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第108回 『代々木忠 虚実皮膜』

 東良美季『代々木忠 虚実皮膜』(キネマ旬報社)は、僕へのインタビュー部分と、東良自身の地の文が混じり合うようにして一冊を成している。もっとも、インタビューも彼がまとめたわけだから、その意味では、全部、東良が書いたのだが。

 インタビューは3回に分けて都合15時間行われた。毎回、東良は「インタビュー質問予定事項」というペーパーを出してきた。「質問予定事項」とはいうが、そこには単に質問のみが列挙されているのではなく、なぜそれを訊くのか、自分はこういう仮説を立てている、なぜならば……といったことまでが細かく書き込まれていた。

 企画趣旨や取材プランまで含めると、東良がインタビュー前に送ってきたペーパーは、A4サイズでなんと34枚にも及ぶ。こんな取材はこれまで受けたことがない。取材者である東良は、あらかじめ自分の手の内を全部、僕に見せてきたのだ。だからこそ、僕もすべてをさらけ出し、彼と向き合えたのだと思う。

 これはお互いがお互いを明け渡せたということに他ならない。本から話が逸れるが、「明け渡し」と「服従」の違いについて、ここで少しふれておこう。

 セックスにおける「明け渡し」と「服従」は、見える形だけなら同じように映る。ところが「服従」の場合、その裏に必ず何かを求めている。対して「明け渡し」は何も求めていない。明け渡そうとして明け渡せるものではないからだ。明け渡そうとした瞬間に思考が働く。だから、気がついたら明け渡しているのであり、結果として起こるものである。
 セックスで「服従」すれば、SMになってゆく。そこではロウソクの熱さも、鞭で打たれる痛みも、首を絞められる苦しさも、すべてが快感である。そのうえ、より強い刺激によって、いっそう大きな快を得ようとする。なるほど服従のセックスにおいても、生きているという実感は味わえるかもしれない。けれども、明くる日には、またしたくなる。やっても、やっても、渇望感はとどまるところを知らない。だから、何度でも刺激を求めて、そのサイクルへとはまってゆくのである。

 それにひきかえ「明け渡し」はオーガズムを体験する。オーガズムを覚えた人は、快を必要としなくなる。どういうことかというと、なければなくていいのだ。「監督はセックスしてるんでしょうね?」と訊かれることがたびたびある。AV監督だから、女の子を口説いて、さぞかしヤリまくってるんだろうと思うのかもしれない。まぁ、かつて若い頃にはそういう時期もあったけれど、今セックスは、あればあったでいいし、なければないでかまわないのだ。

 年齢も多少はあるだろうが、それ以上にかつて地獄を体験したことが大きい。負の感情を発し、負の感情を受ける。しかし、とことん飽きるくらい地獄を体験してしまうと、体がそこに気づいてゆく。結局、自分が創っていくしかないんだと。自分が快を出せば、快を受け取るのだと。与えるがゆえに与えられる快は、「服従」のそれとは違い、状態としてずっと持続してゆくのである。

 話を本に戻そう。昨年の12月、何回かに分けて、東良から第一稿が上がってくる予定だった。だが、これがなかなか来ない。映画の封切に合わせて、いくつかの雑誌のインタビューや対談が集中していたから、僕のスケジュールもいつになくタイトだった。その忙しさの真っ盛りに、足を引っぱってくれたのが東良である。

 「この野郎っ!」と思いつつ、彼のブログ「毎日jogjob日誌」を読んでいくと、寝るのも惜しんでパソコンに向かう彼の姿が目に浮かぶ。それまでに上がった原稿は、細部までよく調べているし、ここまで書くのはさぞかし大変だったろうと思えてくる。七転八倒してるよなぁ、確かにイッパイイッパイだよなぁ……と、その心情までがこちらに伝わってくるのだ。片方で、腹が立っているぶん、もう一方では、男にもかかわらず思わず抱きしめたくなった。

 『代々木忠 虚実皮膜』は、こうして東良と僕がお互いを明け渡し、その目合(まぐわい)の結果、生まれた“子ども”みたいなものである。だから、僕はこの本がとても愛おしい。



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テーマ : 日記
ジャンル : アダルト

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