2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第224回 矢作直樹先生の話

 ロフトのイベントに来てくれたカウンセラーTさんの紹介で、潜在能力を研究している人たちと知り合った。そして、そこで教えてもらったある講演会に先月行ってきた。「人間サイエンスの会」というところが主催しているもので、演題は「科学をはるかに超えた現実――救急医療の現場から」。講師は「矢作直樹氏」。

 で、どんな内容なのか? 講演案内にはこんなふうに書かれている。

 〈虚心坦懐に見ていると臨床現場をはじめこの世ではいろいろなことがあります。この世の世界では限られた波長(おおよそ400nm-800nm:nmはmの10-9)のもののみが“見える”ということを理解されているはずです。テレビの映像のもとになる電波(VHFで2m、UHFで0.5m)ももちろん見えません。レントゲン写真で使うX線(0.01nm)も見えません。このように身の回りに見えなくても存在していると認識されているものがたくさんあります〉

 テレビ電波のように波長の長いものも、逆にX線のように短いものも、ともに人間の目には見えず、見えるのはその間の、それもとても狭い幅の中だけということだろう。冒頭に〈虚心坦懐に〉とあるが、僕たちは視覚をはじめ五感で感じ取れるものだけが存在しているとついつい思いがちである。

 〈さて、医療現場では、私たちの予測と異なって明らかに助かって社会復帰することが無理と思われた症例が無事だったり、その逆だったりすることがしばしば起こります。また医療現場や身の回りでは憑依のような霊障を経験します。このような事例は、交霊によりこの憑依をはずす(浄霊)と、もとにもどることも経験します。こうした経験と先人の教えから私たちのからだは目に見える体とその働きによる心のほかに、目に見えない意識体としての霊魂があることがわかります〉

 霊障(れいしょう)とは霊的な原因で起こる災いをいう。もう少し具体的に言うなら、肉体的あるいは精神的な病や、事故、人間関係の不和、異常行動などが起こるとされている。まぁ、それはともかく、講演案内には、憑依(ひょうい)、交霊、浄霊、霊魂という言葉が続く。これが霊能者の講演ならば違和感はないかわりに、今さら聴きに行きたいと僕は思わなかっただろう。

 ところが、講師の矢作氏は東京大学医学部教授だという。だからこそ、僕は話が聴きたいと思ったのだ。ただし正直に書くと、霊を語るくらいだからきっと東大の中では異端というか、はみ出しもんというか、決して主流ではないんだろうとも思った。いや、べつに主流でなくてもぜんぜんかまわないのだが……。

 しかし実際は、異端どころか、中枢も中枢、将来は東大医学部のトップに立つような人だったのだ。今の肩書きは「東京大学大学院医学系研究科・救急医学分野教授」にして「東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長」。救急部・集中治療部といえば、まさに命の砦(とりで)のような場所である。

 現職に就いた2年後の2003年には、いち早く東大病院内に「コードブルー」システムを構築している。なぜ院内なのか? 東京ドームのグラウンド9つ分の敷地には、患者、職員、見舞客を合わせると、約1万人の人々がいる。外来の救急患者に対するシステムはあっても、院内で突然倒れた場合、そこが病院であるにもかかわらず、処置が遅れて亡くなる人がいたのだそうだ。「コードブルー」の構築によって、今では異変に気づいた人の通報から5分以内に院内のどこへでも救急対応チームが出動し、高度救命処置を短時間で実施できるという。

 以上はほんの一例だが、現代医療の最先端で日夜活躍し、たくさんの人の命と向き合ってきた矢作先生が語る「科学をはるかに超えた現実」とはいったい何なのか? 詳しくは次回で。




女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第223回 中国の暴動と日本のお父さんに見る進化と絶滅のボーダーライン

 同じ日に見た2つのテレビ番組。「NHKスペシャル」と「Mr.サンデー」。扱っているテーマはまったく異なるのに、続けて見たら問題の根っこは同じなんだと思えてきた……。

 見ていない方のために、それぞれの内容を簡単に紹介しておこう。

 まず、6月16日午後9時からの「NHKスペシャル」。タイトルは「中国激動 怒れる民をどう収めるか ~密着 紛争仲裁請負人~」。中国では1年に約20万件の暴動やデモが起きているという。20万件と言われても、なんだかピンと来ないが、平均すれば1日あたり約550件起きていることになる。それって、凄い数字だ。

 カメラは土地開発をめぐって住民と地元政府が対立して
いるひとつの村を映し出す。地元政府が土地開発を強行するのは、開発が莫大な利益を生むからだ。中国の場合、もともと土地の個人所有は認めておらず、使用権のみが与えられている。農業を生業(なりわい)とする住民たちの土地使用権を幾ばくかの補償金と引き換えに取り上げ、立ち退かせて、その広大な土地を大企業に売る。

 つまり、住民に貸していても上がりは知れてるわけで、それでは中央政府が課してくる税収の債務が果たせず、地元政府は生き残っていけない。大企業はその土地にたとえば工場を建てたり、ニュータウンやショッピングセンターを建設したりするわけだが、この村の場合、地元政府は日本円に換算して30億円を手にしている。

 しかし、土地を取られた住民たちは、とても食ってはいけない。与えられた補償金もすぐに底をつく。この村では土地開発業者と住民との間に乱闘が起き、多くのケガ人が出ている。そればかりか、立ち退きを拒んでいた住宅で不審な火災が発生して人が死んでいるし、国に苦情を訴えようとした者は地元政府の役人に連れ戻され投獄されたりしている。
 ただし、こういった対立は、この村に限ったことではない。なにせ日に550件の暴動だ。そこかしこで同じようなことが起きている。それは経済成長の陰で広がった社会のひずみでもある。

 カメラが入ったこの村では、住民たちの命がけの抵抗に遭い、土地開発は中断を余儀なくされている。手に負えなくなった地元政府の役人は、事態を収拾すべくというか、開発を再開すべく、民間の機関に仲裁を依頼する。それが番組タイトルにもある紛争仲裁請負人・周鴻陵(しゅうこうりょう)さんの会社である。

 この続きはあとで書くとして、いったん同16日午後10時から放送された「Mr.サンデー」(フジテレビ)にもふれておこう。今回この番組の中で僕が面白いなと思ったのは、日本の父と娘の関係の変化である。

 番組によれば、今「パパ大好き!」と言う娘が増えているらしい。といっても、幼稚園児や保育園児ではなく、年頃の娘たちの話だ。ついこの間まで、父親たちは「おんなじ空気を吸うのもイヤ!」とか言われてたんじゃないのか。それが今や娘たちは父親と腕を組んでデートをしたり、一緒に撮った写真をケータイにいっぱい入れていたり……。

 2人で食事に行って、娘から「あ~ん」とデザートを食べさせてもらっているお父さんの姿が映る。それを見つめる娘は、まるでわが子に向けるような眼差し。また、別の家では、長風呂でなかなか出てこないお父さんにしびれを切らした娘(24歳)が、なんと自分も風呂場に入っていく。もちろん裸で……。中ではダイエット話で盛り上がっている模様。あとで「恥ずかしくないのか?」と訊かれたお父さんは「小さい頃からずっと入れてましたから」と答える。ええっ、さすがに風呂はないだろ!と僕はツッコミを入れつつ、でも凄いなぁと思った。

 一方、対極にあるような父娘も紹介される。食事の風景。子どもは3人いるのだが、食事中は私語禁止。4年前にもこの家庭を取材しており、その画も流れるが、まったく変わっておらず、聞こえるのは食器の音と父親の声だけ。この威厳に満ちた昭和のオヤジが言う。「大人を敬う気持ちを親がきちんと教えないといけない」と。確かに僕らが子どもの頃、「子は親の言うことを聞くもの」とよく言われた。だから、彼の言い分もわからないではないけれど、見ているだけで僕は息が詰まりそうになった。

 中国の村に話を戻そう。地元政府で住民交渉を担当してきた役人のインタビューがある。彼によれば、これまでは説得しやすい住民から切り崩していったそうである。わずかな補償金を握らせて「この村全体が栄えるのに、なんでおまえは従わないのか!」と強引に迫る。そして説得が難しい住民には、わざと時間稼ぎをして諦めるのを待つのだそうだ。

 これまではずっとそれで押し通してきた。それに対して住民たちは泣き寝入りするしかなかった。ところが、今は違う。「政府はおまえらのことを一番に考えて、やっているんだから」なんて言っても、「なに寝言いってんだ!」になる。“知らしむべからず”だった民が、インターネットや住民同士の情報交換ですでに“知ってしまった”のだから、地元政府の嘘や建前はもはや通用しない。

 にもかかわらず、役人は「民は御上(おかみ)の言うことに黙って従うもの」という旧態依然とした考えをいまだに捨て切れないでいる。これって、似ていないだろうか? 「子は親の言うことを聞くもの」という考えを切り替えられない昭和のオヤジと。

 もちろんオヤジはオヤジなりに、子どもの行くすえを案じ、よかれと思って、父の威厳を保とうとしている。だから、住民のことなど所詮は考えてはいない役人と同列に論じるのは、ちょっと可哀想かもしれない。だが、「親の言うことを聞いときゃ間違いない」という論理を力ずくで押し通していけば、いつかどこかで手痛いしっぺ返しを食うはずである。年間20万件の暴動を抱える中国が、このまま行けば内部から崩壊しかねないのと、そこは同じなのだ。

 紛争仲裁請負人の周さんのところには、この村のみならず、中国各地の住民からも地方政府からも、仲裁の依頼がたくさん寄せられている。そして、なんと中央政府からも中央党校の教材にしたいと、「住民の集団抗議行動への対処」をテーマに執筆を依頼される。中央党校といえば、習近平国家主席が昨年までトップを務めていた、共産党幹部養成の中枢機関である。そんな重要な案件を民間に依頼するなど、これまででは考えられないことだった。しかし、それほど中国は追いつめられ、切迫した危機感を抱いているのだ。

 「父親とはこういうもんだ」という固定観念に縛られ、甘い顔など見せたら子どもにナメられると思い込んでいる昭和の父たちよ、時代の変化に自らが対応できるのか、あるいはできないのか。そのカウントダウンはすでに始まっている。残された時間は……中国とさほど変わらないのかもしれない。




女性に見てほしいバナー


6月27日(木)、全28タイトルに増えました!

第221回 巨根ゆえに

 人妻はアダルトビデオに欠かせない存在である。彼女たちは作品に力を与えてくれる、ありがたい存在なのだ。ただ、監督という立場を離れ、妻をもつ一人の男に戻ったとき、「夫がいながら、おまえ何考えてんだ!」という思いも正直ぬぐい切れない。そんな相反する気持ちで彼女たちと向き合ってきたが、先日撮った「ザ・面接 VOL.134」に出た人妻には、心から「ああ、出てよかったな。出るしかないよな」と思った。

 なぜなら、彼女にはこんな事情があったからだ。結婚して3年。ダンナさんは外国人で、ある宗教の信者(国籍と宗教名はあえて伏せておく)。彼女自身は日本人で30代後半。ここまでなら、ビデオに出る理由もないのだが、ダンナさんのオチンチンが並外れて大きいらしい。どのくらい大きいかというと、握ろうとしても指がまわらないのだそうだ。

 結婚して最初のセックスで彼女のアソコは切れた。それ以降、痛くてできない。ダンナさんもそこは理解してくれて、もう入れようとはしないという。「そうすると、彼はあなたを手でイカせるの? あるいは舐めるとか?」と訊くと「宗教上、そういう行為は許されないんです」と彼女。いや、「そもそも結婚する前に寝てるだろ」って話なんだが、それも「宗教上、許されない」らしい。

 「なんで別れないの?」と訊いた僕に、彼女はこう答えた。「尊敬してるから」。ダンナさんはものすごく厳格というか、とても敬虔な信者なのだ。戒律によれば、クンニやフェラといった愛撫ばかりでなく、自慰行為も禁じられている。だから彼は自分で出すこともしない。

 彼女も結婚と同時に入信しているが、「私は守ったフリをして守っていない」そうで、この3年間、ダンナさんがいないときにビデオを見ながらオナニーしてきた。そのビデオの中では、みんな自由奔放に快楽を貪(むさぼ)っている。だから、彼女も一歩を踏み出すことにしたのだ。最愛の夫と暮らしながら、彼女にとってはそれしかセックスする方法がなかったのである。このダンナさんならビデオを見ることもないだろうし、バレる可能性は確かにきわめて低い。

 現場で終わったあと、彼女は今の思いを吐露した。それを聞いて、エキストラの女の子たちは口々に「よかったね」と彼女を肯定した。何人かはウルウルしている。特異なケースではあるけれど、女同士ゆえ彼女の気持ちはよくわかったに違いない。

 僕はといえば、戒律を守らせてしまう宗教の力についてあらためて考えていた。彼女の場合は挿入もできなかったわけだが、もしふつうのサイズだったとしても、許されるのは挿入だけのセックスであり、前戯といえる前戯はないのだろう。つまり、それは生殖のための行為として認められているだけで、快楽の追求が許されているわけではない。

 僕は教義も知らないけれど、その宗教の中には人間の本能を禁じてでも、それを補って余りある教えがおそらくあるんだろうと思う。そして性の快楽を戒めたのは、当時の状況というか、社会的な背景が大きかったはずだ。ただ、時代が移り、人々の生活様式が変わろうとも、その戒律だけは変わらずに生きている。現代人である僕としては、そこに違和感を覚えるのである。




女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第220回 反スマホ過敏症

 つい先日のことである。事務所が入っているビルの1階で、僕はエレベーターを待っていた。階数表示ランプが降りてきて、ドアが開く。なかには若者が一人乗っている。が、スマホを見ていて出てこない。ひと間(ま)、ふた間……。気づいてないのか? 声をかけようかと思ったとき、やっと彼は歩き出した。顔は上げない。

 エレベーターホールと呼ぶには狭い場所なので、僕は脇に立っていた。だが、視界に僕が入ってないのか、そのまま進んでくる。肩があたりそうになって、思わず僕のほうがよける。彼は無言でスマホに目を落としたまま、ビルから出ていった。「目ぇ覚まして歩けよ!」と言ってやりたいところだが、きっと同じビルの人間だろう。僕はやり場のなくなった苛立ちを飲み込んだ。

 場所は違っても、似たような経験をした人はたくさんいるんじゃないだろうか。僕も今回が初めてというわけではない。歩道などで正面からスマホを見ながらまっすぐ歩いてきて、こちらがよけたというのは数知れない。彼らが、それこそ脇目も振らずに何をしているのか、僕は知らない。ゲームかもしれないし、LINEなのかもしれない。

 僕には彼らがまるで異次元にいるように見える。肉体はそこにあるものの、意識はスマホの中の世界に行ってしまっている。道を歩いていて、人とぶつかりそうになったら、「すみません」とか「失礼」とか、ふつうは何かを口にする。他意はないことを表明することによって、無益ないざこざを回避したり、お互いがイヤな気分にならないための術。それも重要なコミュニケーションである。

 ところが、彼らは言葉を発しない。いや、そもそもぶつかりそうになったこと自体、わかってないのではないか。彼らはそこにいるように見えて、じつはいないのだから……。
 こんなこともある。道を歩いていると、後ろから話し声がする。同じ人間の声しか聞こえないので気になってふり返ると、一人しかいない。ひとり言なのか? よく見るとイヤホンのようなものを耳に入れてしゃべっている。電話なのだ。

 ケータイやスマホを耳にかざして話しているのは、もうざらである。“自分の世界”真っ只中で、傍から見てるとバカみたいだが、本人はテンションマックス。大声でプライベートな話をしている。大勢の人が行き交うパブリックな場所で。

 もともと電話はプライベートなものだったはずだ。家庭や企業に固定電話が引かれたとき、かりに家族や社員に聞かれることはあっても、見ず知らずの人の耳に入ることはない。公衆電話も昔はボックスの中に入っていて、ドアを閉めて話をした。店先や駅構内などに剥き出しで置かれた場合でも、近くに人がいれば通話口を手でおおい、小声で話したものである。個人的な話を他人に聞かれたくないというのもあるけれど、やはりそれが嗜(たしな)みだと思ったからだ。

 にもかかわらず、今はプライベートとパブリックがボーダーレスになっている。公衆の面前で個人的な話をケータイやスマホでガンガンしている者にとって、まわりの人々は単なる景色としか映らないのだろう。

 ケータイが登場し、それがスマホになって、いろいろ便利になったのは僕にもわかる。それまでは自分が行動することで手に入れていた情報が、どこにいようとスマホ画面に呼び出せるようになった。だが、便利なのがいいことばかりとは限らない。それじゃあ、肉体を持っている意味がないじゃないかと僕はしばしば思う。

 僕のような人間を「反スマホ過敏症」というらしい。なるほどそうかもしれない。しかし言わせてもらえば、ほんの何年か前までは僕のような考えがふつうだったと思うのだけれど……。

 1日に2時間以上、スマホの中の世界にいると、それは依存症の可能性もあるらしい。みなさんは大丈夫だろうか?





女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第219回 カラダの快感に気づかないアタマ

 「愛と性の相談室」に来られた女性(30代・主婦)の話である。すでに相談映像を掲載しているので、ご覧になった方もいるはずだ。彼女はセックスでイケないことにずっと悩んでいた。余談だが、「相談室」では「イク」関連の閲覧がとりわけ多い。相談に来た彼女同様、多くの女性がイクことに関心があるのだろう。

 相談者に話を戻すと、「性的に満足することが自分の人生で一番で、それがないならアナタといれないって感じて、ダンナにも言ってしまった」そうである。彼女は自分をイカせてくれる相手を求めて、夫以外の男とのセックスを重ねていく。

 その過程で、目を見ないと絶対できないという人に出会う。セックスで男と目を合わせられなかった彼女が、その人としているとき、見てくるので見返したら、とても温かくて「ああ、幸せだなぁ、本当に好きでいてくれてるんだ」と感じる。そして「目を見つめ合うセックスが、こんなにも気持ちいいものなのか」と。

 ことの詳細を夫には言わなかったものの、代わりに彼女は僕の本をすすめる。読み終えた夫は「目を見てしてみよう」と言ってくれたそうである。実際に夫としてみると、「好きっていう気持ちが入ってるとき」と「ただ見てるだけのとき」があり、その違いがはっきりわかるという。

 話を聴きながら、なるほど違いはわかるのだろうが、そのとき彼女は夫を観察してしまっているなと思った。「イケない子は冷静な自分がいる」と僕は彼女に言った。「頭が働いているってことは“今”にいない。ところが、感じる世界というのは“今”にしかない。だから、自分がセックスという行為そのものになったとき、オーガズムは訪れる。そこに思考はいっさい介在しないんだよ」と。

 「それは怖い」と言う彼女に、僕は呼吸法を試みることにした。長息から始めて短息、そして性器呼吸まで来ると、仰向けに寝た彼女はソファの上で感じ出し、「イキたい!」「イカせて~!」と叫んだ。やはり思いは先(未来)に行ってしまっている。呼吸法を終えてから、僕が「あのとき、そのまま楽しんでいれば……」と言いかけると、彼女はこんなことを口にした。

 「イキたいと言っている自分と、感じている自分が別だから。イキたいと言っているほうは、感じていることにも気がついてないんですよ」。僕はうまいことを言うなぁと思った。まさに彼女の言うとおりだ。呼吸法は自分の深いところまで覗いてしまう。おそらく気づきが起きたのだろう。

 彼女がさらに続ける。「コレ(イキたいと言っている自分)は興奮しないし、感動しないし、好きにもならないし、いると幸せ感もあまり感じない。幸せなんだろうなとは思うけど、コレが幸せと感じるわけじゃないから」。僕は彼女に「コレは“社会”だからね」と言った。

 相談の最後、僕は「この瞬間を生きるレッスン」をすすめた。それは「考える」から「感じる」へのシフトであり、今起きていることを楽しむ生き方である。さしあたってセックスでは、事前に自分で呼吸法をしてみることを提案した。性器呼吸まで行けば、おのずと欲情してくるに違いない。

「じゃあ、呼吸法を1回だけじゃなく、何度かして(したいのを)我慢して、それからセックスします。そのくらい焦らさないとコレは落ちないと思うから」と彼女は言う。

 かつて「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ」で、柏木みな(30歳)を撮ったときのことだ。前夜、柏木に呼吸法を行ない、催淫CDを聴かせた。ここで彼女に気づきが起きる。翌日、自分にコンプレックスを抱き、まだイッたことがないという女の子・岩崎あきら(32歳)と男優たちを迎えて、僕たちは「どうしたらイケるのか?」についてみんなで話していた。その一部を書き起こしてみる。

柏木「たぶん自分が、すっごい欲情してたんじゃないかな」
岩崎「私、足りないんですかね。でも、そういうのはあります。だけど、それは言っちゃいけないというか。冷静なフリをしてる自分をつねに演じているというか」
代々木「エッチしてるときも?」
岩崎「うん、でも、これしちゃいけないんじゃないかな、あれしちゃいけないんじゃないかなとか。自分の外見とかもすごいコンプレックスなんで、きっと今すごいヘンな顔してるんじゃないかなとか。(宙を指しながら)自分はこのへんにいて、『なに、こいつ!』って言って自分を見てる感じなんで」
代々木「そのへんにいる自分がいなくなりゃいいんだよな」
岩崎「そうですね」

 岩崎が言う「自分を見てる自分」とは、相談者の言う「コレ(イキたいと言っている自分)」と同じであり、その正体は思考なのだ。思考を落とすひとつの方法は「心(しん)から自分が欲情すること」。最初に柏木が言ったそのままである。

 たとえば何かにつけ、あれこれ考えてしまう質(たち)の人がいたとしよう。そんな人でも、とことん腹が減って、でも食べる物がなくて、さらに何時間も空腹に耐え、やっとのことで食事にありつき、ガッツイているときは、食べるのに夢中で何も考えてはいないはずだ。これと同じことをセックスでもすればいい。だが、思考が強固な場合、ちょっとやそっとの欲情では落ちてはくれない。相談者の彼女には、きっとそれがわかったのだろう。




女性に見てほしいバナー

5月30日(木)、全26タイトルに増えました!

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第218回 姦通罪と家庭崩壊

 姦通罪(かんつうざい)というのがあった。人妻が浮気して、恋人やセフレとやってしまうと、6カ月以上2年以下の重禁錮(今でいう懲役)に処すというもの。浮気相手の男も同罪になるものの、夫が未婚の女性とやった場合には罪に問われない。親告罪ではあるけれど、男尊女卑を絵に描いたような不平等な法律である。

 だが、これがほんの六十数年前まではわが国にあった。第二次世界大戦後、日本国憲法が制定される折に廃止されたわけだが、そのとき「平等ならいいじゃん」という根拠で、「妻同様、夫もダメでどうか」という意見もあったようだ。

 現在でもイスラム圏では姦通が禁止され、最高刑は死刑。イスラム世界ならば、さもありなんという気がするけれど、お隣の韓国にも、廃止の方向で動いているとはいえ、今もって姦通罪は存在する。ただし、夫も妻もダメという平等な形で。

 たった今、男女平等の姦通罪が日本にいきなり復活したら、シャバから人は減るだろう。ネットをのぞいていると、倫理の低下をなげく人たちから「姦通罪を復活したらどうか」といった書き込みも見かける。そうすれば、離婚率も下がり、逆に出生率は多少なりとも上がるんじゃないかと。

 僕も「世間体があるから」「子どもがいるから」等の理由で取り繕ってはいるが、実質的には機能していないというか、崩壊している家庭も少なくないように見える。しかし、結論を先に書いてしまうと、姦通罪を復活させたところで家庭崩壊は食い止められないと思うのだ。

 「夫がいながら、罪の意識はないの?」と不倫中の主婦たちに訊いてみると、「その後ろめたさがいいの!」という答えが返ってくる。背徳も二人が燃えるためのスパイスといったところか。女の貞淑・貞操ばかりが強要された時代と比べたら、女性たちも自由を手に入れたと言える。

 では、自由を手に入れて、幸せになったのだろうか? このまえ「ザ・面接」の現場で、22歳にして男性経験151人という審査員の子に「幸せ?」と訊いたら、「幸せっ!」と元気よく返ってきた。僕はちょっと意地悪に「でも、そんなにやるってことは、やっぱり心に満たされないところがあるから……そういう子が多いんだよ。そういう子って心に傷がある、人には言えないね」、そこまで言った途端、彼女はポロッと涙を流した。

 みんな自由にやって、楽しそうに見えるんだけど、本当は空しいのである。それはなにも女たちばかりではない。男たちのなかで、自分の得意ジャンルの話なら一方的によくしゃべるけれど、対人関係とか恋愛になると、一転して手も足も出ないという人間が増えている。

 これは男も女も、人間力が衰えているからだと思う。戦後、金銭的価値に置き換わりやすいもの、たとえば偏差値の高い学校への進学や大企業への就職といったものにプライオリティを置き、そのための準備には余念がなくとも、人間性という曖昧なものは二の次とする風潮が蔓延した。つまり、競争社会における経済原理が優先されたのだ。

 そこで重要なのは法にふれないこと。もっと言えば、バレなければ法を犯したことにもならない。要は競争に勝つことが重要なのだから。だが、行動の規範を法や決め事にゆだねてしまえば、一人ひとりの主体性は失われてゆく。「それは人間として恥ずかしい」――そんな思いは決め事があろうがなかろうが、自分が自分であるための矜持(きょうじ)であったはずだ。

 だから、家庭の崩壊も、法律で規制したところできっと歯止めはきかない。問われているのは「自分はいかに生きるべきか」という人生観のほうである。




女性に見てほしいバナー



テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第216回 亡くなった友人からのメッセージ

 「女性のための愛と性の相談室」の中の〈誰にも聞けない悩み相談〉では、すでに掲載した女性だけで25人。そのうち、スピリチュアル・カウンセラーの早坂ありえさんに入ってもらっている相談は全体の3分の1ある。ありえさんには、おもに相談者の過去生との関係を見てもらったり、守護霊を代えてもらったりしている。編集段階でカットしているが、これまで相談の場に相談者とは無関係な霊が来ることもたびたびあった。

 その霊の多くは、亡くなった僕の友人たちだ。話したいのはヤマヤマだけれど、相談者そっちのけで霊と思い出話に興じるわけにもいかない。そこで先日、悩み相談が終わって相談者がお帰りになったあと、ありえさんにあらためて彼らを呼んでもらうことにした。次の映像はその一部である。





 興味深い部分は、故人のプライバシーもあって見せられないのが残念だが、紀世や長さんが、当時を知らないはずのありえさんを介して伝えてきた内容は、事実とほぼ一致していた。

 じつは僕には、もうひとり話をしたい友人がいた。ペンネームを東ノボルという。アダルト業界では名の知れたフリーの編集者でありライターだった。本名を笠原一幸という。笠原さんの紹介で知り合った女性・泉みゆきを撮った作品に「多重人格、そして性」がある。それを本にしたのが『マルチエイジ・レボリューション』だ。

 当時、笠原さんはみゆき以外に何人もの多重人格の子たちの面倒を見ていた。たとえ自分の締め切り間際でも、「手首を切った」「クスリを飲んだ」と聞けば素っ飛んでいった。

 そんな笠原さんがある日、緊急入院することになる。最初見舞いに行ったときには集中治療室にいた。でも1週間後には、一般病棟のベッドの上で原稿の手直しをしていた。僕は撮影で千葉に行く途中だったから「帰ったらまた寄るけど、きっともう退院してるよね」と言って病室をあとにした。

 それが彼と交わした最後の言葉になった。千葉で「笠原さんが亡くなった」という電話を受けたのだ。嘘だろ、そんなのありえないよ……と僕は思った。笠原さんが亡くなってから、彼が面倒を見ていた多重人格の子たちは、僕に連絡を寄こすようになる。あまりに突然のことだったから、引き継ぎもないままに……。あれから丸14年である。

 彼が亡くなって何年かして、みゆきは結婚し、子どもが生まれた。みゆきからもらったメールには、その子の誕生日が笠原さんの命日と同じだとあった。「この子は笠原さんです」と綴られている。いつかその子に会えたら「やっと会えたね、笠原さん」と言ってやろうと思っていた。

 だが、今回ありえさんの見立てでは、どうやら笠原さんはまだ霊界にも行っていないようだ。笠原さんの思いを聞いてもらう。ありえさんは「こう言ってるよ」と言ったあと、彼の言葉を続けた。「監督、なぜ俺、死ななきゃいけないの? まだ途中なんだよ。監督と一緒にやってたこともできなくなっちゃったし……」。

 今から18年ほど前、日本に多重人格者は10人そこそこと公的機関が発表するなか、僕らは10人以上の子たちと連絡を取り合っていた。「統合」ということが当時から言われていたが、社会に適合できる人格だけを残してあとは……。これは統合じゃないんじゃないかと僕らは話していた。虐待と人格解離の連関を検証したい、治癒する方法論を見つけたい、そしてこの現実を世の中に発信しなければならない、そんな一念で僕らは地道な作業を続けていた。

 笠原さんの分まで僕が引き受けるようになったことについて、ありえさんは彼の思いを口にした。「悪いと思ってるけど、でも、悪いと思ってない。それは監督にとってもやりがいのあることだったと思うから」。確かに彼の言うとおりである。

 「でも、ああなって、監督も生身の人間だと思った」。僕自身がひどい鬱になり、それまで連絡を取り合っていた子たちとの関係を一方的に終わらせたことを言っているのだろう。そのとき、僕は彼女たちから偽善者だと非難された。「あそこで自分がなんの力にもなれなかったことは申し訳ないと思ってる。本当は自分がやりたいけど、体がないから……」。

 しばらくして、ありえさんが「気にしてる仲間がいるみたいね」と言った。咄嗟に水津さんかもしれないと思った。それは、笠原さんに編集やライティングを一から教えたアダルト業界で有名な人物である。アダルトビデオという呼び名も彼が名づけ親だったはずだ。

 「水津さんに伝えることがあれば聞いておくけど」と言うと、「ありがとうって言ってほしい」と。「きつかったけど、やさしかった。すべてを学んだつもりでいたのに、まだまだだった。なのに、俺のほうが先に逝っちゃった。せっかく教えてくれたのに申し訳なかった」と。

 最後に笠原さんは「死んでいいこともあった」と言う。そのひとつは、思ったところに瞬間移動できること。もうひとつは過去生からの因果が見えること。そうすると、生きているときには不可解だったことも解けてくるのだそうだ。

 紀世や長さんや笠原さんとの対話を終えて、こんな形で亡き友や亡き肉親と気軽にコミュニケーションが取れたなら、きっと人々の死生観は大きく変わるに違いないと僕は思った。死生観が変容すれば、すなわち生き方も変わるということである。



女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第216回 まな板の上のマグロ

 「ザ・面接 極悪非道の面接軍団 ジラして犯して暴いたる!」(1998年)のひとコマである。

 女子大1年・谷口佐代子(18歳)のプロフィールには、出演動機の欄にお金(カバン)と書かれている。きっとブランドもののバッグが欲しいのだろう。初体験は17歳6カ月のとき。資料を見ていた市原が「これ、6カ月前やで。大丈夫かい?」。初めてビデオに出るときはみんな緊張するものだが、セックスの経験が浅いとなればなおさらである。

 オフィス中央の大きなテーブルには、たまたま鬼闘組の出番待ちをしている川奈佳子というAVギャルがいた。もうすでに何本か出ている子だ。彼女の目の前で佐代子の面接が始まる。

 「念のために言っとくと、アソコを見られると恥ずかしいやろ? オレら、そんなんしかできひんのや! こういう明るいとこでな、パンツ脱がしてな、開いてイジくるわけよ! ほんでナンボなんよ。わかる? こういうのに耐えないと、カバンは遠いよ!」。どうやら恥辱によって、感情を出させる作戦のようだ。いきなりテーブルの上に寝かせて、問答無用の愛撫が始まる。

 その光景をAVギャルの佳子は唖然として見ている。彼女がこれまで出演した作品にはきっと台本があったり、「こういうことをやりますよ」という事前の打ち合わせがあったに違いない。

 ところが、当の佐代子は抵抗もせず、まったく恥ずかしがらない。テーブルの上で仰向けのまま無防備に股を広げ、アソコを舐められたり、バイブを突っ込まれたりしても、ずっと下半身はゆるみっぱなし。なのに、首から上は冷静で、ふつうに会話をしている。フェラをさせても、ただ口をあけているだけで画にならない。

 さすがに業を煮やした市原が、「こういうの、マグロっちゅうねん!」と佐代子に説く。たしかに見ている人の目には、彼女がどうにもならないマグロに映ったことだろう。

 一方、AVギャルの佳子のほうは「なにもわかんない子によくそこまでやるよね」という顔であきれ返っている。けれども、されている佐代子本人はといえば、それを悪くとっている様子はない。人間性というか、もともと素直な性格なのか、どうも最初に「明るくても、恥ずかしくても、それに耐えんと……」と市原から言われたことを彼女なりに実践しているようなのだ。

 攻めあぐねている面接軍団。「もうヤッちゃえ」とばかりに平本がハメる。すると、やっと佐代子に変化が生じる。今までマグロだった彼女が感じてきて、声をあげはじめたのだ。これがガンガン突いてイカせるタイプの男優だったら、きっとこうはならなかっただろう。平本は「その子のいいところを見いだして、どれだけ好きになれるかが勝負です」と言う男優である。

 あきれていた佳子も、次第に幸せそうな顔になってくる。僕はフレームに佐代子と佳子の両方を入れていたが、最後は見ている佳子のほうにズームしてゆく。うれしさでウルウルしそうな彼女の表情が、その場のすべてを物語っていると思ったからである。

 セックスが終わったあと、佐代子は平本に「ありがとう」と言う。平本も「こちらこそ」と。しばらくして片山が「最後終わったあと『ありがとう』って言ったよね?」と訊くと、彼女は「こんな私にも」とだけ言った。こんな私にも何だというのだろう……。

 経験も浅く、初めての現場で、されるがままのマグロにしかなれなかった女の子。年の差もキャリアの差もある平本は、しかし、そんな女の子を決して見下すことなく、むしろ自分のほうから声を出して、彼女とつながろうとした。性に対する思い込みやテクニックへの過信が彼女のほうになかったがゆえに、平本の思いはそのまま届いたはずである。「ありがとう」は、思いを受け取った佐代子の心が発した言葉のように僕には聞こえた。

 さんざん感じさせようと揉んだり、舐めたり、バイブの強い刺激を与えてなお反応のなかった女の子が、平本に心を開くことによってイッてしまった――ここにセックスの真髄がある。


女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第215回 自分を出せない言葉

 「なんもそんでねして、バレーボールのバレー。こう中腰になるばな。こういうふうにして、こごの内腿と内腿さ力入れちゃさ。こごの中腰さ、こう力入るばな。こごの股ぐらもさ力入るばな。でこうボール受けるときにこう中腰のまま待つべな」
「おお、いいな、すごく」
「でこごのとこさ力入るあんで、こごのところギュッと締まるばな。なるんだってさ、コーチが言うのさ。この体勢はすごくつればたっておなごとして」
「将来に」
「役に立つときがあるだって!」

 これは2001年の「ザ・面接」の一場面で、青森出身のエキストラの女の子が秋田出身の加藤鷹に話しかけているところだ。彼女に最初会ったとき、訛(なま)りがあった。僕は「みんながわかんなくてもいいから、自分のお国言葉でしゃべって!」と注文をつけたように記憶している。

 いま見返してみても、彼女のエロさは生々しい。それは単に方言をしゃべっているというだけではなく、生き物としての女が出ていると思えるからである。前回、市原についての話の中で「彼は半分ジョークで言いたいことを言ってのける。それができるのは、ひとつには関西弁だから」と書いた。関西弁自体がそういうムードに適しているというのもあるんだけど、青森のこの子と同様に、市原は関西弁をしゃべることによって、人を惹きつけ、心を揺さぶっていると思うのだ。

 先日、あるテレビ番組で自動車ディーラーのトップセールスマンを紹介していた。彼はお客さんと話をするとき、大事な場面では博多弁を使う。そのとき、お客さんは彼に気を許すというか、彼の言っていることを真実と受けとめる。テレビを見ていた僕でさえ、なかなかいいヤツだなぁと思ってしまった。

 セールスマンの彼は意識的に、もっと言えば計算して方言を使っているわけだが、生活に根づいた言葉というのは、それほど人の心にスッと入ってくるものである。きっとそれは長い歴史の中で、人々の心が作り上げた言葉だからだろう。

 にもかかわらず、故郷を離れて暮らしていると、そこが都会ならなおさら、多くの人は方言で話すことにコンプレックスを感じてしまう。それは僕も同じである。東京では九州弁で話すのを恥ずかしいと思い、ずっと標準語を使ってきた。

 だが、標準語は制度の言葉であり、万人に共通な記号みたいなものだ。だから当たり障りない会話や建前の話をするのなら都合がいいが、本音を伝えようとしたら、方言のようなダイレクトさはなく、そこにはワンクッションあるように感じる。要するに、本当の自分をそもそも出しにくい言葉なのである。

 いま若者たちは、恋愛がうまくいかないとか、コミュニケーションがとれなくなっているとか言われるけれど、都会も地方も日本じゅうで画一化が進み、みんなが標準語を話すようになったことも、その大きな原因のひとつじゃないかと僕は思っている。




女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第214回 セックスしないAV男優

 AV男優が現場でセックスしなかったら、彼の価値ってどこにあるだろう? 中折れでさえ一応途中まではするわけだが、最初から最後まで一切しないとしたら……。そんなのはAV男優じゃないと言うだろうか。キャスティングする意味がないと。

 ところが、そんなことはない。それが市原克也である。いま彼は「ザ・面接」に出てもセックスをしない。にもかかわらず、なくてはならない存在なのだ。しかも、現役男優のなかでは最もつきあいが長い。市原の魅力をひと言でいえば「存在感」である。

 強い個性、ボキャブラリー、頭の回転の速さ……どれをとっても僕は勝てない。半分ジョークで言いたいことを言ってのける。たとえば「これを言ったら顰蹙(ひんしゅく)買うよなぁ」と僕らならちょっと考えてしまうけれど、彼にはそれがない。嫌われようが言ってしまう。それがまたすごいなぁと僕は思うのである。

 KYは過去の流行語だが、いまなお多くの人たちが空気を読もうとしている。空気を読むとはいいながら、結局は相手に気をつかって遠慮しているだけだ。「引かれるんじゃないか」「嫌われるんじゃないか」と、いい子を演じている。それらはすべて頭で考えたことである。対して市原は、直感で場を読み、瞬時に言葉にしている。それは「空気を読む」というより、自らが「空気を作り出している」といったほうが相応しい。

 では、なぜ市原にはそれができるのだろう? ひとつには、彼の言葉が関西弁であるということ。そしてもうひとつは、自己への信頼だろう。

 市原本人はそれを意識していないかもしれないが、彼はいつも本当の自分というものを出して人と接しているように見える。自信のない人間にはなかなかこれができない。

 彼が幼い頃どんな環境で育ったのかを聞いてはいないけれど、親が「こういうふうに生きなさい」とレールを敷いて、それに沿って生きてきた人間ではないと思う。自分の意思で生きれば、摩擦や衝突を経験したはずだし、ひょっとしたらケガもしただろうが、幼児期からの彼がそのまま育って大人になったというふうに見えるのだ。

 彼は高学歴だが、手に入れた豊富な知識に自分が使われることなく、知識を使うほうにまわった。知識を使うか・知識に使われるか――その違いは「体験」を伴ったかどうかで決まると僕は思う。自ら行動することなく頭の中だけのシミュレーションを重ねていけば、いつしか「かくあるべし」をいくつもぶら下げた概念思考人間になってゆく。

 人は「思考ベース」「感情ベース」「本能ベース」という3つのタイプに分けられるが、市原は「感情ベース」だ。「感情ベース」の人間の言葉には、良くも悪くも感情がこもってしまう。だからこそ人間臭いし、本当の自分が出ているし、圧倒的な存在感を放っている。そのうえ、「知性」「感性」「本性」と意識階梯も高いレベルにある稀有な男なのである。




女性に見てほしいバナー

第213回 開き直る女たち

 先日「ザ・面接VOL.133」を撮影した。面接に来た3人の子の職業は順に、銀行員、グランドホステス(航空会社の地上職)、薬剤師。べつに職業で選んだわけではないが、就職難の今、いずれも人が羨むような仕事である。なぜこういう仕事に就いた女性たちが、わざわざリスクを犯してまでアダルトビデオの門をたたくのだろうか?

 在英ジャーナリストの木村正人さんがサイト「木村正人のロンドンでつぶやいたろう(2013年3月3日付)」に「貧しくなる資本主義 アマゾンの人間オートメーション」というコラムを掲載している。アマゾン配送センターをルポした英紙フィナンシャル・タイムズの記事がわかりやすく解説されているので、その一部を紹介させていただく。

 〈米映画ターミネーターは、人工知能スカイネットや殺人ロボット・ターミネーターの支配に抵抗する人間の近未来を描いた。アマゾンの配送センターでは、サトナブ(衛星測位システム)の携帯端末を持たされた労働者がコンピューターの指示通りに働いている。
 (中略)
 サッカー場を9つ合わせた広大なアマゾンの配送センターでは、オレンジ色のベストを着た数百人の労働者がせわしなく歩き回る。サトナブが本を棚から集める最も効率の良いコースを表示する。もたもたしていると、「急げ」のシグナルが送られてくる。
 (中略)
 本を集める係の人はサトナブ片手に手押し車を押して、1日8時間、コンピューターの指示通り倉庫の中を歩き回る。昼休みは30分。歩行距離は1日11~24キロ。配送センターから出る時は何も盗んでいないかをチェックする探知機を通らなければならない。

 アマゾンは最近、ロボットメーカーを買収した。アマゾンのマネージャーは記事の中で、配送センターで働く労働者について「あなた方は人間の姿をしたロボットのようなものだ」「人間オートメーションと表現しても良いかもしれない」とつぶやいている〉


 ここに書かれているアマゾンの配送センターは日本ではなく、イギリスの話だ。けれども、自分の個性や人間性を殺してでも、与えられたノルマをこなさなければならないのは、日本の銀行も航空会社も病院も同じなのかもしれない。とはいえ、読者のなかには「だからと言って、AVに出ることはないだろう」と思う人もいるはずである。

 彼女たちがアダルトビデオに出る理由を探っていくと、その根底にあるのは「快」が欲しいからではないかと僕は思う。たとえば性器をはじめとする性感帯を愛撫される気持ちよさはもちろん「快」だが、相手がよがる姿を見たり聞いたりするのもまた「快」である。性欲ばかりでなく食欲にしても、何かを食べたり飲んだりして「おいしい!」と感じるのは「快」だ。

 計画出産などの例外を除けば、人は子孫繁栄のためにセックスするわけではなく、生命維持のために食事をとるわけでもない。結果的にはそれにつながるとしても、当の本人は目の前にある「快」を得たいがためにそれをする。言い方を換えれば「快」を求めるからこそ生きられるのである。

 それは仕事においても同様なはずで、本来、労働の歓びが「快」だったはずだが、配送センターでコンピュータの指示どおりに歩きつづけることが「快」だろうか。銀行や航空会社や病院で自分の心にフタをして、上司の顔色をうかがいながら与えられた業務を黙々とこなすことが、果たして「快」なのだろうか。

 つまり、個人が「快」を求めたりしようものなら成立しない職場環境が目の前に横たわっている。だが、たとえ思考で押さえ込んでも、本能はつねに「快」を求めつづける。それが「もうロボットじゃ耐えられない」と思った女性たちの背中を押すのだ。

 日本においてはまだまだ男性社会であり、男が重用されている。それだけに社会や組織に縛られる。一方、女のほうは、動きやすい立ち位置にいる人が多いし、そもそもミラーニューロンが発達しているから直感力も男の比ではない。柔軟性があると同時に、男のようにともすれば夢ばかり追うのではなく、しっかり計算もできる。

 しかも「ザ・面接」の2000年代の作品を見返していたら、こんなシーンがあった。エキストラとして出演した女の子の会話である。

 「私、アメリカに行ってたんですよ、8年間。3年前にアメリカから帰ってきたんですけど、日本の女性、すごく変わってたからビックリして……」(どう変わったのかと訊くと)「開き直り? それをプラスにしていると言うか……。それでいいんだって感じになってる。私(アメリカに)行く前まではそんなことなかったから。女でいることがすごく楽しくなったって感じ」

 彼女がアメリカに行っていたのは、1990年代。毎日見ていたら気づかなくとも、彼女には8年のギャップが見えたのである。プラスに開き直った女たち。すでに20年前から変化は始まっていたということだろう。

 男たちよ、早いとこ、自分らしく生きたほうがいいぜ。





女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第212回 静かな老後

 昨年の秋も深まった頃、札幌で暮らす女房の母親が亡くなった。米寿(88歳)を目前にしてのことだった。夫に先立たれてから一人暮らしだった母は自分の死期を悟っていたようで、身辺整理もきっちり済ませていた。


 亡くなる前々日に「夕張の紅葉が見たい」と言い出し、女房の弟がクルマで連れていった。晩年、医者通いにも利便な札幌に越してくるまで、母はずっと夕張で暮らしてきた。だから、故郷の紅葉を最後に見ておきたかったのだろう。


 具合が悪くなり、緊急入院してからほぼ一昼夜で息を引き取った。亡くなった直接の原因は肺炎だが、医者の診断ではすでに体のあちこちが悪くなっていたという。何度か吐血もしていたらしい。でも、母は決して言わなかった。


 一人暮らしとは書いたが、母と同じマンションの向かいの部屋には、心配で女房の弟が引っ越してきていた。亡くなったとき、「ここまでひどかったとは見抜けなかった」と弟は泣き崩れた。その思いは彼だけでなく、家族のだれもが「つらかったのなら言ってほしかった」という気持ちをどこかに持っていた。


 けれども、母は最期まで自分の生き方を全うしたのだと思う。病院で家族が付き添ったのは一晩だけである。だれにも迷惑をかけることなく、それでいて子どもたちが最後の別れをする時間だけは残している。残された子どもは、口々に「お母さんは見事だった」とつぶやいた。まさに見事な人生の幕引きであり、僕もああいうふうに死ねたらいいなぁと思った。


 その僕は先月で75歳になった。74との違いは自分としては何もないものの、制度的には75から「後期高齢者」ということで、たとえば健康保険証もこれまでのコンパクトなカードタイプから倍以上の大きさの紙製に変わった。それにともない女房は扶養家族と認められなくなり、新たに国民健康保険に加入した。


 これまでと同じように働き、同じように税金を納めているこっちとしては「なんで?」という思いもないわけではないが、高齢化社会ゆえ医療費もどこかで線引きをしなければいけないということだろう。いずれにせよ、75という年齢は自覚ではなく、こういうところから否が応でも認識させられることになる。


 娘が二人とも嫁いだので、今は女房と二人暮らしである。結婚したときは二人で生活を始めるものの、子どもが生まれれば、生活はおのずと子ども中心になってゆく。夫婦の話題も子どものことがそのほとんどを占める。そして、子どもの手が放れたとき、夫婦にはまた二人の時間が戻ってくる。でも、新婚当時とはいろんなところが違っている。自分も、女房も。だから、夫婦関係をもう一度お互いがとらえ直す必要が待っているのだ。


 僕はいま女房と差し向かいで食事をするのが楽しい。お互いに花や植木が好きという趣味の話もそうだが、むかし同じ仕事をしていたから共通の思い出がいろいろある。この歳になってみると、それらはとても大事でありがたいことに思える。僕はたくさん浮気をしてきたけれど、残された人生を女房と一緒に過ごせる意味を静かに心に描く……。


 と思ったら、一昨年嫁いだ下の娘が「マンションの頭金が貯まるまで、一緒に住んでもいい?」と言ってきた。向こうの家に入っているわけではないが、夫は一人息子だ。「向こうのご両親に訊いてからにしなさい」と言ったら、「義母さん、『ラッキーじゃない。若いときに貯めといたほうがいいよ!』って」。


 一方、夫の転勤で北海道に行っている上の娘も、来春には二人の孫の小学校入学と幼稚園入園に合わせて東京に帰ってくる。夫の仕事はまだ1年か2年北海道の可能性もあるが、東京に戻るのはすでに決まっているので、夫婦でそう決めたという。こちらは同居するわけではないけれど、家から近いマンションである。


 どうやら静かな老後は、まだまだ先になりそうだ。でも、娘たちには言っていないが、ふたたび娘や孫とともに日常を過ごせることは、思いがけないプレゼントをもらったような気分なのだ。娘はいくつになっても娘であり、僕は歳を重ねるにしたがい、限りあるからこそ、家族とのふれあいがいっそう味わい深く感じられるようになってきたのである。



女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第211回 僕がギャンブルをしない訳

 事務所のすぐそばにJRAのWINS(場外馬券場)があるけれど、一度も買ったことはない。九州の生家の目と鼻の先には小倉競馬場があった。小学生の頃からアルバイトで競馬新聞を売りさばき、中学生になると予想屋も何度かやった。同級生の父親が調教師をしていた関係で情報は手に入ったし、予想もそれなりに当たった。そういう意味で、競馬は僕にとって身近な存在だった。


 にもかかわらず、競馬をしないのには身近ゆえの教訓もある。家の隣がお寺だったが、競馬のある日に境内で首をくくる者が後を絶たなかった。その現場を小学生のときに一度見たことがある。その人は枝ぶりのいい高いところからぶら下がっているのではなく、低い枝に首だけかけて腹這いのような姿勢で事切れていた。こんな格好でも人は死ねるんだと思った。と同時に、競馬に負けたらこんなふうになっちゃうんだとも、子どもながらに思ったのである。


 20代の前半、興行をしていた頃だが、神戸で花札をしたことがあった。ちょうどストリップの集金に行ったついでだった。ついでのつもりが、結果的には3日3晩ろくに寝ないで興じることになる。だれも降りない。集金したカネは、あっと言う間になくなった。手元になくなれば「いくら回して」とツケがきく。


 負ければ負けるほど、どうにかして取り戻そうと深みにハマり、借りはどんどん増えていった。結局、僕は800万円近く負けた。僕以外はシャブを打ちつつだから冴えわたっており、冷静に考えたら勝てるはずがないのだが……。このときの借金は1年近くかけて返した。もう賭け事はやめようと思った。さすがに懲(こ)りたのである。


 その後にやったのは麻雀くらいだ。だが、これもかつて経営していたプロダクションに愛染が入ってきた頃やめた。麻雀はいったん始めると長いし、途中1人だけ抜けられないというのもあり、すでに入っていた予定や約束も変更せざるを得なくなる。そしてなにより不健康だ。じっと座ったままだし、寝ないで続けるし、カリカリくるし、タバコの本数は増えるし……。まずいなぁーとは、ずっと思っていた。ところが、映画づくりのほうが面白くなって、気がつくとやめていた。


 自分が今やらないからといって、ギャンブルを否定するつもりはない。あの高揚感は人を魅了する。たとえば月曜から金曜まで働いて、土日に趣味としてたしなむぶんにはストレス解消にもなるだろう。そうやって無理のない範囲で楽しんでいる人たちはたくさんいる。


 しかし、現在ギャンブル依存症で苦しんでいる人も、最初はそうやって始めたはずである。無理のない範囲内と範囲外――その境界線を本人が自覚するのは難しいのかもしれない。ついでのつもりで始めて800万負けた、当時の僕のように。依存症になる人とならない人、いったい違いはどこにあるのだろうか?


 依存してしまう人の根っこには、いまだ中和されていない過去の何かが残っているように僕には見える。過去の何かとは、たとえば幼少期に負った心の傷だったり、孤独感や寂寥感だったり、欠落感だったり……。それらを日頃から意識している人もいれば、意識下に閉じ込めている人もいる。だが、いずれにしてもギャンブルに熱中しているときには解放され、代わりに高揚感で満たされる。


 本能は快を求める。もともとそういうふうにできているわけだから、ギャンブルが快のすべてになっている人にとって、その弊害をいくらわかりやすく説いたところで、やめるのは難しいというか、無理なんじゃないだろうか。


 自分の根っこにあるものを中和しなければ、その渇望はいつまでも消えない。けれども、依存症になった自分を責める必要はない。根っこに気づき、癒すためには、それも必要だったのだと肯定的にとらえてみるのがいい。そうすれば、ギャンブルに代わる何かがきっと現われる。気づきが起きれば、人は次のステージへ進めるのである。



女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第210回 心で心を愛撫せよ

 「心で心を愛撫せよ」はオーガズムへ至る奥義である――と僕は思っている。「体で体を愛撫する方法」なら世の中にゴマンとあるが、せっせといじくり、掻き回してみても、それだけではオーガズムへ到達しない。

 僕はセックスの導入部において、女の子を言葉で追い込んでいくことがある。恥ずかしがる言葉をあえてぶつける “言葉なぶり”のようなものだ。なぜそんなことをするかといえば、ひとつには彼女が身につけた社会性という殻を壊すためである。もうひとつは、じつは彼女自身も心のどこかでそれを望んでいるというのがある。

 「さぁ、セックスをしましょう」と始める人間はそういない。とりわけ最初に肌を合わせるときには、どっちかが仕掛けていくことになるだろう。たとえば男が仕掛けたとき、女は「いやっ」とか「ダメッ」と言いつつも、見栄や体面や常識が剥がれ落ちていき、秘めていた欲情が匂い立ってくる。男ならそのプロセスがたまらないわけで、女のほうもそこがいちばん燃えるのだ。

 監督面接で会う女の子のなかで「たまには強引にやられてみたい」とか「一度犯されてみたい」と言う子は多いが、本当は犯されたいんじゃなくて、外側で抵抗しつつも内側で燃え上がってゆく、その感覚を味わいたいのだと思う。抵抗すれば、相手を焦らすと同時に自分も焦らされる。要するにお互いが焦らしっこをしているようなもので、双方にとっての“溜め”なのだ。

 余談だが、今の男たちの多くは「いやっ」「ダメッ」と言われると、本当にそこでやめてしまうという。恥をかきたくないという思いがことさら強く、ちょっと様子を見て難しそうだったら、すぐに手を引いてしまうのだろう。

 そこでやめてしまったらセックスにならない。しかし、逆に自分が優位に立とうとして、言葉なぶりに相手が反応してきたとき、「やっぱりスケベな女だ」と見下せば、それはSMになってゆく。SMでは相手を隷属させたことへの自己満足しか生まない。相手が淫乱になったとき、「心を開いてくれたんだ」という思いが自分の中にあるかどうか、これがとても重要なのだ。考えてもみてほしい。言葉なぶりをして、もし相手がなんの反応も示さなかったら……。それこそ、こんなにみっともないことはない。

 心を開いてくれたという思いがあるからこそ、目の前で、あられもなく喘ぎ悶えるその姿に愛おしさが芽生えてくる。そうしたら、「可愛いよ」でも「好きだよ」でも、愛おしさを言葉にして相手に伝える。もちろん、ちゃんと目を見ながらである。

 そして自分がされる側にまわっても、気持ちよさをどんどん言葉で表現してゆく。「気持ちいいよ」でも「もっと舐めて」でも。とても人前では言えない男の沽券(こけん)に関わるようなことでも、自分を開いて相手に伝える。それが上手かったのが加藤鷹だ。彼はずっとしゃべっていた。セックスしながら、どうかすると10秒と黙っていない。腰使いより言葉数のほうが多いくらいだ。だが、そうすることで、相手の気持ちは自然とこっちに向く。セックスのとき、恋人や妻が目を閉じて、かりに韓流スターに犯されていることを想像していたとしても、妄想の世界から呼び戻せるのだ。

 たとえば映画を見たり、スポーツを観戦していて、体が熱くなったり、思わず涙が溢れてくることがある。なにも体にふれていないにもかかわらず、心が揺さぶられる。セックスでもそれと同じことが起こる。目を見て、思いを会話する。そこで初めて見えない実体同士が愛撫し合う。互いに互いを解きほぐし、一体となって溶け合ってゆく……。オーガズムはすぐそこである。



女性に見てほしいバナー


テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第209回 個人主義は幸せかい?

 昨年(2012年)、ストーカー被害が過去最多になったという。テレビや新聞、ネットで読んだ人も多いことだろう。警察庁によれば、その数、前年比36.3%増の1万9920件。長崎県や神奈川県のストーカー殺人事件で世間の関心が高まり、相談や被害を届け出る敷居が低くなったと見ているようだ。たしかにそういう面もあるだろうし、実際の件数自体も増えているのだろう。

 なぜかといえば、ストーカーに走るのは、人とコミュニケーションがうまく取れない人間が圧倒的に多いのではないかと思うからだ。ストーカーを擁護するつもりはないけれど、人とコミュニケーションを取れない人間が増えているのは、動かしがたい事実なんじゃないかと思える。

 人と意思疎通ができなくなれば、そこで溜め込んだストレスは、捌け口を求めてどこかに向かう。向かう先はストーカー行為に限らず、酒だったり、ギャンブルだったり、セックスだったり、人によってはドラッグだったりもする。

 たとえば、そうやって飲む酒は、苦しさから逃れるための手段だから、結局のところ、酔いさえすれば銘柄なんかは何でもいいのである。何百人とセックスしてしまう女の子は、僕からすれば、もう人間としていないわけで、相手は誰でもいいのだ。

 では、なぜコミュニケーションを取れない人間が増えたのだろう?

 いろいろ原因はあるはずだが、僕は「過度な個人主義」が最も大きな要因のように思う。個人の権利と自由を尊重する風潮のなかで、それがすでに行き過ぎているのではないかと。

 あたかも家のまわりを高い塀で囲むみたいに、他人が土足で自分の中に踏み込まぬよう、権利という壁を築いているように見えるのだ。プライバシーは保たれるものの、壁が堅牢になれば他者との風通しはおのずと悪くなる。ときに自分の壁に風穴をあけてみても、そこから見えるのは他人の壁だったりもする。

 個人主義は戦後に輸入されたものだが、たとえば欧米で小さな子どもを寝かしつけるとき、子ども部屋のベッドにひとり置かれた子が、最初の晩は30分泣いたとする。だが、慣れていくうちに30分が20分に、20分が10分になり、やがて子どもはひとりで寝られるようになるのだそうだ。これを欧米では、自立をうながすためのしつけだと言う。

 親子のスキンシップの重要性はこれまでも書いてきたけれど、幼児期にスキンシップが不足していると、大人になって「自我収束」が起こりやすくなる。自我収束とは、「どうせあの人は○○に決まってる」と相手を否定し、自分も心を閉ざして、何かに期待すること自体をやめてしまう心のありようだ。自我収束が起これば、当然ながら人間関係は孤立していくし、自らの活力も低下していく。要はどんどんネガティブになっていくのだ。

 それでも子どもの頃、たとえば集団で遊んだりしていれば、それは外圧へ適応していく模擬訓練・実践的訓練にもなるだろう。実際、集団遊びをくり返すほど、脳神経回路が発達するという報告もある。

 ところが、ひとりでテレビやゲームに興じていると、脳の回路が単純化されてしまい、結果的に特定の回路は強化されるものの、その他の神経回路を使わないように脳が習慣づけられるという。

 今やケータイやパソコンでネットゲームをやるために、親さえ殺してしまう事件が起きている。そこにハマッてしまった子どもにとって、ネットゲームはドラッグのようなものではないだろうか。ドラッグならば売った者も買った者も厳しく罰せられるけれど、ネットゲームはそうはいかない。

 「過度な個人主義」とは、人間が人間らしく生きられない世の中のように僕には見える。もしそれを克服し、自分の人生を取り返そうと思えば、つまるところ、友をつくって、遊びを持つしかない。とはいえ、すでに閉じてしまった人にとっては、友をつくることさえなかなか難しいかもしれない。

 そういう人は、呼吸法を実践して気血の流れをよくするといい。人間関係にも必ずや変化が訪れる。それから、音楽も効果がある。たとえば子どもの頃にスキンシップが足りなかった人には、本能を刺激するラテン系のリズムや太鼓がいい。とりわけ和太鼓は効果が大きい。感情をうまく出せない人には、フラメンコや演歌など、感情を揺さぶる音楽がいいだろう。いずれにしても、頭で聴くのではなく、リズムにのって自然に体が動き、声が出るようになれば、それは人間関係における自己表現へとつながっていくはずである。



女性に見てほしいバナー

現在、20タイトル、ご紹介しています。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第208回 目の見えない愛犬

 飼っているプードルが白内障になった。獣医の診断では、もう両目ともほとんど見えず、わかるのは明るさくらいだろうという。家に来てすでに10年が経つ。名をプーという。

 うつだった頃、プーにはずいぶん助けてもらった。僕が沈んでいても「遊ぼうよ!」みたいな感じで、こっちの体調などおかまいなしにジャレついてくる。オスだから活発で、自分が遊びたいから来ているのだが、かえってそれが僕を和ませる。

 とはいえ、とてもそれどころじゃないときは、プーをじっと抱いていたり、体をくっつけていたりした。その体温にふれていると、なぜか気持ちが安らぎ、つかの間だが、うつの苦しさから解放されることがたびたびあった。

 プーを抱きながら「つらいよ」「苦しいよ」と僕はこっそり弱音を吐いた。女房や娘に言えば、よけいに心配するのは目に見えている。だから犬が、弱音を吐ける相手だったのだ。するとプーは僕の鼻をペロペロと舐めた。「よしよし」と言われている気がした。

 プーの体調に異変が起きたのは1年くらい前だ。元気がないので獣医につれていくと、糖尿病だった。すぐにインスリンを毎朝1ミリずつ注射する生活が始まった。インスリンですっかり元気は取り戻したものの、昨年末に片方の目が白濁しはじめ、もう一方の目もあっと言う間に白くなってしまった。

 それでも僕が帰宅すると、あっちこっちにぶつかりながら駆けてきて、「遊ぼうよ!」と催促する。犬は遊びが大好きだ。無鉄砲といえば無鉄砲だが、頭をなでてやれば、うれしそうに鼻を鳴らしながら、もう僕の手を甘噛みしている。家の中の配置はすでに頭に入っているようで、自分の寝床や水飲み場に行くのも不自由はない。

 だが、白内障になる前はあんなに外に出たがっていたのに、庭に下ろしてやっても前足をつっぱって動こうとしない。家の中の配置はわかっているが、外は感覚的に怖いのだろう。

 家にはもう1匹、トイプードルがいる。こちらは飼ってまだ3年。メロディーという。ソファにいるとき、僕の胸のあたりがプーの定位置だった。メロディーがソファに上がろうとすると、プーは「ウーッ」と唸って威嚇(いかく)した。メロディーは仕方なく僕の足のあたりに身を置いた。

 けれども、目が見えなくなってから、2匹の力関係に変化が生じる。まず、プーが自分だけではソファに飛び乗れないことが多くなった。するとプーの定位置にメロディーが来るようになったのだ。プーに威嚇されても、もうメロディーは動じない。プーは次第に威嚇もしなくなった。

 女房は「かわいそうだから白内障の手術を受けさせる」と言っている。かかりつけの獣医から目が専門の動物病院を紹介してもらったそうである。

 僕もプーに「オレがつらいときに助けてもらったから、おまえの目が見えなくても、ちゃんと面倒みるからね」と話しかけたりする。好きだった外に出られないことや、メロディーとの主導権交代を見れば、たしかに不憫だし、かわいそうに思う。でも一方では、このままでもいいのかもしれないという思いも否定できない。

 犬には表情がある。うれしいとき、悲しいとき、怯えているとき、様子をうかがっているとき……そのひとつひとつが顔に出る。プーは目が見えなくなっても、落ち込んではいない。人間であれば「なんでオレが」と愚痴のひとつも言いたくなるだろうし、「これからどうしよう」と思い悩むに違いない。だが、犬は現実をそのまま受け容れ、過去を悔いたり、未来を憂うことなく、やはりこれまでどおり「遊ぼうよ!」と今をポジティブに生きている。

 そればかりか、目が見えなくなってから、プーとのコミュニケーションがいっそう深まったような気さえするのである。与えれば与えるほど返ってくるということかもしれないが、これまで以上にこちらが気にかけ、話しかけたりスキンシップをとるぶん、向こうも前にも増して甘えてくるようになったのだ。今まではちょっと遠慮があったのかもしれないと思えるくらいに。

 家の中では女房が与党(娘たちが党員)だから、女房が「手術を受ける」と決めれば、僕は反対はしない。だから、プーは手術を受けることになるだろう。そして失った視力を取り戻せるかもしれない。そうなれば、きっと僕は歓ぶに違いないのだけれど。



女性に見てほしいバナー

現在、15タイトル、ご紹介しています。

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第207回 まごころか? 商売か?

 前回はタイの売春婦の話を書いた。「僕のために料理を奪い合うのもそうだが、買い物をすれば僕に代わってとことん値切ってくれる、汗をかけばサッとハンカチで拭いてくれる。それに何よりも一緒にいて楽しい」。だから、彼女が僕の財布から札を抜くのを見ても、見なかったことにしたのだった。

 でも、読者のなかには「カネを盗むくらいだから、いろいろしてくれることも、結局は商売のためというか、計算ではないのか?」と思った人もいるかもしれない。もしも計算だとすれば、そこからそもそも騙されているのではないかと。

 テレビ番組の取材でタイへ行くようになって、買春ツアーの裏側も見えてきた。彼女たちはお客を空港まで送ってきて、「寂しい!」「心痛い!」と言いながらボロボロ涙を流している。そのお客が出発ロビーに消えていったかと思うと、すぐに次の客が到着する。「ハイ、社長さん!」と満面の笑顔。恐ろしく切り替えが早い。

 じゃあ、やっぱ商売じゃんと思われるだろうが、必ずしもそうとは言い切れないものがある。まるで感情の抑制機能が壊れてしまったかのように溢れてくる涙はウソ泣きなのか。快晴の空みたいに屈託のない笑顔は作り笑いなのか。僕にはそれらがどうしても演技には見えないのだ。

 話は変わるが、「とびっきりギャル無垢剥くメニュー」という作品の撮影でタイに行ったときのことだ。知り合いの脚本家(とりあえずAとする)が一緒に行きたいと言う。「じゃあ、助監督としてこき使うぞ」って言ったら「やる」と言うので連れていくことにした。

 ところがバンコクに到着すると、Aは1人でソープに行って、女の子を連れ出し、3泊4日のパタヤ取材にこっそり同行させた。パタヤからは島に渡るのだが、Aが集合場所に現われない。「もういいや。どうせ助監督じゃないんだし、ほっとけ」と僕らは撮影に出かけてしまった。撮影を終えて夕方帰ってきたら、女と一緒にいる。みんなからはもちろん大顰蹙(だいひんしゅく)である。

 そんなことがあって、バンコクに帰り、ソープの女の子は店に戻った。翌日帰国の僕らはローズガーデンとか、何カ所か残っているところを撮り終えた。夜になると、ソープの子がやってきた。「これ、ラブレター!」と言って、Aに封筒を差し出す。みんな「ヒューヒュー!」と囃したて、「どうせ請求書だよ!」というカメラマンの言葉に大笑いした。

 照れながらAが封筒を受け取り、中を見ると、案の定、請求書である。金額は日本円にして確か十数万はあったと思う。高額だ。店から連れ出すだけでも料金が発生するし、4日店を空けさせているから、そういう金額になるのだろう。でもAにはカネがない。「貸して!」とみんなに泣きつくものの、帰国前夜ともなれば誰もそんな大金は持ってない。「もう謝るしかないだろ!」とみんなが言い出すと、Aは彼女の前に正座して「カネ、ない」と謝った。

 すると、彼女は「マイペンライ」と言う。「いいよ、ないならしょうがない」と言っているのだ。予想外のリアクションに、みんな少なからず感動している。だが、ポイントはここである。裏を読めば、日本人はあとから必ず送金してくると彼女が計算しているとも取れなくはない。実際にAはその後、カネばかりか、電気釜をはじめ生活に必要なモノを送っており、自分もくり返しタイに行っているのだから。

 しかしである。「マイペンライ」と言ったら、Aが送ってこなければそれで終いだ。その時点で、彼が送ってくる保証はどこにもない。

 ここまで読んでくれた人は、「標題の〈まごころか? 商売か?〉の結論は、どっちなんだ?」と思っているだろう。僕はこう思う。ギリギリで生きている人間は、無意識のうちにその瞬間瞬間でベストを尽くそうとする。まごころも真なり。商売も真なり。どちらか一方だけということはない。だから、彼女たちのシーンをどこで切り取り、それにどういう意味づけを与えるかは、受け取るこちら側の問題なのだ。

 現地で仲よくなった向こうのツアーガイドたちが言う。「日本人、売られてきて貧しい女にすぐ可哀想って言うから、カネ、いいようにむしり取られる」。それが彼らから見える真実だ。では、脚本家のAはどうか? なぜ彼はあの子にハマッたのだろう。きっと彼女のやさしさやまごころにふれて幸せだったからだ。それがAにとっての真実である。2つの相反する見方は、じつはどちらも正しいのである。


女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第206回 裏切りと失望と損得計算

 30年以上前の話だ。場所はタイ。首都バンコクからリゾート地パタヤまで僕たち一行はバスに揺られていた。2つの街は150キロくらい離れている。不良仲間が企画したツアーで、日本から参加したのは男ばかり20人ほど。銘々に現地の女の子がついている。彼女たちは売春婦。つまりはそういうツアーなのだ。

 途中、ドライブインに寄った。ただし、日本のドライブインとはずいぶん趣(おもむき)が異なる。タイ特有の建物で、池があり、民族楽器が奏でられている。そこで、次から次に出てくる現地の料理を女の子たちが奪い合っている。といっても、全員に行き渡らないほど量が少ないからではない。いくつもある料理のなかでとりわけ美味しいものを彼女たちは知っており、なんとしても自分の男にそれを食べさせようとバトルしているのだ。その姿を見ながら、一生懸命とはこういうことを言うのかと思った。本当の恋人同士でも、ここまではやらないだろう。

 パタヤに着いて、リゾートホテルで何日かを一緒に過ごす。ある日のことだった。彼女が僕のズボンを畳んでくれていた。僕が見ているとは思わなかったのだろう。彼女はズボンから財布を取り出すと、バーツ紙幣を何枚か抜いた。全部抜くわけではないので、その場を見ていなければ、僕はきっと気づかなかったに違いない。イヤなものを見てしまったと思った。

 けれども、僕は見て見ぬフリをすることにした。いま見たことは忘れようと。彼女たちは身売りされてきた。そのカネを完済するまでこの仕事を続けさせられる。でも、それに同情したわけではない。人間、ギリギリのところまで追いつめられれば何でもやる。きっとオレでもやるだろうと思ったのだ。

 その後、彼女に対して不機嫌になったり、受け答えがぎこちなくなったりはしなかったはずである。当時のタイは日本の戦後の風景に似ていた。それも手伝ってか、僕は貧しかった子どもの頃を思い出していた。そういえば、似たような経験が僕にもあった。

 小倉の米軍キャンプでバイトしていたときのことだ。仕事はベッドメーキングから洗濯までいろいろやったが、ひとりの司令官から「オレの部屋付きになれ」と言われた。司令官の部屋付きは割がいい。そして、その部屋にはドル紙幣が無造作に置かれていた。「1枚くらい抜いてもわかんないんじゃないか」。そんな衝動に駆られたのをはっきり覚えている。でも、抜かなかった。曲がったことが大嫌いで……っていうんじゃない。損得計算である。せっかくいい仕事に就いているのに、バレたらそれを失う。だから、抜かなかったのだ。

 そして、あのときバーツを抜いた彼女を許したのも、やっぱり損得計算だ。僕のために料理を奪い合うのもそうだが、買い物をすれば僕に代わってとことん値切ってくれる、汗をかけばサッとハンカチで拭いてくれる。それに何よりも一緒にいて楽しい。そういうものを全部ここで潰してしまうのか? やっていないようで、じつは損か得かのソロバンを僕は弾(はじ)いていたのだった。

 生きていると失意のタネはいろんなところに落ちている。「私は信じてたのに……」と言いたくなるときもあるだろう。もちろん誰にでも「これだけは許せない」という領域があるし、なんでもかんでも許そうと言いたいのではない。仏様じゃないんだから、そんなのは土台無理な話だ。

 だが「追いつめられれば何でもするのが人間だ」という考えは、一見ネガティブなようで、失望やあきらめを肥大化しないばかりか、「自分もきっとそうするだろう」と思えれば、失意のいくらかは中和してくれる。とはいえ、なかなか許すところまでは行けない。やはり許すためには、そうすることで「自分にどんな得があるのか?」を見つけないといけない。

「そんなこと言ったって、得なんかあるわけないだろ!」と思うだろうか。ところが、その思考に慣れてくると、だんだん得が見つけやすくなる。と同時に、人間とはなんと身勝手な生き物だろうとつくづく思えてくる。自分がいったいどれほど立派な存在なのか……。そこに至れば、許しのハードルはさらに下がり、失意はいつしか消えているはずである。


女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第205回 オープンカレッジ in 浜松

 浜松駅のホームに降り立ったのは、新幹線が東京駅を出てから1時間半後のことだった。浜松は思い出のある土地だ。

 興行を生業(なりわい)としていた20代の頃、「金馬車ミュージック」という浜松のストリップ劇場に3カ月間、寝泊まりさせてもらった。僕はある人物との抗争の渦中で、「金馬車」にはいくつかの名だたる組から相当数の不良たちが加勢に集まってきていた。取らなければこっちが取られる。当然ながら僕は彼を取るつもりでいた。そんなある日、不良仲間が乗り合わせた劇場の宣伝カーが交通事故を起こし、荷台に寝っ転がっていた僕も頸椎の7番目を損傷した。それは夜襲をかける前日のこと。半年間、石膏で固められる身となって、夜襲は頓挫する。もしも事故が起きなければ、監獄に入れられたか、死んでいただろう。そして、8年前から始めた骨格矯正で、その古傷が今も足を引っ張る。

 新幹線ホームを歩き、改札を出ると、蛍光グリーンのジャンパーを着たスタッフの人たちが立っている。案内デスクで名前を言い、講師用パスを受け取る。案内されるままにタクシー乗り場に向かっていると、「ご一緒させていただいてもいいですか? ナツノと申します」と笑顔で声をかけられた。車中、慶應大学で教えていらっしゃると聞き、こんなに気さくな教授がいるんだとちょっと驚く。あとからわかったのだが、フジテレビ「とくダネ!」のコメンテーターもされている夏野剛さんだった。夏野さんのおかげで気持ちよく会場に入る。

 講師控室がズラリと並ぶ廊下には、テレビや雑誌でよく見る顔ぶれが溢れていた。彼らのほとんどは「エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議」の会員で、僕は今回だけのゲストだが、それにしても場違いな所に迷い込んだような……。そんな気分でいると、田原総一朗さんがニコニコしながらやってきて、向こうから挨拶してくれた。舌鋒鋭い討論番組の印象とは打って変わって柔和な笑顔。それが僕を和ませ、落ち着かせてくれる。

 懐かしい人にも会えた。秋尾沙戸子さんである。僕は十数年前、関西テレビの「ワンダラーズ」という深夜番組に月1回出演していたことがあったが、その番組の司会をされていたのが秋尾さんだった。彼女は番組で取り上げた呼吸法に興味を持って、自ら体験されたこともある行動派のジャーナリストだ。その後、海外での活動も多くなったようで、滞在先の国々から何通かハガキをもらった。

 僕が呼ばれたのは「アダルトビデオ産業は必要か?」がテーマの講座で、進行役は和田秀樹さん。他には、会場となった静岡文化芸術大学で准教授をされている木下千花さん、そして花房観音。和田さんとは3年ほど前、三枝成彰さんを介して一緒に飲んだことがあったので気心が知れている。そのときから彼の頭の回転の速さとズバ抜けた記憶力のよさはよく知っている。しゃべることが好きな人なのに、講座では一歩引いてこちらを立て、うまく引っ張っていってくれた。

 和田さんから、前回飲んだときに『受験のシンデレラ』、今回は『「わたし」の人生(みち)』という彼自身が監督した映画のDVDをもらった。ご覧になった方もいるだろうが、『受験のシンデレラ』では「受験」を、『「わたし」の人生(みち)』では「介護」をモチーフとしている。どちらも彼の専門分野であり、自分の向かうべき道を外していない、一本筋の通った作品である。

 僕の出る講座は終わったが、夜に来場者と酒食をともにしながら語り合う「夜楽(やがく)」が待っている。まだ3時間以上あるので、誰かの講座を聴講させてもらうことにした。時間割を眺めていると、秋尾さんが「メディアはどこへ?」という講座に出るようだ。タクシーでご一緒した夏野さんもいるではないか。この講座にしよう。他には黒岩祐治さん。進行は茂木健一郎さん。茂木さんは3年前に三枝さんたちと飲んだときメンバーに入っていたのだが、当日急に来られなくなった。以来、茂木さんの話を一度聴いてみたいと思っていたのだ。そのうえ、ずっと注目していた上杉隆さんの飛び入り参加というオマケまでついた楽しい講座だった。

 「夜楽」はいったんホテルに講師たちが集合し、そこからグループごとに決められたレストランや料理屋に向かう。そのホテルにて、僕はある人から声をかけられた。迷惑がかかるといけないので名前は伏せるが、アカデミズムの重鎮である。当然、面識はない。その人は「代々木さんのチャネリングは面白いですね」と言う。意外だった。「チャネリングFUCK」は賛否両論あったとはいえ、「ヤラセだ」「宗教を興す気だ」とさんざん顰蹙(ひんしゅく)も買った。キワモノとして見られたのだ。にもかかわらず、その人はご夫婦で「チャネリングFUCK」を見ながら、「なぜこういう現象が起きるんだろう?」と関心を持っていらっしゃる。僕は「じつは○○大学にそのメカニズムが解明できそうなMRIがあると聞いて、去年、そこの教授に手紙を送ったんですが」と言ったら、「ああ、○○君かい?」と即座に名を言い当てた。僕がうなずくのを見て、「で、どうなったの?」と訊く。「門前払いでしたよ」と答えたら、彼はおかしそうに笑った。その機械が1台何億するのか知らないが、脳の解明にやっきになっている学者にAV監督の僕が「チャネリングFUCKについて調べたいんだけど」と打診したことがハチャメチャすぎておかしかったのだろう。

 「夜楽」は2時間という限られたなかで、講師たちがお客さんの中に散らばる。僕のグループは講師が6人だったので、15分ごとに講師が席を移動し、60人のお客さん全員と話をするというシステムだ。15分というと、やっと打ち解けてきたところで次に移らねばならない。僕の前が別所哲也さんだった。タッパもあってカッコいい彼に会いたくて来たファンは多かったはずである。ところが、あっという間に時は過ぎ、彼は次の席へ……。そして彼がいた席に僕がやってくるという流れは、終わりまでずっと変わらない。「この変なオジサン、誰?」って感じの席もあった。もちろん、それはそれで面白かったし、なかには「ずっと会いたくて」と言ってくれる20代の男の子がいて、内心ホッとしたりした。たくさんの人と話をした印象は、総じて女性のほうが性についても具体的で突っ込んだ質問をしてくるということだ。

 このオープンカレッジを主催している「エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議」という組織は、三枝成彰さんが中心になってここまで大きくしてこられた。最初は会員である人たちがお金を出し合って始めたと聞くし、今回も会員はノーギャラだ。それでも各界の第一線で活躍する多忙な人たちが協力を惜しまなかったわけである。今回、三枝さんに驚かされたことがある。「夜楽」で彼は僕のグループのリーダーだった。会が始まるとき、集まった60人のお客さんを前に「僕が尊敬する代々木忠さんです」と紹介された。彼一流の気づかいなのは言うまでもないが、著名な人間がなかなか言えることではない。三枝さんは日本を代表する偉大な作曲家だが、彼のこうした人間性が多くの人たちの心を動かし、ここまで会を育ててきたのではないかと僕は思った。浜松に着いてから、僕はいろいろな縁を感じていた。人と人は見えないところでつながっている。そのつながりを、三枝さんはきっといちばん大切にしてきたのだろうと。



女性に見てほしいバナー

第204回 人妻エキストラ

 今、僕は「ザ・面接」特別版の、1999年の全作品を見返して編集している。「ザ・面接」はウィークデイの白昼、実際にアテナの社員が業務をしているオフィスでレイプシーンを撮ってきた。ご覧になった方ならわかるだろうが、外部から電話はかかってくるし、お客さんは来る、スタッフはミーティングをしている、その最中に「いやー、やめて!」と叫ぶ女の子を面接軍団が犯している。

 チョコボールなどは、仕事をしている女子スタッフの前でわざと見せつけたりするもんだから、「いい加減にしてください!」と、ついに社内からクレームがついた。ちょっと僕もやりすぎたかなと反省し、事務服を着たエキストラたちを入れることにした。もっとも、平日昼間の撮影は変わらないので、女子スタッフにしてみれば、「目の前で」が「何メートルか先で」に変わったくらいかもしれないが……。

 で、1999年になると、このエキストラ制も定着した。一方、面接に来る子には主婦が増えた。もちろん、それまでも主婦が出ていない年はないのだが、99年は主婦オンパレードなのである。そして、エキストラも主婦の比率が高まっている。

 そのワンシーンを紹介すると、こんな具合である。恵理子という34歳の主婦がやってくる。10年間ダンナとうまくいってないようで、市原がいろいろ話していくうちに「ぬくもりが欲しい」という言葉を聞き出す。「ぬくもりだったら」ということで、平本がやさしくハグし、硬いのを股間にこすりつけると、ついに「オチンチン入れて」と恵理子に言わせる。平本が挿入し、テーブルの上で突き続ける。市原は「変になるんや! なっていいんや!」と叫んでいる。だが恵理子はイキそうになると、平本を突き飛ばす。続けてチョコも彼女とセックスするが、平本同様、突き飛ばされた。

 撮っていて僕はだんだんイライラしてきて「どうして逃げるのかな。どうして人を拒絶するんだ」とか「今だけでいいから、この男を好きになれ!」とか言っている。でも結局、恵理子は最後まで自分を開こうとはしなかった。セックスが終わったあと、僕は彼女をボロクソに言う。「ダンナの責任じゃないよ。あんたと一緒になろうとしても、途中で逃げちゃうんだもん。どうするんだよ、男は。それだったら、センズリかいてたほうがいいよ」

 その勢いで僕はエキストラに「どう思う?」とカメラを向ける。問われた主婦のエキストラは「ちょっと私は女性側から見ちゃったので、10年していないのは、なんてひどいダンナさんだろうと」と、そこまで言いかけて涙があふれてくる。そして「可哀想だなと思って……」と言いながら泣いている。

 今でこそ主婦がビデオに出るのは珍しくもなくなったが、出はじめの頃は、彼女たちのおかげでオレはメシが食えてるというのを自覚しながらも、一方で「なんでダンナがいるのに出るんだ?」という思いが強固にあった。独身と比べたらさらにリスキーなはずの主婦に、その一線を越えさせてしまうものとは、いったい何なんだろうと僕は正直不思議だったのだ。

 だが、その後、どんどん主婦たちが出るようになって、この1999年を迎える。僕が抱いていた疑問に対して、彼女たちは口をそろえてこう答える。「だって、ダンナがしてくれないから」と。しかし、彼女たちのセックスを見てみればわかる。先ほどのワンシーンで書いたように、彼女たちは求めるだけで、自分はダンナがしたくなるようなことを一切していない。ダンナだから気持ちよくさせてくれるのが当たり前だとどこかで考えている。

 そして、エキストラの主婦も「私もわかる」と彼女の味方をする。「10年間してくれない」主婦の悩みが、まさに自分の問題でもあるのだ。同じ悩みを抱えているからこそ、そこに共感して泣き出してしまう。

 僕はといえば、エキストラへの興味がどんどん高まっていく。すぐ目の前で犯されているのを目の当たりにしている彼女たちの反応が、もともと気になってはいたけれど、やるつもりで来ている女の子よりも、「ただ座ってるだけでいいから」と連れてこられたエキストラのセックスを見たいという思いが強くなっていく。同じ主婦であり、セックスレスの問題に共感し涙するくらいなら、なおさら見たいのである。

 泣いた彼女に「じゃあ、今日していきますか?」と水を向けると「いや、いいです」というつれない返事。僕は片山を彼女に向かわせ、2人をだれもいない別室に移動させる。そして僕は、残った他のエキストラたちに「面白いね。やると思う?」「やるとやらない、どっちに賭ける?」なんて無責任なことを言っている。まぁ、結果は作品でご確認いただきたい。

 1999年からは14年が経とうとしている。「ダンナがしてくれないから」とビデオに出だした主婦たちは、この14年でどう変わったのか? 夫婦のセックスレスは蔓延した。不況のアダルトビデオ業界にあって「熟女もの」は唯一元気がいいジャンルだ。

 女が本気になったら、男は太刀打ちできない。あの面接軍団でさえ、最後にはギブアップしてしまうくらいだから。やはり、あの生命力というか、生き物としての強さを目の当たりにすると、混迷の今こそ女の時代だという思いを強くする。

 片や、男はどうだろう? 余談だが、先日撮った「ザ・面接」最新作に出た女の子がこんなことを言っていた。「彼氏は、私がフェラチオしているだけで貧血を起こしてしまう」と。特異なケースには違いないが、30年間5000人以上の女の子と話をしてきて、これまでそんな話は一度も聞いたことがなかったのに……。



女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第203回 セックスから恋愛が始まる時代

 男と女が出会い、ときめき、恋愛が始まる。デートで手をつなぎ、キスをし、やがてセックスをする……と思いきや、全部すっ飛ばしてセックスだけする子が増えている。「彼氏はいませんけど、セフレなら何人かいます」と言う子たちである。

 そんな女の子たちを監督面接する。撮影現場では、いいセックスをしてもらいたいし、それを撮りたいから、面接とは言いつつ、実際にはセックスのレクチャーみたいになってくる。「性交っていう字を見てもさ、りっしんべんは心を表わすから、心が交わるっていう意味もそこにはあるよね」とか……。

 口で言ってわかる子は多くない。僕としても頭だけで理解されても……というのがある。そこで、ほぼ全員に催淫CDを聴いてもらう。「これを聴くとリラックスできるよ。セックスのイメージトレーニングにもなるから、自分を抑えないで」と。なかには「聴いたら、どうなっちゃうんですか?」と不安げな子もいる。そういう子には、催淫CDを使った過去の作品を見せる。「トランスに入れる子は、ここまでなれるんだよ」と言いながら。モニターの前で食い入るように映像を見ている子の目は、いつしか点になっている。

 いざ催淫CDを聴かせると、なかには鼾(いびき)をかいて寝てしまう子や最後まで冷静な子もいるけれど、聴き終わるやいなや「入れてー!」と抱きついてくる子がいる。催淫の名のとおり、効く子はとにかくしたくなるのである。

 ちょっと話は変わるが、カウンセラーやセラピストたちと話をすると、彼らは最後に“性の壁”にぶつかるのだそうだ。人の悩みは千差万別にしても、その根底には孤独がある。相談者との間に信頼関係が築けて、たとえば友人や家族にさえ打ち明けたことのない悩みを、カウンセラーたちは傾聴し、共感し、受容する。そんなやりとりを重ねたすえに、相談者が女性の場合、「私を抱いてください」と言い出すケースが少なくないというのだ。きっとそれは彼女の心の叫びなのだろう。

 では、相談者を抱くのか? あるいは、抱かないのか? でも断れば、拒絶されたと彼女は深く傷ついてしまうかもしれない。ここでカウンセラーたちは壁にぶつかるというのである。そして僕に「代々木さんはいいよね」と言う。もともとセックスが仕事だから……。

 たしかに彼らのような悩みは感じないものの、催淫CDを聴いて「入れてー!」と抱きついてきた女の子と、面接でセックスしちゃったことは一度もない。もちろん突き放しもしない。

 じゃあどうするかというと、かつてこのブログでも紹介した「握った手のひらが膣になる」というのをやる。女の子に握りこぶしを作らせて、入口のここがクリトリス、中が膣という暗示を与える。すでにCDによってトランスにいるため暗示もすぐに入る。握りこぶしのクリトリスの部分を指で愛撫したり、場合によっては舐めたり……。「中に入れてほしいよねぇ」と言うと、腰がぐうーっと持ち上がってきたりするから、僕が自分の指を唾でベチョベチョにしてゆっくり握りこぶしの中に挿入する。

 指を出し入れしながら、感じてきた女の子に「こっちを見ろ!」とか「オレの目を見てイケ!」と僕は言う。そこで何かをつかむ子もいれば、昇りつめそうになると目をつぶり顎が上がってくる子もいる。そんな子にはあとで「君は自分の中に逃げ込んでいるんだよ。自己完結だと、相手の男は置いていかれちゃうでしょ。セックスで男の目を見ないと、別れが来るんだよ」と言って聞かせる。そこで気づく子もいる。

 自己完結のセックスをしているのは、なにも女たちばかりではない。男のほうも相手の体を使ったオナニーのようなセックスをしている者は多い。では、お互いにオナニーのようなセックスなら、割れ鍋に綴(と)じ蓋よろしく、それはそれで上手くいくのかといえば、これがそうもいかない。

 感情を閉じて、思考と本能でしていると、目の前で喘ぎまくる女を男はいつしか見下してしまう。「なんだよ、ふだんは気取ってたって、ひと皮むけば単なる好きモノじゃん」と。心が交わらないと、相手に愛おしさも湧いてはこない。刺激はくり返しのなかで必ず鈍化する。飽きてしまえば、もうしたくないのだ。

 僕の監督面接は、対話や催淫CD、握った手のひらセックス、そして人によっては呼吸法もいくつか駆使しながら、本当のセックスとは何かを、あの手この手で伝えていく作業である。だから、撮影日が近づき、1日に2人の面接が入ったりすると、終わったあとはもうクタクタになる。

 だが、手のひらセックスで「監督の目を見たら涙が出そうになった」「すごく愛おしく思えた」「安心できた」……とセックスの深奥を体感していく子たちがいる。セフレしかいなかった子が、である。「この子なら現場はもう大丈夫だな」と心の中で思う。

 恋愛できない人間がどんどん増えている。一方、恋愛とは別モノと割り切って、快楽追求のためにセフレをつくる人間も増えている。だが、そのセックスにおいて心が交わったなら、そこから本当の恋愛が始まることもあるだろうと僕は思うのだ。恋愛からセックスではなく、セックスから恋愛へ……ひょっとすると今はそういう時代なのかもしれないと。



女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第202回 働いてこそ人生

 定年退職とともに一気に老け込んでしまうという話をよく耳にする。耳にするだけでなく、実際、僕の知り合いのなかにも、そういう人たちが何人かいる。会社に行かなくなった途端に、生きがいまで失ってしまう人たちが。

 人は「自分が必要とされている」「何かの役に立てている」という実感なくしてイキイキと生きるのは、どうも難しいようだ。この傾向はとくに男のほうが強い。女性の社会進出が目覚ましいとはいえ、今すでに退職している世代では、女以上に男のほうが定年とともに大きな変化に遭遇し、より多くのものを失うという面は確かにあるだろう。

 だが、それだけではない気がする。もともと女は自分のまわりの物事に生きがいを見いだすのが上手い。たとえば夫が頑張っていい仕事をしたり、世間に認められれば、それが自分の生きがいにもなる。その点、男はどうだろう。自分の女房が世間に認められたとき、それを生きがいと感じられる男が、果たして何人いるだろうか。

 日本人の平均寿命は、男が79.44歳、女が85.90歳(2012年、厚生労働省発表)。日本は世界にも長寿国として知られている。寿命が延びた背景には医学の進歩があげられるが、その中には延命治療もある。病院のベッドの上で人工呼吸器や点滴で生かされていて、本当に生きていると言えるのだろうか。近年はQOL、つまり単なる長さではなく、人生の質に人々の関心が移ってきている。質の中心に、きっと生きがいは位置する。

 多くの人は退職したのち、年金が主な収入源となる。それだけで食べていければ仕事をしていない人もいる。なかには、働きたくとも体が思うに任せない人もいるだろうが、動ける人は働けよと内心僕は思う。もちろん個人の自由だし、僕が口を出すことじゃないのはわかっているけれど、人間は腹さえ満たせればそれでいいというわけにはいかない。

 これは年金受給者だけの話ではない。公的年金の破綻がもう何年も前から取り沙汰されている。高齢者が今後ますます増えて、そのとき働き手である若い世代は、年金を納めるだけ納め、いざ自分の老後には生活に足る分をもらえないのでは、というものだ。積み立てた分を取り戻すという点ではもっともな話だが、もう国をあてにしないほうが結果的にはいいように思える。

 かつて敗戦をさかいに180度違うことを言い出した国を、僕は子どもの頃から信用できない。だから年金も昔からあてにしてはいなかった。若い読者は「そうは言っても、もらえる分は自分たちよりたくさんもらっているだろう」と言うかもしれない。

 74歳の僕自身について言えば、現在1回の年金受給額が7万円弱である。2カ月に1回の受給だから、ひと月あたり3万5000円に満たない。かつてはたくさん給料を取っていた時期もあるから、それなりに納めた。にもかかわらず額が少ないのは、今も働いて給料をもらっているからだ。減額された分がその後、たとえば仕事を辞めた以降に上乗せされることはない。それでかまわないと僕は思っている。もともとあてにしてないから……。

 年金は当然の権利とばかりに、老後の受給に不安を抱いたまま、国をあてにして生きるのか。あるいは、たとえ国が約束を守らなくても困らない生き方を自分で見つけるのか。それが今の人たちに問われているように僕には見える。

 自分の責任において生きれば、何かに守られているよりも、雨風をたくさん受けるかもしれない。そしてそれを誰かのせいにはできない。だが、そこには本来の生きる歓びが待っているに違いない。誰かに頼らない生き方。それが生きがいにつながっていくと僕は思うのだ。

 戦後、国家も企業も、組織にとって都合のいい人間たちを求めてきた。言い方は悪いが良質な歯車、それがあったから日本の経済はここまで発展を遂げたのだろう。でも「じゃあ、みんな、幸せかい?」という話なのである。



女性に見てほしいバナー
1月29日(火)、全10タイトルに増えました!

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第201回 遊んでこそ人生

 「ザ・面接」の特別版を編集していると、当時の記憶がよみがえる。今は1998年の作品群を見返しているが、この頃すでに僕はつらかったんだなぁという思いが立ち上ってくる。何がつらいかといえば、作品を毎月リリースしないといけないということだ。

 なにせ遊びが中心の人生である。ビデオを始めた頃は、何本か撮ったらヤップやタイやサイパンに遊びに行っていた。さんざん遊ぶと、また日本に帰ってきて仕事をする。もちろん遊ぶにはお金が必要だし、養うべき家族もいた。

 だからといって、仕事が嫌いなわけではない。自分の撮りたいものを撮っていれば、それが月に2本でも3本でも苦にはならなかった。誰に頼まれたわけでもなく、自分が好きでやっていることだから。

 ところが、毎月コンスタントに撮らなければならないとなると、話は別である。自分がノッてるときなら問題ないが、そうじゃないときも撮らなきゃいけない。そうしているうちにだんだん自分が行き詰ってきて、ノルマに押し潰されそうになる。

 「何を言い出すのかと思えば、そんなのがつらいなどと、まるで学生気分の抜けない新入社員か」とツッコミを入れたい読者もいるだろう。あるいは「俺なんか(私なんか)、食うために、やりたくないことでも我慢してやってるのに」と。

 もちろん僕も、社会の中で組織の一員としてやっていくには、そういうわがままは通らないということも一応わかっている。だから自分を抑えて何年かやったわけだが、結局それで体調を崩した。幼い頃から雑草のように育ったから、人よりは逞しいほうで、逆境にも強かったはずなのに……。おまけにそこへ、うつも追い討ちをかけてきた。

 自分でも日に日に体が衰えていくのがわかった。いつもよりはいくぶん体調がよく思える日、女房・娘と一緒に玉川タカシマヤに出かけ、レストラン街の中の中華料理屋に入った。食事中、突然、吐き気に襲われる。トイレに駆け込んで戻したが、もう出るものがなくなっても吐き気はいっこうに治まらず、終わりのほうはガーッとしゃくって血の混じった胃液を吐きつづけた。

 そのまま救急車で運ばれることになるのだが、途中から意識がない。ERで意識が戻ったときには、先生は大きい声を出しているし、看護師さんたちも慌ただしく動きまわっている。そのとき女房は「もうお父さん、ダメかもしれない」と思ったそうである。

 この発作はその後も2度起きた。嘔吐と悪寒に加えて、胸が割れそうな痛みと細胞を針で刺されるような2つの異なる痛みに襲われる。いったんそれが始まると20時間以上続いた。発作のたびに女房や娘たちは覚悟を新たにせざるを得なかったようだ。「今度こそ本当にダメかもしれない」と。

 それまではどうにか仕事をこなしていたが、MAの日、ついに動けなくて音楽家の後藤さんに任せることにした。監督人生の中で仕事に穴をあけたのは、そのときが初めてだった。そろそろ身のまわりを整理したほうがいいのかもしれないと思った。僕はアテナの代表を退き、自分の墓を買った。

 そんなある日、昔の友達から何年かぶりに電話があった。「たまにはお茶でも飲もうよ」と言う。仲のいいやつだったので、体調のこと、うつのことを正直に話すと「そんなの一発で治るところがあるからさ」などと、調子のいいことを言う。気持ちだけありがたくいただき、電話を切った。

 すると翌日も電話がかかってきて、「今から迎えに行くよ」と言う。「わかった、その医院の場所を教えてくれたら、必ず行くから」と僕が答えると、「じゃあ、待ち合わせして一緒に行こう」ということになった。

 このブログでも書いたことがあるが、それが力学療法界の外科医とでも言うべきH先生との出会いである。初日の診療から股関節の矯正をしてもらったのだけれど、これが先生を憎んでしまうほど痛い。だが帰り道、何カ月も忘れていた空腹感を覚え、思わず僕はコンビニで弁当を買った。

 もしも友達があくる日も電話をかけてこなければ、僕が施術を受けに行くことはなかっただろう。あそこが大きな分かれ目だったと思う。その日から生活が変わっていった。

 午前中はさすがに体が動かなかったが、「毎日来院してくれ」という先生の言いつけどおり、午後1時には医院の玄関をくぐった。そして体調のいい日は、施術後にその足で会社に顔を出した。体はどんどん快復していったが、元気になっても、体調を崩す前の生活にはあえて戻さなかった。

 以前だったら、夜中の1時や2時、場合によっては3時頃まで編集をしていた。たとえ行き詰っても、自分で納得のいくまで帰ろうとは思わなかった。でも、それをあっさりやめたのだ。あらかじめ自分で決めた時間までやって、たとえ途中でも続きは明日にまわす。この歳になると自分の集中力の限界もよくわかっている。たとえ深夜まで粘ったところで、翌日冷静に見返してみれば、使い物にならないことをすでに知っているからである。

 そしてもうひとつ。午前中は自分の好きなことに時間を使う。撮影やMAがある日以外は、午前中が僕の遊びの時間である。遊びがないと、きっとまた僕は行き詰る。では、午前中に何をするかといえば、たとえば家の近くを歩く。僕が住んでいるところには、幸いまだ少し自然が残っている。だから、日によっては川沿いに足を延ばすこともある。

 四季折々の花を眺めながら通りを歩き、川に出れば野鳥たちが川原や水面につどっている。気品すら感じるアオサギの横すれすれを、水鳥たちが甲高い鳴き声で通過してゆく。小魚を貪欲にあさる獰猛なカワウは可愛げがない。カルガモ一家の食事タイムはいつまでも見ていたくなる……。

 たとえ都会に暮らしていても自然にふれることによって、僕の中の何かが安らいでいくのを感じる。つねづね人間は自然のサイクルからはみ出してしまった生き物だと思うのだが、自然に身を置いていると、その自然が、はみ出す前の、もと来た道に戻してくれるような気がするのである。

 ビデオを始めた頃、ヤップやタイやサイパンに足繁く通っていたのも、やはり自然に魅了されてのことだった。そういう意味では、僕の遊び方は変わっていないのかもしれない。ただそれを、はるばる飛行機に乗って出かけなくとも、自分の足もとに見つけたというだけで。



女性に見てほしいバナー

1月29日(火)、全10タイトルに増えました!

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第200回 なぜオーガズムは快楽の延長線上にないのか?

 前々回(昨年最後)のブログで「オーガズムは快楽の延長線上にあるのではない」と書いたら、ライブドア版にコメントを寄せてくれた6名中3名の方から「ココが分かりませんでした」「私も、快楽の後にオーガズムがあると思ってました」「この言葉はわかるような、わからないような」というご指摘(1月17日現在)。ってことは、結局のところ、多くの人が「よくわからん」ということだろう。


 なので、今回は僕なりにそこをもう少しフォローしたいと思った。一般的に多くの人たちは、オーガズムを“快楽の極致”ととらえているはずだ。もし“快楽の極致”ならば、快楽の延長線上にオーガズムはあることになる。


 ところが、オーガズムを体験した直後、女の子にその感想を求めると、次のような言葉が返ってきた。


 「相手の体が自分の体」(小沢なつみ)
 「人間の手と手は合体しないけど、水とジュースは混ざり合うでしょ」(栗原早記)
 「男って私。きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです」(姫ゆり)
 「日比野さんとひとつになりたくてなりたくて、しょうがなくて、すごくじれったくって……。そしてひとつになった瞬間というのが確かにあったんです。そのとき私は私であり、日比野さんだった」(みなみ)


 時間も場所も異なるけれど、彼女たちの言葉には共通項が見いだせる。それは“一体感”だ。だが、ここには「ふだんの何十倍も気持ちいい」とか「こんなに気持ちいいとは思わなかった」というような快楽のカテゴリーに属する言葉は見当たらない。


 男優でも、オーガズムを体験した加藤鷹、青木達也、平本一穂はみんなその直後に涙した。それは崇高な感情とでもいうべきものに打たれて溢れ出してきた涙だった。現場でファインダーを覗いていた僕も涙が止まらなかった。今にして思えば、僕の中のミラーニューロンが反応していたのだろう。


 このように女の場合も男の場合も、現場でオーガズムを目の当たりにすればするほど、それは快感とは別のレールにあるように思える。あるいは、快楽の極致に達したとき、自己の明け渡しが起きて別のチャンネルへ移行するのかもしれないが、いずれにしてもそれは快楽とは違うレールなのだ。


 オーガズムは、体験してみないことには、なかなかわからない。だが、ひとたび体験すれば、これまでの快感とはまったく違うものだと体験した者たちは言う。そして、自分の立ち位置やものの見方も変化し、人を慈しみ、癒す者へと変わってゆくのである。



女性に見てほしいバナー

1月29日(火)、全10タイトルに増えました!

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第199回 目標や計画を立てると失敗する?

 2013年が始まった。僕は例年になく忙しくなりそうである。「ザ・面接」や「ようこそ催淫世界へ」などのシリーズ制作はこれまでどおりだが、加えて「ザ・面接20周年記念特別版」の編集が毎月入っている。このブログも次回で200回。「女性のための愛と性の相談室」の相談応募はコンスタントにいただいており、このところ投稿が増えてきた体験談は読むのが楽しみだ。3月12日にはロフトプラスワンにて3回目となる面接軍団のチャリティーイベントが決定。構成を詰めるとともに、会場で上映する特別映像も編集したい。また、エンジン01文化戦略会議「オープンカレッジ in 浜松」というのがあり、僕も2月10日の「アダルトビデオ産業は必要か?」という講座に参加させていただく。その夜には飲食しながら語り合うプログラムもある。


 なんかこう書くと、目標や計画に向かってエネルギッシュに仕事をこなす能動的な人間みたいだが、僕自身はきわめて受動的で、ここにあげた今年の予定も、自分で企画したものはなく、自然発生的にというか、まわりとの関係性の中で生まれてきた結果にすぎない。


 作品づくりに企画がないというのは、これまでも書いてきたが、人との出会いだったり、自然な流れの中で、その先どうなるのか僕にもわからないものをずっと撮ってきた。20年続いた「ザ・面接」も、じつは撮りはじめて2年目の1995年に、僕の中でマンネリが起きた。だからそこでやめた。ところが、流通のある責任者から「ショップもあてにしてるし、もうあなた1人の世界じゃないんですよ。だから、ここでやめるなんて、そんなわがままはダメですよ」と言われた。そう言われて「確かにその人たちが見てくれるからこそ、俺は撮れてるんだよなぁ。であれば、その人たちへの責任が自分にはあるんだな」と思って、考えを改めた。受動的以外のなにものでもないが、そのシリーズが結果として今も続いており、20周年の特別版や関連イベントを生み出している。


 このブログも4年前、プロデューサーから提案されて、「うつも抜けたことだし、やってみようかな」と思って始めた。「愛と性の相談室」も、企画はスタッフから出た。ロフトのイベントは、映画「YOYOCHU」封切の前夜祭的なイベントがあり、そこに招かれた際、ロフトの担当者から「今度は代々木さん主催のものを考えてみてほしい」と言われたのがきっかけだ。「オープンカレッジ in 浜松」も事務局から声をかけてもらっての話である。


 このような生き方ゆえ、ある時期から「無為」を説いた老子の考え方に僕は魅かれていった。老子はいろいろなことをよく「水」に例える。水はあらゆる命を助け、しかも自らは争わず、低い所に位置する。水自体にはなにも意図がない。意図がないがゆえに、硬い岩をも穿(うが)つ強い力を秘めている、と。


 これまでの経験からも、自分が能動的になって、なにか事を成そうと思えば、考えの違いから賛同しない者も現われる。しかし、最初に立てた目標をなんとしても達成しようとすれば、邪魔になる者と戦わなければならないし、場合によっては彼らを犠牲にしていくだろう。仮に社長を目指している人がいたとして、やっと社長の椅子に座ったときには友を失い、体はボロボロになっているようなものである。それよりは自分が好きなことをやって、結果として社長になっているかもしれないし、なっていないかもしれない、でも、なっていなくても、そっちのほうが人生は楽しいはずだ。


 僕も日活のロマンポルノでドラマを撮っているときには、レールを敷いていた。そしてそのレールから食み出さないようにした。だが、レールがあるからこそ、自分が設定した目標以上のものと出くわす可能性も、同時に否定していたのだ。そこに気づいたのは「ザ・オナニー」を撮りはじめたときだ。僕は「本番もの」を撮りたかった。そういう話で紹介してもらった女の子が、いざ撮影という段になって「やっぱり私できない」と言い出した。僕はそのときレールを捨てざるを得なかったのである。


「じゃあ、オナニーだったらできるでしょ」と僕は彼女に言っていた。あのとき強引に「こちらの依頼を君は受けたんだから、ちゃんとやらなきゃダメだよ!」と押し切っていたら、あるいは本番を撮れたかもしれない。でも、そうして撮った映像が、はたして見る人を興奮させただろうか。きっと興奮はさせられなかっただろうし、レールにこだわっていたら、少なくともあの「ザ・オナニー」は生まれなかった。


 とはいえ、受動的な生き方とは、すべてを成り行き任せにしたり、他人に依存してしまうのとは、もちろん違うと思う。どう違うかといえば、こちらの心の窓はいつも開けておく。そうしておいて、自分の心の声に耳を澄ますのだ。もっと具体的に言えば、冒頭にも書いたように、いろいろな出会いや提案や誘いといったものが目の前に立ち現われる。それに対して、自分は面白そうだと思うのか、ワクワクするのか、その心の声を聴く。この何者にも縛られない内的なリアクションこそがもっとも大切なのだ。くり返しになるが、あらかじめレールを敷き、向かうべき方向を限定していないからこそ、それは聴こえる声なのである。




女性に見てほしいバナー

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第198回 快楽へ走る女たち

 「ザ・面接」に出た女の子で、彼氏(1人)とセフレ(5人)がいる子がいた。33歳のエステティシャンである。その後、別の作品にも彼女をキャスティングしたので、彼女の恋愛観について聞いてみた。

 「結婚する気は今はないです」と彼女は言う。「20代前半のほうが早く結婚したいとか、子どもが欲しいとか思っていました。そういうものだからって、私もそうしなきゃって。それが普通だからそうしなきゃいけないと思ってたんですけど、どっかで、いや、なんか違うなって……」。

 もともと違和感はあったわけだが、それが決定的になった理由として彼女が語ったのは次のようなことだ。「まわりの友達だとか親戚だとか、結婚しても別れちゃう人がすごく多くて。お互いの悪口を言い合ってるのを見たりすると、そんなことするくらいなら最初から結婚しなければいいのにって思ったんですよ」。

 「それと、男がいっぱいいるというのも片一方にあるんじゃないの?」と僕がつっこむと「そうです」と彼女は笑う。最近、彼氏とは別れたそうだが、5人のセフレとは継続しているらしい。彼女にとってセフレは「ただセックスをするだけの相手、お互いセックスを楽しみましょうという相手」で、彼氏は「セックスも含めて一般的なデートをする相手」と言う。

 セフレに対して恋愛感情はなく、彼氏には当然ある。だから、セフレには恋人や別のセフレがいることも彼女はオープンだった。べつに文句を言われる筋合いもないといったところだろう。けれども、彼氏にセフレのことは言えない。セックスに限っても、セフレには「こうしたら嫌われるんじゃないか」とか「どう見られるだろう」という気兼ねがない。ひたすら気持ちよさを追求するだけだ。だから、セックスもセフレとのほうが快感が大きい。つまり、彼氏に対してはどんどん秘密が溜まっていき、セックスもセフレとするほど気持ちよくないという皮肉。結果として彼女は別れてしまった。

 だが、彼女が特異なケースかといえば、そんなことはなく、こういう女性が増えつづけている。現にプロデューサーからまわってくる女の子の資料を見ると、彼氏はいないけれど、セフレならいるという子が圧倒的に多い。なぜなのだろう?

 女性向けの性のマニュアルや女性誌のセックス特集が売れるのも、AVを見る女性が増えているのも、草食系男子に対して肉食系女子といわれるのも、根っこは同じように僕には見える。彼女たちは快楽を追い求めており、セックスとはそれを得るための手段だからだ。

 彼女たちの多くは幼い頃に体の気持ちよさを覚えている。なかには痴漢や知らないオジサンにいじられて……という子もいる。そうではない場合でも、なにかの拍子に気持ちよさを知って、オナニーを覚えていく。だから、性というものが、恋愛感情ありきで「この人に抱かれたい」とか「ひとつになりたい」というところから出発していない。

 彼女たちは能動的である。肉体の快楽に貪欲なのだ。それは暴走とも言えなくはないが、だからダメだとは一概には言えない。本能とはもともとそういうふうにできている。性を生業(なりわい)にしている僕にしても、ビデオを初めて何年かはオーガズムばかりを追いかけてきた。オーガズムとは、快楽の頂上みたいなものである。だが、オーガズムは快楽の延長線上にあるのではないと、僕は現場で気づかされたのだった。

 今、快楽を追い求めている女性たちが、そこに気づいてくれれば、きっと彼女たちは変わるだろう。そうすれば、男たちも変われるのだと僕は思っている。


女性に見てほしいバナー


(*「週刊代々木忠」は2週間お休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月11日になります。みなさん、よいお年をお迎えください)

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第197回 女が離婚を決意するとき(後編)

 前回は、離婚を決意するに至った主婦のインタビューを紹介した。つづきを書くにあたって、今一度、彼女の言っていることを時系列に整理してみよう。

 夫がもう自分に興味がないことに彼女は気づき、2年前から離婚を考えはじめた。だが、それは僕の最初の作品に出る時点でも、決定的とは言えない。催淫CDでトランスに入ったときに表われるイメージはいわば深層心理であり、偽らざる思いである。それが彼女の場合は「夫」だった。

 しかし、それ以降も夫婦関係に変化はなく、逆にアダルトビデオの仕事では自分の居場所を発見していく。そしてインタビューの段階では、すでに彼女は自分の気持ちに迷いはなかった。子どももこれまでどおり自分が育てていくつもりでいる。

 ここでポイントになるのは、催淫CDのトランスで表われた「夫」である。「若いときの感情とか、すごく愛して、この人じゃないとダメだって思ったときの感情がいっぺんに出てきたんですよ」と彼女は言っている。つまり、現在の夫ではなく、それは若いときの夫なのだ。

 医師と准看護婦(現在は准看護士に改称)。病院というヒエラルキーの中で、その2つにはどれほどの開きがあるだろう。20歳になるかならない准看護婦にとって、自分の結婚相手は単なる男ではなく「先生」なのである。そのインパクトを彼女はずっと引きずっているように見える。僕の場合も、つきあいはじめた頃、女房はすでに売れっ子女優だった。それにひきかえ僕は助監督である。だから、准看の彼女が最初に受けたインパクトの大きさはよくわかる。

 だが、その関係性が単なる男と女に戻ることは、ついぞなかったのではないか。そこには夫の側の原因もあるように思われる。彼に会ったことはないけれど、彼女の話から推測するに、やはり本能が成熟していない人のように見える。

 たとえば、ベッドではほとんどしないという彼のセックス。彼女は事前面接のとき、「いつも犯されているみたいで、愛されてる感じがしない」と言っているが、つねに一方的で、SM的であり、自分を上に置き、相手をモノ扱いしている。そこには、相手をいたわる気持ちがまったく感じられない。

 医者になる人が全員そうとは限らないけれど、彼の場合は幼い頃から親に厳しく育てられ、甘えたいときに甘えられなかったのかもしれない。医者になってからは、自分の人間性よりも医者という地位や肩書きが拠りどころとなっていたのではないだろうか。

 思うのだが、人間とはかくも誰かに「認められたい」と渇望する生き物なのだ。彼女がAVの現場で見つけたという"自分の居場所"。たしかにAVは女の子が主役である。どんな作品でも、その子の気分を壊さないように気をつかう。ひとカラミが終われば、それこそ助監督はバスローブを掛けてくれるし、メイクさんは化粧直しにやってくる。

 作品づくりのためにしているとはいえ、悪い気はしない。そればかりか、学生時代も社会に出てからも、自分1人がいなくても学校や会社がなくならないのはよくわかっているから、自分がいなければ成り立たない世界とは、まさに存在価値を証明してくれる場と言える。

 彼女は離婚の決意を僕が尋ねたとき、「家庭でダンナさんが自分のことを必要としてるよりも、自分をもっと必要としてる所があるんだっていうのを、最近じわじわと自覚しはじめて……」と答えている。その「ダンナさん」は、もともと病院の中に自分の居場所があったはずである。そして、病院内での立場をそのまま家庭に持ち込んだ。

 彼女の話から学ぶべきことがあるとすれば、男も女も"本当の自分"を出さないと、いつか別れがやってくるということである。たしかに恋愛に勘違いはつきものだろう。だが、虚像と結婚生活を送っていても、心はいつまでも満たされることがない。



logo-re

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第196回 女が離婚を決意するとき(前編)

 近々リリースの「ザ・面接 VOL.130」で撮った主婦の話である。彼女は出演理由をこう語った。「出演料を離婚後の自立資金に充てたい」。聞けば2年前から離婚を考えているそうで、夫とは2年半セックスしていないらしい。夫は医師。20年前、彼女が准看護婦をしていたとき、同じ病院で知り合い、交際が始まり、結婚した。今彼女は40歳、思春期の子どもが2人いる。

 事前面接で催淫CDを聴かせると、途中で彼女は号泣した。とても聴いていられる状態ではないので、いったんCDを止めて、のちに最初から聴き直させたくらいである。催淫CDは催眠誘導でトランスへと誘(いざな)う。号泣についてはあえて突っ込まなかったけれど、心のフタが開いたのなら、現場も大丈夫だろうと僕は思った。

 「ザ・面接」を撮ってから1カ月半後、ふたたび僕は彼女にカメラを向けていた。1本撮って興味が湧いたので、別の作品でもう一度彼女を撮ろうと思ったのだ。カメラには1時間分のインタビュー映像が残されている。作品の中で使うかどうかは未定だが、インタビューの一部を抜粋してみる。

 ――ビデオに出るとき、別れる決意というか決心はついてなかったの?

 「ひょっとしたら元サヤに戻れるかな、という感情もありました」

 ――「ザ・面接」に出て、そのあと何本かやって、それで決心は固まったの?

 「そうですね。なんかこの仕事が楽しかったんですね。今まで家にいたり、ちょっと気晴らしにパートに出てみたりしてたんですけど、それよりもこの世界って、自分が必要とされてなければ、お仕事ないじゃないですか。だから、自分の居場所というか存在価値みたいなのをそこに見いだしちゃって。だから家庭でダンナさんが自分のことを必要としてるよりも、自分をもっと必要としてる所があるんだっていうのを、最近じわじわと自覚しはじめて……」

 ――もう夫婦生活もなかったわけだよね。あなたのほうからは求めていかなかったんだ。

 「拒否されると傷つくのは自分だったんで。傷つきたくなかったんですね。まぁ、そのうちチョッカイ出されるのかなって。もし向こうから来たら拒むつもりはなかったんですよ」

 ――微妙だね。この夫婦の関係性というかさ。

 「そうなんですよ。いずれはなくなるもんだとは思うんですね。ただ、私、40だから……」

 ――四十(しじゅう)しざかり、って言うくらいだもんね。

 夫と2年半セックスがないことは前述したが、以前しているときでも、夫は彼女のアソコをツバで濡らし、入れて3分で終わったという。しかも、ベッドの上ではなく、ほとんどがリビングで立ちバックとか、床でとか。

 夫には別の女性がいるようだ。彼女も結婚後に3人と浮気している。相手は同級生とか昔の知り合いとかだが、まだ夫婦でセックスがあった時期にはのめり込んでいない。「自分を危うい立場に追い込みたくなかったから」と彼女は言う。

 ――よく離婚の原因が性格の不一致とかって言うけど、でも、あなたの場合はダンナさんが暴力をふるうとか、酒乱だとか、稼ぎがないとか、そういうことじゃないよね。

 「ホントに愛していたら自分も協力して……稼ぎがなかったら私もパートに出たりとか、酒乱だったら一緒に病院に行って治療するとか、なんかそういう手立てはある。暴力とかは時と場合によると思うんですけど。だけど、自分に対して興味がないっていう、そのどうしようもなさっていうか、『私は何なのですか?』っていうそこの寂しさ。かつて愛した人が目の前にいて一緒に生活してるのに、自分を女と思ってないというか……」

 インタビューの後半で、彼女は催淫CDで号泣したときのことを語り出す。

 「あそこで思い浮かべたのが、主人なんですよね。そしたら若いときの感情とか、すごく愛して、この人じゃないとダメだって思ったときの感情がいっぺんに出てきたんですよ。それで今、私は裏切ろうとしているわけじゃないですか。一瞬、後悔したんですね。私はこんなことしちゃいけないんじゃないかって。すごく好きな人は主人だから……。帰ったら主人に抱かれたいっていう気持ちがすごく湧いてきたんですよ。でも、やっぱりそのあとも抱かれることはなかったし、嫌いで別れるというより、私が主人にぶつかる勇気がないんですね。主人に女性の影があるっていうのもわかってるし、そんな感情の中で、そういうのを責めることもできなければ、私だけ見てって言う自信もない。だから私は私の道を行くっていう選択肢、行っちゃったわけで」

 インタビューの抜粋は以上である。さて、どうだろう? なぜ彼女は離婚するのだろうか?

(つづく)



logo-re

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

第195回 MA

 映画を撮っていた頃、音はすべて後から入れた。登場人物のセリフは言うにおよばず、たとえば足音や衣擦れの音、川の近くなら水の流れる音や豪雨の日なら土砂降りの音、乱闘シーンでは殴る音や物が壊れたりする音などなど。

 ところが、ビデオになるとその必要がなくなった。撮影において録音も同時に済んでいる。セリフも、人の動きがもたらす音も、背景音もすでに録れているから、後から足すものはほとんどない、音楽を除いては。音楽は、編集で各シーンをつなぎ終えたあと、MAスタジオにて入れていくことになる。

 僕の作品のかなり初期(1985年あたり)から、チャネリーノ後藤さんが音楽を担当してくれている。映画時代を含めてそれまでは、音楽もアリネタを使っていた。著作権フリーの音源がいろいろあって、それを選曲屋さんと呼ばれる人に選んでもらっていたのだ。だがビデオの時代になって、僕はそこに物足りなさというか、違和感を覚えていた。

 だから、後藤さんと出会い、僕の編集したものを見た彼がオリジナルで作ってくれた曲を初めて聴いたときには、いたく感動したものである。それからもう二十数年になる。いつも僕は編集が終わると、そのテープを彼に渡す。「今回はこういうノリで行きたいんだけど」と僕から言い出すこともあるが、なにも言わないことのほうが多い。テープを見た後藤さんが「こういうの、ひらめいたんだけど」と言うときもあれば、「いやぁ、今回はひらめかなかったなぁ」と言うときもある。

 そんなときには、それが「ザ・面接」だとすれば「この子のときだけは、ちょっとシリアスに行こうか」とか「前半のこのへんは遊ぼうよ」とか言うと、彼はひらめいてくる。「ここはこの子の感情表現をしたほうがいい」とか「ここは客観的に突き離したほうがいい」とか、曲のイメージが湧いてくるのである。

 実際「ザ・面接」の音楽は、日本の民謡をはじめ世界各地の民族音楽の要素を取り入れたものをたくさん作曲してもらっている。これは後藤さんと僕が行き着いた結論でもある。映像ではドロドロした人間の根っこの部分を見たいし見せたい。ならば音楽も、本能や感情に響くものが欲しい。となると、知性が練り上げたクラシックのようなものではなく、それぞれの地場で、生活に根づいたものの中から生まれた音楽が相応しいのではないのかと。

 MAの当日はスタジオにて、作品の冒頭から後藤さんの作った曲を入れて順に映像を見ていく。2時間の作品で1タイトルあたり丸1日かかる。そのなかで彼と僕の思いが錯綜し衝突することもある。たとえば「ここどうですか?」と後藤さんから言われて、「いや、イマイチだなぁ」と僕が答えると、彼もだんだん無口になっていき、「オレはこれでいいと思うんだけど……」となる。スタジオのミキサーも「うーん、どうかなぁ」と答えが出せない。

 しばらくして、後藤さんが折れる。あらかじめあてた曲以外のものを自分のファイルの中から拾い出して、いろいろあててみる。そのなかで「あ、これ、いいね!」と僕が言ったとき、彼も渋々OKする。そのへんはどちらかが妥協しないと先に進めないのだ。だいたい7対3くらいで後藤さんのほうが妥協してくれるけれど、僕がするときもある。

 もちろん僕は、彼の音楽の才能に惚れている。でなければ、こんなに長い年月、一緒に仕事はできない。後藤さんは岩手県で生まれ育った。柳田国男の民話集『遠野物語』で知れた遠野市の近くだと聞く。冬は過酷なはずである。自然を前にしたら、人間の嘘や虚勢やハッタリは通用しない。でも、だからこそ人間の芯ができあがる。

 後藤さんは「寒村ですよ」と謙遜するが、大自然と民話の里の歴史文化の中で、その感性は育まれたに違いない。過酷な冬を生きる者は、春の歓びも人一倍知っているものである。彼の作る音楽には、人間の息吹が感じられるのだ。しかもそれは、ただ頭の中で作り出されたものではなく、つねに作品と自分との関係性の中から生み出されてくる。だから音が生きているし、作品の中の女たち男たちの息づかいが伝わってくる。

 しかし、作品との関係性から生み出されるということは、現場の出来如何(できいかん)によって音楽も変わってしまうことを意味する。かくして音楽家が作品を見る眼は、おのずとシビアになってくる。後藤さんはこれまでテレビの仕事もたくさんしており、いろいろな演出家を見てきた。僕もそのなかの1人に過ぎない。そのプロの眼に見透かされることで、僕もずいぶん成長させてもらったと思う。

 言うまでもなく、ビデオは映像と音によってできあがる。音楽が入って初めて「もっとこう撮るべきだったな」と気づかされることも多い。気づきは次の現場で活かされていくことになるけれど、その意味でも、MAは僕にとってかけがえのない学びの場なのである。



logo-re

テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

カテゴリ
最新記事
月別アーカイブ
QRコード
QR