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第339回 トランスとは何か?


 僕はこれまで「トランス」という言葉をしばしば使ってきた。それはオーガズムを語るときであったり、催淫に関する話であったり……。僕の文章を読んでくれた人は、きっと文脈の中で意味を理解してくれたはずだが、それでよしとし、僕はことさら「トランス」の定義はしてこなかったように思う。そこで今回は「トランス」の話である。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を「五感」というけれど、日々僕たちは五感によって多岐にわたる情報を知覚している。いかにも胡散臭いものなら話は別だが、自分の目で見たもの、耳で聞いたことを、とかく人は真実と信じ込んでしまいがちだ。しかし、本当に真実なのだろうか。

 精神を集中して自己の本性や真理を観察することを「内観」というが、内観するには外部からの情報、つまり五感をいったん遮断する必要がある。僕はこの外部から遮断された状態、五感から解放された状態こそが「トランス」であると考えている。たとえば音や匂いがあったとしても、そこに意識が行っていない状態。ゆえに、ないに等しい状態なのである。クルマのギアに例えるならニュートラル。どこにもギアは入っていない。

 このようにトランスに入るとは自分の内側に入ることだから、本人も忘れていた過去の出来事がよみがえったり、今まで気づかなかった真実が見えてきたりする。先に「見たもの、聞いたものを真実だと信じ込んでしまいがちだ」と書いたけれど、自らの思い込みや他者の作為、親や社会からの刷り込み等々によって、客観的に見える情報もあらかじめ歪められていることが多い。だからこそ、それらからいったん自由になったとき、初めて真実は立ち現われてくるのではないだろうか。「ああ、そういうことだったのか」と。

 話はちょっと飛ぶが、仏教の意識作用に「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識」というのがあり、これらを「五識」という。順に「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」と対応しており、「五識」は「五感」と同じだ。では次の「六識」は何かというと、「意識」なのだという。僕たちが使う「意識」と同じ意味だが、たしかに「意識する」ということは「見たり」「聞いたり」「嗅いだり」……とは別物である。

 そして「七識」が「末那識(まなしき)」、「八識」が「阿頼耶識(あらやしき)」。どちらも耳慣れない言葉だが、「末那識」とは「潜在意識」のことである。「阿頼耶識」のほうは「個人個人の潜在意識をつないでいる根っこみたいなもの」だと僕は理解している。カール・グスタフ・ユングなら「集合的無意識」と言うのかもしれない。

 さて、ここまで読んで「六識」とは「六感」でもあるわけだから、「第六感」の正体が「意識」だと言うと、なにか物足りないというか、肩すかしを食ったように感じる人もいるかもしれない。「第六感」には物事の本質を見通す超能力のようなニュアンスがあり、そういう文脈で使われるのが常である。

 だが、僕はこう思うのだ。「第六感」とは五感の縛りから自由になった意識が、自らの潜在意識から、そして場合によっては他者の潜在意識ともつながっている大本(おおもと)から何かを得るということなのではないかと。だから厳密に言えば第六感とは、じつは七識、八識のことを指していると思うのである。

 話を「トランス」に戻そう。仏教の意識作用に照らせば「トランス」は六識の「意識」だが、そこはほんの「入口」に過ぎない。ただし、それまで自分が気づけなかった物事の本質、真の姿を見せてくれるとても重要な入口なのである。






Aito-sei-long

第338回 笑ったり、泣いたり、怒ったり


 2016年も3週間経ったから、今さら正月の話もどうかと思うが、今年僕はこれまでと違い、ずっと家にいて家族と過ごした。出かけたのは女房と初詣に行ったくらいである。家でのんびりすることになったのには、やはり孫の存在が大きい。

 孫はまだ伝い歩きしかできないが、目を離すと1人で階段を上っていってしまう。そこでリビングのテーブルを別室に移し、空いたスペースにベビーサークルという八角形の囲いを置いて、その中で遊ばせている。サークル内には姉の子どもたちから大量にもらい受けたオモチャのうちのいくつかが入っているが、半分くらい水を入れた小さめのペットボトルも3~4本混じっている。孫はペットボトルが好きなようで、それを噛んだり、投げたりして遊んでいる。

 投げるといっても遠くまで飛ぶわけではないが、ときにはサークルを越えてサイドボードにぶつかることもある。すかさず大人たちからは「ダメ!」と叱られる。すると、孫は吐き出す息で唇を震わせながら「ぶぅー!」と口答えする。しゃべれないだけで、言われた意味はわかっているのだ。ヤンチャだけれど、僕は可愛くて仕方がない。

 ある日のこと、キッチンのほうから女房と娘が言い争う声が聞こえてきた。お互い感情オクターヴ系なので、衝突するとなかなか激しい。年の瀬だったから、女房は「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と体より気持ちが先走っていたのかもしれないし、娘は娘で風邪を引き、体調も芳しくなかったのでイライラしていたのかもしれない。「かもしれない」というのは、僕は孫と遊んでいて詳細を知らないのである。

 憤懣やるかたないといった顔で女房がやってくる。孫はニコニコしながら遊んでいる。その笑顔を見たとたん、女房がフッと笑う。次に娘がやってくる。こちらも「冗談じゃないわよ!」という顔をしている。でも、両手を伸ばしてくるわが子の笑顔を見たとたん、一気に機嫌がよくなる。場の空気が一瞬にして変わってしまう。その変化を目の当たりにしながら、笑顔ってのはつくづくスゲエなぁと僕は思った。この子はこの笑顔で守られているんだなぁと。父母も祖父母も、みんなこの屈託のない笑顔にふれたいのだ。

 孫は娘がやきもちを焼くくらい父親っ子だ。体ごと宙に放り上げたりして豪快に遊んでくれるから、男の子にとってはたまらないのだろう。そんな父親が出勤前に着替えを始めると、もう孫は出かけることを察知する。そして「行ってきまーす!」と父親が玄関で手を振ると、毎回「行かないで!」とばかりに大泣きしながら小さな手を伸ばす。

 だから、父親が帰宅したときの歓びようといったらハンパない。僕とサークルの中で遊んでいても、帰ってきたとたん僕は無視される。今まで一緒に遊んでいたのはなんだったの?と思わないでもないが、そこにはむろん悪意などあろうはずもない。

 笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情がその瞬間瞬間に呼応し、表に溢れ出る。それは言葉を換えれば、今を生きているということである。誰が教えたわけでもないけれど、もともと人間はそういうふうにできているのだ。けれども、大人になるにつれていろんなことを考えはじめ、条件づけされた思考が笑顔を、涙を、そして「ぶぅー!」を抑えてしまう。

 娘一家は今年3月に引っ越しすることが決まっている。けっして遠方ではないけれど、孫と頻繁に会うのは難しくなるだろう。限られた時間。だからこそ、この子の笑顔がいっそう尊いものに思えてくる。






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