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第281回 TAOとの出会い


 高校2年の夏、生まれた土地にいられなくなり、大阪に逃げた。再び故郷の地を踏んだときには、組の盃を交わした。営利誘拐で前科がつき、そののち足を洗ってからも、小指の欠損は僕の周囲に見えない壁を作った。足かけ9年におよぶ日活ロマンポルノ裁判では、僕に攻撃が集中した。学歴もなく元極道だから、検察側もいちばん攻めやすいと思ったのだろう。いや、検察のみならず、同じ被告の仲間たちからも「アイツさえいなかったら、もっと文化的な裁判になったのに」とささやかれたのだった。

 負けん気の強さだけで生きてきたものの、今になって思えば、こんな僕をも肯定してくれる、心の支えというか、精神的な拠りどころが欲しかったのかもしれない。老荘思想にふれたのはその頃だ。老荘について書かれた本を片っ端から読みあさった。そして、一冊の本に出会う。バグワン・シュリ・ラジネーシ著『TAO 永遠の大河 1』(スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる社、1979年初版第1刷刊)。

 この本は、老子の『道徳経』についてインドの宗教家ラジニーシが語った講話録の1巻目である(全4巻)。『道徳経』をはじめ老子の思想や教えを書いた本は、日本でもたくさん出版されているけれど、僕はラジニーシの本が最も腑に落ちた。『TAO 永遠の大河 1』は600ページと分厚い本だが、そこで語られる彼の思想は、『道徳経』第二章を説いた次の短い文章に凝縮・集約されている。

 〈天下の人が皆、美を美と知ったとき
  そこから醜さが起こる
  天下の人が皆、善を善と知ったとき
  そこから悪が起こる

  つまるところ
  有と無は互いに補い合って成長し
  難と易は互いに補い合って完成し
  長と短は互いに補い合ってコントラストをかもし
  音程と声とは互いに補い合ってハーモニーをつくり
  前と後は互いに補い合って結びつく

  かくして、賢者は
  行なわずして物事を処し
  言葉なくして教えを説く
  万物がそれぞれに生じ
  しかも、彼はそれらから立ち去らない
  彼はそれらに生命を与え
  しかも、それらを我が物にはしない
  彼は行ない
  しかも着服しない
  成して
  しかも、何ひとつ手柄を主張しない

  何も手柄を主張しないからこそ
  その手柄は彼から奪い去られ得ないのだ〉



 この文章を二元論で読むと、さっぱり意味がわからない。美と醜、善と悪、有と無、難と易、長と短……これらを対立概念と見なせば、補い合って成長したり、完成したり、結びついたりはしないからだ。「行なわずして物事を処し」も「言葉なくして教えを説く」も同様に、一見矛盾しているように思える。

 では、いったいどう理解したらいいのだろうか? ラジニーシは本書の中で、こんなふうに説く。

 〈反対は本当に反対なのではなく補足だということだ。それらを分けないこと。区分けは虚構だ。それらはひとつなのだ。(中略)実際のところ、それらは同じコインの裏表にほかならないのだ。選ばないこと。両方を楽しみなさい。両方がそこにあるのを許しなさい。そのふたつの間にハーモニーをつくるがいい〉

 〈〈道TAO〉とは全体性のことだ。全体性は完璧とは違う。それはつねに不完全だ。なぜならば、それがつねに生きているからだ。完成というのはつねに死んでいる。(中略)生というのは反対同士の緊張を、反対同士の出会いを通じて存在するものなのだ。もし反対のものを拒絶すれば、あなたは完璧にはなれる。が、トータルではあるまい。あなたは何かのがしている〉

 〈老子は「すべてをありのままに受け取れ、選ぶな」と言う〉


 社会から受け入れられていないと感じる疎外感、そして劣等感。その原因は自分の生きてきた道をふり返れば、あちこちに転がっている。だが、社会が軽蔑するそのマイナス要素が、対極にあるプラス要素とじつは同じひとつだと言う。そして、おまえはそのままでいいのだと。

(つづく)




Aito-sei-long


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