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自分の中に地獄を持っている人は、天国をも持っている人だと僕は思う。たとえば苦しさや寂しさ、怒りや自責の念といったものがあれば、その同じ量だけ、慈悲心も生まれてくるのだと。
だから、慈悲心あふれる菩薩のような境地は、ともすれば怨念ともいうべきドロドロとした世界を生き抜き、その果てに到達できるものかもしれない。ただ、いったん菩薩の境地に達しても、自責の念や怨念のほうも再び首をもたげてくる。天国と地獄、光と闇のあいだを行ったり来たりして、だんだん安定してゆくのではないかと思う。
光のほうへ安定するためには、まず、菩薩の境地を獲得してなお自分の中にある闇を理解することだろう。理解できないうちは、行ったり来たりをくり返しつつ、まわりに困っている人がいれば、無意識にその人を助けようとしたりする。
僕自身がそうだった。「素人発情地帯」や「女が淫らになるテープ」といったシリーズにおいて、出演した女の子の闇をのぞき、その闇から彼女が解放される手立てを一緒に探してきた。それはカメラを回している時間にとどまらず、仕事をほっぽり出してその子に時間を割いていた。そんな姿を見ていた女房からは「人のことを心配するより、まず自分じゃないの?」と言われたこともある。
だが、今にして思えば、それは文字どおり「自分」なのだった。困っている女の子の力になりたいというその思いは、まず僕自身が受け取っていた。だから彼女を癒そうとして、僕は自分を癒していたのだ。
恋人同士や夫婦間にそれを当てはめると、これまで出会った多くの女の子たちから「私はここまで尽くしたのに」的な話をよく耳にする。彼のため、夫のために、私はあれもした、これもしたと。彼女たちに共通するのは、「尽くす」という名の貸しを作り、起きるべくして起きる破局と同時に、貸しが恨みつらみに形を変えるということだ。そして「男なんて……」と男性不信に陥り、そういう自分をもまた嫌悪している。
もしも「尽くしている」という行為が、実は自分の心の空洞を埋めるための作業であり、しかも「尽くした」分だけ、空洞は自らの手で埋められてきたのだと知れば、相手を恨まないどころか、破局もやってこないのではないかと思う。
これは教祖や霊能者と呼ばれる人たちにも当てはまる。最初は愛から始まるのだが、ある時期から信者を増やすことに執念を燃やし、偏狭的になっていく指導者もいる。この場合も、自分が自分を癒していることを忘れなければそうはならないのに……と僕は思う。
話が抽象的になったが、今回言いたいことは2つ。今、自分の中に地獄があるという人は決して悲観しないほうがいい。山が高ければ高いほど、谷は深いものだ。あなたの中には必ずや大きな天国が存在している。そして、人のために何かをしたとき、すでにあなた自身がそのよろこびと癒しの果実を受け取っているということだ。相手に見返りを求める必要など、もともとないのである。