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第253回 思考→感情→本能

 「よいことなのか、悪いことなのか」、「法律にふれるか、ふれないか」、「自分にとって損か、得か」、「あとで揉めるか、揉めないか」などなど、判断のモノサシは数え上げたら切りがない。

 交差点に差しかかったクルマが右折か左折か直進するように、人はつねに自分のモノサシで取るべき行動を選びながら日々を生きている。

 もっとも、冒頭にあげた4つの例は、いずれも社会性に根ざした尺度だと、僕は思う。なぜならば、善悪や合法違法や損得計算やリスク回避は、思考が判断の主導権を握っているからである。

 ちなみに「自分の立場を有利にしたいから○○する」と「だれそれに迷惑をかけたくないから○○しない」は一見、逆方向のベクトルのようだが、これらもともに社会性の思考であることに変わりはない。

 もちろん「社会性の思考がいかん」と言っているんじゃなくて、それが必要なときは必ずあるんだけど、必要じゃないときまで、ずっと思考のモノサシのままという人が少なくないようにも思える。

 では、思考が介在しないモノサシとは何か? たとえば「心地いいのか、悪いのか」、「好きか、嫌いか」、「安心なのか、不安なのか」。思考のモノサシは客観性が色濃いのに対して、これら感情のモノサシはどこまでも主観的である。

 だが、主観とはもともと自分自身のことであるはず。その自分にずっと我慢を強いると、遅かれ早かれ限界が来る。うつになったり、人によっては鬱屈したエネルギーが倒錯した形で噴き出すこともあるだろう。狂気の沙汰と言われる事件の多くは、いっときの激情にかられてというより、溜まりに溜まったものが引き起こしているようにも見える。

 とはいえ、感情のおもむくままに行動していれば、当然ながらまわりとの衝突も増える。だって、善悪も正邪も損得もリスクも、いったん横に置いておいたのだから。思考が登場するのは、この段階でいい。なにか事が起きたり、行き詰まったりしたとき、思考に戻って客観的に見つめてみる。

 で、僕の経験から言うと、思考に戻って解決するものもあれば、解決しないものもある。当たり前だけど。たとえば誰かと激しく揉めた際、間に人が入ってくれて「まぁまぁ」とか、仲裁者がいなくても自分が「ちょっとここじゃ……」と、その場では怒りを飲み込んだとする。しかし家に帰ってからも「やっぱりスジから言っても許せねえ!」となったりする。

 この場合、カッとなったのは最初だけで、仲裁が入ったり、自分で飲み込んだ時点で、激情はある程度おさまっている。家に帰って、いろいろ思い出したり、目にもの見せてやると計画を練ったりするのは思考なのだ。そこには冷静さすらあり、淡々と事を進めたりする。だから、よけいに厄介だ。

 ちょっと整理をすると、思考ベースから感情ベースに移り、そこで問題が勃発。思考ベースに戻ったものの、いまだ解決せず……あるいは、さらに悪化というのが今の状況。さて、どうしたものか?

 こういうときには、思考からも感情からも一回離れて、本能に戻るのがいい。本能に快を与えてあげるのである。うまいものを食べたり、爆睡したりもいいけれど、山登りやサーフィンやスイミングなどなど、ともかく体を動かして汗をかくのがいい。もちろんセックスも。

 本能が快で満たされると、問題に対する自分のとらえ方が変わっている。つまり問題自体はそのままでも、自分のほうが変化しているのだ。思考に比べて本能は、ともすれば下に見られがちだけれど、思考じゃ真似できないドンデン返しの大ワザを打ったりもできるのである。




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