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第338回 笑ったり、泣いたり、怒ったり


 2016年も3週間経ったから、今さら正月の話もどうかと思うが、今年僕はこれまでと違い、ずっと家にいて家族と過ごした。出かけたのは女房と初詣に行ったくらいである。家でのんびりすることになったのには、やはり孫の存在が大きい。

 孫はまだ伝い歩きしかできないが、目を離すと1人で階段を上っていってしまう。そこでリビングのテーブルを別室に移し、空いたスペースにベビーサークルという八角形の囲いを置いて、その中で遊ばせている。サークル内には姉の子どもたちから大量にもらい受けたオモチャのうちのいくつかが入っているが、半分くらい水を入れた小さめのペットボトルも3~4本混じっている。孫はペットボトルが好きなようで、それを噛んだり、投げたりして遊んでいる。

 投げるといっても遠くまで飛ぶわけではないが、ときにはサークルを越えてサイドボードにぶつかることもある。すかさず大人たちからは「ダメ!」と叱られる。すると、孫は吐き出す息で唇を震わせながら「ぶぅー!」と口答えする。しゃべれないだけで、言われた意味はわかっているのだ。ヤンチャだけれど、僕は可愛くて仕方がない。

 ある日のこと、キッチンのほうから女房と娘が言い争う声が聞こえてきた。お互い感情オクターヴ系なので、衝突するとなかなか激しい。年の瀬だったから、女房は「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」と体より気持ちが先走っていたのかもしれないし、娘は娘で風邪を引き、体調も芳しくなかったのでイライラしていたのかもしれない。「かもしれない」というのは、僕は孫と遊んでいて詳細を知らないのである。

 憤懣やるかたないといった顔で女房がやってくる。孫はニコニコしながら遊んでいる。その笑顔を見たとたん、女房がフッと笑う。次に娘がやってくる。こちらも「冗談じゃないわよ!」という顔をしている。でも、両手を伸ばしてくるわが子の笑顔を見たとたん、一気に機嫌がよくなる。場の空気が一瞬にして変わってしまう。その変化を目の当たりにしながら、笑顔ってのはつくづくスゲエなぁと僕は思った。この子はこの笑顔で守られているんだなぁと。父母も祖父母も、みんなこの屈託のない笑顔にふれたいのだ。

 孫は娘がやきもちを焼くくらい父親っ子だ。体ごと宙に放り上げたりして豪快に遊んでくれるから、男の子にとってはたまらないのだろう。そんな父親が出勤前に着替えを始めると、もう孫は出かけることを察知する。そして「行ってきまーす!」と父親が玄関で手を振ると、毎回「行かないで!」とばかりに大泣きしながら小さな手を伸ばす。

 だから、父親が帰宅したときの歓びようといったらハンパない。僕とサークルの中で遊んでいても、帰ってきたとたん僕は無視される。今まで一緒に遊んでいたのはなんだったの?と思わないでもないが、そこにはむろん悪意などあろうはずもない。

 笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情がその瞬間瞬間に呼応し、表に溢れ出る。それは言葉を換えれば、今を生きているということである。誰が教えたわけでもないけれど、もともと人間はそういうふうにできているのだ。けれども、大人になるにつれていろんなことを考えはじめ、条件づけされた思考が笑顔を、涙を、そして「ぶぅー!」を抑えてしまう。

 娘一家は今年3月に引っ越しすることが決まっている。けっして遠方ではないけれど、孫と頻繁に会うのは難しくなるだろう。限られた時間。だからこそ、この子の笑顔がいっそう尊いものに思えてくる。






Aito-sei-long

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