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第118回 岐路


 前回、「感情オクターヴに大きな変動が起きている」と書いた。書いた以降も、ある被災地で200人のボランティアを募集したところ、わずか10分で600人からの応募があり、すぐに募集を締め切ったとニュースが報じていた。担当者いわく、応募者の大半がボランティア初体験とのことである。

 これまでボランティアをしたことのない多くの人が、積極的に行動を起こしている。見えないところで、変化は確実に起きているのだ。ところが、みんながみんなそうなっているわけではもちろんない。

 今回の震災をきっかけにして、思考を明け渡せた人もいれば、明け渡せず、いっそう頑(かたく)なになっている人もいる。後者はこれまで以上にエゴを強固にしていくだろう。いちばんわかりやすいのは保身である。たとえば震災が起きてから毎日のようにいろいろな記者会見が開かれているが、その人たちの言うことを聞いていれば、考えているのはみんなのことか、それとも自分の地位が大事かがよくわかる。

 このように人間は両極化してゆく。今はまだそれが拮抗している段階だろう。東日本大震災関連のニュースも、このままいけば徐々に減ってゆくはずである。そして、いつかは報道されなくなる。今回の“つながり感”が単なる一過性のものとは思わないけれど、潮が引くように消えていったときに、そこに残っているのが、対人的感性を尊重する社会だったらいいのになぁと思う。

 もうひとつ、僕には気になっていることがある。今後、感情オクターヴがどのように変化していくのかという問題である。対人的感性へと昇華していけばいいのだが、そうならなかった場合、何が起きるか?

 被災された人たちはもちろんのこと、そうでない人たちも今回の震災によってさまざまなストレスを溜め込んでいる。人によってはストレスなどという生易しいものではなく、不満といったほうがいいかもしれない。その不満は他者からのやさしさや思いやり、つながり感などによって今のところは中和されている。

 しかし、中和しきれない不満がどんどん溜まっていくと、精神活動のよりどころが「感情オクターヴ」から「本能オクターヴ」へ移ってゆく。本能オクターヴには、食うか食われるかの世界がある。

 この本能オクターヴと、明け渡せなかった「思考オクターヴ」系のグループがくっつくと、最悪のケースでは他国との戦争になる可能性まではらんでいると思うのだ。渦巻く不満に対して、耳ざわりのいいイデオロギーは魅力的に映る。外に敵を求めて内を団結させるというのは、かつての戦争と同じ構図である。

 では、そうならないためには、どうすればいいのだろう?

 今、多くの人の中では、経済的な豊かさと内的な幸せの対比が起きているのだと思う。内的な幸せに気づくチャンスを、かつて僕たちは経験した。バブルが崩壊したときである。内的な幸せを選択した人もいるにはいたはずだが、その後もIT長者がメディアにもてはやされ、自民党に担がれたり、またある者が「金儲けのどこが悪い?」とうそぶくのをテレビは堂々と流したり……。結局、僕たちの多くは変われなかったのだ。

 物質的な豊かさと精神的な豊かさは正反対である。心の幸せは、与えないと与えられない。相手に対する「やさしさ」や「思いやり」は単なる概念に留まっているときには力を持たない。それを行動に起こすなり、思いに込めたときに初めて現象化する。そして、その現象化したものを相手が受け取る前に、まず自分が受け取るのだ。だから、与えない限りはいつもでたっても与えられない。

 それにひきかえ物質の世界では、与えたら単になくなってしまうだけだ。そこで、合法的に取るにはどうしたらいいかをあれこれ思考する。内的世界とは真逆の力学が働くわけである。しかも、自分が出している周波数と共鳴する者としか引き合わないので、与える人には与える人が、奪う人には奪う人が現れる。お互い与え合うことによって内的幸福感はいっそう充足するが、奪い合いではどこまでいっても内的幸福は得られない。

 これから日本がどちらになるか、今、僕たちは岐路に立っている。

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