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第9回 オバマとクレナック

 僕の中で、オバマ大統領とアユトン・クレナックが重なり合う。

 アユトン・クレナックのことは、今から14年前、NHKのETV特集「長倉洋海のアマゾン報告 森の声を訊け」という番組を見てはじめて知った。

 彼はブラジル南東部にあるクレナック族の村に生まれ、アマゾン原住民の生活を守り、人権を確立するために闘っていた。原住民が伝統的に生活を営んできた土地の権利を国家に認めさせようとしたのだ。

 1987年9月のブラジル国会、若きクレナックは、迫害への抗議を示すため自らの顔に墨を塗りながら演説にのぞむ。その演説は聴く者すべての心を揺さぶり、インディオに土地の権利を認めるという憲法の条項は、たった一人の反対者を出すこともなく国会で可決された。彼の言霊は、ブラジルの憲法さえも変える力を持っていたのである。

 クレナックはその後も、アマゾンの森の民が伝統的な営みを壊すことなく現代文明と共生できる道を模索している。現代文明の直線的な進歩や物質的な豊かさが、決して心の豊かさにつながらないことを説き、自然をも支配しようとする思い上がりを指摘したあと、彼はこんなことを言う。

 「都会にも、もっと自然から学んだものを取り入れることを薦めます」と。「自然に従えば、心の偏狭さは消え、バランスがよみがえります。われわれ森の民は、内面的輝きを求めて生きているのです。心豊かに暮らすことが夢です」

 テレビに映し出されたクレナックを観ながら、「内面的輝き」という言葉を聴いて、僕はそのとき思わず唸ってしまったのだった。

 オバマとクレナック、この二人の偉大な指導者に共通しているものは、何だろう。僕は、二人の生きざまの根底に流れているのが、ともに「愛」だということではないかと思う。この場合の愛とは、見えるものと見えないもの、異なるもの同士をつなぐという共生の哲学である。

 オバマの組閣を見ても、閣僚級20名中、女性5名、黒人4名、ヒスパニック3名、アジア系2名。いわゆる異なるもの、しかもマイノリティをつないでいる。敵を味方にする。だから、愛なのである。愛は「場」になっていく。その反対は「エゴ」であり、エゴは自分と異なるものの排除に向かう。だからエゴがあったら、愛になれない。

 それは、やはり持って生まれたものだろうかとも思う。きっとそういう使命のもとに生まれたのだろうと。そしてこれはクレナックにも通じるものがある。

 アマゾンの原住民たちが外部の者から占領され、植民地化されて、どんどん自分たちの住む場所が狭まっていく、そういう時にそういう場所でクレナックは育った。だから、まず自分たちの生活を守りたいというところから、クレナックは動き出す。

 オバマもクレナックも、マイノリティという面で差別をされ、迫害を受けた共通の体験を民族として持っている。その血が根底にあるのだ。

 まったく余談だが、何年か前、知人の誕生パーティに呼ばれた。その人は政界でも著名なだけあって、各都道府県の知事たちが集まっている。たまたま彼と知り合いだった僕が、場違いな感じをぬぐえないまま、まわりの人たちと談笑していると、来ていた知事のI氏から「じゃあ、おまえ、愛をちょっと定義してみろ」と突然言われた。

 愛を定義すること自体、無茶な話だと内心思ったけれど、仕方がないので「愛は、エゴのない状態です」と言った。すると即座に「バカ言うんじゃないよ。エゴのない愛なんてあるかい」という言葉が返ってきた。そして僕が次の言葉を発する前に、I知事は「まぁ、頑張りたまえ」と言い捨て去っていったのだった。

 日本でも、マイノリティというか、苦労をした若者たちの中から、オバマやクレナックのような人物がきっと出てくるだろうと僕は思っている。



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第8回 表社会と裏社会の狭間

 前回のブログで新田が指摘したように、僕の本能には傷がついていて、成熟していないのだと思う。幼児体験もそうだけれど、そればかりではなく、僕はずっとそういう人生を歩んできている。

 生まれ故郷の九州にいるとき、ろくに学校にも行っていない。中学の頃からどうにもならなかったし、入った高校は退学になり、それから定時制に通った。でも、勉強が頭に入ってこない。苦痛なのだ。それよりも生きることに、僕は切羽詰まっていた。


 学歴がないので、就職はまともにできない。大阪の花屋に入ったときには、まだ奉公という概念が残っている時代だったから、住み込みで使ってもらった。いずれにしても、選択肢が非常に狭かったのは事実だ。

 その後も生きていくなかで、みんなが当たり前に暮らしている社会へ入っていきたくても、僕にはそのパスポートがない。社会で生きていく術がない。仲間に入れてほしくても、入れてもらえない。

 1972年から始まった「日活ロマンポルノ裁判」のときにも、攻撃は僕に集中した。学歴もなく元極道だから、検察側もいちばん攻めやすいと思ったはずである。

 今この仕事をやっていても、それを感じる。AVだからという社会的な差別。たとえば事務所ひとつ決めるのにも、なかなか貸してはもらえない。ビルは空いているのに、いざ契約の段になって、AVメーカーだからと断られる。

 社会に入っていけなかったのは、小指がないという事情もある。小指がないことがわかると、その場の空気が変わるのである。それがたまらなくイヤだった。

 たとえば、むかしゴルフを始めようと思って、ゴルフ練習場でコーチについて教えてもらうことにした。最初はふつうに接してくれるのだが、「こっちの小指を絡ませて」と言って僕の小指を見た途端、いきなり寡黙になり空気が変わる。一事が万事そんな具合で、数え上げればキリがない。小指をつめたのは27歳のときだった。

 だから僕はいつの間にか、できるだけ人前に出ないようになっていった。東京には幼なじみもいない。極道をしていた頃の友達も、個人的にはいいのだが、彼の背後には彼の思惑とはまったく違った社会があり、しかもそっちの力は強いので、何が起きるかわからない。

 そういう意味では、僕はヤクザにもカタギにも、どちらにも入れなかった男なのかもしれない。ヤクザの世界では生きられない。でも、カタギの世界でも受け入れてもらえない。僕は表と裏の間にあるわずかな皮膜の部分で生きるしかなかったように思う。

 それでも、どうにかこうにかやってこられたのは、自分の中にある負けん気のおかげだろうか。追い込まれたときに、自分の中から何かが出てくるような気がする。逆に言えば、僕は追い込まれないと本当の力が出てこない人間なのかとも思う。

 日活ロマンポルノ裁判でも、いちばん簡単に落とせそうな僕が落ちなかったのは、検察も計算違いだっただろう。9年にもおよんだこの裁判は、高裁が無罪判決を出したことにより、検察側の敗訴という形で幕を閉じた。

 追い込まれないと、という意味では、アダルトの現場でもコンテなどを立てたら絶対にダメなのだ。なんの用意もなく現場に行って、相手と本当に向き合えるかどうかが僕の勝負である。

 たとえば「ザ・面接」シリーズでも、この子は平本君とやらしたらいいとか、これは銀次だなぁとかっていう思いもないわけではないが、それをあえてしない。「ザ・面接」シリーズは、男優たちの出る順番を決めるクジ引きから始まるが、あれにはそういう意味がある。

 プロデューサー面接で女の子のプロフィールや特徴といったデータは、男優も事前に読んでいる。男優たちは自分の引き出しを持っているから、その気になれば自分の中でどう対応するかの準備というかプランができてしまう。でも、それじゃあ面白くない。だから僕は、誰がどの子とあたるかわからないクジ引きという方法を取る。

 余談だが、うちのプロデューサーですら、あの冒頭にやるクジ引きは、あらかじめ順番だけ決めておいて、表向きだけクジ引きの風景を撮っていると思っていたようだ。男優が忘年会でクジ引きの思い出話をしたとき、「え? あれホントにやってるの?」とプロデューサーは驚いていた。

 こういう時代だから、今このブログを読んでくれている人のなかにも、大変な思いをしている人は少なからずいることだろう。でも、僕のような人間でも、きょうまで生きてこられたのだ。人生どうにかなるものである。



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クジ引きの結果は神のみぞ知る。

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第7回 母性のスイッチ

 ちょうど10年前に撮った「お固い女性がビデオに出る理由 一度でいいから知らない人と...29歳主婦」という作品は、目隠しをされた新田利恵のクローズアップから始まる。

 ところが、撮影はその前日から行なっていた。僕は新田にバイブを渡し、カメラの前でオナニーしてくれるよう頼んだ。しかし、できない。そこで「エッチなビデオを見て、その気になったらオナニーして」と言い残し、僕はフィックスのカメラのスイッチを入れて部屋を出た。

 だが戻っても、新田はオナニーをしていない。いや、彼女はできなかったのだ。エッチになろうとはしているものの、潜在意識がそうさせない。潜在意識の中に、おそらく解決されていない過去があるのだろう。

 撮影を中断し、新田の心のバリアに穴をあける作業に移る。潜在意識の中の過去を中和する方法として、僕は退行催眠か呼吸法を使う。退行催眠の場合は、本人の生い立ちから順に話を聞いていき、どこに問題が隠れているのかを探さなければならない。しかし、29年間に及ぶ彼女の人生ストーリーを聞き出すには時間がなさすぎる。そこで荒療治ではあるが、呼吸法によってトラウマの中和を試みた。

 この作業はお互いの信頼関係が絶対的なものでなければ成功しないことを、僕は経験から知っていた。だから呼吸法を行なう理由として、新田にはオーガズムの概念と、オーガズムによって自分が抱えている問題はクリアになることを、過去の事例をまじえながら説明した。

 彼女はそれを理解し、僕の要求するさまざまなテンポの呼吸を積極的に行なった。夜も明けようという頃になって、彼女は心の中に澱(おり)のように溜まっていたものを吐き出しはじめた。

 すべてを吐き切り、穏やかな表情に戻った新田の股間に、僕はバイブをそっと当ててみた。新田が敏感に反応する。僕はバイブをゆっくり彼女の中に挿入する。「エッチは相手の顔をちゃんと見て、するんだよ」。新田は初めて自分から腰を使い、声を荒げた。そして僕の目をしっかり見つめたまま、イッた。

 そのあと、しばらく彼女の涙は止まらなかった。そして、泣き疲れた赤子のように深い眠りへと落ちていった。

 撮影を再開したのは、翌日の午後である。男優にはチョコボール向井を起用していた。チョコボールは、僕が期待する以上のものを見せてくれた。彼はなんと9回も射精し、ふたりのセックスは夜までえんえんと続いたのだから。こうして新田は、本当の自分を生み出したのだった。

 撮影が終わった時点で、新シリーズ「淫女隊」のメンバーに、ぜひとも新田を加えようと僕は考えていた。

 その後、新田は出演した男優たちから「凄い!」と言われた。「こんな子は初めて。カッコづけが通用しないし、全部持っていかれちゃう」と。そのころ新田は30歳になっていたが、年上の男優からも「お母さん」と呼ばれていた。

 当時、千葉県鴨川市の空き家になった農家一軒を丸ごと借りていて、よく泊まりがけで撮影に出かけた。「お姉様淫女隊 淫らな男にしてあげる」という作品もそこで撮影したものだが、僕にとっては忘れられない、ある事件が起きる。

 この作品に出演している男性は、AV男優ではない。パリコレでもオフィシャル・カメラマンとして活躍しているアーティストである。最初、彼が撮った「天使に扮した少女たちの写真」をじっと見入る新田。その頬を涙がつたう。彼女は「天使の写真」に感動し涙しているように映る。

 撮影が進んでいくなか、新田は彼を愛撫しながら「ウソつき!」「こんなにエッチなくせに!」と言い放った。だが、これは単なる言葉なぶりではない。なぜならば、つづけて彼女は「こんなにエッチなのに、隠しているの大変だよね。苦しいでしょう」と言ったのだから。さらには、中折れしてしまった彼に対して、「天使を探しつづけて、自分を忘れちゃったの?」と訊いたではないか。ひょっとしたら彼女には、あの写真を通して彼の内面が見えていたのではないか......。

 初日、撮影が終わってから寝るまでのひととき、みんなが自由に過ごしているなか、僕が横になっていると、布団の中に新田がそっと入ってきた。そして黙って僕を抱き寄せる。

 「どうしたの?」って訊いたら、彼女は「よしよし」などと言う。穏やかなその表情から、ふざけているようには見えない。僕がなにも言えずにいると、「『お母さん、お母さん』って呼んでるから」と言いながら泣いている。

 あくる朝起きて、僕がまだ布団の中にいるとき、ふたたび新田は入ってきて「また探している」と言いながら、僕を幼子のようにまた抱いた。つづけて「監督、3歳だよぉ。3歳の子がいるよ」と! 新田には話していないが、前にこのブログでも書いたとおり、僕は3歳で母を亡くしている。そんなことが頭をよぎり、新田に抱かれるまま、僕はしばらくのあいだ彼女の胸元に顔をうずめていた。

 本当はスケベなのに、まるでそんな自分をないことにして、聖なるものだけを追い求めようとした一人のアーティスト。本当のセックスができなくなってしまった彼を、新田は赤ん坊を愛おしむように抱き、その口に自分の乳を含ませた。

 僕がカメラのファインダー越しに見たのは、自分を見失いかけた幼子が、母のオーラに包まれながら、また本来の自己を取り戻そうとしている姿だった。ほんの半年前には自らの過去に縛られていた新田が、同じく過去の何かに苦しむ彼を、今は開花した母性によって癒そうとしている。

 それはとりもなおさず、僕自身の内面をファインダーの向こうに見せつけられているようでもあった。



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母性が開花した新田だから見えるものがある。

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第6回 大麻解禁 !?

 大麻汚染が頻繁に報道されている。以前なら、そこに名を連ねるのは芸能人かミュージシャンというのが相場だったけれど、今では、一般の大学生や高校生までが大麻を所持していたり栽培しているという。

 これに対して「取締を強化する」とか「厳罰に処す」とかいうのでは、単なる対症療法にすぎず、結局のところ大麻汚染はなくならないのだろうと思う。それどころか、禁酒法時代の酒のように、一方で大麻はますます付加価値を生むんじゃないかと。

 では、どうしたらいいのか?

 僕は、大麻を合法化して国が販売すればいいのに、と思う。べつに大麻を奨励しようとは思わないけれど、これまでも「やっちゃあいけない」と言われつづけて、ずっとなくならない。それは歴史をふり返れば明らかだ。所詮、やる人はやるし、やらない人はやらないんだから。

 ちょっと話は変わるが、かつてアダルトビデオの件で、一人の検察官からこんなことを言われた。

 「俺たちはある程度は目をつぶる。だから、やっていい事といけない事をわきまえてくれよ。そうすれば君らの組織(ビデオ倫理協会)は潰さない。もし君らの組織がなくなって地下に潜られたら、俺たちはパイプラインがないんだ。だから、俺たちも譲るところは譲ってるんだぞ」と。

 きっとこれは取り締まっている側の本音だろうし、僕にも彼の言っていることはよくわかった。

 大麻も解禁する代わりに、吸引後のクルマの運転はダメとか、未成年者には販売しないとか、やっていい事といけない事のルールを明確にすればいい。

 国が販売することで、大麻常習者に関するデータを把握できるし、分析もできるはずだ。そうして初めて依存症に苦しむ人々を救うこともできるのだと思う。今の状態だったら、検察官の話じゃないが、地下で何が起こっているのか皆目つかめない。

 そもそも大麻は、死刑の国もあれば合法的に買える国もあり、世界の統一見解というものが存在しない。だから、タバコよりも人体に害がないと唱える人もいる。

 にもかかわらず、大麻反対を叫ぶ人たちの最大の論拠は、覚醒剤など本物のドラッグに入っていくキッカケに大麻がなっているというもの。

 だが、これには大麻を売っている側の手口がある。大麻よりも覚醒剤のほうが少量でも価格が高いぶん、利益が格段に大きい。だから、大麻の客がついた段階で「今回、大麻が切れちゃってるんで、代わりにこれ、やってみてよ!」と覚醒剤を少量渡す。彼らにとってマーケットの確保とは、いかに中毒患者を増やすかだから。

 しかしこれも、もし国が管理したら防げる話である。わざわざ売人から高い大麻を買う必要などない。

 でも、僕が本当に言いたかったのは、実は大麻を解禁するか否かではないのだ。

 正義を振りかざす人たちは、大麻をやっている人たちを悪人と斬って捨ててしまいがちだけれど、その人たちがなぜ大麻に頼らなければならなかったのか、そういう社会状況を作り出している根源はいったい何なのかを考えてみることのほうが、今はずっと重要だと思うのである。



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第5回 どうしたらイケるのか?

 新年あけましておめでとうございます。このブログを始めてちょうど1カ月。今年もいろいろなことが起こりそうな予感がしますが、今後は社会的な動きもときには絡めつつ書いていけたらと思っています。もっとも、社会性のない人間の書く文章なので行儀はよくないと思いますが、そこは大目に見てやってください。

 さて、前回からの続きで、どうしたらイケるのか? これはビデオに出る女の子たちからも、よく訊かれる質問だ。彼女たちの中には、フィジカルなテクニックのようなものをイメージしている子もいるが、こうすればオーガズムを体験できるというようなマニュアルはない。

 いや、それ以前に、これがオーガズムだと言葉で説明することすら、なかなか難しい。なぜならば、オーガズムとはそれを体験した人にしかわからないものだから。そこで、最初にこんなエピソードから紹介しよう。

 事前の面接で「イッたことがない」と言うある女性(33歳)は、こんな経歴の持ち主である。エステティシャン→美容師→コンパニオン→キャバクラ→クラブ。彼女がたどったこの5つの仕事に共通しているのは、すべて接客業だということ。

 面接のあいだ、彼女はずっと作り笑顔をくずさない。僕には、彼女の素顔というものが最後まで見えてこなかった。そして本人も、作り笑顔が本当の自分だと思ってしまっている。

 だから男とセックスをしても、そのモードから外れることがない。相手にサービスしようとする自分が身についてしまっているのである。彼女がずっと接客業を選んできたのも、常に人とふれ合いたいという心の表われだろうと思う。ぬくもりが欲しいのだ。それには彼女の過去の何らかの体験が影響しているのだろう。ひょっとしたら求めても得られなかった、幼き日の孤独感なのかもしれない。彼女のビデオ出演動機は「セックスでイッてみたい」というものだった。

 撮影の前日、彼女を事務所に呼んでいろいろ話をしてみたが、なかなか心が開かない。彼女は真面目な性格で、社会性が強い。僕には、彼女の中でその強固な社会性と本能が戦っているように映った。

 彼女の場合、社会性のほうが圧倒的に強く、本能を押さえ込んでしまっている。セックスは本能でするものだから、それが押さえ込まれていたら、はなからセックスにはならない。相手と向き合うよりも、自分の中の戦いにエネルギーを費やしてしまっているのだから。「君、なにもしなくても疲れるでしょ?」と言ったら、「そうなんですよ」と力なく笑った。

 そこで、僕は彼女にこんな話をした。

 オーガズムというのは、ある意味、社会が死ぬってこと。だから努力じゃなくて「ねえ、監督、ここを舐めてほしい」って言えばいい。ただそれだけのことなんだよ。でも、なかなか君はそれが言えない。アダルトビデオはいやらしいことをする所なんだよ。していい場所なんだよ。だから、そこに座って、股を開いて、パンツの上からでもいいから「ねえ、監督、ここをさわってほしい、舐めてほしいの」って、ただそれだけ言えばいい。ホントは舐めてほしいっての、あるだろ?(彼女は「はい、あります」と答えた)。じゃあ、言ってみなよ。簡単でしょう。

 文章にまとめると短いが、上のような論旨の話を、現場でのいろんなエピソードも交えつつ、あの手この手で夜中まで、僕は彼女に語りつづけた。

 ところが言えない。なにも道行く見知らぬ女性をつかまえて、いきなりオーガズムについて説いているのではない。アダルトビデオに出たいという女の子に、しかも「セックスでイキたい」と言っている本人に話しているのである。

 でも、僕には彼女が言えない理由もよくわかる。彼女も頭では僕の言ったことを理解している。理解しているのに、できないのだ。

 オーガズムとは、自分を明け渡すことである。自分のいいところだけを見せるのではなく、人にいちばん見られたくないところも含めてすべてを相手に明け渡してしまうこと。
 たとえば、好きな人と一緒にいるとドキドキするし、体が熱くなってくる。そのドキドキのまま、セックスで心を開いてしまえばいいのだが、好きな人なだけに、なかなか素の自分を出すのが怖いという思いも同時に生じてくる。

 「こんなことしたら嫌われるんじゃないか」とか「本気出したら引かれちゃうかもしれない」という怖さ。それは自分が知らず知らずのうちに身につけてきた社会性が壊れていく恐怖でもある。

 そのへんのリスクも計算しつつ、自分のスタンスをつい推し量ってしまう。でも計算があるかぎり、オーガズムは起こらないのだと思う。

 社会性は学校や会社で生きていくためには確かに重要だ。でも、セックスのときにはそれが邪魔をする。前戯というのは、社会性をどれだけ捨てられるかという作業でもある。「オマンコ、舐めてぇ!」と言うことだって、人によっては大きな効果がある。なんせ取り返しのつかないことを言ってしまうわけだから。社会性が全部落ちたときに、今まで自分を縛っていたものから解放される。

 解放された思いは気の流れをよくし、心から出て、相手と溶け合い一体となる。抽象的な表現になってしまうが、それがオーガズムではないかと僕は思っている。

 実際にビデオの中でオーガズムを体験した女の子たちは、そのときの感覚を次のような言葉で表現してくれた。

 「相手の体が自分の体」
 「人間の手と手は合体しないけど、水とジュースは混ざり合うでしょ」
 「男って私。きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです」

 逆にセックスでイケない子は、最後の最後で心を開けない。開けないのには、その子なりの何か理由があるはずだが、その理由を本人がはっきりと意識しているとはかぎらない。生きていれば、だれでもトラウマの1つや2つはあるだろう。往々にしてそれらの過去は、無意識の世界に閉じ込められている。自分がイキそうになったときに、無意識の中に閉じ込めた何かが抵抗して心を閉ざしてしまう。

 心が閉じると、気の流れもうまく回らなくなる。気の行き場所がないのだ。イキそうでイケない子は、みな一様に苦しそうな表情になる。外に出て相手と交わりたい思いが、心をブロックすることでせき止められ、出る場所を探してもがき苦しんでいるように僕には見える。

 前回書いた、イキそうになると「オシッコが漏れそうっ!」というのも、そんな感情が体に及ぼすひとつの形なのではないだろうか。そして潮吹きにも、同様のことが言えるのではないかと、僕には思えて仕方がないのである。




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オーガズムは心の窓が全開の状態

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