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第275回 がんばらなくていいんだよ

 孔孟の教えと老荘の教えは、よく対照的だといわれる。大雑把にくくれば、孔孟は「上昇志向の自己実現タイプ」である。あらかじめ目標を設定し、そのための計画を立て、努力するのがよく似合う。

 明治維新、近代日本の幕開けから、太平洋戦争の敗北を経て高度経済成長を遂げるまで、孔孟の教えは多くの日本人の根底にあったような気がする。だから、とりわけ世の中がイケイケの時代、「知や欲を働かせず、無為自然に生きることを良しとした」老荘の教えは、どこか敗者の論のように見られたりもしてきた。

 アダルトビデオが生まれた80年代初頭、高度経済成長は終わっていたものの、安定成長と呼ばれる右肩上がりの時代はまだ続いていた。そしてバブル景気と相まって、アダルトビデオ業界も産業と呼ばれるまでに成長を遂げていく。僕が好んで老荘思想の本を読みあさっていたのも、AV業界がイケイケの時代である。

 イケイケなのに、なぜ孔孟ではなく老荘だったのか……。ひと言でいえば、もともと努力があんまり好きじゃないからだ。それに加えて、子どもの頃から社会が敷いたレールからはみ出た所でずっと生きてきた。孔孟思想は「社会の中で何をすべきか」といった社会性が色濃い。僕にしてみれば、もともとそこは目指してないのだ。それにひきかえ老荘思想は、社会からあぶれた自分もなんだか肯定された気がして、心地よかったのである。

 現在は先の読めない時代だし、みんないろいろなストレスを溜め込んでいるから、老荘的な生き方にシフトする人も増えてきているだろう。とはいえ、孔孟的な生き方はけっこう深くまで浸透していたりするので、気がつけば目標を設定し、そこに向かって努力してしまうというケースも少なくないようだ。

 目標を設定すると、それを邪魔するものと戦うことになる。邪魔するものが、競争相手や対抗勢力のように自分の外側にある場合もあれば、誘惑との葛藤のように自分の内側にある場合もある。どちらも厄介だが、後者の場合は自分との戦いにエネルギーを費やしていることになる。これでは、何もしないうちに疲れてしまう。

 たとえば「セックスでイッたことがないから、イクためにビデオに出たい」と言う女の子たちがいる。これも僕から見たら孔孟的である。彼女たちに「イコうと思ったらイケないよ」と僕は言う。なぜなら、本来目的であるはずのセックスが、イクための手段になっているからだ。手段とはいわば義務であり、目の前の相手とは向き合ってないから、終わった後に徒労感や疲労感が残る。そうではなくて、セックスが本当に楽しめたときに、気づいたらイッていたということが起こり得る。

 僕は日活時代、ドラマともドキュメントとも呼べないような作品ばかりを撮っていた。当時、関係者からは「こんなもんは映画じゃねえよ!」と毎回クソミソにこき下ろされた。他の監督は大学の芸術学部とか映画学科を出ており、映画研究会にも所属してましたというタイプが多い。こっちは大学にも行ってないし、そもそも映画作りなんて教わったことがない。もしも僕が孔孟思想に共鳴していたら、そこで映画のイロハから勉強を始めたはずである。そして今頃はドラマでも撮っていたんじゃないかと思う。

 ところが、実際には「面白けりゃいいだろ」と、ドラマでもなければドキュメントでもない作品を撮り続けていたのだ。べつに勝算があったわけではない。そのとき、自分が面白いと思うものを撮りたかっただけである。ダメなら、他のことをして食えばいいくらいに思っていた。

 老荘的に生きようとすれば、将来のために今を犠牲にして努力するのではなく、この瞬間を楽しむ。あくまでも楽しむのであって、がんばったりはしない。そうすれば結果はおのずとついてくるし、たとえ失敗したとしても心は折れないのである。





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第274回 裏切りへのケジメ

 新しいことを始めるときには出会いがあった。一緒に何かをしようと思えば、その人を信用して物事は進んでいく。いや、正確にいえば、信用してるっていう意識もない。始める前から疑ってかかったり、裏を読んだりはしないということである。

 それでうまくいったこともあれば、手痛い裏切りに遭ったこともある。とりわけ日活の下請けをしていた頃には、口約束がことごとく覆されたりもした。それ以前に身を置いた不良の世界では、自分も相手も己の吐いた言葉に縛られていた。それがこちら側では、信じた言葉が相手の都合でいともたやすく嘘と化す。「カタギは汚ねえ」と何度心の中で毒づいたか知れない。

 しかし、裏切った連中に対してケジメを取ろうとはしなかった。不良時代、僕は周囲から「引くことを知らない男」と言われていた。にもかかわらず、なぜ「よしヤッたろか!」とならなかったのか。いったん行動を起こせば、もう後には引けず、行き着くところまで行ってしまう。それがわかっていた、というのもある。

 いや、当時、渦中ではそれだけが抑止力だったかもしれない。でも、しばらく時間を置き、ある程度の冷静さを取り戻したとき、全体を俯瞰することで見えてくるものがあった。確かにそのとき裏切ったのは相手のほうだが、僕も自分の本心をどこかで偽(いつわ)っていた――。

 どういうことかわかりにくいと思うので、実例をひとつ紹介しよう。

 その頃、僕は日活から年間何本(1本あたりいくら)という形で映画制作を請け負っていた。社外プロデューサーとして誰に何を撮らせるのか決める立場にあったのだ。そこへ知り合いの一人が、監督のAにぜひ撮らせてやってくれないかと言ってきた。聞けば、Aは経済的にかなり困っているらしい。話を持ってきた男とは旧知の仲でもあるし、彼との義理からAにある作品の監督を依頼した。それがたまたまヒットする。すると、Aは日活に「自分と直接契約してくれればもっと安い制作費でできる」と話をまとめてしまった。もちろん僕には内緒で。

 さて、この話の中で、僕が自分の本心を偽ったところはどこだろう?

 もともと撮らせたい監督は他にたくさんいたのだ。みんな仕事が欲しいのである。Aに依頼するくらいなら、それまでつきあいのある監督たちに頼むほうがよほど自分の意に副(そ)っている。にもかかわらず、僕は旧知の男との義理を優先させた。そのひずみというか、ねじれみたいなものが、Aの裏切りという形をとって現われたんじゃないだろうかと僕は思った。

 この話に限らず、裏切られた出来事では、自分が本当はしたくないことをしていたり、したいことを曲げてたり、本心と向き合わないまま流れに任せていたり……というのが見えてきた。それは裏切った相手よりも先に、じつは自分が自分の心を裏切っていたということだ。

 だから、相手をとことん追い詰めたところで、その瞬間はいくぶん溜飲が下がったように思えるけれど、失ったものが元どおりの形でよみがえることはなく、残るのは空しさである。

 であるなら、報復に費やすエネルギーと時間を、もっと別の、できれば創造的なことに注(つ)ぎ込んだほうがよほどいい。懲りずにまた裏切られることもあるけれど、自分一人でできることなどたかが知れているし、初めから相手を疑ってかかれば何事も成就しないのだから……。






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第273回 生活健康度チェックリスト

 住んでいる世田谷区の高齢福祉部(介護予防・地域支援課)というところからアンケート用紙が送られてきた。「生活健康度チェックリスト」という。僕は初めて受け取ったのだが、65歳以上で介護認定を受けていない人を対象に出しているようだ。

 チェックリストには35個の質問項目があり、「はい」「いいえ」で回答する。あなたにこういったアンケートが届くのは、ずっとずっと先だと思うが、後学のためにいくつかご紹介しよう。

 「バスや電車で1人で外出していますか?」「はい」
 「階段を手すりや壁をつたわらずに昇っていますか?」「はい」
 「お茶や汁物等でむせることがありますか?」「いいえ」
 「週に1回以上は外出していますか?」「はい」
 「自分で電話番号を調べて電話をかけることをしていますか?」「はい」
 「今日が何月何日かわからない時がありますか?」「いいえ」
 「自分が役に立つ人間だと思えない」「いいえ」

 自分の歳は知りつつも、どこかまだ若い気持ちでいる。でも、前に書いた運転免許の更新もそうだが、このアンケートに答えていると「もうあなたは若くないんですよ」と繰り返し言われているように思える。「チェックリストは、日常生活に必要な機能の低下や状態を確認するためのものです」と説明書きにあるけれど、人によってはアンケートを終えて、気分的に老け込んじゃったりしないんだろうか……。

 チェックリストの回答欄は、質問ごとに「はい」「いいえ」のどちらかのマスに淡いブルーの色がついている。先に紹介した7問への僕の回答は、すべて白いマス。つまり反対側のブルーのマスを答えた場合(たとえばバスや電車に1人で乗れないとか、お茶や汁物でむせるとか)、その項目は生活健康度がイエロー信号という意味合いなのだろう。

 では、僕は全部白いマスだったかというと、ブルーもあった。ちなみに次の質問がブルーである。

 「地域の活動や講座に月に2回以上参加したり、定期的に趣味の活動をされていますか?」「いいえ」

 「地域の活動や講座」とは「町会、自治会活動」「高齢者クラブ」「ふれあい・いきいきサロン」「はつらつ介護予防講座」「趣味のサークル活動」など、とある。

 僕が「地域の活動や講座」に「いいえ」だったのは、知らなかったのもあるけれど、正直あまり興味がなかった。知った今でも、行きたいという気にならない。なぜだろう? 老人扱いされるのが癪(しゃく)だというのもあるし、行かなくても事足りているのもある。

 だが、それは毎日仕事をしているからである。もしAV監督をやめたら、そうは言っていられないだろう。新たな出会いや日々の刺激、外に出る機会は激減し、ライフスタイルはまったく違ったものになる。そうなれば歳相応に一気に老け込むかもしれない。

 しかしである。そうなっても、僕は「地域の活動や講座」に行くのならば、近くの幼稚園か保育園にでも行って、園児たちと遊ぶほうがよほど楽しいだろうなぁと思う。世田谷はどうかわからないが、江戸川区には老人ホームと保育園が同居する施設もあると聞く。

 であれば、老人ホームに入らなくとも、お互いが交流できる公的なサービスというか仕組みは作れないものだろうか。幼い子どもと老人はもともと相性がいい。おじいちゃんやおばあちゃんは孫に甘いし、幼い子どもは老人に対して偏見がない。老人たちは子どもたちから元気をもらえるし、子どもたちは親より上の世代の知恵や文化を吸収できる。弱者を慈しむ心もきっと育まれることだろう。

 そういう仕組みが難しいというなら、僕はとりあえず子どもたちの行き帰り、横断歩道で旗振りからでも始めようか……。地域の講座に行けば、講師やインストラクターにいろいろお世話をしてもらうことになる。でも、自分がお世話をするほうが、人はイキイキするに決まっている。「誰かの役に立てている」「誰かから必要とされている」――それが日常生活を健康に営むためには絶対に必要なのだから。






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第272回 想定外のリクエスト

 先週の土曜、コラムニストの小野美由紀さんとのトークイベントがあった。〈「本当に気持ちいいセックスって何ですか?!」――ニッポンの性と身体をめぐる対話〉というのがそのテーマ。

 僕が会場で話したのは、呼吸について、「好き」というキーワード、目を見ることの重要性などなどで、このブログを読んでくれてる人ならば、だいたいどんな内容か察しがつくだろう。

 で、イベントの序盤、客席からこんな質問が出た。セックスは思考ではなく、感情と本能でするものと言っても、こうして話していること自体が思考ではないのか? 監督の中でそこに矛盾はないのか?

 なかなか手厳しい指摘である。いったん話は飛ぶけれど、拙著『つながる』の終わりのほうで、僕は次のように書いた。

 〈この本で読んだことを、いったん忘れていただきたいのである。
 「二百数十ページもの文章をさんざん読ませたあげく、最後の最後で忘れろとは何事か!」と思われるだろうか。
 忘れるといっても、記憶から完全に消し去ることは難しい。本の中で多少なりとも「それはそうだな」と腑に落ちた箇所は、必ずあなたの中に残っている。これからあなたがいろいろな体験をする過程で、この腑に落ちた箇所が記憶の底から浮かび上がってくるときが来る。「それはそうだな」と思ったものが、そのとき「こういうことだったのか」に変わるだろう。
 単なる知識にすぎなかった「情報」が「体験」をともなったとき、真の「理解」が起き、初めてその人の「財産」になるのだと私は思う〉


 言葉とは、活字にしてもトークにしても、前述の質問者が言うように、それをひとつの知識あるいは情報ととらえれば思考の域を出ない。誰かに何かを伝えようとする際、いつもここが難しい。さて、どうしたものかと、そのときも僕は思っていた。情報は体験をともなって真の理解へと変わるけれど、そもそも腑に落ちていなければ、なにも始まらないではないか。

 来てくれた人たちに、なんとか自分の思いや考えを伝えようと、僕は言葉を重ねた。しかし、伝わったという手応えが曖昧なまま、時間は過ぎてゆく。終わり間際の質疑応答コーナーだった。最後に手を上げた若い女性がこんなことを言った。「相手の目を見て『好き』って言うことが大切だとおっしゃいましたが、私の目を見て『好き』って言ってもらえませんか」。

 まさかそんなリクエストが来ようとは想像すらしていなかった。僕自身が女性の目を見て「好き」と言ったのは、はたして何十年前のことだろう。しかも、みんなが見ているなかでそれをするのは、ちょっと勇気がいる。でも……。このリクエストを口にした女性は、ひょっとしたら僕以上に勇気がいったのではないのか。

 椅子に座っている彼女の前まで歩み寄り、僕はしゃがんで、膝の上に置かれた両手を握った。少し見上げるかっこうで目を合わせる。初めて会った人なのに愛しさが込み上げてくる。気がつくと「大好きだよ」と言っていた。瞬間、彼女の中の温かいものが僕の中に流れ込んできた。瞳がうるむ、目の前の彼女と同じように。会場では、いつしか大きな拍手が沸き起っていた。

 「本当に気持ちいいセックスって何ですか?!」について話してきたはずだった。それはとりもなおさず、目合(まぐわい)について語ってきたということだ。2時間えんえん説明しても伝わらなかったものが、彼女のたった一言によって、みんなに伝わってしまった。言葉なくして教えを説くとはこういうことかと、僕のほうが教えられたトークイベントだった。






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7月3日(木)、全38タイトルに増えました!
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