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第195回 MA

 映画を撮っていた頃、音はすべて後から入れた。登場人物のセリフは言うにおよばず、たとえば足音や衣擦れの音、川の近くなら水の流れる音や豪雨の日なら土砂降りの音、乱闘シーンでは殴る音や物が壊れたりする音などなど。

 ところが、ビデオになるとその必要がなくなった。撮影において録音も同時に済んでいる。セリフも、人の動きがもたらす音も、背景音もすでに録れているから、後から足すものはほとんどない、音楽を除いては。音楽は、編集で各シーンをつなぎ終えたあと、MAスタジオにて入れていくことになる。

 僕の作品のかなり初期(1985年あたり)から、チャネリーノ後藤さんが音楽を担当してくれている。映画時代を含めてそれまでは、音楽もアリネタを使っていた。著作権フリーの音源がいろいろあって、それを選曲屋さんと呼ばれる人に選んでもらっていたのだ。だがビデオの時代になって、僕はそこに物足りなさというか、違和感を覚えていた。

 だから、後藤さんと出会い、僕の編集したものを見た彼がオリジナルで作ってくれた曲を初めて聴いたときには、いたく感動したものである。それからもう二十数年になる。いつも僕は編集が終わると、そのテープを彼に渡す。「今回はこういうノリで行きたいんだけど」と僕から言い出すこともあるが、なにも言わないことのほうが多い。テープを見た後藤さんが「こういうの、ひらめいたんだけど」と言うときもあれば、「いやぁ、今回はひらめかなかったなぁ」と言うときもある。

 そんなときには、それが「ザ・面接」だとすれば「この子のときだけは、ちょっとシリアスに行こうか」とか「前半のこのへんは遊ぼうよ」とか言うと、彼はひらめいてくる。「ここはこの子の感情表現をしたほうがいい」とか「ここは客観的に突き離したほうがいい」とか、曲のイメージが湧いてくるのである。

 実際「ザ・面接」の音楽は、日本の民謡をはじめ世界各地の民族音楽の要素を取り入れたものをたくさん作曲してもらっている。これは後藤さんと僕が行き着いた結論でもある。映像ではドロドロした人間の根っこの部分を見たいし見せたい。ならば音楽も、本能や感情に響くものが欲しい。となると、知性が練り上げたクラシックのようなものではなく、それぞれの地場で、生活に根づいたものの中から生まれた音楽が相応しいのではないのかと。

 MAの当日はスタジオにて、作品の冒頭から後藤さんの作った曲を入れて順に映像を見ていく。2時間の作品で1タイトルあたり丸1日かかる。そのなかで彼と僕の思いが錯綜し衝突することもある。たとえば「ここどうですか?」と後藤さんから言われて、「いや、イマイチだなぁ」と僕が答えると、彼もだんだん無口になっていき、「オレはこれでいいと思うんだけど……」となる。スタジオのミキサーも「うーん、どうかなぁ」と答えが出せない。

 しばらくして、後藤さんが折れる。あらかじめあてた曲以外のものを自分のファイルの中から拾い出して、いろいろあててみる。そのなかで「あ、これ、いいね!」と僕が言ったとき、彼も渋々OKする。そのへんはどちらかが妥協しないと先に進めないのだ。だいたい7対3くらいで後藤さんのほうが妥協してくれるけれど、僕がするときもある。

 もちろん僕は、彼の音楽の才能に惚れている。でなければ、こんなに長い年月、一緒に仕事はできない。後藤さんは岩手県で生まれ育った。柳田国男の民話集『遠野物語』で知れた遠野市の近くだと聞く。冬は過酷なはずである。自然を前にしたら、人間の嘘や虚勢やハッタリは通用しない。でも、だからこそ人間の芯ができあがる。

 後藤さんは「寒村ですよ」と謙遜するが、大自然と民話の里の歴史文化の中で、その感性は育まれたに違いない。過酷な冬を生きる者は、春の歓びも人一倍知っているものである。彼の作る音楽には、人間の息吹が感じられるのだ。しかもそれは、ただ頭の中で作り出されたものではなく、つねに作品と自分との関係性の中から生み出されてくる。だから音が生きているし、作品の中の女たち男たちの息づかいが伝わってくる。

 しかし、作品との関係性から生み出されるということは、現場の出来如何(できいかん)によって音楽も変わってしまうことを意味する。かくして音楽家が作品を見る眼は、おのずとシビアになってくる。後藤さんはこれまでテレビの仕事もたくさんしており、いろいろな演出家を見てきた。僕もそのなかの1人に過ぎない。そのプロの眼に見透かされることで、僕もずいぶん成長させてもらったと思う。

 言うまでもなく、ビデオは映像と音によってできあがる。音楽が入って初めて「もっとこう撮るべきだったな」と気づかされることも多い。気づきは次の現場で活かされていくことになるけれど、その意味でも、MAは僕にとってかけがえのない学びの場なのである。



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第194回 動じない心

 前回のブログで「長息が身につけば、不動心が育つというおまけもついてくる」と書いたが、それを読んだスタッフのひとりから不動心について訊かれた。読んで字のごとく「動じない心」だが、あらためて問われるとなんと答えたものか……。で、僕なりに考えてみた。

 不動心は「よい呼吸」と「よい姿勢」から生まれてくるんじゃないかと。「呼吸」はともかく、なぜ「姿勢」が不動心と関係するのかと不思議に思う人もいるかもしれない。

 「姿勢」は心のありようを反映していると僕は思うのだ。たとえば2つの座り方を例にとってみよう。1つは、椅子に大股を開いて腰かけ、右の腿(もも)あたりに右ひじをのっけてドヤ顔をする。もう1つは、両足を軽く揃えて椅子に腰かけ、背筋を伸ばし、両手を膝に置く。実際に座ってみれば、どちらに不動心が生まれそうなのかはすぐにわかる。

 前者は攻撃的だし、不良がよくとる態度だ。こういう生活を僕は若いときにしていた。いや、不良時代のみならず、思えば幼い頃からずっとよくない姿勢で生きてきた。3歳での母の死。悲しみや寂しさに暮れる者の背筋はなかなか伸びないし、胸も張れない。学校に上がってからの荒れた生活。やるか・やられるかの中で肩ひじ張ったり、袋叩きにあったり……。

 では、姿勢が歪むと、どうなるのか? 歪みによって、関節や神経は圧迫され、筋肉にも余分な負荷がかかる。つまり、本来かからなくてもいいところにストレスがかかっているのだ。肉体のストレス信号に対応しなければいけない分だけ余計なエネルギーを使い、気持ちはおのずと分散してしまう。

 一方、後者の座り方は、人間の骨格に沿ったものである。どこにも無駄な力が入らない。ストレスもかからない。であれば、心もニュートラルな状態でいられる。かりに不測の事態が起こったとしても、全神経をそこに集中させられるはずである。

 「呼吸」については前回書いたので繰り返さないけれど、ひとつ「丹田(たんでん)呼吸」だけ補足しておこう。丹田呼吸とは、腹式呼吸(長息)に「意識」をプラスする。どんな意識かといえば、気を丹田に落としていくという意識である。

 丹田はヘソと恥骨の中間あたりに位置する。「肚(はら)が据(す)わる」というが、この「肚」が丹田だ。腹式呼吸でも吸うときには、ともすれば鼻や肺に意識が向かいがちだが、それをあえて丹田に向ける。気が丹田に落ちていくという思いを作り出すのである。これを続ければ、どっしりとした、動じない気持ちが湧いてくる。

 丹田呼吸をしていると、ひとつ気づくことがある。それは「よい呼吸」は「よい姿勢」でしかできないという事実だ。たとえば、前述の体を右に傾けた不良座りではできないのである。

 今の世の中、なかなか心穏やかには暮らせなくなっている。だが、外側の変化や流れにいちいち心を動かされていては、自分らしい生き方はできなくなってしまうだろう。丹田呼吸に熱中できれば、そのときだけでもこだわりや悩みから解放されていることがわかるはずだ。なぜなら、こだわりや悩みの意識は過去や未来にいるが、呼吸への意識は今にしか存在できないからである。

 さて、ずっとよくない姿勢で生きてきた僕はといえば、8年前から礒谷式(いそがいしき)力学療法の施術を受けに週1回か2回通っている。これは股関節の矯正によって自然治癒力を引き出すというもの。先生いわく、理想的な骨格(関節や筋肉が引力に対していちばん負荷のかからない形)を手に入れれば、心身ともに正常になり、そこには病気も寄りつかない。

 いまだかつて経験したことのない理想的な骨格というものになってみたいと僕は思った。だから今も通いつづけているのだが、長い年月をかけて歪んだ体はそう簡単には戻ってくれない。施術を始めた頃、3年も通えば……と高をくくっていたものの、3年の時点で手にしたのは、自分の体が本当に歪んでいるんだという気づきだった。

 呼吸法のほうも、毎日朝晩欠かせなくなっている。そんな自分が不動心を確立できたのかといえば、きっとまだできてはいないだろう。でも、その芽生えだけはたしかに感じるのである。



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第193回 74でも朝勃ちします!

 「74歳で朝勃ちする」と言うと「スゴイですね!」とか「羨ましいですね!」と驚かれる。続けて「健康の秘訣は?」と訊かれたりもする。たぶんいちばん大きいのは呼吸法だと思う。


 なんだ、また呼吸の話か……と思われる人もいるかもしれない。でも、今アマゾンで「呼吸」に関する本を検索すると1000冊くらいがヒットする。なかにはタイトルに「呼吸」が入っているだけで呼吸とは無関係なものも含まれるが、なんらかの「呼吸法」について書かれたものだけでも数百冊に及ぶはずである。それほど「呼吸」への関心は高まっているということだろう。


 僕も「呼吸」の本はそれなりに読んできた。今回紹介するのは、28年前に出版され、その17年後に新版としてあらためて刊行された、村木弘昌著『万病を癒す丹田呼吸法』(春秋社刊)という本である。僕は新版のほうを10年ほど前に読んだ。医学博士の書いたこの本が、当時、他の呼吸本と決定的に違っていたのは、呼吸の効用がとても科学的に(医学的に)、しかも素人にもわかりやすく説かれていたことだ。その一部を引用してみる。


 〈生体が生き続けてゆくためには、体細胞はエネルギーを必要とする。そのエネルギー源の主なるものは血液内のブドウ糖(血糖)であることは周知の通り。60兆といわれる体細胞はエネルギーを得るために糖を必要とする。つまり血糖を細胞内にとり入れ、それを分解する。その分解産物は最終的に水(
H2O)と二酸化炭素になる。


 このうち水は体内で利用価値があり、多くなれば尿あるいは汗となって体外へ排除される。血中二酸化炭素は肺というガス交換装置を用いて体外へ排除されるべきものである。


 ところが当然出るべき二酸化炭素が浅い呼吸のため血液内に停滞すると、事は面倒になる。血中の二酸化炭素は水と結合して炭酸となる。


 CO2+H2O → H2CO3 → H++HCO3-


 この炭酸(
H2CO3)は紛れもない酸であるから血液を酸性化する。健康では血液は弱アルカリ性である。これが酸性化することによって体は不健全な方へ傾いて行く。それは病気の受け皿を準備するようなものである〉


 つまり、僕たちは大気中の酸素を呼吸によって体内に取り込み、ブドウ糖を燃やして、そのエネルギーを60兆もの細胞に行き渡らせようとする。だが、この取り込むべき酸素が不足したら、いったいどうなるのか? ブドウ糖はうまく燃えない。ならば全細胞に行き渡るだけのエネルギーは生まれないということになる。


 本書では、普通の呼気量(吐き出す空気の量)と、不安・心配・憂うつ時など極度に浅い呼吸時の量とでは、約40倍の開きがあると書かれている。つまり、呼吸が極度に浅い場合は、通常の40分の1しか二酸化炭素が吐き出されず、であれば酸素も40分の1しか取り入れられないということである。


 この本は28年前にその警鐘を鳴らしているわけだが、その後、僕たちの呼吸はよくなったのか。たくさんの酸素を取り込み、たくさんの二酸化炭素を排出できているのだろうか。


 28年の間にわが国はバブルを迎え、そして崩壊した。企業は活路を見いだそうと消費者のニーズを追いかけた。パソコンが家電のごとく各家庭に浸透し、テレビは大画面化し、ゲーム機やゲームソフトが空前の売上を築いた。ケータイはスマホの登場で今も元気がいい。僕たちの生活はどんどん便利になったけれど、そのぶん体を動かすことは減った。


 仕事でも、かつては行動をともなったものが、今はメールやネットで済んでしまうことが多い。そのかわりパソコンに向かっている時間は増えた。今や大企業といえどもリストラは珍しくない。働く側のストレスや不安は以前の比ではないだろう。


 体を動かさず、ストレスが増せば、無意識の呼吸はおのずと浅くなる。ちなみに全国の医療機関に支払われた医療費は、9年連続で増えつづけ、昨年度は37兆円を超えているという。


 無意識の呼吸が浅いのならば、意識的に深い呼吸をする必要がある。僕も意識的な呼吸のおかげで、今も元気に仕事ができている。これまでもブログや本で書いてきたけれど、あらためて「長息」と「短息」を実践するうえでのポイントを紹介しよう。


 長息も短息も、腹式呼吸である。腹式呼吸は「横隔膜呼吸」とも呼ばれる。肺には肺自体を動かす骨格筋がないので、呼吸は横隔膜をはじめとする各種の筋肉によって行われている。横隔膜は、心臓や肺を含む胸腔と、胃や腸を含む腹腔の、ちょうど境に位置している。


 息を深く吸おうと思えば、横隔膜を押し下げ、そのぶん胸(肺)をふくらませる。逆に吐こうとすれば、押し下げた横隔膜をゆるめて元に戻し、胸(肺)を縮ませる。腹式呼吸はお腹に空気が入るわけではなく、横隔膜を押し上げたり元に戻したりする動きに反映して、お腹がふくらんだりへっこんだりするから腹式呼吸なのである。


 まずは「長息」から。長息は、最初に4秒鼻から吸って6秒口で吐く。吸う時間はそのままに、吐く時間を6秒、8秒、10秒、20秒……とだんだん長くしていく。だが、実際にやってみるとわかるけれど、たとえば20秒吐くというのはけっこう大変である。最初はそこまで息が持たない。息を持たせるためには、横隔膜を少しずつ動かしたり止めたりと自分でコントロールしないといけない。


 長息のポイントは、吐き切ったら、すぐには吸わないということ。すぐに吸うと喉にくるので、吐いたらまず全身の力を抜く。すると次には自然に入ってきている。そこをちょっとサポートするような気持ちでお腹をふくらませるというか、気を下に落とす気持ちでやるとうまくいく。長息が身につけば、不動心が育つというおまけもついてくる。


 次に「短息」。1秒間に吐いて吸っての1往復。ただ、吸うほうは勝手に入ってくるので、実際には吐くことだけを意識する。要するに1秒に1回、鼻から強く吐き続けるのである(口から吐くと、トラウマのある人はパニックになる場合がある)。ものの5分も続ければ、血流もよくなり体がポカポカしてくる。


 短息でも喉を絞ってはいけない。喉を絞ったり、横隔膜より上に力が入ると脳圧が上がる。特に年配の人は気をつけてほしい。とはいえ、慣れないうちは下腹だけに力を入れるというのがなかなか難しい。コツとしては、腹筋を絞り、それに加えて股間に力を入れる。肛門をしめたり、女性ならば膣をしめるということである。この呼吸には、勃起力の増強と感度アップという副産物がついてくる。


 朝、僕はベッドから出る前、布団の中で短息をしている。短息を始める前は、起きてから頭がスッキリするまで顔を洗ったり歯を磨いたり、時間がかかったが、短息を始めてからはその感覚がまったくない。一気に動ける。全細胞に行くべきものが行き渡るからだろう。夜はテレビを見ながら、あるいはストレッチをやりながら長息をしている。


 長息は場所を選ばず、電車の中でも仕事中でもできる。とりわけ職場でパソコンに向かっているときは無意識の浅い呼吸に陥りがちだから、そんなときこそ長息を、たとえ数分間でも取り入れてみてほしい。特に冷え症の人には絶対オススメである。


 ついつい忘れてしまわないように、パソコンモニターの横にでも「長息」と書いたフセンを貼っておいていただきたい。自宅の寝室には「長息・短息」の文字を額に入れて掛けておいていただきたいくらいだ。それくらい価値がある。


 生涯それをやれれば、医療費が抑えられ、家計の足しにもなろうというものだ。男は朝勃ちし、女は感度がよくなる。長息も短息も、呼吸にお金はかからない。用意するものは、あなたの体ひとつである。




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第192回 人は変われるのか?

 来年1月リリースの「ザ・面接1994」の中の1コマである。その日、面接にやってきた女の子は2人。ツアーコンダクターの松田ゆき(23歳)と学生の川村美樹(20歳)。

 最初に、ツアーコンダクターのゆきが男優3人から襲われる。ゆきはレスポンスがとてもいい。関西人特有の感情むき出しで、「ちょっとやめてよ!」「こんなん聞いてへん!」「こんなんオカシイんちゃう!」と全身全霊で抵抗し、ときには泣き叫ぶ。本能に根づいた感情がその瞬間瞬間、素直に反応している。

 一方、学生の美樹のほうは、同じようなことをされてもずいぶん違った。体では抵抗しているものの、ほとんど無言のままだ。結局、彼女は何者とも向き合っていないのだと思った。襲われても、もうひとりの自分がそれを見ているみたいで、当の本人は中に閉じこもったまま出てこない。要は"参加"していないのだ。2人とも「一度犯されてみたい」というのが出演動機だったが、美樹はまるで今起きてることが通り過ぎるのを待っているかのようだ。

 2人のレイプシーンを撮り終えたあと、僕は美樹に訊いた。「うちのプロデューサーに『犯されたい』って言ったんだよね。なんで?」。「前に(実際に)犯されそうになって、そのときは必死になって逃げたんだけど、あのままやっちゃってたら、どうなっちゃってたかなと思って……」と言う。

 続けて「やってみて、今どうですか?」と訊くと、「ひと皮むけた感じが……。今までの自分とは少し変わるんじゃないかなと思います」。「変わりたかった?」には「はい」。「どう変わりたかったんだろう?」「自分の追求したいものを、前向きに、追求していけるような、人間になりたいと思います。自分を偽らないように、なれたらいいなと思います。みんなハメを外したいと思っているのに、やってないんだと思うんですけど……」。

 いかにも借り物の言葉が並ぶ。しかも彼女は話すとき、所々で間(ま)があく。あたかも頭の中に蓄積した言葉を、そのつど探しながら答えているみたいだ。今までやったことと言ったことの辻褄(つじつま)を合せながらしゃべっているかのように……。

 ここまで黙って聞いていた市原克也が堪(たま)りかねて口を開く。「そんなに深刻なものじゃないんだけどね。たまたまここに来て、オメコしただけなんだからね。自分も壊れないし、ハメも外れないよ、こんなことぐらいで。こんなことで人生変わると思ったら大間違いだぞ、オマエ! 明日になったら昨日と変わらぬオマエがいるんだから……ふざけるなっちゅうのよ! こんなことでハメが外れるか、バカタレ!」

 市原の言葉どおり、美樹は何も変わっていない。そもそも感情というものが見えてこない。ならば感情的にさせようと僕は思った。このまま帰すわけにはいかない。美樹の手足をロープで拘束し、目かくしをして、ロウソクをかけた。「痛い」とか「怖い」とか「熱い」が、彼女を思考モードから引き剥がす。

 だが、そのまま一気に追い込まないで、途中でいったん放置した。そうして同じ部屋にいるもう1人のゆきのほうを攻める。彼女はすでに開いているので、攻められれば攻められるほど、どんどん感じて乱れていく。編集段階でカットしたので放置時間はさほどでもないように見えるが、実際は長いこと放っておいた。その間、美樹の中には「自分のほうに来てほしい」という欲望やヨガりつづけるみきへの嫉妬も湧くことだろう。どちらも強い感情である。

 長い放置のあと、片山邦生が美樹の体にかかって固まったロウを1つずつやさしく剥がしてあげる。今まで放っておかれただけに、何気ないその行為が美樹にはうれしいはずである。2人はキスを交わし、自然な流れでセックスに入っていく。

 終わったあと、美樹は子どものように泣きじゃくった。そして片山と抱き合う。「本人も何がなんだかわかりません」という僕のコメントが入っている。ベッドで抱き合ったそのまま、美樹は「離れたくない」とつぶやく。それは彼女の頭じゃないところから出てきた、この日初めての言葉だった。

 そんな美樹を見て市原が言う。「昼間の段階で『自分が変わった』とか言うたらアカンの。ここまで来な、変わらへんねん、君は。明日からエエことあるかもしれんぞ! もう、すぐ戻るからな、君の性格はな」。

 冒頭でふれたように、この作品は1994年に撮ったものである。18年を経た今、美樹のような子は決して珍しくなくなった。何事にも片足だけ突っ込んで、客観的にそれを眺めている。自分のことでありながら、両足がどっぷりつかることはない。行動をともなった経験よりも思考が優先し、頭の中で処理してしまう。だから、生身の人間が感じられない。

 作品の中で、ゆきがビデオに出た感想を述べたところがある。彼女はこんなことを言う。「あんなふうに自分が反応するとは思いませんでした。もっとゆっくり、なんで私がこれをしたんか、これが結局なんやったんか、わかってくるんやないかなぁと思います」。つまり彼女は「自分がしたことの意味は、のちにわかってくるだろう」と言っているのだ。人間とは本来そういうものじゃないかと僕も思う。あれこれ考える前に、動かなければ見えてこない風景もあるのだから……。



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第191回 なぜセックスで痙攣が起きるのか?

 女の子が男優にガンガン突かれて感じてきて、「イクー!」と叫びながら全身を痙攣(けいれん)させることがある。映像的に迫力があるし、いかにもイッてるように見えるんだけど、痙攣までで終わってしまうと、僕は撮りながら「ああ、この子はイキきってないなぁ」と思う。

 そもそもセックスの痙攣は、なぜ起きるのだろう? その根底にあるのは「恐怖」じゃないかと僕は思うのだ。

 18年前、「平成淫女隊」というシリーズに若き片山邦生が出た作品がある。「男優一人死んじゃった」というタイトルで、死んじゃったのが片山。目かくしから入って、見ないところで女の子の人数が増える。イチモツを音をたててしゃぶられながら、乳首を愛撫され、耳元では言葉なぶり。途中で目かくしは外されるものの、そのときには1人が自分の上で腰を使っている。その後も淫女隊3人からの容赦ない責めは続き、片山は「おかしくなる……」と息も絶え絶えにつぶやくが、そのまま全身が硬直してしまい、目も虚ろな放心状態に陥る。

 当時、片山は男優歴4年、出演本数150本。僕の作品はこれが初めてで、「それまでの現場では、女の子をイカせてナンボというのを植えつけられていたし、女の子が乱れるのを見て、内心『どうだ!』という満足感を得ていた」と言う。だからこそ、女の子、それも複数の子から何をされるかわからないという状況に、彼は恐怖を覚える。恐怖は筋肉を硬直させるのである。

 セックスのときの痙攣とは、恐怖によって硬直した筋肉を解きほぐそうとする体のメカニズムではないだろうか。恐怖から身を守るべく筋肉はいったん収縮するが、収縮した筋肉を今度は震えることによって元の状態に戻そうとする。

 女の子がセックスで感じてきて、イキそうになるときに味わう恐怖とは、未知の領域に入っていくことへの怖さだ。撮影後、彼女たちにそのときの様子を訊いてみると、「自分がどうかなっちゃいそう」とか「自分がいなくなるような感じ」と答える子が多い。いずれにせよ、男が射精するのとは次元が違うのである。

 イキそうになったときに、こういった恐怖が湧き起こらなければ痙攣も起きないわけだが、この恐怖自体、過去のトラウマと深く関わっているように思える。僕は事前面接の段階から女の子の話をいろいろ聴いているけれど、トラウマの中身は人それぞれだとしても、セックスで痙攣が起きる子のほとんどは過去に溜め込んだ、つまり表に出したくても出せなかった感情の塊(ブロック)が存在している。

 「平成淫女隊」シリーズでは、片山が出たひとつ前の作品「大失神」に平本一穂が出演している。このとき男優歴9年の彼も、「ある時期まで男優はイカせるもの、いやらしく見せるものだと思っていた」と語っている。「でも、相手あってのセックス。あるとき、好きだという気持ちを込めたら、返ってくる心地よさがわかった」と。

 平本も淫女隊からとことん責められ、そして失神する。失神から覚めて、彼は涙を流す。きっと彼女たちとつながれた涙なのだろう。彼はこんなことを言う。「なんかうれしくて、なんか楽しくて、いいのかなと思ったら泣けてきちゃった……」。同じことをされて、固まる者もいれば、うれしくて泣き出す者もいる。

 セックスで女の子が痙攣を起こしたとき、そのままオーガズムにまで到達してしまう子と痙攣で終わってしまう子の2通りに分かれる。その差はどこにあるかというと、これまで現場で見るかぎり、ポイントは感情を表出できたかどうかにかかっているようだ。

 平本は僕の作品の中で、女の子が感じてくると「もっと声出せー!」とか「いっぱい叫べー!」とか「目を見ろー!」と盛んに言っている。僕が指示してるわけではないが、その場で彼はきっと何かを感じ取っているのだろう。

 もしセックスで彼女が痙攣したら、「イッたんだ」と男は思わないで、「オレを見て一緒にイッて!」や「好きだよ!」など、彼女の感情を誘い出すような言葉をかけてあげるといい。感情が外へ向かう流れができると、それまでトラウマとして溜め込んだ感情のブロックも溶け出す。このとき初めて男と女はつながれる。彼女は痙攣から一気にオーガズムへと昇りつめていけるはずである。



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