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第116回 理屈じゃないのだ、恋愛は


 20歳を少し過ぎた頃の話である。当時、大阪の花屋に住み込みで働いていた僕には、つきあっている彼女がいた。被差別部落の子で、クズ鉄など廃品回収業を生業(なりわい)にしている家の娘だった。

 花屋のご主人は嵯峨流家元の講師だったから、華道のお師匠さんたちが習いにやってくる。おばちゃんたちが多かったが、なかには若い子もいた。ご主人にしてみたら、なぜ僕がこういう良家のお嬢さんと仲よくしないのかと訝(いぶか)しんでいたはずだ。実際、きれいな着物を来て、ほとんど毎日のように花を買いに来る何人かからはラブコールもあり、僕が目当てなのは気づいていた。けれども、それが恋には発展していかない。

 一方、部落の子にはどんどん魅かれていく。天真爛漫な女の子だった。人間臭さがそのまま出ているという点では、今の女房とも似ている。今にして思えば、その人が本来持っている個性というか感性に、僕は共鳴したんだと思う。でも、そのときはただもう会いたいだけで、理屈じゃないのである。それが僕のはじめての恋であり、初体験の相手でもあった。

 僕と彼女がつきあっていることを知った花屋の奥さんは「冗談じゃない! そんなことなら外出は禁止!」と猛反対した。上流階級の人間から見れば、ありえないこと、あってはならないことだったのだろう。だが、僕は休憩や配達が早く終わったときには、必ず彼女のところに遊びに行っていた。そこのほうが楽しかったからである。

 その後、故郷の小倉に帰って、興行の手伝いをするようになる。剣劇がすたれ、ストリップが脚光を浴びはじめた頃だ。踊り子の一人に魅かれる子がいた。しかし、彼女とも恋愛には発展しなかった。というのは、商品はあくまでも商品で、手をつけるならば面倒を見なきゃいけない。他のところへ行ってしまわないために、だいたい男がくっついてヒモみたいになる。そうなってしまうと、恋愛にはならない。

 これは、カタギになって東京に来る際ついてきた3人の女の子の場合も似ている。彼女たちのことは決して嫌いじゃなかったが、かといって、会いたくてしょうがないとか、いつも一緒にいたいというほどでもない。上京してきた彼女たちには「もめたら鬱陶しいのが出てくるぞ」という後ろ盾と性の捌け口が必要だった。代わりに、僕はヒモとして食わしてもらう。要するに持ちつ持たれつの関係である。

 そんな東京の生活の中で、僕は今の女房と出会い、彼女に魅かれてゆく。もうどうにもならない。それまでの3人との生活に不満があったわけではない。現に経済的にも精神的にもラクだった。ところが、惚れた女ができると、今度は3人と一緒にいることがつらいというか、イヤなのだ。すでに気持ちはここにはないのに、まるであるかのごとく振る舞うことが……。勝手といえば勝手かもしれない。だが、人を好きになる気持ちは、理屈じゃ説明がつかない。

 女房は中学を卒業したあと、バスガイドをしていた。大阪でつきあった子も高校には行かずに家業を手伝っていた。僕自身も高校に行くには行ったが、勉強などしないまま中退した。いずれも50年以上前の話だから、今とは進学率も状況も違うだろう。だが、僕が魅かれたのは、彼女たちが高等教育を受けていなかったからじゃないかとも思うのだ。

 大阪の花屋の時代、僕にラブコールをくれた女性たちは、習い事のみならず教育をしっかり受けていた。もちろん社会性もきちんと身についていた。でも、だからこそ、僕は彼女たちから“恋愛のオーラ”を感じなかったのではないか。彼女たちには壁があったように思う。教育の高さとか、家柄とか、いろいろ社会的なものがまず外側にあって、本人のコアはその内側に隠れてなかなか見えてこない。それにひきかえ、僕が惚れた女たちには紛れもなく本能に根づいた人間がそこにいた。

 たしかに住み込みの頃の僕は粗野で無知だったから、コンプレックスがなかったといえば嘘になる。だが、それを差し引いても、高等教育を受けたがゆえに、人は知らなきゃいいものまで知ってしまうというか、考えなきゃいいことまで考えてしまうように僕には思える。たとえば喧嘩したとき、こんな状態がずっと続くんなら別れてしまったほうがいいんじゃないか……と先々のことまで考え、ネガティブな結論を導いてしまう。うちの女房は僕と大喧嘩をやらかしても、翌朝には「おはよう」と言ってくる。僕もそうだが、感情オクターヴ系の女房は将来についてあれこれ考えない。

 「それは感情論だから話にならない」という言いまわしがある。言い方を換えれば「もっと冷静に、もっと理性的になれ」という意味だろう。これが商談の場で言われるならわかるが、恋愛で冷静になってどうする? 恋愛とはそもそも感情論なのだ。「恋の病」といわれるように、熱病のごとく社会性をぶっ飛ばしてでも、好きという思いが最優先される、それが恋愛ではないだろうか。恋は理屈じゃないのである。

 世の中は単身化が進んでいる。でも僕は、男と女は恋愛し、結婚して、女は子どもを産むべきだと思っている。「女性蔑視だ」「男女差別だ」と言われるだろうか。だが、善い悪いは別にして、それはあるべくしてあるものなのではないだろうか。それがあったからこそ、今の僕たちがいるのだから。

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