待遇面なんて、黙っていても後からついてくるだろうね。











Aito-sei-long


第317回 動き出した若者たち

 戦時中、子ども心にも憲兵は怖いなと思った。もともとは軍隊内の秩序維持を任務としていた憲兵は、次第に権限を拡大し、一般市民の思想弾圧にも乗り出した。ひとたび「あいつは赤だ」と噂が立てば、憲兵隊がやってきて問答無用でしょっぴいていったものだ。その空気感は北朝鮮と大差なかったかもしれない。

 戦後をずっと生きてきて、今ほど戦争への危うさを感じたことはない。あの頃に通じる空気感が臭ってくるのである。衆院憲法審査会にて憲法学者が安保関連法案を「違憲」と指摘したにもかかわらず無視したり、自民党勉強会にて安保関連法案に対する国民の理解が進んでいないとなれば「広告主やスポンサーを通じてマスメディアを報道規制すべき」という意見が出たり……。

 安倍政権の強引さが露呈している。自民党から民主党に政権が変わったのは記憶に新しい。結果やっぱ民主党じゃダメだなと多くの人が思ったわけだが、ただ、民主党にエグさはなかった。それがまた自民党に戻り、ここに来てエグさは一際目立っている。

 なにも政治への不信は今に始まったことではない。しかし、単なる不信や失望では済まされない「危機感」が若者たちを動かしている。たとえば先月27日、渋谷のハチ公前には数千人の若者が集まった。長いこと渋谷界隈に事務所を置いているけれど、その間、政治的活動にあれだけの若者が集まったことがあっただろうか。ワールドカップでもないのに……。

 集会を主催したのはSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)。学生の団体が同じ若者たちに向けて「戦争法案反対」をアピールした。マイクロバスの上の演台には「WAR IS OVER IF YOU WANT IT(あなたが望めば戦争は終わる)」の幕。手に持つプラカードにも「私たちは誰も戦争なんて望んでいません」「本当に止める」「憲法まもれ!!」「アンチファシズム」「I am not ABE」「STOP! 安倍政権」などなど……。

 この日、SEALDsのメンバー以外にも、菅直人(民主党)、志位和夫(共産党)、初鹿明博(維新の党)、山本太郎(生活の党)など野党の議員たちが演壇に上がった。山本太郎は「戦争法案には企業の力が動いてる」と言う。「安倍政権が武器輸出三原則を事実上解禁してしまった」と。これは企業を儲けさせるために経団連が出したリクエストであり、「イージス艦1隻造るのに2500社、戦車1輌に1300社、パトリオットミサイルシステムに1200社、戦闘機1機に1100社の国内企業が関わる」のだと。

 しかし、これで雇用されている側が潤うのか、雇用枠が拡大するのかといえばNOで、とりわけ若者たちの多くは非正規労働者として企業に搾取されている。にもかかわらず、戦争法案が成立し、そののち徴兵制でも布かれたら、若者たちが真っ先に戦争に行かなければならなくなる。彼らが「ふざけんじゃねえ」と思ったとしても無理からぬことだろう。

 一方、演台となったマイクロバスが実は共産党系列のものだというネットの書き込みをけっこう見受けた。「裏で糸を引いているのは共産党だから騙されるな」とでも言いたげなSEALDs叩きである。共産党とのつながりがあろうがなかろうが、集まった若者たちの目がニュートラルであることには変わりがないと僕は思う。そこには利権集団に屈するようなシガラミがそもそもないからだ。

 それにひきかえ、当日の夜7時、僕はNHKのニュースを見ていたのだけれど、香港のデモは放送しても渋谷の集会は最後まで無視だった。これだけの動きがありながら、まったくふれないという不自然さである。

 政治の舵取りが危ない方へ向かおうとしている時代、それを変えてゆく若者たちの行動に、僕は今後も注目していきたい。








Aito-sei-long

第316回 癒着と拡張


 2週間ブログを休ませてもらった。梅雨の日本を脱出してちょっと南の島まで……ではなく、病院に逆戻りだったのだ。

 膀胱がんの手術から2カ月経ったが、そのとき傷を負った尿道は癒えることなくオシッコのたびに痛み、トイレに行くのが憂鬱な日々をずっと送ってきた。8年前の手術でも術後の排尿には苦労したものの、さすがにこれほど長く続くことはなかった。

 そればかりか、もともとオシッコの出がいいほうではないが、今回の手術後、日に日に悪くなっていった。まるで尿道の傷が癒着を起こして、内径が細くなってしまった感じなのだ。もしこのまま出なくなっちゃったらヤバイなぁと思った。

 そこで、次の診察予定日まで待たずに、手術した総合病院の外来に行った。予約していないので朝一番に行ったのだが、予約患者の診察は途切れることなく続き、結局3時間待って最後の最後に診てもらった。

 僕としては、ボールペンの柄ほどある内視鏡と電気メスを同時に入れ、人の尿道をズタズタにしておきながら、その後のケアが中途半端なのでこうなったという印象が拭えない。しかし、医者の見解は違った。そもそも尿道はデリケートだし、尿道が狭窄していく病気があるのだという。つまり、膀胱がんの手術と尿道の狭窄は関係ないという主張だ。では、なぜ手術のたびごとに(といっても2回だけど)悪くなるのか?という疑問には答えてもらえなかったのだが……。

 どっちにしても、狭くなった尿道を拡張しなきゃいけないということで再入院と相なった。手術の前日に入院。ところがその夜、熱が39度まで上がる。手術当日の朝も38度台。尿検査と血液検査の数値もよくないようで、手術は延期になった。医者のほうは、風邪に加えて、腎臓が炎症を起こしていると診断したようだ。説明によれば、尿道が狭窄すると尿が腎臓に逆流することがあるそうで、そうなると腎臓に炎症が起こる場合があるという。脈拍数は1分間に105と高いし、不整脈も出ていた。

 熱が下がって手術ができたのは、予定より2日遅れてのことだった。その場になって初めて執刀医がわかる。若い医師だ。大丈夫かなぁ……。主治医と泌尿器科の部長は立ち会いに来ている。「来てるんだったら、主治医か部長がやれよ」と心の中で思う。「若手に場数を踏ませるためかよ」と。

 ところが、手術が始まってみると、どうやら僕の思い違いだったみたいだ。膀胱がんのときと同様に尿道口から内視鏡と電気メスを入れ、設置されたモニターを見ながら癒着した小さな部位を切除していくのだが、実際に患部を直接見ながら切るのとは、やるほうも勝手が違うんだろうなぁとあらためて思った。たとえば映像の編集でいえば、かつてアナログ時代のリニアと現在パソコンを使ったノンリニアとでは、同じ編集でもまったく勝手が違うのと同様に。

 なので、尿道に内視鏡を入れてモニターを見ながら手術する技術は、若手の執刀医のほうが勉強してるし、場数も踏んでおり、年配の主治医と泌尿器科の部長は立ち会ってはいるけれど、逆に勉強しているように僕には見えた。

 話は変わるが、今回の入院ではちょっとした拾いものというか、朗報ももたらされた。先ほど「もともとオシッコの出がいいほうではないが」と書いたが、そう感じ始めたのは、今から8年くらい前のこと。泌尿器科の開業医に行ってそれを告げると、医者はさっそく僕をマングリ返しの格好にさせ、外科用の手袋をはめた指をいきなり肛門から突っ込み、「ああ、こりゃ、前立腺肥大だな」と即決した。

 前立腺は膀胱の下に位置し、ここが肥大化すると尿道を圧迫する。だから、オシッコの出が悪くなるというわけである。それ以来、前立腺肥大のクスリをずっと飲んできた。その開業医にはもう通院していないが、かかりつけの心療内科で同じクスリを処方してもらっている。去年、肺気腫になった際、主治医からは「肺気腫によく効くクスリがあるんだけど、前立腺肥大だと処方できない」と言われていた。

 今回の入院に合わせて、念のため前立腺のほうも一度ちゃんと診てもらうことにしたのだ。すると、まったく問題ないという結果が出た。「は?」である。じゃあ、この8年間は何だったのか? 飲みつづけてきたクスリは? 今思い返せば、僕の肛門に指を突っ込んだ開業医の中で、診断は最初から決まっていたような気もしてくる。それを信じ込んだオレもまだまだ甘いなと思った。そして今後は、肺気腫によく効くクスリが処方されることになったのである。

 今週から仕事に復帰した。排尿時の痛みはまだあるものの、日を追うごとにそれは小さくなっている。







Aito-sei-long

第315回 水平目線


 先月撮った「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」では、「ザ・面接VOL.145」に出た3人の女の子をキャスティングした。そのうちの1人が前回の話「平成生まれの女の子2」で書いた子である。彼女が25歳、ほかの2人は28歳と30歳。ほぼ同世代だ。

 編集で割愛した部分だが、3人がそろったところで僕は彼女たちにインタビューを試みた。3人とも「ザ・面接」の同じ回に出ているから、面接軍団のなかで「今、誰と一番してみたいか?」と。彼女たちがあげたのは、佐川銀次と森林原人だった。

 面接軍団にあってよく「親子」と言われる2人だが、彼らが選ばれたのは十中八九顔ではない。2人はオチンチンが大きいけれど、おそらくそれが第一の理由でもないだろう。

 というのも、1人の子は銀ちゃんを評して「目がきれい」と言う。これまでの「ザ・面接」の現場でも、銀ちゃんの目を褒める子は多い。すかさず軍団からは「この目のどこがきれいなんだよ!」とか「濁っとるわい!」とか、ボロクソに言われるのだが、もちろんそれは眼球そのものがどうこうという話ではない。

 銀ちゃんは必ず女の子の目を見てセックスする。それは相手の感情と共鳴する術でもある。観察されているわけではなく、もちろん見下されているわけでもない、つながりたいという目。そんな目を女の子たちは「きれい」とか「かわいい」と表現する。

 目を見てするのは森くんも同様だが、若いだけに彼はオスとしてのパワーも併せ持っている。彼は今「女子SPA!」というサイトで「性活相談」を担当している。僕も読んでいて「なるほどなぁ」と思わず感心する。現場でじかに女性とふれ合っているからこそ、ここまでわかるんだろうなぁと。

 そんな彼も、このまま男優を続けていくのか別の道を歩むのか、迷っていた時期があった。「ザ・面接」に出た初期の頃だ。いつまでも続けられる職業じゃないし……と考えていたのかもしれない。実際、途中で消えていった先輩たちをたくさん見てきたことだろう。

 もちろん現場で見る今の森くんに迷いは微塵も感じない。彼は女の子と接するとき、上から目線でもなければ、下から目線でもない。セックスが始まれば相手次第で攻めも受けもできるけれど、最初は必ず水平目線で、彼は女の子に向き合っていく。相手を見下すことなく、かといって媚を売ったりもしないニュートラルな目線でなければ、本来、人と人は向き合えないのである。

 けれども、相手もニュートラルかといえば、そうとは限らない。「ザ・面接」の20周年版を編集していると、森くんや銀ちゃんが相手だとわかった途端、あからさまに失望を顔に出す子がいるのが見て取れる。彼らはこれまで何千人という女性を相手にしてきて、そんな屈辱的な思いも少なからず味わってきたはずだ。

 でも、彼らは「オレはそこで勝負してねえんだよ」と前を向く。セックスでは人間性が反映される。萎えず、腐らず、偽らず、素の自分を出せたときに、伝わる相手にはそれが伝わる。もちろん伝わらない子もなかにはいるけれど。

 冒頭で書いた3人の女の子は全員が「ザ・面接」で銀ちゃんや森くんとセックスしたわけではない。でも、見ていただけで「抱かれたい」と思わせてしまう魅力を彼らは確かに発していたのである。




(*「週刊代々木忠」は2週間お休みをいただきます。次に読んでいただけるのは7月3日になります)









Aito-sei-long

カテゴリ
最新記事
月別アーカイブ
QRコード
QR