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第123回 恋愛できない訳


 恋愛できない人たちが増えている。恋愛だと思っていても、実は依存でしかない人たちも増えている。そこで今回は、本当の恋愛に至るための土台というか、前提条件のようなものについて考えてみたい。

 「自由」という言葉は小学生も知っている。国語辞典には「自分の意のままに振る舞うことができること」とある。このように「自由」は束縛などがなく、自らの思いどおりに、言ってみれば「好き勝手にやっていい」という意味である。

 しかし、その「好き勝手」には「責任」が担保されていなければならない。つまり責任を取るという覚悟があって、初めて自由は行使されるべきだ。自由は主張するけれど、責任を取ることは考えてないというのでは、お子ちゃまと言われてもしかたがない。

 これまで何度も書いてきたように、世の中は今「ピラミッド型」から「多次元的な円」に変わろうとしている。「ピラミッド型」は、権力、支配、対立、競争……と、男性性の社会だった。それに対して「多次元的な円」は、母性、共生、創造、受容……と、女性性の社会である。

 前者は、上意下達の一方通行だったから、「これ、やりなさい」と言われて、その指示に従っていればよかった。これはある意味、ラクである。自分の意に沿わない指示もあるだろうが、うまくいかなければ他人のせいにしていれば、とりあえず済むのだから。でも、これでは本当の恋愛はできない。

 後者は、上も下もなく、自分が中心になる。それは他者も同様なので、自分を中心とする円は無数にでき、だからこそ多次元的となる。だれかからの指示はない。白紙に自分で絵を描くようなもので、描かないかぎり何も始まらないし、たとえ描き損じたとしても他人のせいにはできない。つまり「自由」なのだ。本当の恋愛ができるのは、言うまでもなくこっちである。

 このように自由とは、自己決定・自己責任であるから、真の意味の「自立」と言える。自分の自由が認められるためには、他者の自由をも認めなければならないから、独占欲とか執着は禁物だ。ところが恋愛においては、執着がもたらす嫉妬がとても多いし、それで悩んでいる人にもよく出会う。

 では、どうすれば執着することなく、成熟した恋愛ができるのだろう?

 僕は3歳で母が亡くなり、父も仕事の関係で家を出ていったので、自分が責任を負うということには比較的早い時期から慣れていた。たとえば、腹が減ってどうしようもないとき、近くの畑からトマトを盗って食べた。でも、捕まれば袋叩きに遭う。それは文字どおり体で覚え込まされた。だから、その覚悟があって盗りに行くのである。

 戦時中だったから、いつ爆弾が落ちてくるかわからない。実際、アメリカ軍の飛行機はしょっちゅう飛来していたし、爆弾もよく投下された。戦後は戦後で、自分が食べるためには銅線を拾ったり、ヤクザの手先になって米軍キャンプに忍び込んだりした。生きることに精一杯で、先のことなど考える余裕もなかった。好むと好まざるとにかかわらず、その瞬間瞬間にしか生きられなかったのである。

 けれども、結果的にはこれが幸いしたとも言える。恋愛に話を戻せば、瞬間を生きることこそが、執着を生まない唯一の方法なのだ。僕は若い頃には何人もの女たちと恋愛をしたが、彼女たちを本気で好きになっても、執着は湧かなかった。だから、嫉妬に苦しんだ経験もない。

 「ザ・面接」シリーズにおいてある時期から「瞬間恋愛」をテーマに取り上げたのも、恋愛のヒントにしてもらえればという思いがあったからだ。今という瞬間に意識をフォーカスし、好きな人とのセックスに熱中できる人は、その後は好きな人のことなど意識になく、仕事にも熱中する人だと言えるだろう。こんな人は過去を引きずっていない。でも、今とトータルに向き合い生きていれば、実は別れもやってはこないのである。

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